第10話 死んだはずの記憶
ダルクはネヴァルを支える右腕に力を入れ直しながら怒鳴った。
「俺が残る! お前がこいつを運べ!」
スケルトンジェネラルの大剣が振り下ろされた。
「下がれ!」
レイグが右へ飛び、ダルクはネヴァルを抱えたまま左へ引きずり、フィエラも後方へ跳ぶ。
黒ずんだ刃が石畳を叩き割った。砕けた石片がネヴァルの固定された左脚の近くへ散り、ネヴァルが苦痛に顔を歪める。
「お前じゃなきゃネヴァルを運べない」
レイグはスケルトンジェネラルから目を離さずに叫んだ。
「フィエラを盾で守れるのもお前だ!」
「お前とフィエラで支えろ!」
「後ろから魔物が来たらどうする! 片手を塞いだまま、誰が二人を守るんだ!」
「だからって、お前が死んでいい理由にはならねえだろ」
「死ぬつもりじゃない。道を開けたら追う」
「二人とも勝手に決めないで」
フィエラの声が割り込む。コンポジットボウを握る指は、白くなるほど強く締まっていた。
「時間がない」
「分かってる! 分かってるから腹が立ってるの」
フィエラは迫る黒い霧を見たあと、レイグを睨んだ。
「今、追いつくって言ったよね」
「ああ。だから行け」
「絶対――」
スケルトンジェネラルが大剣を持ち上げた。もう次の一撃が来る。レイグは右手の守備隊詰所へ視線を走らせた。
片方の門扉は倒れ、その奥に雑草の伸びた中庭が見える。敵をあそこまで引き込めば、左の中央通りが開く。
「俺が右へ引く!」
返事を待たず、レイグは残っている魔力を集めた。右肩の傷が脈打つ。レイグはその痛みを押し込み、スケルトンジェネラルの胸元へ意識を絞る。
「ファイアボール」
火球が低く飛んで黒ずんだ胸当てへぶつかり、炎と熱風が弾ける。
鎧を焼き切るほどの威力はない。それでも目のくぼみの青白い火が揺れ、スケルトンジェネラルの兜がレイグへ向いた。
「こっちだ!」
レイグは守備隊詰所へ走った。背後から追ってくる重い足音と、大剣が石畳を削る音は、すぐ後ろまで近づいていた。
門をくぐる直前、空気が押し潰されるような音がした。レイグは左肩越しに迫る刃を確認して半身になり、バックラーの縁を大剣の腹に斜めに当てる。
止めるのではない。
刃の軌道を、ほんのわずか外へずらす。
左腕が千切れそうな衝撃に襲われた。大剣はレイグの身体を外れ、そのまま門柱を削って石片を散らす。レイグがよろめきながら中庭へ入ると、スケルトンジェネラルも門をくぐり、その巨体が入口を塞いだ。
左へ続く道が開いた。
「今だ! 行け」
ダルクが怒りを剥き出しにしてレイグを見る。
「すぐ来い、レイグ」
「ああ」
ダルクはネヴァルの身体を支え直し、中央通りへ進む。フィエラは後ろ向きに下がりながら通りの奥へコンポジットボウを向け、別の路地から回り込もうとしたゴブリンの太ももを射抜いた。
「ダルク、左!」
「見えてる」
ダルクは大盾でゴブリンを押し退け、ネヴァルを支えたまま中央通りへ入った。フィエラは最後にレイグを見て、何か叫んだ。しかし、スケルトンジェネラルの大剣が壊れた武器棚を叩き割り、木片が激しく弾けたため、何を言ったのかは聞こえなかった。
レイグは横へ転がり、立ち上がりざまにスチールロングソードを振って膝裏の鎧を斬りつける。刃は黒ずんだ金属板に浅い傷をつけただけで弾かれ、スケルトンジェネラルが向き直った。
中庭は広くなく、半分崩れた石柱と朽ちた訓練用の木人があり、壁際には壊れた武器棚が倒れている。奥の低い塀を越えれば、裏路地へ抜けられそうだった。
門の向こうでネヴァルの身体が崩れ、三人の足が止まる。フィエラがこちらへ戻ろうとした。
「戻るな」
レイグが叫ぶより先に、ダルクが怒鳴った。
「戻ったら、こいつが残った意味までなくなる」
「でも――」
「行くぞ!」
ダルクの声は怒りで潰れていた。
フィエラはレイグを見たまま、動かなかった。
「走れ」
レイグは大剣を避けながら叫んだ。
フィエラは唇を震わせ、それでもネヴァルの左側へ回って身体を支えた。三人は再び進み始め、やがて中央通りの角へ消える。
最後にダルクが何か叫んだが、スケルトンジェネラルの大剣が石柱を砕き、その声も聞こえなくなった。
中庭には、レイグとスケルトンジェネラルだけが残った。喉が焼けるように痛み、痺れた左腕はバックラーを上げるだけでも重かった。右肩からは再び血が滲み、魔力も残り少ない。残ったヒールポーションは、ネヴァルとともに先へ行ったフィエラの荷袋にある。
それでも、まだ動ける。
レイグは崩れた石柱を挟み、敵の周囲を回る。スケルトンジェネラルが大剣を振り上げても、ぎりぎりまで動かず、刃が落ちる直前に右へ飛んだ。大剣が石柱へ深く食い込む。
「今だ」
敵の脇へ入って首元へロングソードを振ると、刃が黒ずんだ鎧の縁を叩き、火花が散った。スケルトンジェネラルが大剣を引き抜くのを見て、レイグは次の横薙ぎを予想し、左へ踏み出す。
だが、刃は途中で止まった。
「なっ――」
大剣の柄頭が、レイグの進路へ突き出される。避けきれず、鉄の塊を右肩へ叩き込まれた。
「ぐあっ」
傷が一気に開き、身体が石壁へぶつかって肺から息が抜ける。膝をついたところへ大剣が振り下ろされ、バックラーを斜めに出したが、左腕に力が入らず角度が浅い。
大剣がバックラーの縁を捉え、革帯が裂けた。金属の小盾が腕から飛んで武器棚の残骸へぶつかり、左手の指先まで激しく痺れる。
「まだ……」
レイグは壁を蹴って敵から距離を取り、胸の前へ魔力を集めた。炎が形を作りかけるが、スケルトンジェネラルは待たず、壊れた石柱を踏み越えて一気に間合いを詰めてくる。集中が崩れ、火は弾ける前に消えた。
レイグは魔法を捨て、頭上を通る大剣の下へ身体を滑り込ませた。
裂けた外套の端が頬を打つ。すれ違いざま、膝裏へもう一度剣を入れると、今度は鎧の留め具が一つ切れ、黒ずんだ金属板が浮いた。
「そこか……」
狙う場所は決まったが、同じ場所へもう一度入れられる保証はない。振り向くスケルトンジェネラルの足元へ、レイグは朽ちた木人を蹴り倒し、巨体を一歩だけ止めた。
レイグは大剣から距離を取るため、奥の低い塀へ向かう。背後で刃が唸ると塀の手前で身を伏せ、大剣を頭上へ通して崩れた石壁へ深く食い込ませた。スケルトンジェネラルの動きが止まる。
レイグは低い塀へ両手をかけた。向こう側には細い裏路地があり、ここを越えて回り込めば、ダルクたちを追えるかもしれない。片脚を塀へかける。
逃げられる。
スケルトンジェネラルが大剣を石壁から引き抜いた。だが、塀を越えかけたレイグを追わず、中庭の門へ兜を向ける。
火球で引きつける前、あれは丁字路の左を塞いでいた。レイグが塀の向こうへ逃げるなら、元の持ち場へ戻るつもりらしい。
青白い眼光の先には、ダルクたちが消えた中央通りがあった。
傷ついた膝でも、まだ歩ける。負傷したネヴァルを運ぶ三人なら、追いつかれるかもしれない。
レイグは塀から手を離した。
「行かせるかよ……」
レイグが残った魔力を足元へ集めると、風が靴の周囲で渦を巻いた。
「ウィンドステップ」
圧縮した風が弾け、レイグの身体を前へ押し出す。数歩分の距離を一気に詰め、スケルトンジェネラルの背後へ入ったところで風が消えた。みぞおちの内側が空になったように息が浅くなり、自分の鎧まで急に重くなる。
もう魔法は使えない。
レイグは浮いた膝裏の鎧へスチールロングソードを叩き込み、留め具を切って、金属板の下から白い骨を露出させた。
「まだだ」
剣を引かずに両手で柄を押し込むと、刃が骨へ食い込んだ。硬い抵抗を押し切るようにさらに全体重をかけ、骨を砕く。
スケルトンジェネラルの巨体が片膝をつき、石畳が揺れた。
これなら、ダルクたちをすぐには追えない。
レイグが剣を引き抜こうとした時、スケルトンジェネラルの両腕が動いた。
片膝をついたまま横へ振られた大剣を、レイグはスチールロングソードで受けた。金属音が爆ぜ、両腕を跳ね上げられたレイグは身体ごと中庭を転がる。背中を石畳へ打ちつけて息ができなくなり、指の感覚も薄い。ロングソードが手から離れ、少し先へ滑っていった。
スケルトンジェネラルは大剣を杖のように使って立ち上がろうとするが、砕けた膝が巨体を支えきれず、再び片膝をついた。それでも止まらない。
レイグは地面を這って剣へ手を伸ばしたものの、一度は柄を掴み損ね、指が震えた。
逃げたい。
低い塀を越えて、ダルクたちの後を追いたい。だが、スケルトンジェネラルの兜はまだ中庭の門を向いている。ここで止めなければならない。レイグは柄を掴んだ。
スケルトンジェネラルが大剣を持ち上げ、レイグも立ち上がる。
脚に力が入りにくく、左腕もほとんど上がらない。それでも敵の膝は壊れ、首元の鎧にも傷がある。レイグは剣を低く構えた。
「まだ終わってない……」
レイグは先に踏み込み、スチールロングソードを兜と胸当ての隙間へ突き込んだ。刃が首の骨に届き、硬いものを削る感触が柄から両手に伝わる。
あと少し押し込めば――。
スケルトンジェネラルの大剣が、低い位置から突き出された。
避けられなかった。
幅広の刃がレイグの右脇腹へ深く突き刺さり、痛みより先に、身体を殴り飛ばされたような衝撃が全身を突き抜けた。次の瞬間、胸の下まで熱いものが突き抜ける。
「――っ」
声が出ない。
息を吸おうとしても、喉からかすれた空気しか漏れなかった。
自分の右脇腹に大剣が深く突き刺さっていることだけは分かった。
スケルトンジェネラルが大剣を引くと、足元から力が抜け、レイグは石畳へ倒れた。敵の首元へ刺さったままのスチールロングソードが手から離れる。片手で脇腹を押さえても、温かい血が指の間からあふれ出した。
「待て……」
行くな。
中央通りへ行くな。
だがスケルトンジェネラルは、壊れた膝を引きずりながらゆっくり向きを変えた。
首元へ刺さった剣も、その動きを妨げている。
一歩進んだところで脚が崩れ、巨体はまた片膝をついた。
少なくとも、すぐには追えない。
安堵した直後、胸の奥から血がせり上がった。
咳をしようとして、息がさらに抜ける。
立たなければ。
ダルクたちを追わなければ。
家へ帰らなければ。
レイグは石畳に爪を立てた。
指先が血で滑る。
「帰ら……ないと……」
声になったかどうかも分からない。
朝の食卓が浮かんだ。豆と野菜のスープ、小さな干し肉、ネリナの靴のつま先に走っていた新しい糸。そして、出がけに声をかけてきた妹。
『ちゃんと帰ってきてよ!』
帰ると言った。
早めに帰ると母にも言った。
甘い物も、新しい靴も、何も持って帰れない。
「母……さん……」
助けを呼びたかった。
誰かに傷を押さえてほしかった。
ここで死ぬのが嫌だった。
ネヴァルを見捨てればよかったのかもしれない。
低い塀から戻らなければ、今ごろダルクたちを追って走っていたかもしれない。
そんな考えが浮かび、瓦礫の下で叫んでいたネヴァルの顔が重なった。
どちらが正しかったのか、もう考えられない。
それでも、助けなければよかったとは思えなかった。
ただ怖い。
息が吸えない。
身体から熱が失われていく。
中庭へ流れ込んできた黒い霧が、門の足元から石畳を這うように広がってくる。壊れた武器棚が黒に沈み、スケルトンジェネラルの脚も少しずつ見えなくなった。音が遠のき、青白い眼光も黒い霧の向こうで滲んでいく。
その中に、白いものが見えた。
最初は、空が裂けたのかと思った。
だが違う。
大きな翼だった。
白い翼を持つ者がレイグの前に立っていた。その顔には哀れみも笑みもなく、ただ、倒れたレイグを静かに見ている。
レイグは手を伸ばそうとしたが、指がほんの少し動いただけだった。
助けてくれ。
そう言いたいのに、声が出ない。
白い翼の者は手を差し出さず、傷にも触れず、静かな声だけを落とした。
「あなたは、その選択まで手放すのですか」
意味が分からなかった。
何の選択だ。
自分は帰れなかった。
約束を守れなかった。
レイグは答えようとしたが、喉が小さく鳴っただけだった。
黒い霧の中でも消えずに残っていた白い翼も、やがて輪郭がぼやけた。痛みが遠のき、石畳の冷たさも、胸から抜けていく空気も、何も分からなくなった。
暗い。
何も見えない。
どれほど時間が過ぎたのかも分からない暗闇の中へ、聞き慣れた声が届いた。
「レイグ、朝ご飯よ」




