第7話 昼の焚き火
地下水路から地上へ出たあとも、レイグには正午過ぎの日差しがやけに眩しく、思わず何度も目を細めた。
「休むぞ」
ダルクが言った。
「賛成」
フィエラの返事は早かった。
「もう蜘蛛の顔見ながら歩きたくない」
「まだ近くにいるかもしれねえだろ。座るのは場所見つけてからだ」
「休むって言ったのダルクじゃん」
「だから休める場所を探すんだよ」
声にはいつもの勢いがあるが、ダルクの歩き方も少し重く、地下水路で毒牙を盾で受け止めた時の衝撃が残っているのか、ときどき左肩を回している。
レイグ自身も疲れていた。左腕の打撲はまだ痛み、地下で剣を振り続けたせいか、握っているスチールロングソードも手に入れた時より重く感じた。
「フィエラ。どこかないか?」
「見てる」
フィエラはコンポジットボウを手にしたまま、周囲へ目を走らせる。水路の出口は、崩れた石造りの家々に挟まれた細い通りへつながっていた。
三人はそのまま道沿いに進んだ。完全に屋根の残った建物は、中に何がいるか分からないうえ、入口を塞がれれば逃げ場がないため避けた。
やがてフィエラが、半分崩れた二階建てを指した。
「あそこ」
一階の壁は半分ほど残っているが、正面は大きく開いている。横の壁にも人一人が通れるほどの崩れがあり、裏路地へ抜けられそうだった。
「悪くねえな」
ダルクが盾を下ろさないまま先に入り、レイグも後へ続いて、積もった瓦礫や物陰を確認した。
フィエラは入口に立ち、短く息を整える。
「サーチ」
それは周囲の気配を探る索敵魔法で、フィエラの髪がかすかに揺れ、彼女は目を閉じ、しばらくして再び目を開いた。
「近くに大きいのはいない。小さい反応はあるけど……鼠か何かだと思う」
「思う、か」
「絶対って言ってほしいなら無理」
「それでいい。嘘をつかれるよりましだ」
ダルクはようやく盾を壁に立てかけ、そのまま座り込む。
「……飯」
「もう動けないの?」
「腹減ってんだよ」
レイグは笑いながら荷袋から鍋を出そうとした。ところが取っ手へ左手をかけた途端、腕の奥に鈍い痛みが走り、鍋が指から滑る。
地面へ落ちる寸前、フィエラがつま先を差し入れ、鍋を横へ転がした。石床を打つ音は小さく済んだ。
「はい。怪我人一人」
「落としただけだ」
ダルクが左手を床について立とうとした途端、肩の奥に痛みが走ったらしい。口元を歪め、何でもない顔で座り直したものの、フィエラは見逃さなかった。
「二人目」
「俺は腹が減ってるだけだ」
「肩でお腹は鳴らないよ」
「蜘蛛に食われかけても口だけは元気だな」
「食われなかったからね。鍋は私が置く。レイグは左手を使わない。ダルクは火にできる木をそこから選んで」
「急に仕切るな」
「二人とも放っておくと、休むために怪我を増やしそうだから」
フィエラは鍋を拾い、残った水の量を見てから石を三つ並べ始めた。レイグが片手で食料の包みを開こうとすると、ダルクが横から干し肉ごと奪う。
「その前に腕を出せ」
「飯が先だろ」
「この肉は俺が持ってる」
「人質にするなよ」
「なら出せ」
仕方なくバックラーを外し、包帯をほどく。擦り傷は塞がり始めていたが、打った場所には青黒い痕が残っていた。ダルクは腫れを直接押さえず、その上下へ指を当てる。
レイグが肘を曲げると、ダルクの手が追ってきた。
「自分で曲げてるだろ。手を放せ」
「途中で止めんなよ」
痛みをこらえて伸ばし切り、目の前に差し出された指を握り返す。ようやく干し肉が戻ってきたので、レイグはダルクの膝から自分の包みまで取り返した。
「飯の支度くらいなら右手でやれ。剣は、痛みが増えたら終わりだ」
「医者みたいだね」
焚きつけを集めながらフィエラが言う。
「こいつが何でも大丈夫で済ませるからだ」
「今日は鍋を落としたから、もう通用しないよ」
「二人とも覚えてろ」
ダルクに包帯を巻き直されたレイグが右手だけで保存野菜を刻む間、フィエラは平らな石へ矢を転がしていた。一本だけが途中で揺れ、矢じりの根元には細いひびが入っている。
「これは置いてく」
彼女は迷わず脇へ除け、残りを矢筒へ戻した。
「勿体なくないのか」
ダルクが聞く。
「撃った時に折れたら、私の顔へ返ってくるかもしれない。そっちの方が嫌」
「賢明だな」
「さっき食料を人質にした人が言う?」
「あれは必要な取引だ」
「医者じゃなくて追い剥ぎだったね」
小さな火がつき、鍋の水が温まり始めた。干し肉と野菜を落とすと、やがて塩気のある匂いが崩れた部屋に広がっていく。
その間も、ダルクは火のそばへ盾を引き寄せ、毒を洗い流した箇所を布で擦っていた。丸い穴と、その脇を走る長い傷は消えない。表面はもう乾いているのに、同じ場所を何度も拭いている。
フィエラが手元を見た。
「もう毒は残ってないと思う」
「念のためだ」
「手、さっき震えてたね」
布が止まった。
「寒かっただけだ」
「今は?」
「火がある」
それで話は終わったというように、ダルクは盾を壁へ立てた。だが傷のある面を壁側へ隠すことはせず、自分のすぐ横へ置く。
「もし盾じゃなくて腕を噛まれてたら、どうしてた?」
フィエラが聞くと、ダルクは腰袋を叩いた。中にはアンチドートが一本だけ入っている。
「噛まれた奴に使う。俺なら俺だ」
「迷わないね」
「死にたくねえからな。ヒールポーションが二本あっても、毒は止まらねえ」
声は大きかったが、笑ってはいなかった。
「死にたい奴が、こんな盾を持って歩くか」
フィエラは何もからかわず、火の向こうから盾の穴を見た。
「じゃあ、次も噛まれないようにしよう」
「最初からそのつもりだ」
鍋の中で小さな泡が弾けた。温まった肉の匂いが強くなった途端、誰かの腹が鳴る。
フィエラがレイグを見る。
「今の誰?」
「俺じゃない」
「俺でもねえぞ」
三人とも黙った。
もう一度、ぐう、と音がした。
ダルクが自分の腹を見る。
「……俺だ」
「そこは素直なんだ」
「うるせえ。早くよこせ」
パンをちぎり、温かいスープへ浸して食べる。塩気の強い干し肉も、戦った後なら十分うまい。レイグは水を飲み、ようやく肩の力を抜いた。
「これ」
フィエラが指したのは、ダルクのウォーハンマーだった。食事中なのに、右手を伸ばせばすぐ取れる場所に置いてある。
「近すぎない?」
「何が」
「スープに入れないでよ」
「入るわけねえだろ」
「味つくかも」
「鉄味になるだけだ」
「意外と合うかもしれない」
「だったらお前が食え」
レイグが笑うと、ダルクはこちらを睨んだ。
「何笑ってんだ」
「いや。よかったなと思って」
「何が」
「いい武器拾えて」
ダルクは返事をする前に、ウォーハンマーの鉄の頭を親指で撫でた。
「……まあな」
「ほら、やっぱり嬉しい」
「フィエラ、お前は黙って食え」
「怒るとお腹に悪いよ」
「誰のせいだ」
こんな場所でも、三人でいれば食事になるのが妙におかしくて、レイグはもう一度笑った。
ふと視線を上げると、崩れた壁の向こう、屋根の切れ目から王城の上部が見えたが、カレグノス中央の城はまだ遠い。
だが今日は順調で、武器は良くなり、大きな怪我もなく、地下水路からも抜けられた。
王家の求める遺物を見つければ、多額の報酬が手に入る。そうなれば、母はもう薪代を気にしなくて済み、ネリナにも新しい靴を――。
「見るな」
ダルクの声が飛んだ。
「何がだ」
「王城」
「見ただけだろ」
「お前は見るところから始まるんだよ」
レイグの眉が寄った。
レイグは王城から目を切り、空になった椀を地面へ置いた。
「昼飯を食ったら戻る。今日はそう決めた」
「その台詞も何回目だ」
「しつこいな」
「しつこく言わなきゃ、お前が奥へ行くからだろ」
「行くって言ってない」
「まだな」
空気が少し変わり、フィエラも今度は笑わなかった。レイグは水筒の水を飲む。
「……霧が来たら帰る。それでいいだろ」
「最初からそう言ってる」
ダルクはパンをちぎり、それ以上は言わなかった。レイグも謝らず、さっきまでの軽さはまだ完全には戻らなかった。
*
食事を終え、鍋を片づけ始めた頃、通りから複数の足音が聞こえた。ダルクがすぐ盾へ手を伸ばし、フィエラも弓を取る。
「人」
崩れた壁から外を見たフィエラが言う。
歩いてきた数人の探索者はまだ若い男たちで、武器や防具は揃っているが、どれも傷が少ない。先頭の男は、地下水路の入口がある方向を見ていた。
レイグは立ち上がった。
「そっちはやめた方がいい」
一団が止まり、男たちの手が武器へ伸びる。
「何だ?」
「地下水路へ行くなら、ジャイアントスパイダーがいる」
男たちは警戒を少し緩め、その中の一人が前へ出る。
「何体いた?」
「俺たちが通った時は三体いた。奥にまだいるかもしれない」
「でかいのは?」
「いた」
ダルクが答える。
「盾に穴開けられかけた」
男はダルクの盾を見て、毒牙の跡に気づいたらしい。
「……本当みたいだな」
後ろの仲間が不満そうに言った。
「でも水路の奥に薬の保管庫があるって話だろ。行くだけ行ってみようぜ」
「やめよう」
前に出ていた男が即座に答えた。
「ネヴァル?」
「薬を取りに行って毒を食らったら意味ないだろ」
ネヴァルと呼ばれた男が仲間を見る。
「別の場所を探そう」
「ここまで来たんだぞ」
「死んだら何も持って帰れない」
その声は少し苛立っていたが、怖がっているからこそ強く止めているようにも聞こえた。仲間の男が舌打ちする。
「分かったよ」
ネヴァルは小さく息を吐いてから、レイグたちへ向き直った。
「助かった。俺はネヴァル。あんたらは?」
「レイグ」
隣を示す。
「ダルクとフィエラ」
「よろしく」
フィエラが片手を上げ、ダルクは短く顎を引いただけだった。
「地下へ行かないなら、東側の通りは比較的まだ動きやすい」
レイグが言う。
「レイグ」
ダルクが横から低く呼ぶ。
「何だよ」
「教えすぎだ」
「それくらいいいだろ」
「競争相手だぞ」
ネヴァルは苦笑した。
「ただで聞く気はないよ」
彼は一度、来た道を振り返る。
「西の外周から戻ってくる連中が増えてた。橋へ向かうっていうより、内側へ進路を変えてる感じだ」
「内側へ?」
「ああ。何か出たのかと思ったけど、妙に数が多い。俺たちも少し気になってた」
フィエラの表情が変わった。
「西側か……」
ネヴァルは仲間を振り返る。
「じゃあ、俺たちは行く」
「ああ。気をつけろ」
「そっちも」
ネヴァルたちは地下水路へ向かうのをやめて別の通りへ歩き、その姿が見えなくなると、ダルクがレイグを見る。
「人がいいのもほどほどにしろよ」
「蜘蛛がいるって教えただけだろ」
「道まで教えただろ」
「知ってて黙って、食われるの見てるよりいい」
ダルクは何か言いかけたが、結局、鼻を鳴らしただけだった。
*
焚き火に崩れた土をかぶせて灰を混ぜ、最後に少量の水を垂らすと、わずかな白い煙が上がって消えた。フィエラが靴先で灰を崩し、赤い火種が残っていないことを確かめる間に、レイグは荷袋を背負った。
「帰る前に、もう一か所だけ見ないか」
ダルクの手が止まった。
「今の話、聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「外周から戻ってる奴が増えてるんだぞ」
「霧を見たって話じゃないだろ。魔物でも出たのかもしれない」
「だから気になるんだろうが」
「まだ午後に入ったばかりだ」
「時間の話じゃねえ」
ダルクの声が強くなった。
「お前の、その『もう一か所』が嫌なんだよ」
レイグの胸に苛立ちが湧いた。
「危なかったら帰るって言ってるだろ」
「危なくなってからじゃ遅え時もある!」
「じゃあ今すぐ帰るのか?」
「そうは言ってねえ」
「なら確認してから決めればいいだろ」
二人の声がぶつかった。
「はい、そこまで」
笑みのない顔で、フィエラが割って入った。
「どっちが正しいかで喧嘩する前に、上から見ればいいでしょ」
ダルクが口を閉じる。
レイグも言い返さなかった。
「帰り道、確認してくる」
フィエラは崩れた階段へ向かった。二階部分は半分以上落ちているが、それでも壁際には立てる場所が残っていた。
「足元気をつけろよ」
ダルクが下から声をかける。
「崩れた段は踏まないよ」
フィエラは階段を上がり、崩れた壁際に立って外周方向を見ると、動きを止めた。
「……レイグ」
声が違った。
レイグが顔を上げる。
「どうした?」
「二人とも、来て」
冗談の気配がない。
レイグとダルクは顔を見合わせ、すぐ階段を上って外周方向を見る。
頭上にはまだ青空が広がり、白い雲も浮かんでいた。
それなのに、遠くの城壁沿いだけが黒い。
「……あれ」
レイグの口から声が漏れた。
煙ではない。
煙なら上へ昇る。
黒いものは地面へ貼りつくように広がり、城壁や建物の足元をゆっくりと呑み込んでいた。
黒い霧。
古い石橋で覚えた、靴底だけが先の道を知っているような気味の悪さが戻ってきた。今度は石の傾きではなく、黒い霧の広がる速さを、目で測る前から知っている気がした。
フィエラの笑みが消える。
「来てる」
ダルクは答えなかった。
黒い霧を数秒見つめる。
そして振り返った。
「帰るぞ」
それだけだった。
誰も反対しない。
三人は階段を駆け下りた。レイグは荷袋を背負い直して剣の位置を確かめ、ダルクは盾を左腕へ通す。フィエラもコンポジットボウを握り、矢筒を背へ戻した。
建物を飛び出した、その瞬間だった。
遠くから怒鳴り声が響く。
「霧だ!」
別の場所からも声が上がった。
「橋へ戻れ! 急げ」
静かだった通りへ、急に人が流れ込んでくる。
走る探索者。
荷物を抱えた男。
仲間の名を叫ぶ声。
さらに遠くから、人間のものではない咆哮が響いた。
レイグはそちらを見る。姿はまだ見えない。だが、黒い霧から逃げているのは、人間だけではない。それだけは分かった。
「走れ!」
ダルクが叫んだ。
三人は古い石橋を目指して駆け出す。
背後では、黒い霧がカレグノスの外周を静かに呑み始めていた。




