第67話 三人で帰る
銀色の光だけが残っていた。
砕けた祭壇の中央から床へこぼれた光が、細い筋となって石の亀裂に沿っている。
レイグは頬を冷たい床につけたまま、それを見ていた。祭壇の脇ではザイルが倒れ、《生命の雫》ももうない。数歩先のロングソードへ這う理由さえ、身体から抜け落ちていた。
右の脇腹が熱い。
呼吸をするたび、傷の奥が引きつる。肩と上腕にも斬られた痛みが残り、床についた左手にはほとんど力が入らなかった。
右手を握り直しても、石床を掻く指には力が戻らなかった。
「勝手に……終わらせんな……」
横からかすれた声がし、レイグが顔を向けると、ダルクがいた。
砕けた大盾の残骸が周囲に散り、右脚からはまだ血が滲んでいる。左腕は身体の横に落ちたままで、右肘だけを床について何とか上体を起こそうとしていた。
「まだ動くな」
「止めるなら……先に自分を見ろ」
床を押す。
腕が震え、身体が数寸ほど持ち上がった。
すぐに崩れた。
「くそっ……」
悔しそうに石床を殴るダルクの少し先では、フィエラも壁際に身体を横たえていた。
左太ももの傷を押さえていた布は赤く染まり、折れたコンポジットボウは手の届かない場所まで転がっている。
「ダルク」
フィエラが苦しそうに息を吐いた。
「じっとしてなよ。さっきから……全然立ててないじゃん」
「うるせえ……今度はいける」
「その台詞、もう何回目?」
「数えてねえよ」
「じゃあ私も数えてない」
「なら聞くな……」
声は弱く身体も動かないのに、まだ言い合っているいつもの二人だった。
レイグは口元をわずかに緩めたが、すぐに息を詰めた。笑うだけで脇腹が痛んだ。
その時、回廊の奥から低い音が響いた。
三人とも顔を上げる。
礼拝堂へ続く入口の向こう。
暗い回廊の床を、さらに濃い黒が這っていた。
霧だ。
「……来たか」
ダルクが呟く。
王城へ入ってから、戦いと崩落が途切れず続き、どれほど時が過ぎたのかも分からない。
本来なら、まだ深夜には遠い。だが外周からの強風に押し込まれた黒い霧は、もう王城地下まで入り込んでいた。
あれに呑まれれば、十二鐘が鳴るまで死んだままだ。鐘が鳴れば傷も死者も朝の姿へ戻り、ダルクとフィエラは今日を忘れる。
「……またかよ」
レイグは目を閉じた。
何度でも話し直せる。何度でも信じてもらい、ここまで来られる。
けれど、今ここで血を流す二人は、この一日で終わる。
「レイグ」
フィエラが呼んだ。
「何だ」
「光」
「……光?」
「動いてる」
レイグが祭壇へ顔を向けると、砕けた石の間に残っていた銀色がゆっくり流れ始めていた。
それは水ではなく、石床を濡らしているわけでもない。
細い光の筋だけが亀裂から抜け出し、いくつも重なりながら礼拝堂の右奥へ向かっていく。
「何だ……?」
レイグは右手で床を押し、どうにか上体を起こした。
光は祭壇から数歩離れた壁際の一か所へ集まりつつ、淡い銀色を帯びて揺らめいている。
そこに扉も裂け目もなく、ただ一角だけ空気の色が違って見え、レイグは息を呑んだ。
つい先ほどザイルが《生命の雫》を使った時にも銀色の光は似た動きをし、その先に細い裂け目が生まれかけた。
「まさか……」
レイグは右腕で身体を引き、一尺ほど進む。
脇腹へ激痛が走った。
「っ……」
止まり、荒く息を吐く。
それでも、もう一度床へ手を伸ばした。
「おい」
ダルクの声がしても、レイグは振り返らない。
「何だ」
「行け」
手が止まった。
「……何?」
「そこまでなら、お前は行ける」
レイグがゆっくり振り返ると、ダルクは床に横たわったまま銀色の光を見ていた。
「出口かどうか分からない」
「なら確かめろ」
「でも――」
「そのためにここまで来たんだろうが!」
怒鳴った声の最後がかすれ、ダルクは息を整えようとしたが、胸は大きく上下していた。
「母親と妹のところへ帰って、今度こそ待たせたくねえって……お前が言ったんだろ」
「言った」
「だったら行けよ」
レイグは何も返せなかった。
「私もそう思う」
フィエラが言った。
壁に背を預けようと身体を動かしたものの、左脚に力がかかった途端、顔を歪めた。
「っ……痛……」
「動くなって」
「レイグに言われたくないよ」
それでもフィエラは顔を上げた。
「帰りたいんでしょ?」
床へついた右手の指が、石の継ぎ目へ食い込んだ。
帰りたい。
本当に。
何度も思った。
母に会いたい。
ネリナに会いたい。
自分が遺跡から帰らなかった夜を、二人に迎えさせたくない。
まだ帰る方を選べた時へ戻れるなら、今度こそ帰りたい。
もう一度、二人の声を聞きたい。
レイグが銀光へ顔を向けると、そこまでは遠くなく、今の身体でも這えば届くかもしれない。
出口だという保証はないが、何もないとも言い切れない。
ザイルの時とは違い、銀色の光はまだ消えていない。
レイグは右手を前へ伸ばした。
床を掴む。
身体を引く。
脇腹から血が流れた。
「ぐっ……」
それでも進んだ。
一度。
もう一度。
銀色が少し近くなる。
銀光へ進むほど、背後の二人の息遣いが遠ざかった。その距離は、裂けた脇腹よりも堪えた。
帰れるかもしれない。
今度こそ、この朝から。
まだ帰れた時へ続くのか、確かめるために。
「そうだ……」
ダルクが言った。
「そのまま行け」
その声とは裏腹に、背後で金属片が小さく鳴った。振り返ると、ダルクがまた身体を起こそうとしていた。
右腕だけで床を押し、血の滲む右脚にも無理に力を入れ、立とうとしている。
「何してんだ」
「お前は見るな」
「動くなって言ってるだろ!」
「うるせえ! こっちは勝手にする!」
身体が持ち上がる。
次の瞬間、右脚が崩れた。
「っ……」
ダルクは肩から床へ落ちた。
「ダルク!」
「来んな」
怒鳴られ、レイグの身体が止まる。
「行けって言ってんだろ!」
ダルクの拳が石床を叩いた。
「こっち来ても何もできねえ! お前まで動けなくなったら、それこそ全部無駄だろうが!」
正しい。今戻っても、レイグ一人でダルクを運べるとは思えない。フィエラも立てず、レイグ自身もやっと這える程度だ。
「今回駄目でも……」
フィエラの声がしたが、その先をレイグは聞きたくなかった。
次の朝には戻る――たぶん、そう言おうとした。同じ顔と声の二人が、またそこにいる。
その言葉を聞く前に、生前の記憶が蘇った。
『もう十分だろ。帰るぞ』
暗い地下遺跡で、ダルクが言った。
『私も賛成。もう荷物重いし』
フィエラも笑っていた。十分な宝があり、そこで終わらせれば帰れた。
なのにレイグは奥を見た。まだ何かあるかもしれない、もう少しだけ――そう考えて、自分の望みを優先した。
二人は止めた。それでも最後には、レイグを一人にできず、ついてきた。そして、三人とも死んだ。
そこへ別の光景が重なる。黒い霧が迫る中、瓦礫の下にいたネヴァルは、家族と帰る約束をしていた。
逃げるべきだった。それでも置いていけなかった。
そして朝が何度戻っても、ダルクとフィエラは忘れた。信じてもらったことも、約束も、喧嘩さえ忘れた。
それでもまた最後には、二人はレイグの隣へ来た。
「……無理だ」
レイグは呟いた。
「何?」
フィエラが聞き返す。
レイグは、揺れる銀色の光へ伸ばしていた手を引いた。
「無理だよ」
身体の向きを変える。
「お前ら置いて帰るなんて、俺には無理だ」
「馬鹿」
ダルクの怒声が飛んだ。
「来んな」
「うるさい」
「お前だけでも行け」
「嫌だ」
「子供か」
「お前にだけは言われたくない」
レイグは痛みに歯を食いしばりながら、今来たぶんだけ引き返した。
フィエラまで怒り始める。
「レイグ、本当に帰れなくなるかもしれないんだよ!」
「それでも戻る」
「何を捨てるか分かってない」
「分かってるよ」
「母親と妹に会いたかったんでしょ!」
母と妹を口にされた途端、石床を掴む指から力が抜けた。
フィエラの一言で、母が台所で振り返る顔と、ネリナが繕った靴を揺らす姿が、塞いでいた記憶の奥から押し寄せた。
「会いてえよ!」
声が礼拝堂に響いた。
「会いたいに決まってるだろ」
フィエラが黙り、ダルクも何も言わなかった。
「何回考えたと思ってんだよ! 母さんとネリナのところへ帰って……俺が帰らない夜なんか、二人に迎えさせたくないって……!」
喉が震えた。
「帰れるなら帰りたい。今すぐにでも帰りたいよ!」
それでもレイグは、ダルクへ向かって進んだ。
「でも、お前ら置いて帰ったら……」
床についた手に力を込める。
「俺、また同じことするだろ」
生前も、自分の欲しいものを優先して二人を巻き込んだ。
今度は帰還を優先して、ここへ二人を残すのか。
「そんなの嫌だ」
ダルクのそばへ辿り着いた。
「右腕、貸せ」
「やめろ」
「貸せ」
「無理だって言ってんだろ」
「やってから言え」
「さっきからやって無理だったんだよ」
「俺はまだやってない」
「お前もまともに立てねえだろ」
「だから二人でやるんだよ!」
レイグはダルクの右腕を自分の肩に回した。
左腕では支えきれない。右手でダルクの腰の革帯を掴み、膝を立てる。
「せーのでいくぞ」
「やめろって」
「せーの!」
力を入れた。
脇腹が裂けるように痛む。
「ぐっ……」
レイグの膝が震えた。
ダルクの身体がわずかに持ち上がる。
だが右脚に体重がかかった途端、ダルクが呻き、二人まとめて床へ崩れた。
「だから言っただろうが」
「……まだ一回だ」
「十分だ」
「じゃあ次はフィエラも――」
「私は無理」
「即答すんな」
「左脚こんななのに何しろっていうの」
「腕は動くだろ」
「動くけど」
「なら来い」
「無茶苦茶」
フィエラが怒鳴り返す声を聞きながら、レイグは床に額をつけそうになる身体を起こした。
「三人で帰る」
「だから無理だって言ってんだろ」
「じゃあ三人で残る!」
言い切った。
うなじを冷たい汗が伝った。
本当に帰れなくなるかもしれない。
今、背中を向けた銀色が最後の機会だったのかもしれない。
次の朝には、また全部やり直しになるのかもしれない。
それでもレイグは振り返らなかった。
ダルクの腕をもう一度取る。
「やるぞ」
「馬鹿野郎……」
「知ってる」
「褒めてねえ」
「私も手、貸す」
フィエラが腕だけで身体を寄せようとする。
「でも、こっちまで来て」
「分かった」
「分かったって、どうやって」
「今考える」
「考えてから言ってよ」
その時だった。
レイグの右手が、淡い光に照らされた。
「……え?」
フィエラが声を漏らして床を見る。
さっきまで礼拝堂の右奥へ集まっていたはずの銀色の光が、細い線となって石床を走り、レイグの手元まで伸びていた。
光はそこで止まらず、ダルクの身体の下を通って、さらにフィエラへ向かって伸びていく。
三人を囲むように銀色の線がつながった。
「何だ、これ……」
ダルクがかすれた声を出した。
レイグにも分からなかった。祭壇に触れたわけでも、光れと願ったわけでもない。ただ二人のところへ戻っただけだ。
銀色が強くなり、礼拝堂の闇が白く照らされた。
同時に、三人の正面で空気が震えた。
細い線が宙へ走る。
一本。
もう一本。
それらが重なり、暗闇そのものへ亀裂を入れるように縦へ伸びた。
「レイグ……」
フィエラの声が震えた。
裂け目が広がる。
今度は閉じない。
ザイルの時には途中で消えた銀色が、今はさらに左右へ広がっていく。
向こう側から風が吹き、レイグは目を見開いた。
地下の湿った冷気ではない。
黒い霧のまとわりつく寒さでもない。
湿った石と、消えかけた松明の煤。その奥に土と草の匂いが混じった、忘れるはずのない空気だった。
「……開いた」
誰が言ったのか分からなかった。
裂け目の向こうには光がある。
何があるのかまでは見えない。
それでも分かった。
ここではない場所がある。
『最後に帰る道を選び得た刻へ』
王家の記録に残っていた一行が蘇る。今日の続きではなく、まだ帰る方を選べた時が、向こう側にあるのかもしれない。
背後では黒い霧が礼拝堂の入口へ入り始めていたが、レイグはもうそちらを見なかった。
「それが、あなたの答えですか」
静かな声がした。
レイグは顔を上げた。
銀色の光のそばに、白い翼を持つ者が立っていた。
「……ヴァリュエル」
いつからいたのか分からないが、出口が開くまでは姿がなかった。
今回も手を差し伸べることはなく、ただ三人を見ている。
「それが、あなたの答えですか」
同じ問いを、もう一度投げた。
レイグは、ぼろぼろになったダルクとフィエラを見た。
何度忘れても、二人は今ここにいる。
「ああ」
レイグは答えた。
「これが俺の答えだ」
ヴァリュエルはわずかに目を伏せた。
「ならば、行きなさい」
それだけだった。
出口がなぜ開いたのか、《生命の雫》が何だったのか。分からないことは残っている。レイグは答えを求める代わりに、ぼろぼろの二人へ手を伸ばした。
「行くぞ」
ダルクの右腕を改めて肩に回す。
「だから重いって言ってんだろ……」
「誰がだよ」
「お前だ。俺を支えてるくせに……半分くらい俺に寄りかかってんじゃねえか」
「お前が立てないからだろ」
「二人とも重いよ」
フィエラが言った。
「お前はまだ乗ってないだろ」
「気持ちの話」
「今その話いるか?」
「喋ってないと怖いから」
その言葉にレイグは何も返さず、代わりにフィエラの近くまで身体を寄せる。
「右腕、俺の腰に回せ」
「左じゃ駄目?」
「左脚痛いんだろ。体重の掛け方考えろ」
「こんな時だけ細かいね」
「こんな時だからだよ」
フィエラが右腕をレイグの腰に回し、三人で身体を起こす。
一度目は失敗した。
ダルクの脚が滑り、フィエラも傷を庇って崩れかける。
「待て!」
レイグも膝をついた。
黒い霧が入口からさらに広がる。
もう時間はない。
「もう一回」
レイグが言うと、ダルクは荒い息の合間に笑う。
「結局……お前が一番しつけえな」
「今さらだろ」
「そうだね」
フィエラも笑った。
「今度こそ」
三人で力を入れたが、立つというより、互いに倒れないよう身体を預け合うだけだった。
それでも、一歩進んだ。
ダルクが呻く。
フィエラの息が止まる。
レイグの脇腹からまた血が流れる。
もう一歩。
銀色の裂け目が近づく。
背後で黒い霧が石床を覆っていく。
「遅い……」
フィエラが呟いた。
「三人だと、遅いね」
「今さら気づいたのか」
ダルクが返す。
「じゃあ置いてくぞ」
レイグが言った。
「それは駄目」
「即答かよ」
「置いてかないでよ」
レイグが前を見ても、光の向こうが何なのかはまだ分からない。
それでも進む。
「置いてくかよ」
三人で、もう一歩踏み出した。
銀色の光が視界いっぱいに広がった。




