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明日のないカレグノス  作者: Aramaki_mai
第一部 宝を求める一日
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6/68

第6話 盾の向こう側

挿絵(By みてみん)

レイグはロングソードを抜き、暗闇へ目を凝らした。


音は一度きりで、すぐに水の流れる音へ紛れた。ダルクが大盾を前へ出し、フィエラもコンポジットボウに手を掛ける。


「戻る?」


「まだ何も見てねえ。下まで確認して、まずけりゃ引く」


「その場で決めよう。先へ進むって決めつけるなよ」


「多けりゃ引く。無理に進みゃしねえよ」


三人は互いの位置を確かめ、残りの階段を慎重に下りた。


下まで降りると、中央を濁った水が流れる水路が続いていた。その両側には石の通路があり、場所によって幅は違い、狭いところでは一人ずつしか歩けない。


天井から落ちた水滴が、水面を小さく揺らしていた。


「寒っ」


フィエラが腕をさする。


「さっきまで走り回ってたから余計だろ」


レイグは壁際を歩きながら答えた。左腕には、兵舎前で受けた槍の一撃による鈍い痛みがまだ残っている。包帯の下では腫れも残っていたが、指は動き、剣を振るのにも支障はない。


先頭にレイグ、その半歩後ろにダルクがつき、フィエラは二人から少し距離を取って、背後と天井を交互に確認していた。


「こういうところ嫌いなんだよね」


「さっきも言っただろ」


「だって上から何か落ちてきそうじゃない?」


ダルクが顔をしかめた。


「言うな」


「何で?」


「お前が言うと本当に来そうだからだ」


「私にそんな力ないよ」


「なら、何も出ないって言え」


「意外と怖がり?」


「お前な――」


「待て」


レイグが声を落とすと、二人が止まった。右側の壁、その石の角に白い物が付着している。レイグが近づきすぎない位置から剣先で触れると、白い物が剣先に粘りついた。


「糸?」


フィエラが小声で言った。


一本ではなく、壁の窪みから天井へ、太い白い糸が何本も伸びている。さらに少し先の水際には、半透明の殻が落ちていた。蜘蛛の形をしているが、人間の胴ほども大きい。


「……でかくない?」


フィエラの声から軽さが消えた。


「ジャイアントスパイダーだな」


ダルクは兵舎の武器庫で手に入れたスチール製のウォーハンマーを抜く。


「戻るか?」


レイグが聞く。


ダルクは一度、来た道を見た。フィエラも黙ったままだ。しばらくして、ダルクが前を向いた。


「ここまで来たなら、先の出口の方が近い。何匹もいるようなら戻る」


「決まり」


フィエラが弓を構え直し、三人はさらに進んだ。さっきまでの軽口は消え、水の音と、靴底が濡れた石を踏む音が続く。


どこかで、何かが擦れる。


やがて水路が緩く曲がり、その先で石床が広く張り出していた。壁には古い鉄扉があり、二本の水路が合流している。昔は水門の点検に使われていた場所らしく、そこだけなら数人が並んで動ける。


レイグは足を止めた。


「人だ」


前方から複数の声が聞こえ、やがて反対側の水路から探索者の一団が姿を現した。先頭の男を見て、ダルクが小さく呟く。


「……あの盾」


「知ってる人?」


フィエラが聞く。


「知らねえ」


「また盾だけ見てるの?」


「悪いか」


前線拠点で見かけた大男だった。


背中には、あの巨大な盾。


近くで見るとさらに大きく、縁は欠け、表面にも無数の傷が走っている。


大男の後ろには三人の仲間がいた。


双方とも足を止める。


今いる場所は多少広いとはいえ、その先はまた狭い水路で、簡単に横を抜けることはできない。


大男がレイグたちの装備を一通り見る。


「市場側から来たのか」


「ああ」


レイグが答えた。


「蜘蛛は?」


「まだ見てない。糸と抜け殻だけだ」


男の眉がわずかに動いた。


「こっちも同じだ」


本当かどうかは分からず、ダルクも疑っているらしく、盾から手を離さない。


フィエラが口を開きかけた。


ぺたり。


何かがフィエラの肩へ落ちた。


「え?」


白い糸。


レイグは反射的に上を向いた。


「上だ!」


黒い影が落ちてきて、フィエラが横へ跳ぶ。直後、石床へ巨大な脚が叩きつけられた。


ジャイアントスパイダー。


丸く膨れた腹からは、硬い毛に覆われた八本の脚が伸び、頭の下では二本の牙が開閉している。


「散れ!」


大男の叫びに全員が動くが、後ろからも音がした。レイグが振り返ると、来た水路の天井からもう一体が這い降りている。


「挟まれた」


フィエラが矢をつがえる。


さらに大男の仲間が叫んだ。


「ゴルディス! 右だ」


水路の反対側。


壁の窪みから三体目が姿を現した。


「そっちは後ろを頼む」


ゴルディスと呼ばれた大男が叫ぶ。


「こっちは前を止める」


「勝手に決めんな」


ダルクが怒鳴り返した。


それでも身体は後ろを向いている。


「レイグ、来るぞ!」


「ああ」


蜘蛛が走る。細長い脚が濡れた石を叩き、あっという間に距離が縮まった。


レイグは牙の正面に入るのは危険だと見て、剣を構えながら右へ踏み込み、振り下ろされた前脚を斬る。


硬い。


骨ではないが、外殻に刃が食い込みきらない。


「一発じゃ無理だ」


「どけ」


ダルクが前へ出た。


蜘蛛の脚を盾で受け止め、そのまま身体を押し込む。


「今だ!」


レイグが同じ場所へもう一度剣を叩き込むと、脚が折れ、蜘蛛の身体が傾いた。


「もらった」


ダルクがウォーハンマーを振り上げ――途中で止めた。


頭上には低い石の天井がある。


「くそっ」


大振りはできないため、すぐに持ち方を変え、短く引いた槌を横から頭部へ叩きつける。


鈍い音。


蜘蛛が激しく暴れた。


「まだだ」


フィエラの矢が飛び、眼の一つへ突き刺さった。蜘蛛が身体を捻ったところへレイグが踏み込み、頭と腹の境へ剣を突き立てる。嫌な感触が腕に伝わり、蜘蛛は痙攣して、ようやく動きを止めた。


「一体」


フィエラが叫んだ。


その直後。


「レイグ!」


白いものが視界を覆った。


「っ」


身体を捻ったが、避け切れない。


蜘蛛が吐いた糸が左脚に絡みつき、そのまま石床に貼りついた。


レイグは剣を差し込む。


だが糸は何重にも絡まり、すぐには切れない。


「動けない」


「今行く」


フィエラは矢を射るのを諦め、腰のダガーへ手を伸ばしながら、レイグへ駆け寄ろうとする。


「来るな!」


レイグが叫んだ。


遅かった。


もう一体。


壁を這っていた蜘蛛がフィエラの真横へ降り、振り向いた彼女へ牙を開く。


「フィエラ!」


ダルクが飛び込み、大盾が二人の間へ滑り込む。


次の瞬間。


蜘蛛の牙が盾に突き立った。


ばきっ。


木と革が裂ける音。


「ぐっ……」


ダルクの足が滑った。


盾の表面を、黒っぽい液体が流れる。


もう一本の牙は盾の縁を滑り、ダルクの前腕すれすれを通った。


レイグには、ダルクの顔から一瞬で血の気が引き、ほんのわずかに身体が固まるのが見えた。だが、蜘蛛は待ってくれない。


「レイグ」


ダルクの怒鳴り声が水路へ響いた。


「脚をやれ!」


レイグはロングソードを逆手気味に持ち、石床に貼りついた糸の束へ刃先をねじ込んだ。


何度も引くうちに粘つく糸が少しずつ切れ、最後に左脚を強く引くと、残っていた糸も何本か切れて足が動いた。


レイグはそのまま前へ踏み込み、蜘蛛の前脚へ剣を振り下ろす。一度では断てず、同じ場所へもう一撃を入れると、外殻が割れて脚が折れ、蜘蛛が前へ崩れた。


「どけえ」


ダルクが盾を押し上げると蜘蛛の頭が浮き、ウォーハンマーを両手で握り直した。大きく振り上げる余裕はないため、短く引き、腰と肩を使って叩き込む。


ぐしゃり。


蜘蛛の頭部が石床に叩き潰され、黒い液体が跳ねた。


「……っ」


ダルクが肩で息をする。


「まだいる!」


ゴルディスの声が飛んだ。


反対側ではゴルディスたちが最後の蜘蛛と戦い、そのうち一人の男が石床へ倒れていた。


「脚を噛まれた」


仲間が叫ぶ。


「引け」


ゴルディスが大盾を構えたまま後退する。


倒れた男の襟を仲間が掴み、盾の後ろまで引きずった。


「アンチドートを」


「まだだ」


ゴルディスが怒鳴った。


「先にこいつを止めろ! そこでしゃがんだら次が噛まれる」


蜘蛛が大盾へ体当たりしてゴルディスの身体が揺れたが、それでも退かない。


「ダルク」


レイグが叫んだ。


「右だな」


ダルクが走る。


ほんの少し前に顔から血の気が引いた男とは思えない勢いで、ゴルディスの横へ入った。


「右を押さえるぞ!」


「頼む」


幅のある石床に二枚の大盾が並んだ。蜘蛛が脚を振り回すのを、ゴルディスが正面で止め、ダルクが右側から盾を押し込む。


「今だ!」


レイグが踏み込んで蜘蛛の腹へ剣を突き立てるが、浅い。蜘蛛が身体を捻った。


「下がって!」


フィエラの声にレイグが身体を伏せると、頭上を矢が走り、蜘蛛の眼へ突き刺さって動きを止めた。


「ダルク」


「おう」


ウォーハンマーが横から叩き込まれて蜘蛛の身体が傾き、そこへゴルディスが大盾をぶつけると、水路中央へ落ちた。


レイグは蜘蛛を追い、最後に剣を頭部へ深く突き刺した。巨大な脚が何度か水を叩き、やがて力が抜け、濁った水の中へ沈んでいく。


「天井を見ろ!」


水路へ落ちた蜘蛛の脚が、流れに押されて遠ざかっていく。その行方を見送るより先に、ゴルディスの声が全員を動かした。


ゴルディスは盾を頭上へ傾けたまま、蜘蛛が這い出した壁の窪みを睨む。ダルクは来た道を塞ぎ、レイグも反対側の水路へ剣先を向けた。フィエラの弓だけが、二本の退路と天井の亀裂を順に追った。


「薬を飲ませろ。水と布も出せ!」


ゴルディスはまだ盾を下ろさない。仲間の一人が噛まれた男の肩を抱き起こし、もう一人が小瓶の封を切った。


「吐きそうだ……」


「喋れるなら飲め。一気にだ」


男は苦しそうに喉を鳴らした。脚はすでに赤黒く腫れ始め、額には汗が噴き出し、唇も青ざめている。


レイグが手を貸そうと一歩寄った時、ゴルディスの視線がダルクの盾で止まった。


「そのまま負傷者に触るな。牙の毒が垂れてる」


丸い穴から、黒っぽい液が革張りを伝っていた。


ダルクは盾を身体から離し、水路の縁へ膝をつく。レイグが水筒の水を少しずつ流し、ダルクが布で毒と蜘蛛の体液を拭った。牙が刺さった場所は深く抉れ、木の表面と革が裂けている。もう一本の牙が滑った縁にも長い傷が走っていたが、ダルクが腕を通して押してみても、盾そのものはまだ撓まなかった。


「もう少しかけろ」


「残りが減るぞ」


「毒のついた盾で人を担ぐ方がまずい」


「今は水より人」


フィエラの声が飛んだ。彼女は退路へ身体を向けたまま、石床に落ちていた一本の矢まで後ろへ下がる。弓を片手へ移し、踵で矢を止めてから片膝だけを落として拾った。軸に割れがないのを指先で確かめ、すぐ矢筒へ差す。流されていく蜘蛛の眼からは、途中で折れたもう一本の軸が突き出していた。


「こっちは一本だけ戻った。見張るから、そっちお願い」


「分かった」


レイグは水筒を閉じると、噛まれた男のもとへ走った。


薬を飲ませた仲間が傷の周囲を水で洗い、清潔な布を当てていた。レイグが脚を動かさないよう踵を支え、別の男が腫れを締めつけない強さで包帯を巻く。


男の呼吸は荒いままだった。立とうとして膝に力を入れた途端、喉の奥で呻き、レイグの腕へ体重を預けてくる。


「動くな。薬が効くまで待て」


「でも、まだ昼だぞ……」


「だから何だ」


ゴルディスがようやく盾を下ろし、男の前へしゃがんだ。


「歩けない奴を連れて奥へ行けば、次に噛まれるのは担ぐ奴だ。ここで引く」


男の仲間が何か言いかけたが、赤黒い腫れを見て口を閉じた。しばらくして、急激に広がっていた腫れだけが止まり始める。それでも足は石床につけられず、二人がかりで運ぶしかなかった。


迷う余地を残さない撤退の決め方だった。


レイグが立ち上がると、洗い終えた盾を抱えたダルクと目が合った。右手の指先が、革の持ち手の上で小さく震えている。ダルクは気づかれた途端、強く握り込んだ。


「……寒いだけだ」


水路は確かに寒い。だが、レイグの目には、盾へ迫った二本の牙と、そのすぐ向こうにいたダルクの腕がまだ焼きついていた。


フィエラも同じものを見ていたらしい。冗談を言わず、戻ってきた一本の矢をつがえて退路へ向けている。


「お前ら二人とも、そういう顔すんな」


ダルクの声が強くなり、レイグは口を閉じた。フィエラも視線だけを天井へ戻した。そこへゴルディスが歩いてきて、ダルクの傷ついた盾へ目を落とす。


「さっきは助かった」


「そっちが前を止めてたからだ」


「蜘蛛の牙を見て前へ出た奴が、よく言う」


ダルクの顔がわずかに険しくなる。


ゴルディスはそれ以上、何も言わなかった。


「ゴルディス・メランだ」


名乗る。


ダルクも少し間を置いて答えた。


「ダルク・セヴェル」


「覚えた」


「俺もだ」


短いやり取りだった。


フィエラが横から顔を出す。


「よかったね」


「何がだ」


「ずっと盾見てた人と話せて」


「だから盾を見てただけだ」


ダルクの声が水路へ響いた。


ゴルディスが一瞬、目を丸くする。


「盾?」


「何でもねえ」


「前線拠点でね、ダルクが――」


「言うな」


フィエラが吹き出し、ゴルディスも笑った。


「そんなに気になるなら見るか?」


「……いいのか?」


返事が早かった。


フィエラがレイグを見る。


「嬉しそう」


レイグが言うと、ダルクは二人を睨んだ。


「うるせえ」


「私は何も言ってないよ」


「顔が言ってんだよ」


戦いの後の張りつめた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。


*


地下水路を出ると、眩しいほどの日差しが目に入った。


「明る……」


フィエラが手で目元を覆う。太陽はかなり高く、もう昼が近い。


ゴルディスたちは負傷した仲間を二人で支え、前線拠点へ戻る道を選んだ。


「じゃあな」


ゴルディスが言う。


ダルクが軽く手を上げる。


「ああ」


フィエラが二人を見比べた。


「次に会った時は、宝の取り合いしてたりして」


「お前は余計なこと言うな」


ダルクが答える。


ゴルディスは少し笑った。


「その時はその時だ」


仲間を支え直して去っていくのを、三人はしばらく見送った。


「いい人だったね」


フィエラが言う。


「まだ分からん」


ダルクはそう言いながら、ゴルディスの大盾を最後まで見ていた。


「見てるじゃん」


「盾だ」


「分かった、分かった」


フィエラは腹に手を当てた。


「それより、お腹空いた」


「お前、さっきまで蜘蛛に食われかけてたのに、もう飯か」


「食われなかったから食べるんでしょ」


「妙に説得力あるな」


レイグも荷袋を背負い直した。


「どこか休める場所を探そう」


「その前に、これだけは見とく」


ダルクは腰袋から小瓶を抜き、封へ親指を当てた。さっき負傷者が飲んだものと同じアンチドートだ。


「……これ一本だけか」


フィエラも瓶を見る。


「噛まれなきゃいいんでしょ」


「それができりゃ、さっきの奴も噛まれてねえよ」


「じゃあダルクが全部盾で止めて」


「俺の盾を何だと思ってんだ!」


「頼れる壁」


「壁じゃねえ」


ダルクは封が緩んでいないことを確かめると、すぐ小瓶を腰袋へ戻した。


レイグは笑ったが、その視線はダルクの盾へ落ちた。毒牙が穿った深い穴と、その横を走る長い傷が残っている。


ほんの少しずれていたら。


レイグは、そこから先を考えるのをやめた。


ダルクも視線に気づいたのか、盾を背中へ回した。


「腹減った」


ぶっきらぼうに言う。


「飯にするぞ」


「さっき私が言ったじゃん」


「俺も腹減ったんだよ」


「素直じゃないなあ」


「何がだ」


三人が歩き出すと、昼の光が崩れた建物の間へ差し込んでいた。


ダルクの右手は、もう震えていなかった。


それでもレイグは、あの手が震えていたことを忘れなかった。


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