旦那様の、お夜食
執務室の灯りは、今夜も、点いていた。
もう、夜半に近い。
廊下の窓の外で、北の星が、冴えていた。
わたくしは、厨房で温め直した夜食を、盆に載せて、階段を上がった。
湯気が、階段の冷えた空気の中で、白く、形になった。
麦の粥に、卵を一つ落として、刻んだ香草。
それと、お茶。
グレーテさんに夜食の相談をしたら、「旦那様は、晩餐を半分お残しになる日が、週に三度ございます」と、即座に返ってきた。
即座に、だ。数えていらしたのだ、ずっと。誰にも頼まれずに。
料理人は、皿の戻りで、主の体を量る。
帳簿と、同じだ。付ける場所が、紙か、胸の内かの違いしかない。
「失礼いたします」
「……まだ起きていたのか」
「お互い様でございましょう」
机の上の書類の山は、先月より、低くなっていた。
代わりに、一通の書状が、机の真ん中に、開いたまま、置かれていた。
旦那様は、わたくしが入ると、それを、静かに裏返した。
見るな、ということだ。
見なかったことにする、が、礼儀というものだ。
ただし、裏返る一瞬に、署名の輪郭だけが、目に入ってしまった。
飾り文字の、大きな「H」。
北部の貴族の家紋では、ない。商家の署名の飾り方だった。
「夜食を、お持ちしました。お粥ですから、お腹に障りませんわ」
「頼んで——」
「ええ、いらっしゃいませんとも。グレーテさんとわたくしが、勝手にいたしました。お叱りは、二人で分けて承ります」
旦那様は、諦めたように、ペンを置いた。
匙を取って、一口、召し上がる。
二口目までの間が、一口目より、短かった。
三口目は、もっと短かった。
お腹が空いていることに、召し上がるまで、気づいていらっしゃらなかったのだ。この方の体は、いつも、本人への報告を後回しにされている。
「……あなたは」
半分ほど召し上がったところで、旦那様が、ふいに、仰った。
「東の別邸に、行ったそうだな」
……ヴィムさんは、正直な方だ。
結構。正直な使用人は、家の宝だ。誰に対して正直かは、別として。
いいえ——あの方は、たぶん、両方に正直なのだ。わたくしの問いにも、当主への報告にも。五十年の門番の、筋の通し方だ。
「茸狩りに、まいりました。初茸が、籠に一杯。今夜のお粥の出汁も、その子たちですわ」
「————」
「ついでに、別邸の屋根を、外から検分いたしました。よい屋根でしたわ。あと二十年は保ちます。……人は、住んでおりませんでしたけれど」
わたくしは、嘘をつかない。
帳簿が狂うから。
旦那様は、匙を持ったまま、長いこと、黙っていらした。
燭台の炎が、一度、揺れて、戻った。
「……あの別邸に、見回りが三人いることになっている。給金も、出ている。そのことを、言っているのか」
「あら。ご存知でしたの」
「名簿は、当主も見る」
「では、お伺いいたします。八年前にお屋敷を辞めた庭師助手のヨルクさんが、今月も別邸でお給金を受け取っていらっしゃることも、ご存知でした?」
旦那様の匙が、止まった。
「————誰が、辞めたと」
「コルネリア様が。お母様のバラの世話をしていた方だそうですね。お母様が亡くなられた年に、泣きながら、お辞めになったと」
旦那様は、匙を、ゆっくりと、置いた。
それから、両手を組んで、その上に、額を載せた。
お疲れの仕草、に見えた。
考える仕草、でもあった。
八年前——この方は、十八で、母君を亡くして、たぶん、庭師助手の顔ぶれどころではなかった。名簿の上の名前と、温室の記憶が、この方の中で、いま初めて、突き合わされている。
「……妹は、八年前、八つだ。子供の記憶だ、と言うこともできる」
「できますわね」
「だが、あなたは、子供の記憶だけで、ここまで言わない人だ。……他に、何を見た」
わたくしは、少し、考えた。
鼠の巣は、まだ、見つかっていない。
けれど、この方は、当主だ。そして——わたくしの、雇い主のようなものだ。
職場の重大事を、雇い主に隠す職人は、いない。
半分の数字で物を言うのは、作法に反する。ただし、雇い主が自分から問うたときは、別だ。
「受領印が三つ、同じ手で捺されております。蝋の色と、傾きが、揃いすぎますの。それから、別邸には、月に一度、給金袋ではなく、木箱がひとつ、届くそうですわ」
長い、長い沈黙だった。
粥の湯気が、細くなって、消えた。
やがて、旦那様は、顔を上げた。
疲れた目の奥に、あの、何かを測る光が、戻っていた。
測られているのは、今夜は、わたくしではないようだった。
「……アデーレ」
名前を、呼ばれた。
初めて、だった。
あなた、でも、奥方、でもなく。
「この話、いまは、誰にも言うな。妹にも、念を押せ」
「かしこまりました。……続けても、よろしいのですね?」
「————好きにしろ、とは、もう言わない」
旦那様は、粥の残りを、引き寄せた。
「続けてくれ。ただし、一人で別邸に近づくのは、二度とするな。……頼む」
頼む、と仰った。
命令ではなく。
器は、空になって、盆に戻った。
今夜のお茶も、冷める前に、なくなった。
『四十二日目。お夜食、完食。名前、一回。「頼む」、一回』
今夜の帳簿は、数字より、言葉の方が、多くなった。
よくない傾向だ、と書きかけて、やめた。
帳簿は、正直に付けるものだけれど、何もかも付ければよいというものでも、ないのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「好きにしろ」が「続けてくれ」に変わった夜でございます。
次話「二枚目の、帳簿」——写しの中に、二度書かれた数字を探します。
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