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明日のないカレグノス  作者: Aramaki_mai
第二部 昨日のない町
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第11話 同じ朝

挿絵(By みてみん)

レイグは息を吸おうとした。


吸えない。


胸の奥に血が詰まり、喉から空気が漏れていく。右脇腹には、まだ幅広の大剣が深く刺さっている。


「――っ」


身体を跳ね起こすと肺へ一気に空気が入り、レイグは激しく咳き込んだ。


目の前にあるのは、黒い霧でも崩れた中庭でもなかった。見慣れた自室の壁と古い木の天井がある。腰の下で寝台が軋み、窓板を叩く雨の音が部屋を満たしていた。


レイグは右脇腹を押さえた。傷がない。


服の上から何度触れても、刃が入ったはずの場所は平らだった。恐る恐る裾をまくると、皮膚には血も傷痕もなかった。


「何で……」


右肩を探っても、ゴブリンの短剣に裂かれたはずの場所は何ともない。左腕を曲げると、スケルトンジェネラルの大剣を受け続け、最後には持ち上がらなくなっていた腕が抵抗なく動いた。


それでも、痛みの記憶だけは消えていなかった。大剣に脇腹を貫かれた衝撃も、指の間からあふれた血の温かさも、息を吸えず石畳に爪を立てた時の恐怖も、まだ身体の内側に残っていた。


レイグは自分の両手を見た。血はついておらず、指先も裂けていない。それなのに、赤く濡れているようにしか見えなかった。


『あなたは、その選択まで手放すのですか』


白い翼を持つ者の声が、耳の奥に蘇る。レイグは寝台から降りようとしたが、足が床についた瞬間、膝から力が抜けた。脇にあった小さな椅子に肩が当たり、派手な音を立てて倒れる。


「レイグ?」


廊下から足音が近づき、扉が開く。


「今の音は――」


ミレサが部屋へ入ってきた。レイグが床に片膝をついたまま見上げると、少し乱れた髪のまま、使い込んだ上着を羽織り、心配そうに眉を寄せた母が目の前に立っていた。


死ぬ直前まで、会いたいと思っていた母だった。


「母さん……」


「どうしたの? どこか痛いの?」


ミレサが駆け寄って額へ手を伸ばすと、レイグはその手首を掴んだ。細く、温かい。確かな脈が、指先に触れていた。


「母さん」


「レイグ、痛いわ。放して」


強い声に我に返り、レイグは指の力を緩めた。だが、完全には放せなかった。手を離せば、また黒い霧の中へ戻されるような気がした。


「何の音?」


ネリナが寝癖のついた髪を片手で押さえながら、扉から顔を出した。


「兄さん?」


レイグは立ち上がり、足元がふらついても構わずネリナへ近づいた。


「ネリナ……」


「何?」


肩を掴むと、ネリナが顔をしかめた。


「痛いって」


それでもレイグは手を離せず、そのままネリナを抱き締めた。


「ちょっ、兄さん。 苦しい」


ネリナがレイグの胸を押す。


「離してよ」


「レイグ、やめなさい」


ミレサがレイグの腕を掴み、ネリナから引き離した。


「この子が痛がってるでしょう!」


レイグの腕から逃れたネリナは二歩ほど後ろへ下がり、怒った顔をしていた。だが、レイグの表情を見るうち、その怒りが少しずつ不安へ変わっていく。


「……兄さん、本当にどうしたの?」


「生きてる」


「何言ってるの」


ネリナは両腕で自分の身体を抱くようにしながら答えた。


「兄さんも、私も生きてるでしょ」


当然の言葉だったが、その当然がレイグには理解できなかった。ミレサは倒れた椅子を起こし、レイグの腕を引く。


「座って。顔色がひどいわ」


「俺は……」


「いいから座りなさい」


その声には逆らえず、レイグは椅子に腰を下ろした。ミレサが額と首筋に触れる。


「熱はなさそうね。息は苦しい?」


レイグは胸に手を当てた。息を吸うたび、空気は深く肺へ入った。


「苦しくない」


「どこか痛いの?」


「痛くない」


「じゃあ、どうしてそんな顔をしてるの」


答えられなかった。怖い夢を見た、と言えば終わる。だが、あれが夢なら、どうして石畳の冷たさまで思い出せるのか。どうして、自分の血が指の間を抜けていく感触まで残っているのか。


ミレサはしばらくレイグを見ていたが、やがて息をついた。


「朝食を食べてから、もう一度話しましょう。何も食べずに倒れたら、それこそカレグノスどころじゃないわ」


カレグノス。その名を聞いた瞬間、レイグは壁際を見た。そこには、使い慣れたロングソードと傷のないバックラーが置かれている。レイグは椅子を蹴るように立ち上がり、ロングソードを掴んだ。


「レイグ」


ミレサの制止も聞かず、鞘から刃を抜く。軽い。兵舎の武器庫で手に入れた刃の厚いスチールロングソードではなく、出発前まで使っていた剣だった。


「違う」


刃を見ながら呟く。


「これじゃない」


「家の中で剣を抜かないで!」


ミレサが声を荒らげた。


ネリナも扉の外へ半歩下がる。


「兄さん、怖いよ」


その一言でレイグの手が止まり、慌てて剣を鞘へ戻した。


「悪い。違うんだ。俺の剣が――」


「それ、兄さんの剣でしょ」


ネリナが言った。


「ずっと使ってるやつじゃん」


「昨日は別の剣を持ってた」


「昨日?」


「兵舎で拾った。スチールの――」


言葉が途切れ、レイグはバックラーを手に取った。革帯は切れておらず、金属板には大剣を受けた傷もへこみもない。


壁際の荷袋を開き、手を突っ込んで底まで探ったあと、もう一度中身を出す。


出てきたのは、水筒、包帯、薬、食料。出発前に用意した物ばかりだった。


カレグノスで得た物は一つもなく、血のついた布も、壊れたバックラーの革帯も、スチールロングソードも、どこにもない。


「何を探してるの?」


ミレサが聞いた。


「俺が持っていた物だ」


「まだ出かけてもいないでしょう」


「行った」


レイグが振り返った。


「カレグノスへ行った。兵舎に入って、地下水路を通って、霧に追われて……」


ミレサとネリナが黙った。口に出すほど、自分の言葉が異常に聞こえる。


最後に何があった。ネヴァルを助け、ダルクとフィエラを行かせた。そして自分は――。


「死んだ」


かすれた声が落ちた。


ネリナの顔が引きつり、ミレサがすぐにレイグの前へ立った。


「もういい。今日は出かけないで」


「母さん、俺は本当に――」


「今のあなたをカレグノスへ行かせられるわけがないでしょう!」


ミレサの声が部屋へ響いた。怒っているだけではない。はっきりと怯えていた。


「食事をして、少し休みなさい。それでもおかしいなら治療師に診てもらう。分かった?」


レイグは返事をしなかった。ミレサも答えを待たず、荷袋から出された物を拾い始める。ネリナはまだ扉の近くに立っていた。


「……怖い夢だったんじゃないの」


「夢じゃない」


「じゃあ何なの?」


「分からない」


レイグが答えると、ネリナはさらに困った顔をした。


「分からないのに、死んだとか言わないでよ」


そのまま廊下へ出ていき、足音は遠ざかっていったが、レイグは追えなかった。


*


食卓には、豆と刻んだ野菜のスープ、薄いパン、小さな干し肉が並んでいた。足元には、つま先と底を繕い直したネリナの靴が置かれている。


見覚えのある朝だった。ミレサは向かいに座ってレイグから目を離さず、ネリナは横の椅子で、いつものように笑うこともなく、黙ってスープを混ぜていた。そうさせたのは自分だった。


レイグはネリナの手元を見た。前の朝、彼女がレイグの分のパンまで食べようとしていた記憶に引かれ、考えるより先に言葉が出た。


「俺の分まで食うなよ」


だが、ネリナの手はパンへ伸びていなかった。


「食べてないけど」


「前は食べようとしただろ」


「前っていつ?」


「……いや」


ネリナが眉をひそめる横で、ミレサはレイグの前へスープを寄せる。


「まず食べなさい」


レイグは匙を取った。椀の縁に金属が触れて小さな音がした途端、大剣が石畳を削った音が蘇る。手が震え、匙が椀の中へ落ち、スープが少し跳ねて食卓へこぼれた。


「兄さん」


ネリナが椅子を引いた。レイグは自分の右手を左手で押さえた。


「大丈夫だ」


「全然大丈夫じゃないじゃん」


「少し黙っててくれ」


「何それ」


ネリナの声が強くなった。


「急に抱き締めて、死んだとか言って、今度は黙れって何なの」


「ネリナ」


ミレサが止める。


「だって怖いんだもん!」


ネリナはレイグを睨んだ。目の縁は少し赤い。


「兄さんが何考えてるのか、全然分からない」


レイグにも分からなかった。謝る言葉さえ、すぐには出てこない。その時、雨が窓板を強く叩き、レイグは顔を上げた。


雨。前の朝は晴れ、古い石橋にも崩れた城門にも、明るい日差しが落ちていた。それなのに今日は厚い雲が町の上を覆い、屋根から絶えず水が流れ落ちている。


ミレサも窓を見る。


「こんな雨でも、カレグノスへ行くつもりだったの?」


ネリナは鼻をすすり、足元の靴を見た。


「橋、滑りそう。今日はやめたら」


食卓も料理も、そこにいる二人も同じなのに、返ってくる言葉は記憶と重ならない。窓の外では、前の朝にはなかった雨が降り続いている。


夢なら、なぜ目を覚ましたあとまで、こんな異常が続いている。


死なずに助け出されたのなら、なぜ傷も装備も出発前へ戻っている。


白い翼の者が何かしたのか。だが、あの者は手を差し出さず、傷にも触れなかった。


「ダルクとフィエラは?」


レイグは突然聞いた。


二人の名前を口にしただけで、胸の奥が強く痛んだ。自分が死んだあと、二人はどうなったのか。ネヴァルを連れて逃げ切れたのか、それとも、自分の後に黒い霧に呑まれたのか。


ミレサが怪訝そうに答える。


「いつもの場所にいるんじゃないの? 今日も一緒に行く約束だったでしょう」


ネリナも眉を寄せた。


「こんな状態で会いに行くの?」


「確かめないと」


「何を?」


レイグが椅子から立ち上がる。


「二人が生きてるか」


「だから、生きてるでしょ」


ネリナが叫んだ。


「もうそういうこと言わないで!」


レイグは返せなかった。ミレサが立ち上がり、行く手を塞ぐ。


「外へ出るなら、せめて落ち着いてからにしなさい」


「落ち着いてなんかいられない」


「家族を怖がらせてまで、今すぐ何をしに行くの」


レイグは唇を開いたが、言葉より先に、ミレサの肩越しにある壁の暦が目に入り、動きを止めた。


「……レイグ?」


レイグはミレサの横を抜け、暦へ近づいた。一度目を擦ってもう一度見る。「王暦五百十二年、芽吹き月十四日」。王家の布告を見た朝と同じ日付で、曜日も同じ月曜日だった。紙に記された数字を指先でなぞっても、間違いではない。


カレグノスへ出発した朝、ネルトアの掲示板に貼られた布告の末尾にも、この日付があった。


「暦がどうかしたの?」


ミレサの声が背後から聞こえる。


レイグは答えられなかった。暦をめくり忘れただけかもしれないし、自分が日付を勘違いしているだけかもしれない。町の誰かに聞けば、違う答えが返るかもしれない。


それでも、脇腹に大剣が入った感触は消えず、壁際には出発前の剣と盾が戻っている。窓の外では、前にはなかった雨が降っていた。


壁の暦は、レイグがカレグノスで死んだ日を、今日だと示していた。


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