旦那様への、ご報告
西棟の夜から、二日おいて、わたくしは、これまでの全部を、一通の書面にまとめた。
卵の差。紙の上の馬車。一枚目の書面。
名簿の三人と、八年前のヨルクさん。
受領印の蝋と、傾き。
無人の別邸と、月七日の木箱。
屋根の二度払い。義妹様の衣装費。
西棟の灯りと、出る向きだけの足跡。
二月分の仕事を、行に直すと、一枚に、収まってしまった。
よく働いたつもりの二月も、紙にすれば、一枚。
帳簿とは、そういう、慎ましいものだ。
書いて、読み返して、一つ、足りないことに気づいた。
名前だ。
わたくしは、この書面のどこにも、まだ、誰の名前も書いていない。
書けるのに、書いていないのではない。
書けないのだ。
どの事実も、あの方の手を、指している。けれど、どの事実も、あの方の手を、掴んでいない。
受領印は「事務室の蝋」で捺され、木箱は「管財人の馬車」で運ばれ、書斎の鍵は「紛失」している。
全部、職務の形をしている。
二十年かけて編まれた、職務という名の、手袋だ。
手袋の上から、いくら指を差しても、掴んだことには、ならない。
名前のない告発は、書面にしてはいけない。
名前の書けない書面は、まだ、報告ではなく、推測だから。
推測を紙にすると、紙の強さだけが、独り歩きをする。
夕刻、執務室へ、伺った。
「ご報告に、参りました」
書面を、差し出す。
旦那様は、受け取って——受け取ってから、机に、置いた。
読まずに。
「……読んでいただけませんの」
「報告は、あなたの口から聞く」
「————」
「書面は、あとで読む。だが、先に、あなたの声で聞きたい。書面は、あなたが書ける形に整えたものだ。声には、整える前のものが、残る。……それが、聞きたい」
わたくしは、少しの間、黙ってしまった。
帳簿読みの言葉だ、と思った。
写しではなく原本を、清書ではなく下書きを、と言う人の言葉。
この方は、紙の人だと思っていたけれど——本当は、わたくしと、同じ側の人なのかもしれない。
毎晩、一人で、返済の予定表という他人の清書を読まされ続けてきた方の、これは、飢えなのかもしれなかった。
わたくしは、椅子に座って、最初から、お話しした。
書面に書いたことを、全部。
それから、書面に書けなかったことも。
燭台の数を数えた、初日の夜のことから。
旦那様は、一度も、口を挟まれなかった。
ただ、ときどき、机の上で、指が小さく動いた。頭の中の帳面に、行を立てている指の動きだった。
「……手口は、三つ。仕入れの水増し、幽霊の給金、二度払い。流れた先は、わかりません。総額も、まだ。ただ、二十年分です。蔵が痩せたのは、先代様のお情けのせいだけでは、ありませんわ」
「クラム、だな」
旦那様は、静かに、仰った。
わたくしは、首を、横に振った。
「名前は、申し上げません。掴んでおりませんもの。——ですが、お伺いしたいことが、一つございます」
「聞こう」
「先代様の借財の証文を、ご覧になったことは、おありですか。原本を、です」
旦那様は、虚を突かれた顔をなさった。
「……証文は、クラムが管理している。額の一覧と、返済の予定表は、毎年、見ているが」
「原本は、一度も?」
「————ない」
沈黙が、落ちた。
借金を返している人が、借金の原本を、見たことがない。
返済の額も、利息も、期日も、全部、一人の手を、通ってくる。
二十年、誰も、並べて確かめていない。
この方が、毎晩、命を削って読んできた予定表は——誰の手で、清書されたものだったか。
「……アデーレ。あなたは、つまり、こう言っているのか。この家の借金は、額そのものが」
「わかりません。わからないことは、申し上げません。ただ——確かめられる場所が、一つだけ、ございますわ」
「ヒルシュ商会か」
「はい。債権者は、貸した側の帳簿を、持っております。貸した側の帳簿と、借りた側の帳簿。二冊並べば、合唱になります。音の外れた行が、あれば——」
旦那様は、長いこと、机の上の書面を、見ていらした。
それから、引き出しを開けて、一通の書状を、出された。
あの晩、裏返された書状だ。飾り文字の「H」の封蝋。
「……ヒルシュ商会の、老主人からだ。先月から、二度。「一度、お屋敷の帳簿のことで、お話ししたい」と」
「まあ」
「会わずにいた。債権者が帳簿の話をしたがるのは、取り立ての前触れと、相場が決まっている。だが……あなたの話を聞いたあとだと、別の読み方が、できる気がしてくる」
旦那様は、書状を、わたくしの方へ、滑らせた。
読め、ということだ。
債権者からの書状を、妻に。
この家で、いちばん見せたくないはずの紙を、嫁いで二月の契約の妻に。
わたくしは、両手で、受け取った。
紙は、ずしりと、重かった。重いのは、紙ではなくて、信用の方だ。
信用は、帳簿に付けられない。付けられないものが、今夜、初めて、わたくしの手の中にあった。
『五十八日目。ご報告、声にて。証文原本、未見と判明。Hの書状、拝読を許される』
お読みいただき、ありがとうございます。
借金の原本を、誰も見ていなかったようです。
次話「月次の、二度目」——第二章、締めの一話でございます。
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