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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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第29話:旦那様の、書斎

 その晩、執務室に呼ばれたとき、机の上は、いつもと、違っていた。


 書類の山が、脇に寄せられて、真ん中に、広い場所が、空けてあった。

 椅子も、二脚。

 机の向こうとこちらでは、なく——並びに、二脚。


 あの几帳面な山を、自分の手で寄せて、場所を空けて、椅子を運んで。

 その支度の時間のことを、考えそうになって、やめた。

 帳簿に付けられない科目は、増やさない。今夜は、特に。


「……手伝え」


 旦那様は、こちらを見ずに、仰った。


「ヒルシュ商会に、会う。その前に、こちらの手の内を、揃えておきたい。返済の記録と、あなたの抜き書きを、突き合わせる。……二人の方が、早い」


「かしこまりました」


 わたくしは、隣の椅子に、座った。

 紙とインクの匂いの中に、ほんの少しだけ、あの方の上着の、外の風の匂いが、混ざった。



 仕事は、静かに、進んだ。


 旦那様が、返済の予定表を、読み上げる。

 わたくしが、ドルン経由の抜き書きと、家政帳の写しを、当たる。

 合う行は、流す。合わない行に、付箋。

 声と、紙の音だけの時間が、続いた。

 夜の帳簿仕事を、二人でするのは、生まれて初めてだった。一人のときより、捗って、一人のときより、夜が短い。


「……三年前、秋。利払い、臨時の増額。理由は『利率改定』」


「同じ月、ドルン経由が、二行増えております。宛先は、王都の文具商と、運び屋」


「文具を、王都から? 屋敷の文具は、町のベンケで足りるだろう」


「ええ。足りておりますとも」


 筆が、走る。

 付箋が、増える。


 驚いたのは、旦那様の手の、速さだった。

 数字を、読む。覚える。三頁前の行と、頭の中で、突き合わせる。

 帳簿読みの手だ。それも、相当に、よい。


「……旦那様は、帳簿が、お出来になりますのね」


「家を継いでから、覚えた。返済の予定表を、毎晩、読んでいれば、嫌でも」


「毎晩、三年も?」


「————読み違えれば、家が飛ぶ。それだけのことだ」


 それだけのこと、と仰った。

 三年間、毎晩、たった一人で、誰の検算もなしに、家一つ分の数字を、読み続けること。

 わたくしなら、三月で、音を上げる。

 検算のない帳簿読みは、底のない井戸を、覗き続けるのと同じだから。

 覗き続けて、目を悪くして、卵を二つに減らして、それでも、毎晩。

 この方の疲れた目は、井戸の暗さの色をしていたのだ。


「……アデーレ」


「はい」


「この行は、どう読む」


 示された行を、覗き込む。

 肩が、触れそうな距離だった。

 数字に集中なさっている方の隣で、距離を測っているのは、わたくしだけらしかった。


「利払いの宛先が、ヒルシュ商会ではなく、『ヒルシュ商会代理 ドルン両替商』になっておりますわね。……この形、今年に入って、三度目です」


「代理。……ヒルシュが、ドルンに、取り立てを任せている?」


「あるいは、任せていることに、なっている、ですわ。ヒルシュ商会の帳簿に、この『代理受取』が載っているかどうか。——お会いになったとき、それを、確かめませんと」


 旦那様は、頷いて、付箋を、貼った。

 それから、ふと、手を止めて、仰った。


「……正直に言う。私は、ヒルシュの老主人が、苦手だ」


「あら」


「父の葬式の翌週に、あの人は、返済の予定表を持って来た。喪服のままの私に、署名をさせた。……三年、顔を見るたび、あの日のことを思い出す」


「————」


「だが、あなたの言うとおりなら……あの予定表自体が、誰かの手を、通っていたことになる。私が三年憎んでいた相手は、もしかすると、見当違いだったのかもしれん」


 わたくしは、少し考えて、申し上げた。


「憎まれるお相手が、見当違いだったかどうかは、お帳簿が、決めてくれますわ。お会いになる前に、決めてしまっては、なりません。——それが、検算、というものですもの」


「……ふ」


 短い息が、聞こえた。

 見ると、旦那様が、笑っていらした。

 初めて、見た。目元だけの、不器用な笑い方だった。

 三年、検算のなかった井戸の縁で、この方は、いま、初めて、隣に座る検算係を、得たのだった。


「あなたの数字は、読みやすい」


「……はい?」


「抜き書きの、ことだ。行の立て方も、字も。……読みやすい、と言った。それだけだ」


 旦那様は、もう、次の頁に、目を落としていらした。


 読みやすい。

 器量よし、でも、気立てよし、でもなく。

 読みやすい。

 ……わたくしの二十年の生まれ育ちの中で、いちばん、効く褒め言葉を、この方は、狙いもせずに、仰るのだ。


 わたくしは、自分の頬が、不意に、忙しくなったのを、帳簿のせいに、することにした。

 夜更けの帳簿は、体に、悪い。


『七十四日目。突き合わせ、二人にて。付箋十一。「読みやすい」、一回』


 お読みいただき、ありがとうございます。

 夜更けの帳簿は、体に悪いそうでございます。


 次話「当主の、お言葉」——ロルフ商会に、当主が出ます。


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