西棟の、灯り
その日の昼、ベルトルトさんが、馬車で、東の別邸へ出かけた。
月の七日でも、給金のお届けでもないのに。
お茶会から、七日。
あの方が、初めて、いつもと違う動きをなさった。
予定の動きは、用心の内にある。
予定の外の動きは、用心の外にある。
動いた鼠は、夜にも、動く。
わたくしは、その晩、部屋の灯りを早めに消して、窓辺に、椅子を寄せた。
わたくしの部屋の窓からは、中庭越しに、西棟の端が、見える。
書斎の窓も。
肩掛けを一枚。膝に、もう一枚。
夜の見張りに、火の気は使えない。こちらの窓が灯っていては、向こうから、見えてしまう。
待つのは、得意だ。
帳簿付けというのは、つまるところ、待つ仕事だから。数字が揃うのを、嘘が熟れるのを、鼠が動くのを、待つ。
中庭の木が、風で、ゆっくり揺れる。
夜半の鐘が、鳴った。
何も、起きない。
さらに、半刻。
爪先が、冷たくなった頃。
——点いた。
西棟の、突き当たりの窓。
鎧戸の隙間から、針のように細い、灯りの線。
月の照り返しは、あんなふうに、瞬かない。
蝋燭の灯は、呼吸をする。
わたくしは、肩掛けを羽織って、部屋を出た。
約束は、守る。
一人で「別邸」に近づくな、と言われた。西棟は、別邸ではない。
……と申し上げたら、旦那様は、どんなお顔をなさるかしら。
いえ。
屁理屈は、よくない。帳簿が狂う。
わたくしは、廊下を、執務室の方へ、歩いた。
足音を、絨毯の上に、選んで落としながら。
灯りは、まだ、点いていた。あの方は、今夜も、起きていらっしゃる。
「旦那様」
扉を叩くと、すぐに、開いた。
「……こんな時間に、どうし——」
「西棟の書斎に、灯りが点いております。いま、この瞬間に、です」
旦那様の顔つきが、変わった。
二呼吸ぶんの間に、夜着の上に上着を掴んで、廊下に出ていらした。
「ヴィムを起こせ。いや——時間がない。ついて来るな」
「お断りいたします。二人なら、約束に障りませんでしょう?」
「————口の減らない」
言い合いながら、もう、二人とも、歩き出していた。
歩幅が、揃っていた。
妙なときに、妙なことに、気づくものだ。
西棟の廊下は、冷たかった。
昼に来たときの、止まった冷たさではない。
夜の西棟の冷たさは、生きていた。どこかで、空気が、動いている。
突き当たりの扉の前まで来ると——灯りは、もう、消えていた。
扉の下の隙間が、ただの闇に、戻っている。
扉に、手をかける。
開かない。錠は、下りたままだ。
旦那様が、扉を、強く、二度、叩いた。
「いるのは、わかっている。開けろ」
返事は、ない。
物音も、ない。
完全な、静けさだった。
息を殺している静けさではなく、誰もいない静けさに、もう、変わっていた。
「……裏だ。書斎には、北側に、納戸への小窓がある」
回ったときには、遅かった。
納戸の小窓は、開いていた。掛け金が、内側から、外してあった。
窓の下の土に、足跡。
出ていく向きの足跡だけが、点々と、闇の方へ続いて、消えていた。
「逃げられた、か」
旦那様は、悔しそうに、息を吐いた。
白い息が、夜気に、解けた。
わたくしは、足跡のそばに、屈んだ。
踏み込まずに、目だけで、見る。
夜目にも、土の縁の立ち方で、新しい跡だとわかった。
「旦那様。足跡、ご覧になって」
「……男物の長靴だな。それが」
「歩幅が、揃っておりますわ。慌てて逃げた人の歩幅では、ありません。それから——往きの足跡が、ございません」
「————」
「今夜ここへ「来た」跡が、ないのです。出た跡だけ。つまり、あの方は、外から忍び込んだのではなく」
屋敷の中から、いらした。
中の廊下を通って、鍵で扉を開けて、用を済ませて、納戸の窓から出て、表から、何食わぬ顔で戻る。
外の侵入者の、足跡だけを残して。
追われたときのための、出口と、筋書きまで、用意して。
旦那様は、長いこと、足跡を見下ろしていらした。
ご自分の家の中に、ご自分の知らない通り道があった——その事実を、噛んでいらっしゃる横顔だった。
「……明日、錠前屋を呼ぶ。この部屋を、開ける」
「お待ちになって」
わたくしは、申し上げた。
「いま開けますと、「外の何者かが忍び込んだので、検めた」ことにしかなりません。中の物が、今夜のうちに、いくつか減っていても、誰にも、わかりませんわ。——開けるのは、減らせない形を、整えてからに、いたしませんと」
「減らせない形?」
「立会人と、目録と、お日取りですわ。開かずの間は、開け方が、九割でございますのよ」
旦那様は、わたくしの顔を、まじまじと、ご覧になった。
「……あなたは、こういうとき、悔しくないのか」
「悔しゅうございますわ。ですから、二度と逃げられない形から、組みますの。悔しさは、急がせるための感情ではなくて、丁寧にさせるための感情ですもの」
夜気の中で、旦那様が、短く、息だけで笑われた。
『五十六日目。西棟、灯りと足跡。出る跡のみ。錠、無傷』
鼠は、巣を、見られたと知った。
次に動くのは、巣を、移すときだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
開かずの間は、開け方が九割、だそうでございます。
次話「旦那様への、ご報告」——二人の夜の、続きでございます。
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