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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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22/23

西棟の、灯り

 その日の昼、ベルトルトさんが、馬車で、東の別邸へ出かけた。


 月の七日でも、給金のお届けでもないのに。

 お茶会から、七日。

 あの方が、初めて、いつもと違う動きをなさった。


 予定の動きは、用心の内にある。

 予定の外の動きは、用心の外にある。

 動いた鼠は、夜にも、動く。


 わたくしは、その晩、部屋の灯りを早めに消して、窓辺に、椅子を寄せた。


 わたくしの部屋の窓からは、中庭越しに、西棟の端が、見える。

 書斎の窓も。


 肩掛けを一枚。膝に、もう一枚。

 夜の見張りに、火の気は使えない。こちらの窓が灯っていては、向こうから、見えてしまう。

 待つのは、得意だ。

 帳簿付けというのは、つまるところ、待つ仕事だから。数字が揃うのを、嘘が熟れるのを、鼠が動くのを、待つ。


 中庭の木が、風で、ゆっくり揺れる。

 夜半の鐘が、鳴った。


 何も、起きない。


 さらに、半刻。

 爪先が、冷たくなった頃。


 ——点いた。


 西棟の、突き当たりの窓。

 鎧戸の隙間から、針のように細い、灯りの線。

 月の照り返しは、あんなふうに、瞬かない。

 蝋燭の灯は、呼吸をする。


 わたくしは、肩掛けを羽織って、部屋を出た。


 約束は、守る。

 一人で「別邸」に近づくな、と言われた。西棟は、別邸ではない。

 ……と申し上げたら、旦那様は、どんなお顔をなさるかしら。


 いえ。

 屁理屈は、よくない。帳簿が狂う。


 わたくしは、廊下を、執務室の方へ、歩いた。

 足音を、絨毯の上に、選んで落としながら。

 灯りは、まだ、点いていた。あの方は、今夜も、起きていらっしゃる。


「旦那様」


 扉を叩くと、すぐに、開いた。


「……こんな時間に、どうし——」


「西棟の書斎に、灯りが点いております。いま、この瞬間に、です」


 旦那様の顔つきが、変わった。

 二呼吸ぶんの間に、夜着の上に上着を掴んで、廊下に出ていらした。


「ヴィムを起こせ。いや——時間がない。ついて来るな」


「お断りいたします。二人なら、約束に障りませんでしょう?」


「————口の減らない」


 言い合いながら、もう、二人とも、歩き出していた。

 歩幅が、揃っていた。

 妙なときに、妙なことに、気づくものだ。



 西棟の廊下は、冷たかった。


 昼に来たときの、止まった冷たさではない。

 夜の西棟の冷たさは、生きていた。どこかで、空気が、動いている。


 突き当たりの扉の前まで来ると——灯りは、もう、消えていた。

 扉の下の隙間が、ただの闇に、戻っている。

 扉に、手をかける。


 開かない。錠は、下りたままだ。


 旦那様が、扉を、強く、二度、叩いた。


「いるのは、わかっている。開けろ」


 返事は、ない。

 物音も、ない。


 完全な、静けさだった。

 息を殺している静けさではなく、誰もいない静けさに、もう、変わっていた。


「……裏だ。書斎には、北側に、納戸への小窓がある」


 回ったときには、遅かった。

 納戸の小窓は、開いていた。掛け金が、内側から、外してあった。

 窓の下の土に、足跡。

 出ていく向きの足跡だけが、点々と、闇の方へ続いて、消えていた。


「逃げられた、か」


 旦那様は、悔しそうに、息を吐いた。

 白い息が、夜気に、解けた。


 わたくしは、足跡のそばに、屈んだ。

 踏み込まずに、目だけで、見る。

 夜目にも、土の縁の立ち方で、新しい跡だとわかった。


「旦那様。足跡、ご覧になって」


「……男物の長靴だな。それが」


「歩幅が、揃っておりますわ。慌てて逃げた人の歩幅では、ありません。それから——往きの足跡が、ございません」


「————」


「今夜ここへ「来た」跡が、ないのです。出た跡だけ。つまり、あの方は、外から忍び込んだのではなく」


 屋敷の中から、いらした。

 中の廊下を通って、鍵で扉を開けて、用を済ませて、納戸の窓から出て、表から、何食わぬ顔で戻る。

 外の侵入者の、足跡だけを残して。

 追われたときのための、出口と、筋書きまで、用意して。


 旦那様は、長いこと、足跡を見下ろしていらした。

 ご自分の家の中に、ご自分の知らない通り道があった——その事実を、噛んでいらっしゃる横顔だった。


「……明日、錠前屋を呼ぶ。この部屋を、開ける」


「お待ちになって」


 わたくしは、申し上げた。


「いま開けますと、「外の何者かが忍び込んだので、検めた」ことにしかなりません。中の物が、今夜のうちに、いくつか減っていても、誰にも、わかりませんわ。——開けるのは、減らせない形を、整えてからに、いたしませんと」


「減らせない形?」


「立会人と、目録と、お日取りですわ。開かずの間は、開け方が、九割でございますのよ」


 旦那様は、わたくしの顔を、まじまじと、ご覧になった。


「……あなたは、こういうとき、悔しくないのか」


「悔しゅうございますわ。ですから、二度と逃げられない形から、組みますの。悔しさは、急がせるための感情ではなくて、丁寧にさせるための感情ですもの」


 夜気の中で、旦那様が、短く、息だけで笑われた。


『五十六日目。西棟、灯りと足跡。出る跡のみ。錠、無傷』


 鼠は、巣を、見られたと知った。

 次に動くのは、巣を、移すときだ。

 お読みいただき、ありがとうございます。

 開かずの間は、開け方が九割、だそうでございます。


 次話「旦那様への、ご報告」——二人の夜の、続きでございます。


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