第65話 一対一
「一人になったな」
勝ち誇った響きはなく、ただ目の前の事実を確かめるような平らな声だった。
「違う」
レイグはスチールロングソードの切っ先を下げなかった。
ザイルも剣を構え直した。フィエラの矢が刺さった右腕はわずかに遅れ、外套の脇腹には止まったはずの血がまた滲み始めている。
床にはダルクの砕けた大盾の破片が散らばり、少し離れた場所には折れたフィエラのコンポジットボウが転がっている。
二人はもう戦えない。それでも、ここまでの戦いで何も残さなかったわけではなかった。
「ここまで三人で来た」
「もう二人は戦えない」
「だから何だ」
レイグは一歩前へ出た。
「俺はまだ立ってる」
ザイルの目がわずかに細くなる。
「なら来い」
その瞬間、レイグは石床を蹴った。
右から斬り込む。
ザイルは待っていた。
細身のスチールソードが、レイグの剣とぶつかるより先に内側へ入り込んできた。このまま刃を合わせれば、押し負ける。
「っ」
レイグは手首を返し、どうにか剣先を外へ流した。
すぐにバックラーを上げる。
次の斬撃が来ると思った時には、ザイルの剣はもう別の角度から走っていた。
金属が激しくぶつかり、衝撃が左腕を痺れさせる。
レイグは半歩下がった。足を踏み直す前にザイルが間合いを詰め、脇腹へ剣先を滑り込ませてくる。
「くそっ」
身体を捻って避けたものの、完全には間に合わなかった。刃が脇腹を浅く裂き、熱が走った後から鋭い痛みが追ってきた。
距離を取ろうとする。
ザイルが詰める。
ファイアボールを使うには、ほんのわずかでも集中する時間が必要だった。今の距離ではその一瞬さえ与えてもらえない。
レイグはロングソードを横へ振った。
ザイルは受けずに下がる。
追った瞬間、剣が返ってきた。
レイグは慌てて足を止める。
「変わっていない」
「何がだ」
「お前だ」
ザイルの刃が右肩を狙った。
バックラーを差し込むと、ザイルは剣をその表面へ滑らせ、縁を抜けた刃先でレイグの上腕を浅く裂いた。
「お前は攻める時、右足が先に出る。受けた後は左へ逃げる。魔法を使う時は、必ず距離を欲しがる」
「黙れ!」
斬り上げる。
刃は空を切った。
「何度変えようとしても、追い詰められれば戻る」
ザイルが懐へ入った。
「お前が一番長く使ってきた形へ」
腹へ蹴りが入る。
「ぐっ……」
肺から一気に息が抜けた。
レイグは数歩よろめいたものの、倒れる寸前で右脚を踏み込み、どうにか身体を支えた。
アビスデーモンから続く戦闘で身体はとっくに重くなり、魔力にも余裕がない。切られた脇腹と上腕から流れる血まで体力を奪っていく。
だが、苦しいのは自分だけではないと気づき、レイグは顔を上げた。
ザイルが剣を構え直した時、右腕がほんのわずかに遅れたのは、フィエラの矢が効いているからだ。
さらに左へ踏み込んだ瞬間には、傷ついた脇腹を庇うように身体がわずかに縮んだ。
「レイグ」
床からダルクの声が飛んできた。
「右だ! あいつ、右腕上がってねえ!」
「見えてる」
「なら行け!」
レイグは前へ出た。
ザイルの右側へ回り込みながらロングソードを振る。
剣で受けられた。
だが、さっきまでより遅い。
刃同士が噛み合った瞬間、レイグは押し切ろうとせずに肩を引き、角度を変えた。
切っ先がザイルの外套を裂く。
深くはない。それでも新しい血が浮き、ザイルが一歩下がった。
「入った」
息をするだけでも苦しいはずのフィエラが、まだこちらを見て声をかけていた。
「右……まだ遅い。矢、効いてる」
「ああ」
レイグは追う。
今度は脇腹を狙った。
そこにも、それまで三人で戦う中でつけた傷がある。
だが、これは読まれた。
ザイルの剣に強く弾かれ、柄を握った手のひらまで痺れる。
「同じ場所を狙うと思った」
低い声が聞こえた。
「だったら――」
レイグは剣を戻しながら左へ踏み込んだ。
ザイルの膝が腹を狙って上がる。
バックラーを差し込み、直撃だけは避けたものの、重い衝撃が左腕を軋ませた。
離れれば追われ、踏み込めば先を塞がれる。
礼拝堂の石床へ、二人分の血が落ちていく。
右へ踏み直そうとしただけで、ザイルの剣先がその行き場を塞いだ。レイグは足を戻す。逃げる癖も、受ける癖も、今から身体を作り直して消せるものではない。
『今考えたことなら知らないでしょ!』
フィエラの声が蘇った。さっきは、それで届いた。
ならば、いつもの動きに乗せてしまえ。最初だけは、ザイルが知っているレイグでいい。
レイグはいつもの踏み込みで右足を前へ出した。
ザイルの剣先がわずかに動く。
レイグはさらに、何度も繰り返してきた動きで、ロングソードを右下から斬り上げた。
受けられれば、次はバックラーを出しながら左へ抜ける。
ザイルなら知っている。
だからザイルは剣を合わせるのではなく、次にレイグが移るはずの場所へ先回りして刃を置いた。
「そこだ」
ザイルが言った。
レイグは、右足にかけていた力を抜いた。
「違う!」
踏み込みを途中で捨てる。
急に動きを止めたせいで身体が前へ崩れたが、その不安定な姿勢のまま短く集中した。
「ウィンドステップ」
風が足元で弾けた。
普段のように正面へ加速するのではなく、吹きつける風に身体を預け、左斜め前へ数歩分だけ滑り込む。
ザイルの剣が、レイグがいるはずだった場所を通り抜けた。
初めて、ザイルの目が大きく見開かれた。
レイグはもう横にいる。
ロングソードを両手で握った。
「うおおおっ」
全身で振り抜く。
ザイルが右腕を戻そうとした。
だが、フィエラの矢が動きを遅らせた。
間に合わない。
刃が左脇腹に深く食い込んだ。
「――っ」
肉を断つ感触が、柄を通して両手に伝わる。
外套が裂け、チェインメイルの隙間から血が飛び散った。
ザイルの身体が大きくよろめいた。傷を庇うように足取りまで乱れ、三歩下がって踏みとどまる。
レイグも勢い余って膝をつきかけたが、剣を床につく寸前で耐えた。
顔を上げると、ザイルは下がり、脇腹から流れた血が石床へ落ちていた。
「入ったじゃねえか!」
ダルクの怒鳴り声が礼拝堂へ響いた。
「レイグ」
フィエラも、苦痛に顔を歪めながら声を上げた。
「やるじゃん……」
「お前らが削ったからだ」
レイグは荒く息をしながら剣を構え直した。
ザイルが三歩下がった石床を見た時、本当に思った。
この距離をもう一度奪えれば、勝てるかもしれない。
ザイルは左脇腹を押さえず、流れ出る血へ一度視線を落としただけで再び剣を構える。
呼吸は明らかに荒くなっている。右腕も上がりきらず、左脚を踏み込む時には傷の痛みで身体がこわばっていた。
それでも、まだ立っている。
「なるほど」
ザイルの「なるほど」には、痛みへの苛立ちさえなかった。剣を振り抜いた時の熱が、レイグの指から引いた。
「何だ」
「今のは知らなかった」
ザイルが再びレイグを見た。
「今は知っている」
フィエラの表情がこわばり、レイグも奥歯を噛みしめる。
「同じことすると思うかよ」
「思わない」
「だったら――」
「同じことをしないお前を知った」
ザイルが踏み込む。さっきまでより遅い。右腕も上がりきっていない。
それでも、その目はレイグの足を追っていた。届いたはずの一撃の後で、レイグの方が先に動けなくなった。
右へ抜けるか。左へ動くか。それとも、また途中で選択を変えるか。
変えることまで警戒されているのではないか。
迷った時間は、ほんのわずかだった。
それで十分だった。
ザイルの剣が肩口を裂く。
「ぐっ」
血が飛んだ。
レイグも反射的に剣を振り返し、ザイルの胸元へ刃を走らせる。
ザイルは完全には避けられず、チェインメイルから金属の輪がいくつか弾けたものの、傷は浅い。
すぐに剣が返ってくる。
レイグは受けた。
もう一撃。
今度は流す。
だが剣と剣がぶつかるたびに腕が重くなり、踏み込む脚からも少しずつ力が失われていった。
レイグは歯を食いしばって斬り込んだ。ザイルは半歩退くだけでかわし、レイグが剣を引き戻す前に反撃してくる。レイグはバックラーで受け、痺れる左腕を押し上げた。
あれだけ傷を負わせたのに、押し切れない。ザイルは血の滴る右腕を高く上げず、剣先をレイグの胸元へ戻していた。もう一度振るために、レイグは息を吸い直さなければならなかった。
遠くで、巨大な石造りの建物が崩れるような轟音が響いた。
天井の亀裂から細かな砂が降り、礼拝堂の外では人間の怒声と魔物の咆哮が重なっている。その騒ぎは少しずつ近づいていた。
黒い霧も迫っており、ここに残された時間は長くない。
ザイルとの距離が開くと、レイグはすぐ正面へ意識を集中する。
「ファイアボール」
生まれた火球を撃ち出す。
ザイルが横へ避けた。
火球は背後の柱へぶつかり、炎と石片を散らす。
レイグはその陰へ踏み込んだ。
「それも知っている」
火球を放った直後、意識を魔法から剣へ戻す一瞬を狙い、ザイルは逃げ切らず逆に距離を詰めてきた。
「っ」
レイグは咄嗟にバックラーを差し込んだ。
衝撃で左腕が大きく弾かれ、続く斬撃をロングソードで受けると、今度は膝まで沈んだ。
「レイグ」
ダルクの声が聞こえる。
「立て!」
「立ってる」
「じゃあ勝て」
「無茶言うな」
怒鳴り返した声と一緒に、胸に詰まっていた息が抜けた。
フィエラも何か言おうとしたらしい。しかし声の代わりに、かすれた咳が聞こえた。
二人ともまだいる。
だから終われない。
ザイルが斬り込んでくる。
レイグは刃を右へ流し、今度は下がらず懐へ入った。肩が触れるほど近く、ロングソードを振る余裕はない。
そこでバックラーをザイルの顔へ叩きつけた。かわされはしたが、姿勢がわずかに崩れる。
レイグはすかさず、さっき深く斬った脇腹へ剣の柄頭を打ち込んだ。
ザイルの呼吸が詰まる。
「まだだ!」
その隙にロングソードを振ると、ザイルも剣を上げた。刃同士が火花を散らして噛み合い、互いの腕から体重までが正面からぶつかる。
右腕を負傷しているザイルを、今度だけはレイグがわずかに押し返した。一歩前へ出ると、ザイルの足が下がる。
「行け!」
ダルクが叫んだ。
ダルクの声を背に、レイグは全身の力を剣へ乗せた。間近にあるザイルの目は、噛み合った刃ではなく、レイグの胸元へ一瞬だけ落ちる。
あと少し押し切れば、薬入れへ手を伸ばす余裕を奪える。
そう思った瞬間、ザイルが力を抜いた。
「――」
支えを失ったレイグの身体が前へ流れ、その脇へザイルが半歩だけずれる。すれ違いざま、剣の柄が右手首へ叩きつけられた。
「ぐっ」
握力が抜け、ロングソードが手から離れかける。必死に握り直した指へザイルの左手が重なり、そのまま手首を捻られた。
耐えたところへ、肘への打撃が入る。
「っあ」
今度こそ指が開き、スチールロングソードが石床へ落ちた。硬い音を立てながら、数歩先まで滑っていく。
「レイグ!」
フィエラの声に押されるように剣を取りに踏み出したが、ザイルが先に進路へ入った。
残っているのはバックラーだけだ。
レイグが左腕を上げると、ザイルの剣がバックラーへぶつかり、そのまま肩を軋ませるほど押し込んできた。
「う……」
片膝をついても立ち直ろうとしたレイグの胸へ、ザイルの蹴りが入る。身体は後ろへ飛び、背中から石床へ叩きつけられた。
肺から残った空気がすべて抜け、視界が白く弾ける。
それでも右手を床についた。
「……まだ」
起き上がろうとした腕が震え、肘まで身体を持ち上げたところで支えきれず、レイグは再び石床へ崩れ落ちた。
「くそ……」
足音が聞こえる。
ザイルが、倒れたレイグへ近づいてくる。
「待て……」
レイグは右手を伸ばし、せめて足首だけでも掴もうと床に爪を立てた。
指先が外套の端に触れかける。
ザイルが半歩ずれ、レイグの手を避けた。
「ふざけんな……」
「終わった」
後ろでも石を擦る音がし、ダルクが動こうとしていた。
「レイグ……」
「動くな!」
反射的に怒鳴った。
「お前、脚……」
「お前が言うな!」
ダルクの怒声が返る一方、フィエラは何かを言おうとして、苦しそうに息を漏らすだけだった。
ザイルはレイグの胸元へ剣先を下ろした。
「触るな……」
起き上がろうとした右腕を靴で押さえられる。刃先が外套だけを裂き、胸帯に固定した革の薬入れの留め紐を切った。
落ちた小瓶を、ザイルの左手が受け止める。
「それは……俺たちが……」
胸が痛み、声が途切れた。それでも、ザイルの手にある小瓶から目を離せない。
あれを持っていかれたら、どうやって二人と帰る。後ろではまだダルクが床を擦り、フィエラは息を整えることさえできずにいる。
レイグは押さえられた右腕を引いた。指先が震えただけで、小瓶には届かない。怒鳴ろうとして息を吸い、歯の間から声を絞った。
「一人で持っていくな……」
ザイルは答えず、左手だけで瓶の栓を押し上げた。
銀色の一滴が、その手のひらへ落ちる。
その瞬間には、何も起こらなかった。出口らしきものも現れず、空間に裂け目が走ることもない。ただ小瓶の底から雫が消え、ザイルの手の中へ移った。
ザイルは祭壇へ歩きながら、手のひらにある雫を見つめた。
レイグは床へ拳を叩きつけた。
「返せ……」
ザイルは足を止め、それから床に倒れたレイグ、動けないダルクとフィエラへ順に目を向けた。
喜びもしない。
笑いもしない。
長い反復の果てに、ようやく当然の結果へ辿り着いた者のように、静かに言った。
「俺が勝った」




