給金日の、列
給金日は、月の五日。
大広間の脇の小部屋に、机を一つ置いて、ベルトルトさんが、一人ずつ、給金の袋を渡す。
受け取った者は、台帳に、受領の印を捺す。
二十年、変わらない段取りだそうだ。
二十年変わらない段取りには、二十年分の埃が積もる。埃は、検めない場所にだけ、積もる。
今月から、その机の脇に、わたくしも、座ることにした。
「家政を預かる者として、皆さんのお働きに、ひと月のお礼を申し上げたいの」
断る理由の、ない理屈だ。
奥方が使用人を労うことを、止められる家令は、いない。
ベルトルトさんは「それはそれは、皆も喜びましょう」と、にこやかに、椅子を一つ、増やしてくださった。
椅子の位置は、机から、半歩だけ遠かった。台帳の字が、読みにくい距離。
わたくしは、座ってから、何気なく、椅子を半歩、戻した。
使用人が、一人ずつ、入ってくる。
「グレーテさん。今月も、おいしいお食事を、ありがとう」
「もったいないことで……」
「ドーラさん。ありがとう。冬着の繕いの布、来週には届きますからね」
「は、はい。ありがとうございます……!」
一人ずつ、顔を見て、名前を呼んで、お礼を言う。
十五人。
受け取りの所作も、十五人分、見えた。
袋を押しいただく人。重さを手の中で確かめる人。印を、息を止めて捺す若い人。
給金日というものは、その家の体温が、いちばんよく見える日だ。
それが、本当の目的ではないけれど、嘘の目的でもない。お礼は、本心だ。
十五人が終わると、机の上に、袋が三つ、残った。
「あら。お三方、いらっしゃいませんのね」
「東の別邸詰めの者たちでございます。あちらを離れられませんので、いつものとおり、わたくしが、お届けにあがります」
「まあ、お一人で? 重うございましょうに。どなたか、お供を」
「いえいえ。慣れたものでございますから」
「では、せめて、受領の印は」
わたくしは、台帳を、引き寄せた。
「先にいただいておくわけには、まいりませんものね。お届けのあと、捺していただいたものを、見せていただけます? 家政の台帳は、今月から、わたくしが月次に写しますの」
「————承知いたしました」
ベルトルトさんの笑顔は、揺れなかった。
揺れない笑顔の方と、ひと月お付き合いして、一つ、わかったことがある。
あの方の笑顔は、揺れない代わりに、まばたきが、減る。
今、減った。
袋三つを、革の鞄にしまう手つきは、いつもどおり、丁寧だった。
ただ、鞄の留め金を、二度、確かめていらした。
一度で足りるものを、二度。
三日後、台帳が、戻ってきた。
ヨルク。ターレ。ブルーノ。
三人分の受領印が、几帳面に、捺されていた。
わたくしは、夜、灯りの下で、その頁と、先月までの頁を、見比べた。
燭台を、二本に増やして。印影の検めは、灯り一本では、できない。
印影は、三人とも、別の印だ。当然、そうしてある。
けれど、蝋の色が、三つとも、同じだった。
朱に、わずかに茶の混じる、独特の色。
どこかで見た色だと思って、思い出した。
事務室の机の隅の、封蝋の道具。
屋敷の事務室の、封蝋の色だ。
それから、捺し癖。
三つの印が、三つとも、右上がりに、同じだけ、傾いでいる。
人の手は、それぞれに癖を持つ。筆の癖、印の癖、紐の結びの癖。
別々の三人が、同じ癖で印を捺すことは、ない。
同じ一人の手が、三つの印を捺すと、こうなる。
先月の頁も、先々月の頁も、同じだった。
几帳面に、毎月、同じ傾きで。
几帳面さというものは、こういうとき、首を絞める側に回る。
『三十五日目。受領印三つ。蝋同色、傾き同じ。手は、一つ』
八年前に辞めたヨルクさん。
顔のないターレさんと、ブルーノさん。
三人の給金は、毎月、袋に入って、別邸への道を、運ばれていく。
運んでいる方の手の中までは、まだ、見ていない。
見ていないものは、書かない。
帳簿は、見たものだけを、書く場所だ。
だから、次は、見に行くことにした。
東の別邸を。
お読みいただき、ありがとうございます。
三つの印を、一つの手が捺しているようです。
次話「義妹様の、お稽古」——その前に、温室に新しい鉢が届きます。
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