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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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18/22

旦那様の、お夜食

 執務室の灯りは、今夜も、点いていた。


 もう、夜半に近い。

 廊下の窓の外で、北の星が、冴えていた。

 わたくしは、厨房で温め直した夜食を、盆に載せて、階段を上がった。

 湯気が、階段の冷えた空気の中で、白く、形になった。


 麦の粥に、卵を一つ落として、刻んだ香草。

 それと、お茶。


 グレーテさんに夜食の相談をしたら、「旦那様は、晩餐を半分お残しになる日が、週に三度ございます」と、即座に返ってきた。

 即座に、だ。数えていらしたのだ、ずっと。誰にも頼まれずに。

 料理人は、皿の戻りで、主の体を量る。

 帳簿と、同じだ。付ける場所が、紙か、胸の内かの違いしかない。



「失礼いたします」


「……まだ起きていたのか」


「お互い様でございましょう」


 机の上の書類の山は、先月より、低くなっていた。

 代わりに、一通の書状が、机の真ん中に、開いたまま、置かれていた。

 旦那様は、わたくしが入ると、それを、静かに裏返した。


 見るな、ということだ。

 見なかったことにする、が、礼儀というものだ。

 ただし、裏返る一瞬に、署名の輪郭だけが、目に入ってしまった。

 飾り文字の、大きな「H」。

 北部の貴族の家紋では、ない。商家の署名の飾り方だった。


「夜食を、お持ちしました。お粥ですから、お腹に障りませんわ」


「頼んで——」


「ええ、いらっしゃいませんとも。グレーテさんとわたくしが、勝手にいたしました。お叱りは、二人で分けて承ります」


 旦那様は、諦めたように、ペンを置いた。

 匙を取って、一口、召し上がる。

 二口目までの間が、一口目より、短かった。

 三口目は、もっと短かった。

 お腹が空いていることに、召し上がるまで、気づいていらっしゃらなかったのだ。この方の体は、いつも、本人への報告を後回しにされている。


「……あなたは」


 半分ほど召し上がったところで、旦那様が、ふいに、仰った。


「東の別邸に、行ったそうだな」


 ……ヴィムさんは、正直な方だ。

 結構。正直な使用人は、家の宝だ。誰に対して正直かは、別として。

 いいえ——あの方は、たぶん、両方に正直なのだ。わたくしの問いにも、当主への報告にも。五十年の門番の、筋の通し方だ。


「茸狩りに、まいりました。初茸が、籠に一杯。今夜のお粥の出汁も、その子たちですわ」


「————」


「ついでに、別邸の屋根を、外から検分いたしました。よい屋根でしたわ。あと二十年は保ちます。……人は、住んでおりませんでしたけれど」


 わたくしは、嘘をつかない。

 帳簿が狂うから。


 旦那様は、匙を持ったまま、長いこと、黙っていらした。

 燭台の炎が、一度、揺れて、戻った。


「……あの別邸に、見回りが三人いることになっている。給金も、出ている。そのことを、言っているのか」


「あら。ご存知でしたの」


「名簿は、当主も見る」


「では、お伺いいたします。八年前にお屋敷を辞めた庭師助手のヨルクさんが、今月も別邸でお給金を受け取っていらっしゃることも、ご存知でした?」


 旦那様の匙が、止まった。


「————誰が、辞めたと」


「コルネリア様が。お母様のバラの世話をしていた方だそうですね。お母様が亡くなられた年に、泣きながら、お辞めになったと」


 旦那様は、匙を、ゆっくりと、置いた。

 それから、両手を組んで、その上に、額を載せた。


 お疲れの仕草、に見えた。

 考える仕草、でもあった。

 八年前——この方は、十八で、母君を亡くして、たぶん、庭師助手の顔ぶれどころではなかった。名簿の上の名前と、温室の記憶が、この方の中で、いま初めて、突き合わされている。


「……妹は、八年前、八つだ。子供の記憶だ、と言うこともできる」


「できますわね」


「だが、あなたは、子供の記憶だけで、ここまで言わない人だ。……他に、何を見た」


 わたくしは、少し、考えた。

 鼠の巣は、まだ、見つかっていない。

 けれど、この方は、当主だ。そして——わたくしの、雇い主のようなものだ。

 職場の重大事を、雇い主に隠す職人は、いない。

 半分の数字で物を言うのは、作法に反する。ただし、雇い主が自分から問うたときは、別だ。


「受領印が三つ、同じ手で捺されております。蝋の色と、傾きが、揃いすぎますの。それから、別邸には、月に一度、給金袋ではなく、木箱がひとつ、届くそうですわ」


 長い、長い沈黙だった。


 粥の湯気が、細くなって、消えた。


 やがて、旦那様は、顔を上げた。

 疲れた目の奥に、あの、何かを測る光が、戻っていた。

 測られているのは、今夜は、わたくしではないようだった。


「……アデーレ」


 名前を、呼ばれた。

 初めて、だった。

 あなた、でも、奥方、でもなく。


「この話、いまは、誰にも言うな。妹にも、念を押せ」


「かしこまりました。……続けても、よろしいのですね?」


「————好きにしろ、とは、もう言わない」


 旦那様は、粥の残りを、引き寄せた。


「続けてくれ。ただし、一人で別邸に近づくのは、二度とするな。……頼む」


 頼む、と仰った。

 命令ではなく。


 器は、空になって、盆に戻った。

 今夜のお茶も、冷める前に、なくなった。


『四十二日目。お夜食、完食。名前、一回。「頼む」、一回』


 今夜の帳簿は、数字より、言葉の方が、多くなった。

 よくない傾向だ、と書きかけて、やめた。

 帳簿は、正直に付けるものだけれど、何もかも付ければよいというものでも、ないのだった。


 お読みいただき、ありがとうございます。

 「好きにしろ」が「続けてくれ」に変わった夜でございます。


 次話「二枚目の、帳簿」——写しの中に、二度書かれた数字を探します。


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