第8話 霧に追われる者たち
「捨てろ」
カルゼンは振り返らずに言った。背後では、仲間の一人が獣の頭を彫った石板を両腕で抱えたまま走っていた。
「これだけでも今日の稼ぎになる」
「死体から買い取り所まで運んでくれる奴はいない。捨てろ!」
「でも――」
カルゼンは足を止め、仲間の腕から石板を奪い取って道端へ放り投げる。
「走れ」
仲間は悔しそうに石板を見たが、もう言い返さなかった。
黒い霧が現れただけで、カレグノスの外周は大混乱に陥っていた。
崩れた城門へ続く大通りには、外へ向かう探索者と、逆に内側へ逃げ込んでくる者が押し寄せていた。誰かが転び、仲間の名を叫んでも、人の流れは止まらない。
「押すな」
「城門へ行かせろ」
「戻れ! 外周道路を霧が横切った」
カルゼンが人の肩越しに城門を見ると、その向こうには古い石橋がまだ霧に覆われずに残り、前線拠点へ向かって橋を走る人影も見えた。
だが、カルゼンたちと城門の間を、黒い霧が左右の建物をつなぐ帯のように横切っている。地面へ貼りついたまま幅を増し、両側の路地にも黒い舌を伸ばしていた。
回り込める隙間はない。
「橋は見えてるぞ」
「だから何だ! ここから行けねえんだよ!」
横の路地から別の集団が飛び出してきたが、人間だけではない。
剣や槍を持ったゴブリンが、人を押し退けるように走ってくる。その後ろでは、黒い毛皮に赤い筋の浮いたヘルハウンドが牙を剥き、ゴブリンの背へ食らいついていた。
ゴブリンが悲鳴を上げ、別の一体が石を投げつける。ヘルハウンドは進路を変え、今度は倒れた探索者へ飛びかかった。
「カルゼン」
仲間の声に、カルゼンは剣を抜いた。
「固まるな! 押し潰されるぞ!」
一人の探索者が、ヘルハウンドへクロスボウを向けた。だが、引き金を引く前に、横から来たゴブリンの槍が脇腹へ刺さる。
男が崩れ落ち、装填済みのクロスボウが石畳を滑ると、ゴブリンがそれを拾った。
構え方も分からないらしい。武器を抱え込んだ拍子に引き金に指がかかり、矢が放たれた。
短い音。
矢は人の流れへ飛び込み、逃げていた探索者の背へ突き刺さった。
「ぎゃっ」
倒れた男を避けようとして、さらに二人がぶつかる。ゴブリン自身も反動に驚いていたが、クロスボウを捨てずに胸元へ抱え込んだ。
カルゼンは舌打ちした。城門へは行けず、この場に留まれば、人と魔物に挟まれたまま黒い霧に追いつかれる。
正面の交差路を見る。王城方面へ続く中央通りにもゴブリンとヘルハウンドが入り込んでいたが、完全には塞がれていない。
「王城側へ抜ける」
仲間の一人が目を剥いた。
「橋は?」
「もう追うな。生きる道を選べ」
カルゼンは横倒しになった荷車を盾にして仲間たちを交差路へ集めた。左には半壊した宿屋、右には入口脇に低い石段のある細い路地があり、正面が中央通りだ。
宿屋の暗がりでは赤い目が二つ光り、右の路地からは武器を抱えたゴブリンたちが近づいてくる。その時、背後から三人の探索者が走ってきた。
大盾の男。
弓を持つ女。
そして、スチールロングソードを握った若い男。
古い石橋で見た三人組だった。
*
「どけ! 橋へ行く!」
ダルクが盾を身体の前へ立て、人の流れを押し返す。
相手を突き飛ばすのではなく、レイグたち三人が押し潰されないだけの隙間を、力ずくで作っていた。
「そっちは駄目だ」
城門側から来た男が叫ぶ。
「外周道路が切られた! もう近づけねえ」
「橋はまだ渡れるだろ」
「見りゃ分かる! ここから行く道がねえんだよ!」
人の肩と荷物に遮られ、レイグからは城門が見えない。
「フィエラ」
「上から見る」
フィエラは倒れた荷車の車輪に足をかけ、荷台の縁へ上がった。揺れる板の上で姿勢を低くし、城門方向へ目を凝らす。
その顔から血の気が引いた。
「橋そのものは、まだ霧に覆われてない」
「なら行けるだろ」
「ここからは無理」
フィエラが荷台から飛び下りる。
「私たちと城門の間を霧が塞いでる。左右の路地にも入ってるし、その手前は人と魔物で詰まってる」
橋を渡っている者はまだいるのに、自分たちの立つ場所からは届かない。その事実に、レイグの胸が締めつけられた。
早めに帰ると言い、ネリナにはちゃんと帰ってきてと言われた。母も今、いつものように家で帰りを待っている。それなのに、城門の向こうへ続く橋は見えていても、そこへ行く道だけが消えていた。
「……内側へ行くぞ」
ダルクの声は低く、怒鳴る余裕もなかった。
直後、左前方からヘルハウンドの咆哮が響いた。
交差路では、カルゼンたちが横倒しの荷車を背にしている。左の半壊した宿屋からヘルハウンドがにじり出て、右の路地ではゴブリンが武器を振り上げていた。
後ろからは黒い霧と人の波が迫ってくる。
カルゼンがレイグたちへ向かって叫んだ。
「左から犬が来る! 戦えるなら止めろ」
「勝手に仕切るな」
ダルクが怒鳴り返す。
「だったら別の道を開け」
「喧嘩は抜けてからにして」
フィエラが石段を駆け上がる。
「一番うるさいの、ダルクだけど」
「お前も今言うことか」
返した直後、宿屋の窓枠が砕け、ヘルハウンドが飛び出してくる。
「来るぞ!」
レイグが叫ぶと、ダルクは左へ踏み込んで大盾を構えた。低く跳んだ黒い獣の牙と前脚が盾へ叩きつけられ、激しい金属音とともにダルクの靴が石畳を滑る。
「ぐっ……」
ジャイアントスパイダーの毒牙で傷ついていた場所へ、もう一度強い衝撃が入った。盾の表面がへこみ、二つの傷跡の周囲がわずかに裂ける。
「ダルク」
「止めてる! 早くやれ!」
ダルクがウォーハンマーを振り、鉄の頭がヘルハウンドの肩口へ食い込む。
それでも獣は倒れない。盾の縁に噛みつき、首を振ってダルクの腕ごと引きずろうとする。
レイグはダルクの右脇へ回ってスチールロングソードを低く振り、ヘルハウンドの前脚を斬って体勢を崩した。
「離れろ!」
ダルクが盾を引き抜き、ウォーハンマーを頭上から叩き落とす。
鈍い音とともに獣の頭が石畳へ打ちつけられる。なおも脚が動いたため、ダルクが歯を食いしばってもう一度振り下ろすと、ようやく赤い目から光が消えた。
「一体」
フィエラの矢がレイグの右肩の外を抜け、右の路地から飛び出したゴブリンの肩に突き刺さる。
その後ろには、クロスボウを抱えた一体もいた。矢はもう入っていない。それでも武器を捨てず、木の台座を棍棒のように振り回している。
「右から来る」
カルゼンの仲間が槍でゴブリンを押し返す一方、別のヘルハウンドが荷車を跳び越え、別の仲間へ飛びかかった。カルゼンが横から剣を叩きつける。
刃が獣の肩を裂き、跳躍の軌道を外へ逸らした。カルゼンは仲間の襟を掴み、荷車の後ろへ引き倒す。
「立て! ここで寝るな」
言葉は荒いが、自分がヘルハウンドの前に残っている。獣は荷車の脇へ転がったものの、すぐに立ち上がった。レイグが目で追ったのはカルゼンの剣ではなく、荷車の陰へ引き倒された仲間の方だった。橋で見た時と同じく、口で命じる前に身体を動かして仲間を守る男だった。
「レイグ、前!」
フィエラの声に我に返ると、短剣を持ったゴブリンが飛び込んでくる。レイグがバックラーで手首を弾き、胸元へ斜めに剣を走らせると、革鎧が裂けて肩口から血が噴き、ゴブリンは石畳へ倒れた。
だが、すぐ近くには死んだ探索者がいた。その腰袋から赤い小瓶が覗いている。
ゴブリンは倒れたまま、赤い小瓶へ手を伸ばした。
「何を――」
小瓶を奪って歯で栓を抜き、中身を半分ほど顎にこぼしながら一気に飲み込む。
肩から流れる血の勢いが弱まる。傷は開いたままだが、ゴブリンは歯を剥き、もう一度立ち上がろうとした。
「薬まで使うの?」
「驚くのは後だ」
ダルクが叫ぶと、フィエラの放った矢がゴブリンの胸へ刺さり、立ち上がりかけた身体を後ろへ倒した。
背後で上がった誰かの悲鳴が途中で途切れ、レイグは一瞬だけ振り向く。黒い霧は交差路の端まで迫り、後方に捨てられた荷車の車輪を半分まで隠していた。
もう時間がない。
右の路地からはさらにゴブリンが押し寄せ、左ではカルゼンがヘルハウンドを牽制し、正面の中央通りにも人と魔物が入り乱れていた。このまま一体ずつ相手にしていては、黒い霧に追いつかれる。
「カルゼン」
レイグが叫ぶと、カルゼンがこちらを見る。
「正面を空けろ!」
「何をする」
「道を作る!」
レイグは横倒しの荷車の陰へ一歩下がって剣を引き、味方の位置を確かめる。左にダルク、右の石段にフィエラ、荷車の向こうにカルゼンたちがいる。人間のいない場所は、正面でゴブリンとヘルハウンドがぶつかっている石畳だけだった。
レイグは足を止めて息を吸い、騒音の中で意識を一点へ絞った。正面の空気が熱で歪み、小さな炎が一つに集まって火球へ膨らんでいく。
「下がれ!」
カルゼンが仲間を荷車の裏へ引く。その間にゴブリンが石を投げるが、集中を乱される前に、フィエラの矢がその腕へ刺さった。
「今!」
「ファイアボール」
拳ほどの火球が低く飛び、石畳にぶつかった瞬間、炎と熱風が左右へ弾ける。
直撃したゴブリンが倒れ、周囲のゴブリンが悲鳴を上げた。ヘルハウンドも火を嫌って横へ跳ぶ。
正面の群れが二つに割れた。
「行け!」
カルゼンが真っ先に踏み込み、剣で左のゴブリンを押し払って仲間が通れる幅を作る。レイグも反対側から斬り込み、火に怯んだヘルハウンドの首を深く斬って、倒れた身体を脇へ押し退けた。中央通りへ抜ける細い隙間が開く。
「追うな! 抜けろ」
カルゼンが叫ぶ。
「フィエラ、下りろ」
ダルクも同時に声を張った。
「レイグ、走れ!」
フィエラが石段を蹴って飛び下り、三人は開いた道へ駆け込んだ。
背後では、ゴブリンとヘルハウンドが再び噛みつき合っている。倒れた探索者の剣を拾おうとする者もいたが、ダルクは振り返らない。
「放っとけ! 止まった奴から追いつかれる!」
中央通りへ出ると、人の密度は下がったが、安全ではない。
前方では王城方向へ走る探索者たちが互いを押し、横の路地からも魔物の声が近づいてくる。
レイグは荒い息のまま走った。左腕の打撲が脈打ち、魔法を使った疲れが全身に重く残って、喉が焼けるように乾いていた。
「レイグ」
フィエラが急に右を見ると、東側の路地から数人の探索者が飛び出してきた。先頭にいたのは、昼に話した青年だった。
「ネヴァル」
昼に別れた後、東側へ向かった一行で、彼らも別の道から中央へ逃げ込んできたらしい。
だが、その背後には負傷したヘルハウンドがいた。片脚を引きずりながら、それでも牙を剥いて追ってくる。
「こっちだ」
ネヴァルが仲間に手を伸ばした時、ヘルハウンドが最後尾の男へ跳びかかった。
通り脇には、二階部分が大きく崩れた古い商家があった。残った石壁を、黒く腐った一本の木材が辛うじて支えている。
「危ない!」
ネヴァルが仲間を横へ突き飛ばすと、牙は空を噛み、勢いを殺しきれなかったヘルハウンドが商家の支柱へ肩から激突した。
嫌な音がした。
木材が中央から折れた。
「離れろ」
誰かが叫んだ。
二階の石壁が傾いて通りへ崩れ落ちる。ネヴァルは突き飛ばした仲間をさらに押し出したため、自分が逃げるには一歩遅れた。
先に落ちた太い梁がヘルハウンドの胴を押し潰し、獣の声が途切れる。
続いて崩れた石材が、ネヴァルの脚へ落ちた。
「ぐああっ」
ネヴァルの身体が倒れ、仲間たちがすぐに戻った。
「ネヴァル」
「持ち上げろ!」
二人が石材に手をかけるが、動かない。ネヴァルの左脚は膝の下まで瓦礫に挟まれ、血が石畳へ広がっていく。
右の路地からゴブリンの声が近づき、背後では別のヘルハウンドが吠えている。中央へ逃げる人の流れまで押し寄せ、ネヴァルの仲間たちは何度も身体をぶつけられた。
「行け」
ネヴァルが怒鳴った。
「黙れ! 今出す!」
「無理だ! 全員残ったら、全員死ぬだろ!」
「置いていけるか」
「行けって言ってる!」
昼には「死んだら何も持って帰れない」と仲間を止めていた男が、今は自分を捨てて逃げろと叫んでいた。
カルゼンは足を緩め、右足をネヴァルの方へ半歩だけ出した。だが、迫る黒い霧と自分の仲間たちを見て、奥歯を食いしばる。
「止まるな」
カルゼンは自分の仲間へ命じた。
「王城側へ走れ」
カルゼンたちは進んだ。ネヴァルの仲間の一人がなおも戻ろうとしたが、別の仲間に肩を掴まれる。直後、路地から飛んできた槍が二人の間の石畳へ突き刺さり、迫るゴブリンを前に、人の流れに押されて二人はネヴァルから引き離されていく。
「レイグ、行くぞ!」
ダルクはウォーハンマーを腰の吊り具へ押し込み、空いた右手でレイグの上腕を掴んだ。フィエラは何も言わず、ネヴァルと黒い霧を交互に見ていた。いつもの冗談は出なかった。
瓦礫の下から、ネヴァルがこちらを見る。
目が合った。
「来るな」
顔を歪めたまま、ネヴァルは叫んだ。
「行け!」
朝、家を出る時に聞いたネリナの声が、耳の奥で蘇った。ちゃんと帰ってきてよ。母も待っている。
今開いた王城への道を走れば、まだ生きて帰れるかもしれない。だが目の前では、瓦礫の下のネヴァルが来るなと叫んでいる。
ダルクがレイグの腕を引いた。
それでもレイグは、一歩も動かなかった。




