第66話 一人では帰れない
レイグは石床に這いつくばったまま、何も言い返せなかった。
右手を床に押しつけ、せめて膝だけでも立てようとする。だが腕は細かく震えるだけで身体を持ち上げてくれず、脇腹から流れた血は服へ広がり、切られた肩と上腕にも焼けるような痛みが残っていた。
数歩先には弾き飛ばされたスチールロングソードが転がっているが、手を伸ばしても届かない。
そのさらに向こう、祭壇の前にはザイルが立っていた。
無傷ではない。右上腕にはフィエラの矢が深く刺さり、左脇腹にはレイグが入れた傷がある。裂けた外套から流れた血は腰から脚までを濡らし、三人との戦いで受けた細かな傷も全身に残っていた。
確かに追い詰めた。
それでも最後まで立っているのはザイルだった。
そして、その手のひらには《生命の雫》がある。
「返せ……」
かすれた声しか出なかった。
ザイルはレイグを見ず、手のひらに浮かぶ銀色の一滴だけを、長い間探し続けたものが本当にそこにあるのか確かめるように見つめている。
勝ち誇っているようには見えなかった。
むしろ、ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩み始めているようだった。
「……やっと終わる」
レイグは息を止めた。
ザイルが何度この朝へ戻ったのかは知らない。本人さえ、もう数えることをやめている。
何度も仲間を助け、何度も失い、次の朝にはそのすべてを忘れられた。昨日まで一緒に戦っていた相手から、次の朝には知らない人間として剣を向けられた。
長い反復の果てに、この男は一人で勝つことを選んだ。
「だからって……」
レイグは石床に爪を立てた。
「俺たちから奪っていい理由にはならないだろ……」
そこで初めて、ザイルがこちらを見る。
「まだそんなことを言うのか」
「言う……」
「何度助けても忘れる。約束も、感謝も、喧嘩も、次の朝には相手の中から消える。それをお前も知ったはずだ」
「だから一人で帰るのか」
「他に誰がいる」
レイグは歯を食いしばった。
視界の端では、ダルクが右肘を床につき、何とか身体を起こそうとしている。右脚はまともに使えず、左腕も身体の横へ落ちたままだというのに、何度も床を押して立とうとしていた。
「くそ……っ」
「ダルク、動くな!」
「お前が……言うな……」
少し離れた壁際では、フィエラも倒れている。折れたコンポジットボウは手の届かないところまで転がり、上体を起こすことさえできない。
「……最悪」
苦しそうに息を吐きながら、フィエラが言った。
「三人とも……負けたの?」
「まだだ」
「その状態で?」
「まだだ」
「二回言った」
「うるさい」
フィエラの口元がわずかに動いた。笑おうとしたのかもしれない。
礼拝堂の入口で続いていたカルゼンの怒声も、ゴルディスの大盾が打たれる音も、リュシェナの鋭い罵声も、いつの間にか回廊の奥へ遠ざかっていた。三人は押し寄せる人と魔物を食い止めながら、戦線ごと後退していた。
その時、礼拝堂の外から足音が聞こえた。
レイグが顔を上げると、入口に現れた男が壁に片手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
「ザイル……」
ネヴァルだった。
髪も服も埃と血で汚れ、頬には浅い傷が走っている。腰に剣は残っているものの、もうまともに戦える状態には見えなかった。
「ネヴァル……?」
レイグが呼ぶと、男は一度だけこちらを見た。
目は合ったが、そこに自分を助けた相手を見る色はなかった。
瓦礫の下から助け出したことも、そのためにレイグが死んだことも、ネヴァルは知らない。今ここにいる彼が持っているのは、この一日の記憶だけだ。
ネヴァルはすぐにレイグから視線を外し、ザイルの手のひらへ目を向けた。
「それが……そうなのか」
ザイルは雫を見たまま、ネヴァルへ顔を向けなかった。
「《生命の雫》……」
ネヴァルが歩み寄る。
「それで終わるんだろ。この日から出られるんだろ?」
ザイルは黙っていた。
ネヴァルは一度唾を飲み込み、すがるように続ける。
「俺も……連れていってくれ」
礼拝堂が静まり返った。
ザイルはネヴァルを見たが、長く迷うことはなかった。
「退け」
「……何?」
「そこを退け」
「待ってくれ。俺は、あんたの言うことを信じたんだぞ」
ネヴァルの声が大きくなった。
「死んでも朝には戻るって言った。だから怖がる必要なんかないって。あんたなら、ここから出られるって――」
「俺は、お前まで連れていくとは言っていない」
ネヴァルは言葉を失った。
「そんな……」
「俺は帰る。そのためにここまで来た」
「ザイル」
ネヴァルが外套へ手を伸ばした。
ザイルはその手を払い落とす。
傷ついたネヴァルは踏ん張れず、石床に片膝をついた。
「触るな」
ザイルに払い落とされたネヴァルの手が、瓦礫の下から必死に伸びていたあの日の手と重なった。レイグの指は、考えるより先に石床を掻いていた。
黒い霧に追われ、瓦礫の下で動けなくなっていたネヴァルを思い出す。
あの時、助けに戻れば自分たちまで死ぬかもしれなかった。ダルクに止められ、フィエラにも危険だと言われ、それでも置いていけなかった。
目の前のザイルは違う。
自分へ手を伸ばした男を振り払い、そのまま祭壇へ向き直った。
「待て……」
レイグは身体を引きずろうとした。
「何をする気だ」
「決まっている」
ザイルが《生命の雫》を祭壇へ近づける。
「帰る」
銀色の一滴が輝き、祭壇に残る紋様が応じた。
左右から中央へ集まった光に雫から伸びた銀光が触れ、そこからさらに祭壇の奥へ走っていく。
レイグは息を呑んだ。
これまで見たどの反応とも違う。
何もなかった暗闇に、縦長の細い光が生まれ、それが少しずつ幅を増していく。
「……何だ、あれ」
ダルクのかすれた声がした。
向こう側は見えず、生者の世界なのかどうかさえ分からない。
それでも、ザイルがこのまま前へ進めば、その身体を呑み込めそうなほどに裂け目は広がり始めていた。
ザイルの表情が初めて変わる。
「……これだ」
裂け目の向こうに母のいる台所と、ネリナの何度も繕われた靴が重なり、息が詰まった。
あの先に、本当にこの朝の外へ帰る道があるのかもしれない。
「くそ……」
レイグはもう一度床を押した。
腕が震え、身体がわずかに浮いたところで力が抜ける。
「動けよ……」
「レイグ」
フィエラが呼ぶ。
「無理しないで」
「今しないで、いつするんだよ!」
「止めても行くよね……」
レイグが再び起きようとしている間にも、ザイルは銀光へ近づいていった。
「待ってくれ」
ネヴァルが立ち上がる。
「俺も行く!」
ザイルは止まらない。
「ここに残ったら、また同じ日なんだろ! だったら俺も――」
そこでザイルが振り返った。
「お前は残れ」
ネヴァルの足が止まる。
「……何で」
「俺は一人で行く」
「俺はあんたを信じたんだぞ」
「それでもだ」
ザイルは再び銀色の裂け目へ向いた。
ネヴァルの顔から、すがるような表情が少しずつ消えていく。
次の瞬間、銀光が大きく揺らいだ。
「……?」
ザイルが顔を上げる。
広がりかけていた裂け目が細くなる。
「待て」
ザイルが手を伸ばしたが、光はさらに縮んでいった。
「待て」
初めて、その声に焦りが滲んだ。
祭壇に手のひらを押しつける。
雫から伸びていた銀光が激しく揺れ、そのまま細い線となって閉じた。
何もない暗闇が戻る。
「……な」
ザイルが固まった。
直後、祭壇から乾いた亀裂の音がした。
銀色の紋様が器のような形を作っていた中央部分へ亀裂が走り、それが枝分かれして広がる。やがて石の一部が砕け、乾いた音を立てて床へ落ちた。
「やめろ……」
レイグ自身の口から声が漏れる。
ザイルの手のひらにも祭壇の上にも、さっきまであった《生命の雫》は見えなかった。
どうなったのかは分からない。
砕けた石の隙間と床に、ごく淡い銀色の光だけが残っている。
「……なぜだ」
ザイルの視線が、ネヴァルの手を払い落とした自分の左手へ一度だけ落ちた。
拒絶した感触を思い出したように指が止まる。
だが、すぐに首を振った。
「違う。出現させる条件と、使う条件が同じとは限らない」
誰も答えなかった。
ザイルの右手から細身の剣が落ち、石床へ乾いた音を立てた。それから祭壇に両手をつく。
「なぜだ」
残っている光へ指を伸ばしたが、何も起きない。場所を変え、もう一度触れても結果は同じだった。
「条件は満たした」
ザイルの呼吸が荒くなっていく。
「出したのが俺でなくても、現れたものは手に入れた。ここまで来た。使った。だったら……帰れるはずだ」
レイグにも答えは分からないが、ただ頭から離れない光景がある。
ザイルは「俺は一人で行く」とネヴァルを拒んだ。その直後に裂け目は閉じた。あまりにも鮮明な順序だった。それでも、何が拒まれたのかまでは、レイグにも分からない。
「もう一度だ」
ザイルが砕けた祭壇を探る。
「どこだ。まだ残っているはずだ」
石片を払い、亀裂へ指を差し込もうとする。
その声には、レイグが今まで聞いたことのないものが混ざっていた。
恐怖だった。
「また……戻るのか」
ザイルの手が止まる。
「また、あの朝へ……?」
ネヴァルはしばらくザイルの背中を見つめていたが、もう近づこうとはしない。
その時、礼拝堂の外に続く回廊の向こうから、誰かがネヴァルを呼ぶ声が聞こえた。
ネヴァルが入口を見る。
「……仲間がいるのか」
レイグが聞いた。
「ああ」
「だったら戻れ。霧も来てる」
ネヴァルはレイグを見た。
「お前に言われなくても分かってる」
荒い返事だったが、もうザイルを見ることはなかった。
「俺は……あいつらのところへ戻る」
ネヴァルは回廊へ向かい、入口を出る直前に足を止めた。ザイルに払い落とされた手を握り込み、結局何も言わないまま、仲間の声がした方へ姿を消した。
ザイルも追わなかった。
祭壇に手をついたまま、残った銀色を見ている。
「違う……」
身体が揺れた。
ザイルが片膝をつき、右手で床を支える。
右上腕の矢が、床を支えるたびに震えた。左脇腹からこぼれる血は膝の下まで広がり、腰の薬差しは空のままだった。
「ザイル」
レイグが呼ぶ。
ザイルはレイグを見ず、膝に力を込めた。だが途中で右腕が力を失い、肩から石床へ崩れた。
「……まだだ」
歯を食いしばる。
「まだ終わってない」
もう一度身体を起こそうとするが、今度は肘さえ伸びなかった。
遠くから低い音が響く。
何かが崩れる音に続き、床を這うような湿った響きが近づいてきた。
黒い霧だ。
もう王城地下まで入っている。
「このままじゃ死ぬぞ」
レイグが言った。
「死ぬ?」
ザイルの喉から、笑いにもならない息が漏れた。
「死ぬのは……どうでもいい。朝には戻る」
血に濡れた指が石床を掻く。
ザイルは砕けた祭壇へ目を向けた。
「また……あそこからだ」
床の銀色を掴もうとして、指が空を握った。握り直す力も残らず、開いた手のひらへ石粉がつく。
ザイルはそれを見ていた。さっきまで雫を載せていた、何もない手を。
「……また、朝か」
ザイルの身体から力が抜けた。
頬が石床に触れ、浅い呼吸が何度か続く。その間隔は少しずつ長くなり、やがて完全に動かなくなった。
「……ザイル?」
返事はない。
この一日のザイルは死んだ。
けれど世界がまた同じ朝へ戻れば、彼も何事もなかったようにそこにいる。
「レイグ……」
フィエラの弱い声がした。
「雫……どうなったの」
「分からない」
「まだ、あるのか?」
ダルクも聞く。
レイグは祭壇を見る。
器のようだった中央部分は砕け、《生命の雫》も見当たらない。石の隙間と床に、ごく淡い銀光が残っているだけだった。
ザイルは雫を使っても帰れず、今は手に取れるものさえ残っていない。
レイグは右手を床につき、もう一度身体を起こそうとした。腕が震え、肘まで持ち上がったところで力が抜け、そのまま石床へ崩れる。
「くそ……」
ダルクも動けず、フィエラも立てない。ザイルは死に、外からは黒い霧が迫っている。
二人が何度忘れても、そのたびに信じ直し、三人で《生命の雫》まで辿り着いた。
その果てが、これだった。
レイグが砕けた祭壇を見ると、床に残った銀色の光が弱々しく揺れている。
今は、その光にさえ意味があるようには思えなかった。
「……終わった」




