東の別邸の、煙突
東の別邸へは、馬車で、半日かかると聞いていた。
けれど、地図で測ると、屋敷から馬で一刻半。
歩いても、半日は、かからない。
「半日」は、行きにくい場所だと思わせたい人の、半日らしかった。
距離は、地図が知っている。遠いと思わせたい人の口より、地図の方が、いつでも正直だ。
わたくしは、温室の鉢の御礼と称して、コルネリア様を、お誘いした。
「東の森の手前に、秋の初茸の出る斜面があると、グレーテさんに伺いましたの。籠を持って、まいりません?」
「茸狩り? ……ふん。仕方ないから、付いてきてあげる。森は、私の方が詳しいもの」
護衛に、門番のおじい——ヴィムさんが、付いてくださった。
ヴィムさんは、先代の代からの門番で、コルネリア様の言う「門番のおじい」その人だ。
御歳は、七十に近いはずだけれど、歩きは、わたくしより確かだった。五十年、門と領地の道を踏んできた足だ。
森の手前の斜面で、茸は、本当に採れた。
コルネリア様は、茸の頭の傾きで、出ている場所を当てる。
ヴィムさんは、毒のあるものを、籠から黙って、はじいていく。
籠が半分になった頃、わたくしは、何気ないふうに、申し上げた。
「あら。あちらに見えるのは、別邸ですわね。せっかくですもの、見回りの方に、ご挨拶してまいりましょうか」
ヴィムさんの足が、一瞬、止まった。
「……奥様。あちらは、その」
「見回りの方が、お三方、いらっしゃるのでしょう? 給金日に、お目にかかれませんでしたから」
ヴィムさんは、困った顔で、黙った。
黙る、ということは、嘘をつきたくない、ということだ。
この方は、何かを、ご存知でいらっしゃる。
そして、知っていることを、誰にも頼まれずに、五十年、胸に積んでこられた方でもある。門番というのは、そういうお役目だ。
別邸は、丘の下に、見えていた。
古い狩猟館。石造りの、どっしりした建物。
屋根は、まだ、しっかりしている。
石の壁に、秋の低い日が当たって、建物そのものは、絵のように、静かだった。
ただ——煙突から、煙が、出ていなかった。
昼餉の刻限だ。人が三人住んでいれば、竈に火が入る。
秋の冷えた日だ。人が三人住んでいれば、暖炉に火が入る。
火は、隠せない。煙突は、家の正直な口だ。
近づくと、もっと、わかった。
井戸の釣瓶に、枯れ葉が、積もっていた。
縄は、乾いて、毛羽だったまま。水を汲む縄は、毎日濡れて、毎日締まる。この縄は、長いこと、水を知らない。
戸口の前の地面に、草。人の足が、毎日踏む場所には、草は生えない。
窓は、全部、鎧戸が下りていた。
人の住む印が、一つも、なかった。
「……誰も、いないじゃない」
コルネリア様が、小声で、仰った。
「ヨルクも、ターレも、ブルーノも、いないわ。誰も。……義姉様、これ、どういうこと」
「静かに」
わたくしは、籠の茸を、整えるふりをして、建物を、目に焼き付けた。
鎧戸。井戸。草。煙突。
それから、戸口の錠前。
錠前だけが、新しかった。
鉄の地金が、まだ、青い。掛けられて、せいぜい一年か二年。
誰も住まない家の錠前を、誰かが、新しくしている。
守る物のない家に、新しい錠前。守る物が、ないのではなくて、人に見せられないのだ。
「ヴィムさん」
「……はい」
「給金の袋は、月に一度、ここへ届くのでしたわね。クラムさんの馬車で」
「…………はい。月の、七日に。決まって」
「馬車は、ここで、どれくらい停まりますの」
ヴィムさんは、長いこと、黙ってから、仰った。
胸に積んだものを、一つ、降ろすと決めた人の間だった。
「……四半刻も、おりません。荷を、お降ろしになるだけで」
「荷物を。……お給金の袋、三つを?」
「いえ」
老門番は、首を、振った。
「箱で、ございます。毎月、同じ形の、木箱がひとつ。お降ろしになって、すぐ、お戻りに」
誰もいない家に、毎月七日、木箱がひとつ、届く。
そして、給金の台帳には、三つの印が、揃って捺される。
「……ヴィムさんは、それを、ずっと」
「門番は、出入りを、控えに付けるだけでございます。付けたものを、どう読むかは……手前の、仕事では、ございませんので」
読む者が、来るのを待っていた、という意味にも、聞こえた。
帰り道、わたくしは、籠の中の茸を見ながら、考えていた。
箱は、ここに、置かれるのではないのかもしれない。
ここで、別の誰かが、受け取るのかもしれない。
誰も住まない家は、人目のない、立派な受け渡し場所になる。
振り返ると、丘の下の別邸の、二階の鎧戸が——
一枚だけ、細く、開いていた。
来たときには、全部、閉まっていた。
……はずだった。
コルネリア様の手を、さりげなく取って、歩を速めた。
茸狩りの帰りの、ただの姉妹に見えるように。
背中に、視線の重さを、感じながら。
『三十九日目。別邸、無人の印。錠前のみ新しい。月七日に木箱。鎧戸、一枚』
お読みいただき、ありがとうございます。
誰もいないはずの家の鎧戸が、一枚、開いておりました。
次話「旦那様の、お夜食」——夜更けの執務室に、湯気を運びます。
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