雨の、温室
朝から、強い雨だった。
裏門の検品は、雨でも休まないけれど、今日は納入の日ではない。
散歩の代わりに、温室を見に行った。
南向きの、硝子張りの温室。お母様——先代の奥様が、バラを育てていらした場所だと、ドーラさんに聞いた。
硝子の継ぎ目に苔が乗り、桟の白い塗りは、ところどころ剥げていた。
それでも、硝子そのものは、よく拭かれていた。
建物は古びても、手の入っている場所は、光り方が違う。
中は、空っぽに近い。
空の棚が、長く続いて、奥の隅にだけ、手入れの行き届いた鉢が、いくつか。
誰かが、細々と、世話を続けている。
その誰かは、奥の作業台のところに、いた。
「……っ、義姉様!?」
コルネリア様だった。
袖をまくって、手に、土。
台の上に、挿し木の鉢が、並んでいた。
小さな移植ごてが、使い込まれて、柄が手の形に飴色になっていた。十六歳の手に、八年、握られてきた道具の色だった。
「ごきげんよう。お見事な挿し木ですこと」
「か、勝手に入らないでよ! ここは——」
「ええ。お母様の温室、なのでしょう?」
コルネリア様の手が、止まった。
雨が、硝子の屋根を、叩いている。
温室の中は、雨の音で、満ちていた。
雨の温室は、不思議な場所だ。外の音で満ちているのに、世界からは、切り離されている。
「……バラはね、お母様が亡くなった年に、ほとんど枯れたの」
コルネリア様は、土の付いた手のまま、ぽつりと、仰った。
「ヨルクが辞めて、世話する人がいなくなって。私、八つだったけど、見よう見まねで、残ったのだけ……ずっと」
「八年間、お一人で」
「悪い?」
「いいえ。立派なことですわ」
「————」
褒められ慣れていない方の沈黙だった。
昨日の廊下の、園芸の本の背表紙を、思い出した。何度も読まれて、角の丸くなった本。先生のいない八年間の、先生の代わり。
わたくしは、隣の鉢の、枯れかけた一本に、目をやった。
「この子は、根が詰まっておりますわね。鉢を、替えてあげませんと」
「っ、知ってるわよ! 大きい鉢が、もうないの! 買ってって言っても、クラムが、温室の予算はないって……」
言いかけて、コルネリア様は、口をつぐんだ。
言ってはいけない人に、言ってしまった、というお顔だった。
わたくしは、聞かなかったことには、しなかった。
「鉢は、買いましょう。来月の家計に、温室の繕いを、一行立てます」
「…………どうして」
「温室は、お屋敷の財産ですもの。財産の手入れは、家政の仕事です」
「そうじゃなくて!」
コルネリア様の声が、雨の音を、超えた。
「どうして、あなた、そうなのよ! 帳簿だの、家政だの、鉢だの……三年でいなくなる人が、どうして、そんなに、ちゃんとするのよ! ちゃんとされたら……っ、ちゃんと、されたら」
声が、途中で、湿った。
「……いなくなるとき、困るじゃない」
雨の音。
移植ごてが、台の上で、ことり、と鳴った。
ああ、と、わたくしは、思った。
この方の嫌がらせが、最初から、どこか教科書通りで、ぬるかった理由が、わかってしまった。
ぬるいお茶も、下座の椅子も、菓子皿のない卓も。
あれは、追い出すための意地悪ではなくて、好きにならないための、柵だったのだ。
自分が、好きにならないための。
「コルネリア様は、見ていらしたのね」
「……何を、よ」
「兄様が、置いていかれるところを」
コルネリア様の肩が、跳ねた。
「前の婚約者の方の、お話は、伺っておりません。誰も話してくださいませんもの。でも、お屋敷の皆さんが、その話のところだけ、声をひそめるので、あったことだけは、わかりますわ」
「…………見たわ」
長い沈黙のあとに、十六歳の声が、言った。
「玄関で。あの人、言ったの。『こんな家だと思わなかった』って。兄様、何にも言い返さなかった。お辞儀して、見送って、それから……それから、誰にも、期待しなくなったの。私にもよ」
「ええ」
「だから、あなたも、ちゃんとしないで。どうせ出ていくなら、最初から、ひどい人でいてよ。その方が……兄様が、楽だもの」
兄様が、楽だもの。
ご自分が、ではなく。
十六歳は、自分の柵の理由まで、兄のせいにして立っている。それが、この方の優しさの形なのだった。
わたくしは、ハンカチを出して、コルネリア様の手の、土を拭いた。
拭かれるままに、なっていらした。
「ご忠告は、二度目ですわね。ですから、わたくしも、二度目のお返事をいたします」
「……何よ」
「わたくしは、ちゃんとしか、できませんの。生まれつきですわ。諦めてくださいませ」
「〜〜〜っ、何よ、それ!」
コルネリア様は、ハンカチを、ひったくるように取って、それから、返しそびれて、握ったまま、仰った。
「……鉢、本当に、買ってくれるの」
「家計に立てると、申し上げました。書いたことは、いたします」
「…………ふん」
ふん、は、十六歳の言葉で、ありがとう、と読むのだと、このひと月で、学んでいた。
帰り際、振り返ると、コルネリア様は、もう挿し木の台に戻っていた。
その手元だけが、雨の温室の中で、小さな畑のように、生きていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
雨の温室、八年分のお話でございました。
次話「給金日の、列」——月に一度、お金が人の形をして並ぶ日です。
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