第6話 盾の向こう側
レイグはロングソードを抜き、暗闇へ目を凝らした。
音は一度きりで、すぐに水の流れる音へ紛れた。ダルクが大盾を前へ出し、フィエラもコンポジットボウに手を掛ける。
「戻る?」
「まだ何も見てねえ。下まで確認して、まずけりゃ引く」
「その場で決めよう。先へ進むって決めつけるなよ」
「多けりゃ引く。無理に進みゃしねえよ」
三人は互いの位置を確かめ、残りの階段を慎重に下りた。
下まで降りると、中央を濁った水が流れる水路が続いていた。その両側には石の通路があり、場所によって幅は違い、狭いところでは一人ずつしか歩けない。
天井から落ちた水滴が、水面を小さく揺らしていた。
「寒っ」
フィエラが腕をさする。
「さっきまで走り回ってたから余計だろ」
レイグは壁際を歩きながら答えた。左腕には、兵舎前で受けた槍の一撃による鈍い痛みがまだ残っている。包帯の下では腫れも残っていたが、指は動き、剣を振るのにも支障はない。
先頭にレイグ、その半歩後ろにダルクがつき、フィエラは二人から少し距離を取って、背後と天井を交互に確認していた。
「こういうところ嫌いなんだよね」
「さっきも言っただろ」
「だって上から何か落ちてきそうじゃない?」
ダルクが顔をしかめた。
「言うな」
「何で?」
「お前が言うと本当に来そうだからだ」
「私にそんな力ないよ」
「なら、何も出ないって言え」
「意外と怖がり?」
「お前な――」
「待て」
レイグが声を落とすと、二人が止まった。右側の壁、その石の角に白い物が付着している。レイグが近づきすぎない位置から剣先で触れると、白い物が剣先に粘りついた。
「糸?」
フィエラが小声で言った。
一本ではなく、壁の窪みから天井へ、太い白い糸が何本も伸びている。さらに少し先の水際には、半透明の殻が落ちていた。蜘蛛の形をしているが、人間の胴ほども大きい。
「……でかくない?」
フィエラの声から軽さが消えた。
「ジャイアントスパイダーだな」
ダルクは兵舎の武器庫で手に入れたスチール製のウォーハンマーを抜く。
「戻るか?」
レイグが聞く。
ダルクは一度、来た道を見た。フィエラも黙ったままだ。しばらくして、ダルクが前を向いた。
「ここまで来たなら、先の出口の方が近い。何匹もいるようなら戻る」
「決まり」
フィエラが弓を構え直し、三人はさらに進んだ。さっきまでの軽口は消え、水の音と、靴底が濡れた石を踏む音が続く。
どこかで、何かが擦れる。
やがて水路が緩く曲がり、その先で石床が広く張り出していた。壁には古い鉄扉があり、二本の水路が合流している。昔は水門の点検に使われていた場所らしく、そこだけなら数人が並んで動ける。
レイグは足を止めた。
「人だ」
前方から複数の声が聞こえ、やがて反対側の水路から探索者の一団が姿を現した。先頭の男を見て、ダルクが小さく呟く。
「……あの盾」
「知ってる人?」
フィエラが聞く。
「知らねえ」
「また盾だけ見てるの?」
「悪いか」
前線拠点で見かけた大男だった。
背中には、あの巨大な盾。
近くで見るとさらに大きく、縁は欠け、表面にも無数の傷が走っている。
大男の後ろには三人の仲間がいた。
双方とも足を止める。
今いる場所は多少広いとはいえ、その先はまた狭い水路で、簡単に横を抜けることはできない。
大男がレイグたちの装備を一通り見る。
「市場側から来たのか」
「ああ」
レイグが答えた。
「蜘蛛は?」
「まだ見てない。糸と抜け殻だけだ」
男の眉がわずかに動いた。
「こっちも同じだ」
本当かどうかは分からず、ダルクも疑っているらしく、盾から手を離さない。
フィエラが口を開きかけた。
ぺたり。
何かがフィエラの肩へ落ちた。
「え?」
白い糸。
レイグは反射的に上を向いた。
「上だ!」
黒い影が落ちてきて、フィエラが横へ跳ぶ。直後、石床へ巨大な脚が叩きつけられた。
ジャイアントスパイダー。
丸く膨れた腹からは、硬い毛に覆われた八本の脚が伸び、頭の下では二本の牙が開閉している。
「散れ!」
大男の叫びに全員が動くが、後ろからも音がした。レイグが振り返ると、来た水路の天井からもう一体が這い降りている。
「挟まれた」
フィエラが矢をつがえる。
さらに大男の仲間が叫んだ。
「ゴルディス! 右だ」
水路の反対側。
壁の窪みから三体目が姿を現した。
「そっちは後ろを頼む」
ゴルディスと呼ばれた大男が叫ぶ。
「こっちは前を止める」
「勝手に決めんな」
ダルクが怒鳴り返した。
それでも身体は後ろを向いている。
「レイグ、来るぞ!」
「ああ」
蜘蛛が走る。細長い脚が濡れた石を叩き、あっという間に距離が縮まった。
レイグは牙の正面に入るのは危険だと見て、剣を構えながら右へ踏み込み、振り下ろされた前脚を斬る。
硬い。
骨ではないが、外殻に刃が食い込みきらない。
「一発じゃ無理だ」
「どけ」
ダルクが前へ出た。
蜘蛛の脚を盾で受け止め、そのまま身体を押し込む。
「今だ!」
レイグが同じ場所へもう一度剣を叩き込むと、脚が折れ、蜘蛛の身体が傾いた。
「もらった」
ダルクがウォーハンマーを振り上げ――途中で止めた。
頭上には低い石の天井がある。
「くそっ」
大振りはできないため、すぐに持ち方を変え、短く引いた槌を横から頭部へ叩きつける。
鈍い音。
蜘蛛が激しく暴れた。
「まだだ」
フィエラの矢が飛び、眼の一つへ突き刺さった。蜘蛛が身体を捻ったところへレイグが踏み込み、頭と腹の境へ剣を突き立てる。嫌な感触が腕に伝わり、蜘蛛は痙攣して、ようやく動きを止めた。
「一体」
フィエラが叫んだ。
その直後。
「レイグ!」
白いものが視界を覆った。
「っ」
身体を捻ったが、避け切れない。
蜘蛛が吐いた糸が左脚に絡みつき、そのまま石床に貼りついた。
レイグは剣を差し込む。
だが糸は何重にも絡まり、すぐには切れない。
「動けない」
「今行く」
フィエラは矢を射るのを諦め、腰のダガーへ手を伸ばしながら、レイグへ駆け寄ろうとする。
「来るな!」
レイグが叫んだ。
遅かった。
もう一体。
壁を這っていた蜘蛛がフィエラの真横へ降り、振り向いた彼女へ牙を開く。
「フィエラ!」
ダルクが飛び込み、大盾が二人の間へ滑り込む。
次の瞬間。
蜘蛛の牙が盾に突き立った。
ばきっ。
木と革が裂ける音。
「ぐっ……」
ダルクの足が滑った。
盾の表面を、黒っぽい液体が流れる。
もう一本の牙は盾の縁を滑り、ダルクの前腕すれすれを通った。
レイグには、ダルクの顔から一瞬で血の気が引き、ほんのわずかに身体が固まるのが見えた。だが、蜘蛛は待ってくれない。
「レイグ」
ダルクの怒鳴り声が水路へ響いた。
「脚をやれ!」
レイグはロングソードを逆手気味に持ち、石床に貼りついた糸の束へ刃先をねじ込んだ。
何度も引くうちに粘つく糸が少しずつ切れ、最後に左脚を強く引くと、残っていた糸も何本か切れて足が動いた。
レイグはそのまま前へ踏み込み、蜘蛛の前脚へ剣を振り下ろす。一度では断てず、同じ場所へもう一撃を入れると、外殻が割れて脚が折れ、蜘蛛が前へ崩れた。
「どけえ」
ダルクが盾を押し上げると蜘蛛の頭が浮き、ウォーハンマーを両手で握り直した。大きく振り上げる余裕はないため、短く引き、腰と肩を使って叩き込む。
ぐしゃり。
蜘蛛の頭部が石床に叩き潰され、黒い液体が跳ねた。
「……っ」
ダルクが肩で息をする。
「まだいる!」
ゴルディスの声が飛んだ。
反対側ではゴルディスたちが最後の蜘蛛と戦い、そのうち一人の男が石床へ倒れていた。
「脚を噛まれた」
仲間が叫ぶ。
「引け」
ゴルディスが大盾を構えたまま後退する。
倒れた男の襟を仲間が掴み、盾の後ろまで引きずった。
「アンチドートを」
「まだだ」
ゴルディスが怒鳴った。
「先にこいつを止めろ! そこでしゃがんだら次が噛まれる」
蜘蛛が大盾へ体当たりしてゴルディスの身体が揺れたが、それでも退かない。
「ダルク」
レイグが叫んだ。
「右だな」
ダルクが走る。
ほんの少し前に顔から血の気が引いた男とは思えない勢いで、ゴルディスの横へ入った。
「右を押さえるぞ!」
「頼む」
幅のある石床に二枚の大盾が並んだ。蜘蛛が脚を振り回すのを、ゴルディスが正面で止め、ダルクが右側から盾を押し込む。
「今だ!」
レイグが踏み込んで蜘蛛の腹へ剣を突き立てるが、浅い。蜘蛛が身体を捻った。
「下がって!」
フィエラの声にレイグが身体を伏せると、頭上を矢が走り、蜘蛛の眼へ突き刺さって動きを止めた。
「ダルク」
「おう」
ウォーハンマーが横から叩き込まれて蜘蛛の身体が傾き、そこへゴルディスが大盾をぶつけると、水路中央へ落ちた。
レイグは蜘蛛を追い、最後に剣を頭部へ深く突き刺した。巨大な脚が何度か水を叩き、やがて力が抜け、濁った水の中へ沈んでいく。
「天井を見ろ!」
水路へ落ちた蜘蛛の脚が、流れに押されて遠ざかっていく。その行方を見送るより先に、ゴルディスの声が全員を動かした。
ゴルディスは盾を頭上へ傾けたまま、蜘蛛が這い出した壁の窪みを睨む。ダルクは来た道を塞ぎ、レイグも反対側の水路へ剣先を向けた。フィエラの弓だけが、二本の退路と天井の亀裂を順に追った。
「薬を飲ませろ。水と布も出せ!」
ゴルディスはまだ盾を下ろさない。仲間の一人が噛まれた男の肩を抱き起こし、もう一人が小瓶の封を切った。
「吐きそうだ……」
「喋れるなら飲め。一気にだ」
男は苦しそうに喉を鳴らした。脚はすでに赤黒く腫れ始め、額には汗が噴き出し、唇も青ざめている。
レイグが手を貸そうと一歩寄った時、ゴルディスの視線がダルクの盾で止まった。
「そのまま負傷者に触るな。牙の毒が垂れてる」
丸い穴から、黒っぽい液が革張りを伝っていた。
ダルクは盾を身体から離し、水路の縁へ膝をつく。レイグが水筒の水を少しずつ流し、ダルクが布で毒と蜘蛛の体液を拭った。牙が刺さった場所は深く抉れ、木の表面と革が裂けている。もう一本の牙が滑った縁にも長い傷が走っていたが、ダルクが腕を通して押してみても、盾そのものはまだ撓まなかった。
「もう少しかけろ」
「残りが減るぞ」
「毒のついた盾で人を担ぐ方がまずい」
「今は水より人」
フィエラの声が飛んだ。彼女は退路へ身体を向けたまま、石床に落ちていた一本の矢まで後ろへ下がる。弓を片手へ移し、踵で矢を止めてから片膝だけを落として拾った。軸に割れがないのを指先で確かめ、すぐ矢筒へ差す。流されていく蜘蛛の眼からは、途中で折れたもう一本の軸が突き出していた。
「こっちは一本だけ戻った。見張るから、そっちお願い」
「分かった」
レイグは水筒を閉じると、噛まれた男のもとへ走った。
薬を飲ませた仲間が傷の周囲を水で洗い、清潔な布を当てていた。レイグが脚を動かさないよう踵を支え、別の男が腫れを締めつけない強さで包帯を巻く。
男の呼吸は荒いままだった。立とうとして膝に力を入れた途端、喉の奥で呻き、レイグの腕へ体重を預けてくる。
「動くな。薬が効くまで待て」
「でも、まだ昼だぞ……」
「だから何だ」
ゴルディスがようやく盾を下ろし、男の前へしゃがんだ。
「歩けない奴を連れて奥へ行けば、次に噛まれるのは担ぐ奴だ。ここで引く」
男の仲間が何か言いかけたが、赤黒い腫れを見て口を閉じた。しばらくして、急激に広がっていた腫れだけが止まり始める。それでも足は石床につけられず、二人がかりで運ぶしかなかった。
迷う余地を残さない撤退の決め方だった。
レイグが立ち上がると、洗い終えた盾を抱えたダルクと目が合った。右手の指先が、革の持ち手の上で小さく震えている。ダルクは気づかれた途端、強く握り込んだ。
「……寒いだけだ」
水路は確かに寒い。だが、レイグの目には、盾へ迫った二本の牙と、そのすぐ向こうにいたダルクの腕がまだ焼きついていた。
フィエラも同じものを見ていたらしい。冗談を言わず、戻ってきた一本の矢をつがえて退路へ向けている。
「お前ら二人とも、そういう顔すんな」
ダルクの声が強くなり、レイグは口を閉じた。フィエラも視線だけを天井へ戻した。そこへゴルディスが歩いてきて、ダルクの傷ついた盾へ目を落とす。
「さっきは助かった」
「そっちが前を止めてたからだ」
「蜘蛛の牙を見て前へ出た奴が、よく言う」
ダルクの顔がわずかに険しくなる。
ゴルディスはそれ以上、何も言わなかった。
「ゴルディス・メランだ」
名乗る。
ダルクも少し間を置いて答えた。
「ダルク・セヴェル」
「覚えた」
「俺もだ」
短いやり取りだった。
フィエラが横から顔を出す。
「よかったね」
「何がだ」
「ずっと盾見てた人と話せて」
「だから盾を見てただけだ」
ダルクの声が水路へ響いた。
ゴルディスが一瞬、目を丸くする。
「盾?」
「何でもねえ」
「前線拠点でね、ダルクが――」
「言うな」
フィエラが吹き出し、ゴルディスも笑った。
「そんなに気になるなら見るか?」
「……いいのか?」
返事が早かった。
フィエラがレイグを見る。
「嬉しそう」
レイグが言うと、ダルクは二人を睨んだ。
「うるせえ」
「私は何も言ってないよ」
「顔が言ってんだよ」
戦いの後の張りつめた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
*
地下水路を出ると、眩しいほどの日差しが目に入った。
「明る……」
フィエラが手で目元を覆う。太陽はかなり高く、もう昼が近い。
ゴルディスたちは負傷した仲間を二人で支え、前線拠点へ戻る道を選んだ。
「じゃあな」
ゴルディスが言う。
ダルクが軽く手を上げる。
「ああ」
フィエラが二人を見比べた。
「次に会った時は、宝の取り合いしてたりして」
「お前は余計なこと言うな」
ダルクが答える。
ゴルディスは少し笑った。
「その時はその時だ」
仲間を支え直して去っていくのを、三人はしばらく見送った。
「いい人だったね」
フィエラが言う。
「まだ分からん」
ダルクはそう言いながら、ゴルディスの大盾を最後まで見ていた。
「見てるじゃん」
「盾だ」
「分かった、分かった」
フィエラは腹に手を当てた。
「それより、お腹空いた」
「お前、さっきまで蜘蛛に食われかけてたのに、もう飯か」
「食われなかったから食べるんでしょ」
「妙に説得力あるな」
レイグも荷袋を背負い直した。
「どこか休める場所を探そう」
「その前に、これだけは見とく」
ダルクは腰袋から小瓶を抜き、封へ親指を当てた。さっき負傷者が飲んだものと同じアンチドートだ。
「……これ一本だけか」
フィエラも瓶を見る。
「噛まれなきゃいいんでしょ」
「それができりゃ、さっきの奴も噛まれてねえよ」
「じゃあダルクが全部盾で止めて」
「俺の盾を何だと思ってんだ!」
「頼れる壁」
「壁じゃねえ」
ダルクは封が緩んでいないことを確かめると、すぐ小瓶を腰袋へ戻した。
レイグは笑ったが、その視線はダルクの盾へ落ちた。毒牙が穿った深い穴と、その横を走る長い傷が残っている。
ほんの少しずれていたら。
レイグは、そこから先を考えるのをやめた。
ダルクも視線に気づいたのか、盾を背中へ回した。
「腹減った」
ぶっきらぼうに言う。
「飯にするぞ」
「さっき私が言ったじゃん」
「俺も腹減ったんだよ」
「素直じゃないなあ」
「何がだ」
三人が歩き出すと、昼の光が崩れた建物の間へ差し込んでいた。
ダルクの右手は、もう震えていなかった。
それでもレイグは、あの手が震えていたことを忘れなかった。




