第9話 戻った男
「行くぞ!」
ダルクの指が、レイグの上腕にさらに食い込んだ。
瓦礫の下では、ネヴァルが顔を歪めている。左脚の膝下を大きな石材に挟まれ、石畳には血が広がっていた。
「まだ生きてる」
「見りゃ分かる! だからって、全員助けてたら俺らまで死ぬ! 後ろ見ろ!」
黒い霧は、すでに中央通りの端へ入り込んでいた。捨てられた荷車の車輪が半分ほど黒に沈み、その向こうでは人影が霧の手前を必死に走っている。右の路地からゴブリンの声が響き、背後では別のヘルハウンドが吠える中、王城方向へ向かう人波は少しずつ遠ざかっていた。
「戻ったら、私たちも抜けられなくなるかもしれない」
フィエラはコンポジットボウを握ったまま、ネヴァルと黒い霧を交互に見た。
人波の向こうから声が飛んだ。
「ネヴァル」
引き離された仲間の一人が戻ろうとしていた。だが別の男に肩を掴まれ、そのまま駆けてきた探索者たちに押し流されていく。
「待て! 今行く」
「来るな!」
ネヴァルが怒鳴った。
直後、右の路地から投げられた槍が二人の間へ落ちた。仲間たちは足を止められず、そのまま人の流れの向こうへ消えていく。
「レイグ」
ダルクの声が低くなった。
「ネリナに帰るって言ったんだろ!」
ネリナの「ちゃんと帰ってきてよ」が、さっきから耳の奥を離れない。
母も待っている。ここで助けに戻れば、三人まで死ぬかもしれない。
分かっていた。
それでも、瓦礫の下のネヴァルから目を逸らせなかった。
レイグはダルクの手を振りほどいた。
「悪い」
「おい」
そのまま走る。
「レイグ」
ダルクの怒声が背中を打っても、レイグは振り返らない。数歩遅れて、盾と鎧が激しく鳴った。
「一人で決めんな、この馬鹿!」
ダルクが追ってくる。さらに弓の弦が鳴り、レイグの横を抜けた矢が、右の路地から出ようとしていたゴブリンの肩に突き刺さる。
「帰ったら絶対殴るからね!」
フィエラも来たが、三人がネヴァルへ辿り着くより先に、背後から黒い影が跳んだ。
「後ろ!」
フィエラが叫び、ダルクは振り向きざまに大盾を上げた。
ヘルハウンドの牙と前脚が盾へ叩きつけられる。金属板が歪み、蜘蛛の毒牙と先ほどの戦闘で傷ついていた部分から、嫌な音がした。
「ぐっ……」
ダルクの靴が石畳を滑る間に、レイグは獣の脇へ踏み込んで後脚を斬った。ヘルハウンドは盾から口を離し、レイグへ牙を向ける。
「こっち見るな」
フィエラの矢が首元へ刺さる。ヘルハウンドの顔がレイグから逸れ、前脚が石畳を掻いた。その半拍を、ダルクは逃さず腰のウォーハンマーを抜いた。
「邪魔だ」
鉄の頭が横顔を打ち抜き、獣の身体を石壁へ叩きつけた。なおも動く首へレイグが剣を入れると、赤い目の光が消えた。
「俺は納得してねえぞ」
ダルクは息を切らしながら怒鳴った。
「ああ」
「返事してる暇があったら助けろ! 戻った以上、絶対連れていくぞ!」
三人は崩れた商家の壁際へ駆け込んだ。
ネヴァルの左脚を押さえているのは、二人がかりでも抱えきれないほどの石材だった。周囲には小さな瓦礫が噛み合い、その横では、落ちた梁に押し潰されたヘルハウンドが動かなくなっている。
「来るなって言っただろ……」
ネヴァルが歯を食いしばる。
「聞こえなかったな」
レイグはロングソードを鞘へ戻してしゃがみ込み、石材と脚の隙間を確かめた。
出血は多いが、完全に潰れてはいない。
「ダルク、持ち上がるか?」
「無茶言うな。周りを崩すぞ」
ダルクは大盾を左腕から外し、右の路地と商家の崩れた壁の間へ斜めに差し込んで、下端を石の隙間に噛ませた。通れる幅が、人一人分まで狭まる。
「フィエラ」
「ここは任せて」
フィエラは盾の後ろに立って押し寄せるゴブリンへ矢を向け、ダルクはウォーハンマーで、石材の周囲に詰まった小さな石を一つずつ砕き始めた。
「本体は叩くなよ」
「本体には当てねえ」
強く打ちすぎれば、石材がずれてネヴァルの脚をさらに潰すため、ダルクは狙いを絞り、崩せる石だけを割っていく。
右の路地から飛んだ石が大盾に当たり、甲高い音が鳴る。続いて、死んだ探索者から奪ったらしい小盾を構えたゴブリンが近づいてきた。
「盾持ち」
フィエラが放った矢は小盾に弾かれたが、二本目で盾の下から出た脚を射抜いた。ゴブリンが前のめりに倒れ、狭い隙間を塞ぐ。
「少し持つ」
「レイグ、こっち!」
ダルクに呼ばれたレイグは石材の横へ回り、小さな瓦礫を手で掻き出す。指先が石で裂けても、レイグは手を止めない。その横で、ネヴァルが身体を起こそうとする。
「もういい……置いていけ」
「黙ってろ」
「霧が来る! 俺のせいで全員――」
「助けに戻ってきた奴の前で、今さら格好つけんな!」
ダルクが怒鳴った。
「黙って足を抜く準備しろ」
ネヴァルが息を詰まらせる。その時、右の路地では倒れたゴブリンが引きずられ始めた。
「長くは持たない」
フィエラが叫ぶ。
レイグが周囲を見ると、石材は少し動くようになったものの、二人で持ち上げられる重さではない。
その時、押し潰されたヘルハウンドの下から伸びる太い梁が目に入った。上の壁はすでに落ちきっており、梁はもう何も支えていない。片端が石畳に乗り、反対側は瓦礫の上へ跳ね上がっていた。
「あれを使う!」
ダルクはウォーハンマーを腰へ戻し、レイグと梁へ走った。血と泥で滑る重い木材を掴み、二人で力を合わせて押し潰された獣の下から引き抜くと、折れた先端を石材の下へ差し込んだ。
「支点」
「これでどう」
フィエラが足元の平たい石を蹴り寄せ、レイグが梁の下へ押し込んだ。
その瞬間、大盾の横からゴブリンが一体、無理やり身体をねじ込んできた。
「レイグ」
フィエラの矢は間に合わない。レイグはロングソードを抜き、短剣をバックラーで弾いたが、二撃目が右肩を浅く裂いた。熱い痛みに耐えて剣の柄で顔を打ち、怯んだ首元を斬った。ゴブリンが倒れると、レイグは剣を鞘へ押し戻す。
「大丈夫?」
「浅い! 続けろ!」
フィエラは弓を地面に置き、ネヴァルの脚元へ滑り込んだ。
「待って。靴の革紐が引っかかってる」
瓦礫の奥で革紐が折れた木片に絡んでおり、このまま引けば傷ついた脚をさらにねじる。フィエラはダガーを抜き、狭い隙間へ腕を伸ばした。
「ダルク、まだ」
「早くしろ」
「切るから黙って」
革紐を切ると、フィエラはネヴァルの服を掴んだ。
「いいよ」
ダルクが梁の端に全体重をかけた。
「うおおおっ」
太い木が軋み、石材が手の幅ほど持ち上がった。
「今だ!」
レイグはネヴァルの背後へ回り、両脇の下へ腕を入れた。右肩の傷が開いて血が服に滲んでも、構わず引く。ネヴァルも右脚の踵を石畳に押しつけた。
「引いて」
フィエラが腰の帯を掴み、三人で引くと、ネヴァルの身体が少しずつ動いて、挟まれていた左脚が石材の下から抜けた。
「離れろ!」
梁に亀裂が走り、レイグとフィエラはネヴァルを抱えたまま後ろへ倒れ込んだ。次の瞬間、梁が真ん中から折れ、石材が落ちて石畳が震える。砕けた石片がレイグの頬をかすめた。
「出た……」
フィエラが息を切らしながら言った。
「出せた」
「喜ぶのは後だ」
ダルクは大盾を引き抜き、隙間へ詰まっていたゴブリンを盾で押し返しながら、そのまま商家の残った壁の内側へ下がる。
「中へ運べ!」
フィエラは足元の弓を拾って背へ回し、レイグと一緒にネヴァルを引きずる。
崩れた壁の奥には、入口が一か所だけ残っている。ダルクがそこへ大盾を立て、押し込もうとするゴブリンを受け止めた。
レイグも剣を抜き、ダルクの横に立つ。
「フィエラ、傷を」
「やってる」
フィエラはネヴァルのズボンをダガーで切り開いた。左のすねが大きく裂け、血が流れ続けている。骨は出ていないが、足首が不自然に傾いていた。
「見ない方がいいよ」
「もう見えてる……」
「じゃあ喋らないで。舌噛むから」
フィエラは清潔な布を傷口に押し当て、包帯を強く巻いた。ネヴァルに布を押さえさせると、細い板を脚の両側に添えて固定する。
入口では大盾が何度も叩かれている。
「まだか」
「重傷を三息で治せると思うなら、代わって」
「無理だから急げって言ってんだよ」
フィエラが自分の荷袋に手を入れ、ヒールポーションを一本取り出すと、ダルクが横目で見た。
「それ使ったら、残りは一本だけだぞ」
「一本は残る。それでも今はこいつに使う」
栓を抜き、ネヴァルの口に瓶を当てる。
「少しずつ飲んで。むせないで」
赤みがかった液体を飲み込むと、ネヴァルの頬にわずかに色が戻った。傷も曲がった脚も治らないが、出血は弱まり、荒れていた呼吸も少し落ち着く。
フィエラは余った包帯を左のふくらはぎの下へ通し、輪を作った。その端をネヴァルの左手に握らせる。
「歩く時はこれを引いて。脚を地面に擦らないで」
ネヴァルは震える指で布を掴んだ。
「何で……戻ったんだ」
かすれた声だった。レイグは入口から目を離さない。
「置いていけなかった」
「終わった」
フィエラがダガーを鞘へ戻す。
「なら出るぞ!」
ダルクが大盾を突き出して入口のゴブリンを押し倒し、レイグはその脇から剣を振って、起き上がろうとした一体を退かせた。
黒い霧は、もう商家の向こうの通りまで来ている。
ダルクはウォーハンマーを腰へ戻したまま、ネヴァルの右腕を自分の肩へ回した。右腕で腰を抱え、身体を持ち上げる。
「立てるか」
「右脚なら……少し」
「少しでいい。左は絶対つくな」
ダルクは左腕に大盾を残したまま、ネヴァルの体重のほとんどを引き受ける。ネヴァルが左手で包帯の輪を引き、固定された脚を地面から浮かせる間に、フィエラは背中からコンポジットボウを取り、構え直した。
「私が後ろを見る。レイグ、前」
「ああ」
四人は王城方向へ続く脇道へ入ったが、速くは走れない。ネヴァルが右足で地面を蹴るたび、ダルクの身体が大きく傾く。
「重い……」
「悪い」
「謝るなら歩け」
「二人とも、止まらないで」
フィエラが後ろを向いたまま叫んだ。
レイグは先頭を進みながら、何度も背後を確かめる。
右の路地から出てきたゴブリンたちも、迫る霧を見て別の通りへ散っていく。こちらを追ってくる一体へフィエラが矢を向けると、ゴブリンは舌打ちするような声を上げ、崩れた家の間へ逃げ込んだ。
数十歩進んだところでレイグが一度だけ振り返ると、崩れた商家、ネヴァルが倒れていた石畳、折れた梁、そのすべてへ黒い霧が流れ込んでいた。
橋へ戻る道はとうに断たれていた。そのうえ、王城へ走った探索者たちの声まで、もう遠い。
ネヴァルを助けた数分で、自分たちは人の流れから切り離された。
「レイグ、前」
フィエラの声に振り向くと、細い道の先は丁字路になっていた。左へ曲がれば王城方面の中央通りへ戻れる。右には古い守備隊詰所の門があり、片方の扉は倒れ、奥に雑草の伸びた中庭が見えた。
「左!」
フィエラが指す。
「あそこを抜ければ、まだ追いつける」
レイグが頷きかけた時、音がした。
ざり。
金属が石を擦る音。
一定の間隔で、一歩ずつ近づいてくる。
丁字路の右。
守備隊詰所の暗い門から、大きな影が現れる。
スケルトン。
だが、これまで戦った白骨の兵士とは違う。
レイグより頭一つ高い体を黒ずんだスチール鎧が覆い、裂けた外套が肩から垂れている。片肩には、兵舎で見た剣と塔の紋章が残っていた。目のくぼみの奥では青白い火が強く燃え、両手で幅広の大剣を握っている。
背後から追いついたゴブリンが一体、四人を避けて崩れた塀を乗り越え、丁字路へ飛び出した。
大剣が横へ走った。一撃だった。
ゴブリンの小盾が砕け、身体ごと石壁へ叩きつけられる。動かなくなったゴブリンを見もせず、大型のスケルトンは丁字路の中央へ出た。
そして、左へ続く道を斜めに塞ぐ。
「……スケルトンジェネラルかよ」
ダルクがかすれた声で言った。
「見たことあるの?」
フィエラが聞く。
「ねえよ。話で聞いただけだ。あの紋章と大剣なら間違いねえ。普通の兵士の骨と一緒にすんな」
後ろからは黒い霧が迫り、前にはスケルトンジェネラルがいる。ダルクはネヴァルを支え、フィエラの矢も減っていた。ここで四人全員が戦えば、ネヴァルを地面に置くしかなく、それでは助けた意味がなくなる。
レイグは丁字路を見た。左は王城、右は守備隊詰所の中庭だ。スケルトンジェネラルを右へ引けば、三人が左を抜けられる。
「俺が、あいつを詰所の中へ引く」
ダルクはレイグを見る。
「何言ってんだ」
「道が開いたら、ネヴァルを連れて左へ行け」
「お前はどうする」
「隙を作ったら追う」
レイグはスチールロングソードを握り直す。右肩が痛み、左腕も重いうえ、魔力も多くは残っていない。
それでも死ぬつもりはなかった。敵を右へ誘い、三人が通った後に離れればいい。
フィエラはレイグの顔を見ていた。怖い時ほど喋る彼女が、今は何も言わない。やがて、震えを隠せない声で言った。
「レイグ。追いつくって、ちゃんと言って」
レイグがフィエラを見る。
「追いつく」
スケルトンジェネラルが大剣を持ち上げ、目のくぼみの青白い火がレイグを捉えるように揺れる。レイグは三人の前へ出た。
「連れて行け」
ダルクの顔が怒りで歪んだ。
「ふざけんな!」




