第5話 屋根を走る女
旧市場を見下ろす屋根の上で、リュシェナ・ヴァルクは片膝をつき、割れた瓦の隙間から下の通りを覗いていた。
かつては布や香辛料、食器、薬まで何でも揃った場所だったのだろう。今は崩れた店が並び、石畳には腐った木箱や壊れた荷車が転がっている。
人の声や剣がぶつかる音もときおり聞こえてくるが、わざわざ屋根まで上がってくる探索者はほとんどいない。リュシェナには、その方が都合がよかった。
「……来た」
通りの向こうに、石橋の近くで一度見かけた三人組が現れた。
先頭の男が腰に帯びた剣は先ほどまでの物とは違い、汚れた鞘に収まっているが、柄も鍔も明らかにいい。
大盾の男も斧ではなくウォーハンマーを下げ、弓の女の矢筒も膨らんでいた。
「兵舎で当たりを引いたか」
三人とも大きな傷はないが、剣を持った男の左腕には新しい包帯が巻かれている。戦いに勝って装備を手に入れ、それでもまだ先へ進めるだけの余力を残していた。
悪くない三人組だった。リュシェナが彼らの進む先へ目を向けると、半分屋根の落ちた薬屋がある。入口の板戸は壊れ、店内にはゴブリンが入り込んでいることを、少し前に確認していた。
自分で入って倒してもいい。
だが、剣を振れば疲れ、怪我をする可能性もあるうえ、薬が一本も残っていなければ丸損だ。
なら、先に誰かに開けてもらえばいい。リュシェナが周囲を見ると、薬屋の横には壊れた窓があり、屋根の反対側には破れた天幕があって、逃げ道にも使える。足元には、少し蹴れば落ちそうな欠けた瓦が一枚あった。
「頼んだよ」
もちろん下の三人には聞こえず、リュシェナは屋根に身体を伏せた。
*
「まだ触ってる」
フィエラに言われ、ダルクが顔をしかめた。
「触ってねえ」
「今触ったじゃん」
「位置を確かめてんだよ。振る時に引っかかったら困るだろ」
言いながら、また腰のウォーハンマーを押さえている。
フィエラがレイグを見る。
「気に入ってるよね」
「かなりな」
「お前まで言うな」
ダルクが怒鳴った。
レイグは笑いながら旧市場の通りを進んだ。自分の腰にも兵舎で手に入れたスチールロングソードがあるので、人のことは言えない。今までの剣より少し重いが、握った時の頼もしさが違った。
ただ、装備が良くなっても身体まで新しくなったわけではなく、歩くたびに左腕の奥が鈍く痛んだ。
包帯の下の擦り傷より、城門近くで槍を受けた時の打撲の方が厄介だ。
「腕、大丈夫?」
フィエラが聞いた。
「まだ痛い。でも動く」
「痛みが増えたら言ってよ」
「ああ」
「こいつの『大丈夫』は半分くらい疑っとけ」
ダルクが横から言う。
「何でだよ」
「さっき見ただろ」
レイグが言い返そうとしたところでフィエラが右手を上げ、二人とも足を止める。さっきまでの軽い空気が消えた。
「いる」
フィエラが声を落とした。通りの右側にある半壊した店の入口には、薬草を束ねた形の古い看板が残っている。暗い店内から、何かを引っかき回す音が聞こえていた。
「薬屋か」
ダルクが目を細める。
「当たりかもしれねえな」
「中身が残ってればね」
フィエラがコンポジットボウを手へ移し、レイグもロングソードを抜いた。
「俺が先に見る」
「左腕、忘れんなよ」
レイグは指を開閉してみせた。
「痺れが戻ったら止まる」
三人が入口へ近づくと、店の中は荒れ果て、棚のほとんどが倒れ、床には割れた瓶が散乱していた。その奥で、小柄な影が動く。
「ギッ」
緑色の顔がこちらを向いた。ゴブリンだ。しかも一体ではなく、棚の陰から二体目、さらに奥から三体目が姿を現した。
「三体」
フィエラが矢をつがえる。
一体が錆びた短剣を持って走ってきた。
「来るぞ」
レイグが踏み込み、ゴブリンの突き出した短剣をバックラーで外へ弾く。左腕に痛みが走ったが、レイグは動きを止めず、開いた肩口へ右手の剣を振り下ろした。スチールの刃が深く入り、ゴブリンが床へ倒れる。
「右!」
ダルクの声に反応して右を向くと、別のゴブリンが割れた木盾を前へ出して突っ込んでくる。ダルクがウォーハンマーを抜いた。
「ちょうどいい」
「何が」
「試す」
盾同士をぶつけずに半歩横へずれ、直後、ウォーハンマーを横から振った。
ガンッ、と重い音が響く。
木盾が大きくへこみ、ゴブリンが身体ごと棚へ叩きつけられた。
ダルクは思わずにやけた。
「いいな、これ」
「今それ言う?」
フィエラが叫んだ。
最後の一体が床へ手を伸ばす。
さっき棚から転がり落ちたらしい小瓶を拾い、慌てて歯で栓を抜こうとした。
「薬!」
ダルクの声が裏返るのと同時にフィエラの矢が飛び、矢じりがゴブリンの手首を打って、小瓶が宙を舞った。
「割るな!」
「無茶言わないで」
瓶は床へ落ちた。
ぱりん。
「あああっ」
「私じゃなくてゴブリンに怒って」
「薬が」
「敵まだいるから」
フィエラの言う通りだった。
手を傷つけられたゴブリンが、今度は床に落ちていた錆びた剣を拾う。
「ほんと何でも使うな」
レイグが前へ出た。
剣を受け、押し返す。
ゴブリンの身体が開いたところへ、フィエラの二本目の矢が胸へ突き刺さった。
動きが止まったところへレイグが剣を振り抜き、最後の一体が倒れた。
「周り!」
レイグは入口へ背を向けずに下がり、通りを剣越しに見張った。店の奥では、ダルクが倒れた棚を盾の縁で押して隙間を覗く。フィエラは壊れた窓から外を見たあと、矢を向けたまま棚の裏へ回った。聞こえるのは、割れた瓶の破片を靴が踏む音だけだった。
「……よし」
レイグがようやく剣を下ろす。
「終わりだ」
「瓶も終わった」
ダルクが割れた小瓶のそばへしゃがんだ。
「そんなに落ち込まなくても」
フィエラが矢を回収しながら言う。
「中身、何だったか分かんないでしょ」
「薬屋の瓶だぞ」
「毒かもしれないし」
「だったらゴブリンが飲もうとするか?」
「腹でも痛かったんじゃない?」
「適当なこと言うな」
レイグは二人を放って店の奥へ進んだが、倒れた棚や空の箱、腐った布ばかりで、使えそうな物はほとんどない。
「こっち、開かない」
フィエラが奥の小さな戸棚を引いていたが、木が湿気で膨らみ、枠に食い込んでいる。
「ダルク」
「また俺か」
「力持ちだから」
「便利に使いやがって」
文句を言いながらも、ダルクは取っ手を掴み、一度引き、もう一度引いて、最後に力を込めると木が軋み、扉が開いた。
三人の目が中へ向く。
「……お」
ダルクの声が変わった。戸棚には瓶が三本残り、二本には赤みがかった液体、もう一本には淡い緑色の液体が入っていた。
レイグは三本をまだ立っているカウンターへ運び、一本ずつ封と中身を確かめた。
「濁ってないな」
フィエラも小瓶を光に透かす。
「封も破れてない」
ダルクが赤い瓶を一本持ち上げた。
「これ、かなりいいヒールポーションだぞ」
「兵舎のより?」
「あっちも使えるが、こっちは保存状態がいい」
「売ったら?」
「高い」
即答だった。
フィエラが呆れる。
「飲むって発想ないの?」
「重傷なら飲む! 軽傷なら売る!」
「命とお金、どっちが大事なの?」
「両方だ」
「答えになってないよ」
レイグも笑った。
「緑は?」
ダルクが瓶を確かめる。
「解毒薬のアンチドートだな。これも問題なさそうだ」
「それは持っておこう」
「ああ」
ダルクはアンチドートを腰袋にしまった。残った二本を誰が持つか、レイグが決めようとした、その時だった。
からん。
店の奥で瓦の欠片が落ちた。
三人が同時にそちらを見たが、誰もいない。
「何だ?」
レイグが一歩動いた。
直後。
横の壊れた窓から、人影が飛び込んできた。
女だった。
着地した音すら小さい。
「あ」
フィエラが声を漏らした。
前線拠点で、遠くの屋根を走っていた女。
その手がカウンターへ伸びる。
ヒールポーションを二本まとめて掴んだ。
「それ、もらう」
「――は?」
フィエラが固まった。
ダルクの顔が引きつる。
「おい」
レイグが女と窓の間へ動こうとするが、遅い。女はカウンターを蹴り、入ってきた窓枠へ足を掛けた。
「ありがと」
「ちょっと待てえっ!」
フィエラが叫んだ。
女が窓から飛び出す。
「フィエラ、待て!」
レイグが止めた時には、もうフィエラも窓枠へ飛びついていた。
「返せ」
「おい、馬鹿」
ダルクが怒鳴る。
「誰が馬鹿よ」
「今のお前だ」
フィエラは張り出した屋根へ飛び乗り、そのまま走っていった。
レイグが入口へ顎を向けた時には、ダルクももう盾を背負い直していた。
「追うぞ!」
「遅れるか」
二人は入口から通りへ飛び出した。
*
「何で屋根なんだよ」
ダルクが走りながら怒鳴った。
「俺に聞くな」
旧市場の通りを走るレイグとダルクは、頭上の二人を追った。女は速く、崩れた屋根を斜めに駆け、低い建物から隣の庇へ移っても、ほとんど速度が落ちない。フィエラもその後を追っている。
「待ちなさい」
「待てと言われて待つ泥棒がいる?」
「いないけど言わせて」
女が走りながら振り返り、足元の朽ちた板を蹴った。
板がフィエラの進路へ滑る。
「フィエラ!」
フィエラが急停止した。
その間に距離が開く。
「もうっ」
フィエラは弓を背中へ回して両腕を軽く開き、その足元で一瞬、埃が舞った。
「ウィンドステップ」
足元へ集めた風が身体を強く前へ押し出し、フィエラが一気に加速した。
「速っ」
ダルクが思わず上を見る。
「前見ろ」
「見てる」
レイグたちも下の通りを走り続ける。屋根の上では、女が初めて何度も後ろを見るようになり、フィエラとの距離が詰まっていた。
屋根の縁の先には、細い路地を挟んだ隣の建物がある。女が飛び、フィエラも続いた。
着地した瞬間、フィエラがダガーを抜いた。
「返して」
「嫌」
女も腰のダガーを抜く。
「即答するな」
フィエラが踏み込むと金属音が響き、女が刃を受けた。一合、二合と打ち合いながらフィエラがさらに距離を詰め、女は後ろへ下がりながら受け流す。
「フィエラ、深追いするな!」
レイグが下から叫ぶ。
「もうしてる」
「次の屋根で下りろ。薬は俺たちが取り返す」
「薬返してもらってから」
「薬二本で殺し合う気?」
女が言った。
「盗った本人が言う?」
フィエラがダガーを振ると、女が身体を沈め、刃が髪の先をかすめた。直後、女のダガーが返り、レイグの心臓が跳ねる。
「フィエラ!」
だが、刃は喉まで届かず、フィエラの手首の外側を打ってダガーの軌道だけを外した。続けて女がフィエラの太ももを蹴った。
「っ」
フィエラがよろめく間に、女は距離を取った。女が急所を狙わなかったことは、レイグにも分かった。女は再び走り出す。
「逃がすか!」
フィエラも追う。
その頃には、レイグとダルクも次の交差路まで回り込んでいた。
屋根の先から下りれば正面にはレイグ、左の路地にはダルクがいる。女は屋根の端から二人を見下ろした。後ろからはフィエラが迫り、前へ下りれば二人が待ち受けている。
「……思ったより面倒」
初めて余裕のない声が漏れた。
「誰が面倒よ」
フィエラが迫る中、女は一瞬だけ周囲を見て、レイグたちのいる通りとは反対側へ走った。
「おい、そっちは――」
屋根の下には、古い布天幕の骨組みが残っていた。女は跳んで身体を落とし、破れた天幕に足をついて衝撃を殺す。そのまま木枠を蹴り、向かいの建物の庇に手を掛けると、一息に身体を引き上げた。
「何なの、あの動き」
フィエラが屋根の端から叫んだ。
女はもう次の屋根へ向かっている。
「次会ったら絶対捕まえるから!」
フィエラが声を張った。
「名前は!」
女の足が、一瞬だけ止まった。
振り返る。
「リュシェナ」
「何?」
「リュシェナ・ヴァルク」
口角をわずかに上げる。
「覚えて追ってくるなら、好きにしな」
「覚えたから!」
「あと――」
リュシェナが城壁の方角へ目を向ける。
「霧が来る前には帰りな」
フィエラの顔が険しくなった。
「盗んだ奴に心配されたくない」
「心配じゃない」
リュシェナは奪った瓶を軽く持ち上げた。
「薬二本で死なれたら、さすがに後味が悪い」
「だったら返して」
「それは嫌」
「こいつ」
フィエラがまた走り出した時にはもう遅く、リュシェナは屋根から屋根へ飛び移り、崩れた建物の向こうへ消えていった。
*
薬屋へ戻っても、フィエラの機嫌は直らなかった。
「絶対、最初から狙ってたよね」
「たぶんな」
レイグが答える。
「私たちにゴブリン倒させて、上で待ってたんだよ」
「だから一人で追うなって言っただろ」
ダルクが荷袋を開きながら言った。
「逃がしたら薬なくなるじゃん」
「追って刺されてもなくなるだろうが」
フィエラが反論しかけたが、さっき刃で手首の外側を打たれたのを思い出したのか、口を閉じた。
レイグも荷物を確認する。兵舎で得たヒールポーション二本、持ち込んだ薬、包帯、水、食料、武器、矢はすべてあり、アンチドートもダルクの腰袋に入っている。
奪われたのは、薬屋で見つけた高品質のヒールポーション二本だけだった。
「痛いけど、これで済んだならまだいい」
レイグが言う。
「金額的には全然よくねえ」
ダルクが低い声で答えた。
フィエラが呆れる。
「まだ値段のこと考えてるの?」
「高品質のヒールポーション二本だぞ」
「拾った物でしょ」
「拾ったら俺たちの財産だ」
フィエラが少し笑い、ようやく怒りが抜け始めた。
「次会ったら取り返す」
「もう持ってねえかもしれねえぞ」
「じゃあ何か別の物を――」
ダルクがじっとフィエラを見る。
「何?」
「お前、あいつと同じ側に行きかけてるぞ」
フィエラが黙った。
レイグが吹き出す。
「笑うな」
「悪い」
フィエラはしばらく睨んでいたが、最後には自分でも笑い、三人は薬屋を出た。旧市場の通りにはさっきより探索者が増え、別の店の前では二組の男たちが怒鳴り合っていた。
「先に見つけたのはこっちだ」
「中の魔物を倒したのは俺たちだろうが」
一人が相手の胸を押し、周囲にも人が集まり始めるのを見て、ダルクが嫌そうに顔をしかめた。
「ここで人間相手に消耗する方が馬鹿らしい」
「どうする?」
レイグが聞く。
「市場裏から水路へ下りる」
ダルクが通りの先を指す。
「地下を抜けた方がいい。少なくとも、あの騒ぎに巻き込まれずに済む」
レイグが市場の人混みへ目を向けると、まだ黒い霧は見えず、帰る時間でもない。
「行こう」
「賛成」
フィエラも頷き、三人は市場跡の裏手へ回った。崩れた石壁の脇には地下へ続く階段が残り、下から湿った空気とともに水や苔、冷えた石の匂いが上がってくる。フィエラが暗闇を覗き込んだ。
「こういうところって、絶対何かいるよね」
「縁起でもねえこと言うな」
ダルクが盾を構える。
「でもいないと思う?」
「思わねえから言うな」
レイグも剣の柄に手を置いた。
「行くぞ」
ダルクが先頭で階段を下り、レイグが続き、フィエラも最後に市場側を確認してから足を踏み入れた。
さらに数段下るにつれて地上の怒鳴り声が遠ざかり、代わりに水が流れる音が大きくなって、光も弱くなる。
そして。
暗闇の奥から――。
かさり。
硬いものが、石の上を擦るような音がした。
三人の足が同時に止まった。




