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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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14/22

雨の、温室

 朝から、強い雨だった。


 裏門の検品は、雨でも休まないけれど、今日は納入の日ではない。

 散歩の代わりに、温室を見に行った。

 南向きの、硝子張りの温室。お母様——先代の奥様が、バラを育てていらした場所だと、ドーラさんに聞いた。


 硝子の継ぎ目に苔が乗り、桟の白い塗りは、ところどころ剥げていた。

 それでも、硝子そのものは、よく拭かれていた。

 建物は古びても、手の入っている場所は、光り方が違う。


 中は、空っぽに近い。

 空の棚が、長く続いて、奥の隅にだけ、手入れの行き届いた鉢が、いくつか。

 誰かが、細々と、世話を続けている。


 その誰かは、奥の作業台のところに、いた。


「……っ、義姉様!?」


 コルネリア様だった。

 袖をまくって、手に、土。

 台の上に、挿し木の鉢が、並んでいた。

 小さな移植ごてが、使い込まれて、柄が手の形に飴色になっていた。十六歳の手に、八年、握られてきた道具の色だった。


「ごきげんよう。お見事な挿し木ですこと」


「か、勝手に入らないでよ! ここは——」


「ええ。お母様の温室、なのでしょう?」


 コルネリア様の手が、止まった。


 雨が、硝子の屋根を、叩いている。

 温室の中は、雨の音で、満ちていた。

 雨の温室は、不思議な場所だ。外の音で満ちているのに、世界からは、切り離されている。


「……バラはね、お母様が亡くなった年に、ほとんど枯れたの」


 コルネリア様は、土の付いた手のまま、ぽつりと、仰った。


「ヨルクが辞めて、世話する人がいなくなって。私、八つだったけど、見よう見まねで、残ったのだけ……ずっと」


「八年間、お一人で」


「悪い?」


「いいえ。立派なことですわ」


「————」


 褒められ慣れていない方の沈黙だった。

 昨日の廊下の、園芸の本の背表紙を、思い出した。何度も読まれて、角の丸くなった本。先生のいない八年間の、先生の代わり。


 わたくしは、隣の鉢の、枯れかけた一本に、目をやった。


「この子は、根が詰まっておりますわね。鉢を、替えてあげませんと」


「っ、知ってるわよ! 大きい鉢が、もうないの! 買ってって言っても、クラムが、温室の予算はないって……」


 言いかけて、コルネリア様は、口をつぐんだ。

 言ってはいけない人に、言ってしまった、というお顔だった。


 わたくしは、聞かなかったことには、しなかった。


「鉢は、買いましょう。来月の家計に、温室の繕いを、一行立てます」


「…………どうして」


「温室は、お屋敷の財産ですもの。財産の手入れは、家政の仕事です」


「そうじゃなくて!」


 コルネリア様の声が、雨の音を、超えた。


「どうして、あなた、そうなのよ! 帳簿だの、家政だの、鉢だの……三年でいなくなる人が、どうして、そんなに、ちゃんとするのよ! ちゃんとされたら……っ、ちゃんと、されたら」


 声が、途中で、湿った。


「……いなくなるとき、困るじゃない」


 雨の音。


 移植ごてが、台の上で、ことり、と鳴った。


 ああ、と、わたくしは、思った。

 この方の嫌がらせが、最初から、どこか教科書通りで、ぬるかった理由が、わかってしまった。

 ぬるいお茶も、下座の椅子も、菓子皿のない卓も。

 あれは、追い出すための意地悪ではなくて、好きにならないための、柵だったのだ。

 自分が、好きにならないための。


「コルネリア様は、見ていらしたのね」


「……何を、よ」


「兄様が、置いていかれるところを」


 コルネリア様の肩が、跳ねた。


「前の婚約者の方の、お話は、伺っておりません。誰も話してくださいませんもの。でも、お屋敷の皆さんが、その話のところだけ、声をひそめるので、あったことだけは、わかりますわ」


「…………見たわ」


 長い沈黙のあとに、十六歳の声が、言った。


「玄関で。あの人、言ったの。『こんな家だと思わなかった』って。兄様、何にも言い返さなかった。お辞儀して、見送って、それから……それから、誰にも、期待しなくなったの。私にもよ」


「ええ」


「だから、あなたも、ちゃんとしないで。どうせ出ていくなら、最初から、ひどい人でいてよ。その方が……兄様が、楽だもの」


 兄様が、楽だもの。

 ご自分が、ではなく。

 十六歳は、自分の柵の理由まで、兄のせいにして立っている。それが、この方の優しさの形なのだった。


 わたくしは、ハンカチを出して、コルネリア様の手の、土を拭いた。

 拭かれるままに、なっていらした。


「ご忠告は、二度目ですわね。ですから、わたくしも、二度目のお返事をいたします」


「……何よ」


「わたくしは、ちゃんとしか、できませんの。生まれつきですわ。諦めてくださいませ」


「〜〜〜っ、何よ、それ!」


 コルネリア様は、ハンカチを、ひったくるように取って、それから、返しそびれて、握ったまま、仰った。


「……鉢、本当に、買ってくれるの」


「家計に立てると、申し上げました。書いたことは、いたします」


「…………ふん」


 ふん、は、十六歳の言葉で、ありがとう、と読むのだと、このひと月で、学んでいた。


 帰り際、振り返ると、コルネリア様は、もう挿し木の台に戻っていた。

 その手元だけが、雨の温室の中で、小さな畑のように、生きていた。


 お読みいただき、ありがとうございます。

 雨の温室、八年分のお話でございました。


 次話「給金日の、列」——月に一度、お金が人の形をして並ぶ日です。


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