第30話:当主の、お言葉
ロルフ商会のご主人が、屋敷に乗り込んでいらしたのは、注文書を改めて、最初の納入日の翌日だった。
「お取り次ぎを! 取り決めと違う! うちは先代様の御代から——」
玄関ホールまで、声が、響いていた。
商人が、お屋敷の玄関で、声を荒らげる。
それだけで、もう、半分、負けていらっしゃる。声の大きさは、手札の少なさだ。
応対に出たベルトルトさんが、何かを、低く宥めている。
宥めながら、ちらり、と階段の上を、見た。
わたくしが、いることを、確かめる目だった。
わたくしは、階段を、下りた。
ゆっくり、一段ずつ。
急いで下りる足は、相手に、こちらの動揺を教える。階段とは、そういう道具でもある。
「まあ、ロルフ商会のご主人。ようこそ。先日は、お手紙を、ありがとう存じました」
「っ、奥様……! 奥様ですな、注文書をいじられたのは! 樽二つが一つ、蝋燭三百が九十とは、ご冗談を。あれでは商いが——」
「あら。ご注文は、お屋敷の入用に、合わせただけですのよ。蔵の樽の在高表も、お見せいたしましょうか。それとも」
わたくしは、にこやかに、続けた。
「『納品書のとおりに相違ない』はずのお品が、なぜ蔵で半分になるのか、先に、ご一緒に、お確かめになります?」
ご主人の顔が、赤から、白に変わった。
ご自分の手紙の文言を、ご自分の耳で聞かされた顔だった。
白くなってから、あの方は、最後の札を、出した。
「……ク、クラム様! 何とか言ってくだされ! 『いつもの形』は、お宅様と、うちとの」
それは、悪手というものだ。
この玄関で、その名前を呼ぶのは。
ベルトルトさんの顔から、すっと、表情が消えた。
消えた、その上から——
「いつもの形、とは」
低い声が、階段の上から、降りてきた。
旦那様だった。
執務室から、書類を、一枚だけ持って。
ゆっくりと、階段を下りて、ご主人の前に、立たれた。
急がない足の使い方を、この方も、ご存知だった。
「ヴェッセル家当主、レナート・フォン・ヴェッセルだ。商会の主人に、聞く。当家との取引に『いつもの形』なるものがあるそうだが——その形を、私は、知らん。当主の知らない取り決めを、誰と、結んだ」
「そ……それ、は」
ご主人の目が、泳いだ。
ベルトルトさんの方へ、泳ぎかけて——ベルトルトさんが、半歩、下がった。
静かに。
滑らかに。
二十年のお付き合いの方の視線から、半歩だけ、外れる位置へ。
ああ、と、わたくしは思った。
切り捨てる手つきまで、美しい方だ。
半歩。たった半歩で、二十年が、他人になる。
「で、では、その……取り決めなどとは、大げさな話では、なく……長年の、あの、商いの、慣れと申しますか……」
「慣れ、か」
旦那様は、持っていた書類を、ご主人に、向けた。
ロルフ商会の、あの手紙だった。
「ここに『クラム様と取り決めましたる、いつもの形』と、貴店の封蝋入りで、書いてある。取り決めか、慣れか。どちらかが、嘘だな。——どちらだ」
玄関ホールが、静まり返った。
怒って書かれたものは、宝でございます。
お祖母様、宝の出番が、思ったより、早うございました。
ご主人は、紙と、当主と、管財人の背中を、順に見た。
紙は、動かない。当主は、待っている。背中は、他人の顔をしている。
それから、観念して、肩を、落とした。
「……取り決めで、ございます。納品の量を、多めに、書く形で。差額は、その……手前どもの、預かりと、いうことに」
「誰の指図だ」
「————それ、は」
ご主人の口が、開きかけた、そのとき。
「旦那様」
ベルトルトさんが、静かに、進み出た。
「お客様を、玄関先で、お責めになりますのは。……続きは、書面に、なさいませ。商人の口は、立ち話では、軽くなったり重くなったり、いたしますもので」
お見事、というほかなかった。
忠義な家令の顔で、ご主人の口を、塞いだ。
しかも、仰っていることは、正しい。立ち話の白状は、あとで、いくらでも覆る。正しいことを、いちばん都合のよい瞬間に言う——それが、あの方の剣の振り方だ。
ご主人も、それで、我に返ってしまった。
「……は、はい。書面で。書面にて、改めて……」
旦那様は、しばらく、ベルトルトさんを、見ていらした。
「……そうだな。クラムの言うとおりだ。書面が、いい」
それから、わたくしの方を、ご覧になった。
「アデーレ。ロルフ商会から、これまでの納品と預かりの明細を、書面で出していただけ。期限は——」
「十日、で、いかがでしょう。お急ぎになりませんように。正確な方が、ようございますもの」
「だ、そうだ。十日だ」
ご主人は、何度も頭を下げて、帰っていった。
ベルトルトさんは、最後まで、完璧なお辞儀で、お見送りをなさった。
お辞儀の向こうの目だけが、誰のことも、見ていなかった。
『七十七日目。ロルフ氏、白状半分。口止めの手際、完璧。書面の期限、十日』
半分しか、取れなかった。
けれど、半分で、十分だ。
「取り決めはあった」が、当主と、奥方と、玄関の何人かの耳に、残った。
残った言葉は、消えない。
帳簿と、同じだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
玄関ホールで、半分だけ、白状がございました。
次話「管財人の、過誤」——いよいよ、あの方と、机を挟みます。
ブックマーク・評価をいただけますと、大変励みになります。




