第12話 昨日も月曜日だった
暦を何度見直しても、日付は進んでいなかった。曜日も月曜日のままだ。カレグノスで死んだはずの一日が、雨の朝になってまた目の前にある。
雨が窓板を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。
背後でミレサが息を詰める気配がした。それでもレイグは暦から目を離さないまま聞いた。
「母さん。今日は月曜日だよな」
「そうだけど?」
返事は早かった。
「昨日は?」
今度は少し間があった。
「日曜日でしょう」
レイグの喉が動いた。日曜日。母にとってはそうなのだが、自分の昨日は違う。
王家の布告を見て、ダルクとフィエラと乗合馬車に乗り、古い石橋を渡った。スケルトンと戦い、兵舎で剣を拾い、地下水路へ入り、黒い霧に追われ、ネヴァルを助けた。
そして、死んだ。あれも月曜日だった。
「……俺の昨日も、月曜日だった」
「何それ」
ネリナが不安そうな顔をした。
「昨日は日曜でしょ」
「俺にとっては違う」
「また死んだとか言うの?」
「ネリナ」
ミレサが止めたが、ネリナは口を閉じなかった。
「だって、朝からずっと変だよ。急に抱き締めて、剣抜いて、死んだって言って。今度は昨日も月曜日だったって……」
「俺だって分からないんだよ!」
思ったより大きな声が出て、ネリナの肩が跳ね、ミレサの顔も険しくなった。
「怒鳴らないの」
「……悪い」
「私じゃないでしょう」
レイグがネリナを見ると、妹は目を逸らした。すぐに謝ればいいと分かっているが、胸の中がぐちゃぐちゃで、素直に言葉が出てこなかった。
「俺、外へ行ってくる」
レイグが壁際へ向かうと、ミレサも立った。手を伸ばした外套を、母の手が先に押さえる。
「今日は休みなさい」
「休んで分かることじゃない」
「その状態で町を歩いて、何が分かるの」
「今日が本当に今日なのか。それを確かめるんだ」
ミレサの指が、外套から離れなくなった。
「今朝からあなた、自分で何を言ってるか分かってる?」
「自分でもおかしいと思ってる。でも、夢じゃないんだ」
「だったら余計に外へ出せないわ」
「だから確かめに行くんだ!」
怒鳴った拍子に、外套を引く手にも力が入った。ミレサはよろめき、椅子の背にもう片方の手をついた。
レイグの手が止まる。母は外套を放したが、道を空けてはくれなかった。ネリナも椅子に座ったまま、膝の上で手を握っている。
「ダルクとフィエラに会ってくる」
レイグは続けた。
「二人を見たら戻る。それだけだ」
「本当に?」
「ああ」
ミレサは納得していない顔だったが、玄関へ向かうレイグを力ずくでは止めなかった。
レイグは壁際に戻っていたロングソードを腰に差し、傷一つないバックラーを左腕に通す。カレグノスへ行くためではないが、今は武器を持たずに外へ出る方が怖かった。昨日の死が、まだ身体のすぐ後ろについてきているような気がする。最後に雨除けの外套を羽織った。
「兄さん」
扉へ手を伸ばしたところでネリナに呼ばれ、レイグは振り返った。
「……今日は、カレグノスに行かないでよ」
レイグはすぐに答えられなかった。行かない、と言えば安心させられるが、ダルクとフィエラに会った後、自分がどうするのかもまだ決められていない。
「まず二人に会ってくる」
「それ、答えになってない」
「ネリナ」
「だって」
妹は立ち上がった。
「朝から兄さんが何考えてるのか全然分かんないんだよ!」
レイグは扉の取っ手を握ったまま立っていた。今は説明できない。自分自身にも説明できない。
「……ごめん」
それだけ言って扉を開けると、冷たい雨の匂いが家の中へ流れ込んできた。
*
ネルトアの町は、雨の中でもいつも通り動いていた。屋根から落ちた水が石畳を流れ、道の窪みに小さな水溜まりを作る中、荷車の車輪が水を跳ねた。
「気をつけろ」
御者が怒鳴る。道を歩く者たちは頭に布を被ったり、軒下を選んだりしながら先を急いでいた。
レイグの記憶にある昨日の月曜日は晴れていた。朝から日差しがあり、王家の布告を囲む人だかりも大きかったが、今日は雨だ。天気が変わること自体は何もおかしくない。おかしいのは、昨日と同じ日付の朝を、誰も不思議がっていないことだった。
「レイグじゃないか」
声をかけられて振り向くと、近所に住む男が肩に工具袋を下げて歩いてくる。
「朝から武装して、今日も行くのか?」
「……たぶん」
「たぶんって何だ」
笑う男の顔を見ながら、レイグはこの男にとっても今日は普通の朝なのだろうかと考えた。
「なあ」
「何だ?」
「今日、月曜だよな」
男は足を止めた。
「朝から酒でも飲んだか?」
「飲んでない」
「だったら自分で分かるだろ。月曜だよ」
「昨日は?」
「日曜」
男は迷いなく答え、ますます怪訝そうな顔になる。
「本当に大丈夫か?」
「ああ。悪い」
「悪いと思うなら、雨の日に変な質問して人を止めるな」
そう言って歩き去る男の背中を見送りながら、家族だけではなかったのだとレイグは思った。通りを進んでいると、雨避けの布を張った店先から商人たちの話し声が聞こえてくる。
「月曜からこの雨じゃ商売上がったりだ」
「明日は晴れるといいな」
「天気だけは王様にもどうにもできねえさ」
誰も笑わず、戸惑ってもいない。当然のように今日を月曜日として話し、その次に明日が来るものだと思っている。
「……何なんだよ」
小さく呟きながら、レイグは考えた。あまりにも長く、痛みまで残る夢を見ただけなのか。何かの魔法にかかったのか。それなら、まだ自分一人の問題で済む。
そう思おうとした時だった。
「王家より布告――」
聞き覚えのある声が雨音を切り裂き、レイグの足が止まった。通りの向こうを、王家の紋章を胸につけた役人が歩き、その後ろでは従者が一枚の紙を持って掲示板へ向かっていた。
「滅びた城塞都市カレグノスより、王家の求める遺物を持ち帰った者には、多額の報酬を与える! 発見者の身分、所属は問わない」
レイグの背筋を冷たいものが走った。間違えるはずがない。自分は昨日、その布告を聞いている。ただし、周囲の光景は違った。
雨を嫌って人だかりは昨日より小さく、店の軒下から聞いている者もいる。役人自身も外套の肩を濡らし、ときどき顔についた水を拭っていた。
近くの男が声を上げた。
「この雨でも今日からか?」
「カレグノスの魔物は雨の日に休んでくれねえぞ」
昨日とは違う言葉に違う笑いが起きる。それなのに、布告だけは同じだった。レイグは歩き出し、途中から走る。
「おい」
レイグは人の肩へぶつかった。
「悪い」
掲示板の前へ出ると、従者が今まさに紙の四隅を留めていた。濡れても汚れてもいない、貼ったばかりの新しい紙だ。王家の紋章も、遺物も、多額の報酬も、そして末尾の日付まで、昨日見たものと同じだった。
「昨日も、それを貼っただろ」
口から言葉が出て、役人が振り向く。
「何だ?」
「その布告だ」
レイグが紙を指す。
「昨日も同じものを貼った」
従者が困った顔で役人を見ると、役人は眉をひそめた。
「昨日?」
「ああ」
「これは今朝、王家より出された布告だ」
「違う。昨日、俺はここで――」
「何を言っている」
役人の声が少し硬くなる。
「王家の布告をからかうつもりなら、場所を選べ」
「からかってない」
声が大きくなり、近くの人間が一斉に振り返った。レイグは口を閉じる。役人も警戒するようにこちらを見ており、これ以上ここで騒げば、衛兵を呼ばれてもおかしくない。
「……悪かった」
レイグは掲示板を離れ、雨の中へ出た。暦をめくり忘れただけではない。昨日の布告が掲示板に残っていたわけでもない。今、目の前で新しい紙が貼られ、昨日と同じ日付の一日が何事もなかったように始まっている。
レイグは足を速めた。ダルクとフィエラなら、何か覚えているかもしれない。自分と一緒にいて、同じ敵と戦い、ネヴァルを助け、最後に言葉を交わした二人だ。
二人まで覚えていなかったら――。そこから先は考えたくなかった。
レイグは雨の中を走った。
*
いつもの待ち合わせ場所が見えた。
通り沿いの店の軒下には、雨宿りする人間が何人も集まっていた。その中に大きな盾が見え、レイグの足が止まる。ダルクだった。隣には、コンポジットボウを背負ったフィエラもいる。
二人とも立っている。二人とも生きている。
駆け寄ろうとした膝から力が抜け、レイグは濡れた石畳を一歩踏み損ねた。息を吸うと、朝から喉につかえていたものが、ようやく空気と一緒に下りていく。
「……よかった」
レイグの口から声が漏れた。
最後に見た時、ダルクは負傷したネヴァルを抱え、フィエラもその身体を支えていた。黒い霧が迫るなか、二人を先へ行かせ、自分はスケルトンジェネラルの前に残ったため、その後、二人が逃げ切れたのか、レイグは知らなかった。
「レイグ!」
フィエラがレイグに気づいた。
「何してるの! びしょ濡れじゃん!」
レイグは返事をせず二人へ近づき、ダルクが眉をひそめる。
「何だ、その顔」
レイグがダルクの肩を掴む。
「……おい」
鎧越しにも温かさが伝わる。生きている。本当に、ここにいる。
「何だよ」
ダルクはレイグの手を払った。
「朝から気持ち悪いな」
ダルクの声はいつもどおりで、その乱暴な言い方にさえ、レイグは笑いそうになった。
「フィエラ」
「はい?」
フィエラも無傷で立っている。よかった。二人とも助かった。そう思った直後、レイグの視線がダルクの腰で止まった。そこにあるのはバトルアックスだった。
「……それ」
「何だよ」
「武器」
ダルクは自分の腰を見た。
「斧がどうした」
「ハンマーは?」
「は?」
「兵舎で拾っただろ」
ダルクの顔から苛立ちが消え、代わりに、本気で意味が分からないという表情になる。
「何の話だ」
レイグは大盾を見たが、傷がない。ジャイアントスパイダーの毒牙が残した二つの傷跡も、ヘルハウンドに噛みつかれて歪んだ場所も消えている。いや、消えたというより――最初からついていない。
フィエラの矢筒も同じだった。昨日何本も使い、折れた矢もあったはずなのに、出発前の状態へ戻っている。
「レイグ?」
フィエラがレイグの顔を覗き込む。
「本当に何かあった?」
レイグは二人を交互に見る。
「昨日……どうなった?」
ダルクが眉を寄せる。
「昨日?」
「カレグノスだ」
「今日行くんだろ」
「昨日も行った」
「行ってねえよ」
迷いのない答えだった。
「三人で入っただろ」
「だから、それは今日これからだろ」
「兵舎にも入った。地下水路も通った。霧が来て――」
「待て待て」
ダルクは片手を上げた。
「何の話してんだ?」
レイグはフィエラを見る。
「覚えてないのか?」
「何を?」
「昨日のカレグノス」
フィエラは答えず、レイグの顔をじっと見ていた。その表情から、いつもの笑いがゆっくり消えていった。
ダルクがため息をつく。
「お前、寝ぼけてんのか?」
「違う」
「じゃあ夢でも見たんだろ」
「夢じゃない!」
また声が大きくなり、軒下にいた何人かがこちらを見る。ダルクが顔をしかめた。
「朝から怒鳴るな」
「俺は――」
言い返しかけて止まり、ネヴァルの名前が喉まで出たが、もう聞く必要はなかった。二人が忘れているのは、自分の死だけではない。
兵舎で武器を拾ったことも、蜘蛛に襲われたことも、黒い霧から逃げたことも、ネヴァルを助けるために三人で戻ったことも、最後に怒鳴り合ったことも。レイグの中では昨日の出来事なのに、二人の中には何一つ残っていない。
「……何で」
声が小さくなった。ダルクは苛立ったように頭を掻く。
「俺が聞きてえよ。朝から何なんだ」
「レイグ」
フィエラが呼んだ。
レイグが顔を上げると、フィエラだけは怒っておらず、ふざけてもいなかった。こちらの表情を探るような、あの目で見ている。
「本気なんだね」
質問というより、確かめるような声だった。
「昨日、私たち三人でカレグノスに行ったって、本気で言ってるんだよね」
「……ああ」
「夢を見た、とかじゃなくて?」
「違う。あれは夢じゃない」
フィエラはすぐには返さず、レイグの顔を見ていた。何を言ったかではなく、今のレイグそのものを見ているようだった。
雨が軒先から落ち続ける。通りでは乗合馬車の準備が始まり、荷物を積み込む探索者たちは、今日のカレグノスについて話していた。どこへ行くか、何を狙うか、雨なら地下へ入るか、霧が来る前に戻れるか。誰にとっても、これから始まる一日だった。
だがレイグには、その先に何があるのかを一度経験した記憶がある。少なくとも、そう信じるしかないほど鮮明な記憶が。
「それで?」
フィエラが静かに聞いた。
「昨日、何があったの?」
レイグがダルクを見ると、ダルクももう茶化してはいなかった。信じてはいないが、それでも、レイグが冗談を言っているのではないことくらいは伝わったらしい。
レイグは一度、息を吸った。脇腹に大剣が入った感触と血の温かさ、黒い霧、白い翼、そして目を開けた朝が蘇る。
「俺は昨日――」
声はかすれたが、それでも言った。
「カレグノスで死んだ」




