第64話 笑えない冗談
「来る!」
レイグが叫んだ時には、フィエラもすでに矢をつがえていた。
弦が鳴る。
飛んだ矢をザイルは剣の腹で弾き、その勢いを殺さないままフィエラへ踏み込んだ。
「まだ来るの?」
フィエラが後ろへ跳ぶ。
レイグは横から割り込み、スチールロングソードを振り下ろした。ザイルも足を止めて剣を合わせる。
甲高い音が礼拝堂へ響いた。
「フィエラ、離れろ!」
「言われなくても」
返しながら、フィエラは倒れた長椅子を飛び越えた。
レイグはザイルから目を離さないまま、視界の端でダルクを確認した。
生きている。
右脚から血を流し、左腕もまともに動かない。ウォーハンマーは数歩離れた石床へ転がっていた。
それでもダルクは右肘を床へ突き、何度も身体を起こそうとしている。
「ダルク」
フィエラが叫んだ。
「死なないでよ!」
「好きで死ぬか」
怒声が返ってくる。
「よかった。まだうるさい」
「誰がうるせえ」
いつものやり取りだった。けれど、レイグにはフィエラの声が震えていることも、その理由も分かっていた。
地下水路でジャイアントスパイダーに囲まれた時も、黒い霧に退路を削られた時も、逃げ場がなくなるほど彼女はよく喋った。
怖い時ほど口数が増えることを次の朝のフィエラは覚えておらず、その姿をレイグだけが何度も見てきた。
「余所を見るな」
ザイルの声がした。
「っ」
斜め下から剣が跳ね上がる。
レイグはバックラーを差し込んだが、衝撃を殺しきれず左腕を大きく弾かれた。胸元へ返ってきた刃を、上体を引いて辛うじてかわす。
「今の危なかったよ」
フィエラが叫ぶ。
「見れば分かる」
「じゃあ次は避けて」
「簡単に言うな」
次の矢が飛んだ。
ザイルはレイグの左肩側へ身体を寄せる。
フィエラが狙いを外し、すぐ左へ回った。
だがザイルも半歩動く。
またレイグが射線へ入った。
「もう」
フィエラはさらに位置を変えようとした。
「そこへ行くことは知っている」
ザイルが言った。
フィエラの足が止まる。
「射線を塞がれれば左へ出る。そこも使えなければ、次は柱の外へ回る」
「……ほんっと嫌、この人」
吐き捨てる声は大きかったが、矢をつがえる指先は震えていた。
ザイルはそれ以上説明せず、再びレイグへ斬り込んでくる。
一撃目をロングソードで流し、二撃目にはバックラーを合わせる。押し返そうとした瞬間、ザイルはすでに剣を引いていた。
追えば崩される。
レイグも踏みとどまる。
フィエラは射線を探して動き続けたが、ザイルはそのたびに柱やレイグ自身を盾として使った。
「レイグ、右!」
「見えてる」
「じゃあ左」
「どっちだよ」
「分かんない」
「何で指示した」
「喋ってないと怖いから!」
レイグの右足が半歩遅れた。ザイルの剣先がその隙へ向きかけ、レイグは慌てて構えを戻した。フィエラ自身も、自分の口から出た言葉に驚いたようだった。
「……あ」
床からダルクの声が飛んでくる。
「今さらかよ」
「うるさい」
フィエラが怒鳴った。
「怖いものは怖いの! ダルクは倒れてるし、レイグはもう息も上がってるし、あの人は何しても先にいるし」
「俺はさっき散々怖えって言っただろうが」
「じゃあレイグは?」
「俺だって怖いよ!」
レイグも怒鳴り返した。
「怖くないわけないだろ」
フィエラは目を瞬いたあと、震える息を吐いた。
「……じゃあ三人ともか」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくないよ」
ザイルが再び踏み込んだ。
レイグが剣を合わせる。
腕が痺れる。
離れてはぶつかり、押されては踏み直す。その間にもフィエラは射線を探したが、ザイルは彼女の癖を知りすぎていた。
「本当に何でも知ってるみたい」
フィエラが息を切らし、柱の外へ向けていた足を止めた。視線だけが崩れた柱を上へ辿り、隣の傾いた石材へ移る。
「レイグ、少しの間、そっちへ向かせて。私が回る」
「どこへ?」
「まだ分かんない。今から考える」
「今からかよ!」
レイグはザイルの剣を押し返した。横目で見ると、フィエラはもう右の爪先を浮かせている。いつもの左へ出るつもりはないらしい。
「だって、今考えたことなら知らないでしょ!」
床からダルクの声が飛んだ。
「喋ってねえでやれ!」
「ダルクが一番うるさい」
「今はそれでいい」
レイグはザイルの剣を受け流しながら、二人へ言った。
フィエラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
フィエラは矢筒へ一度手をやり、残った矢を指先で確かめた。
「……レイグ。ちょっとだけ、信じて」
「何するか知らないのにか?」
「うん」
ザイルの剣が返ってきた。レイグは受け止め、その顔を正面へ捉える。
「やれ。俺が合わせる」
「それでこそ」
フィエラが走った。
いつものように左へ射線を取るのではなく、ザイルの背後に近い右側へ大きく回り込む。
ザイルがフィエラを目で追った。
レイグはその瞬間に踏み込んだ。
「こっちだ!」
横薙ぎに振ったロングソードを、ザイルが受ける。
押す。
力比べで勝つためではない。
こちらへ身体を向けさせるためだ。
フィエラが崩れた柱へ足を掛けた。
そこから傾いた石材を蹴る。
「ウィンドステップ」
風が弾けた。
瞬間移動ではない。
風に押された身体が、数歩分の距離を一気に駆け上がる。
「何?」
思わずレイグまで声を上げた。
「私も思ったより高い」
「自分でやったんだろ」
フィエラは落ち始める身体を捻った。
矢筒に残った二本のうち一本を抜き、空中で弦を引く。
ザイルがレイグを押し返し、振り向いた。
遅かった。
「当たって!」
矢が上から落ちる。
ザイルは上体を捻ったものの、完全には逃げ切れない。
「――っ」
矢は右上腕の外側へ深く食い込み、勢いを殺して震えた。
握られていた剣が一瞬下がる。
「入った!」
フィエラが着地する。
だが魔力を使い切る寸前のウィンドステップだったため、勢いを殺しきれず片膝をついた。
「痛っ……」
レイグはもうザイルへ踏み込んでいた。
右腕の動きが鈍ったザイルへ、レイグはスチールロングソードを打ち込む。
一度は受けられたが、続けて角度を変えるとザイルが大きく下がった。
「効いてる」
フィエラは立ち上がったものの、肩で激しく息をしていた。
「どう? 今のは知らなかったでしょ」
右上腕に刺さった矢が、ザイルが剣を上げるたびに揺れた。傷口から新しい血が滲み、剣先がわずかに遅れる。それでもザイルは矢へ手を伸ばさず、剣を構え直した。
「ねえ、もう一回――」
「今は知った」
フィエラの口元が固まった。
「……そう来る?」
ザイルはフィエラが足場にした石材へ目を向けた。レイグは反射的に声を張った。
「同じのはやるな!」
「同じ高さからは撃たない」
フィエラが矢筒から最後の一本を抜いた。
「それ撃ったら終わりだぞ!」
「持ってても増えないから」
ザイルが動き、レイグが前へ出た。右腕の剣はさっきよりわずかに遅いが、それでも受けきるには重く、鍔迫り合いになったところへ腹への蹴りが来る。
直撃を避けるため身体を捻ったレイグは、二歩下がらされた。その横をフィエラが走り、残された最後の射線を取る。
ザイルが途中で身体を反転させた。
「フィエラ」
「見えてる」
フィエラが矢を放つと、ザイルは低く沈み込み、その頭上を矢が抜けた。
「外した……」
もう矢はない。
ザイルがそのまま距離を詰め、レイグも追う。フィエラはコンポジットボウを横へ構えた。
「下がれ! それで受けるな!」
間に合わなかった。
ザイルの刃が弓の中央近くへ斜めに食い込み、乾いた破裂音とともに、木と角を重ねた弓が裂けた。
「あ……」
弾けた弦と、半分に折れたコンポジットボウがフィエラの手から落ちる。右手の指だけが、もうない弦を探すように一度動いた。
「私の……」
呆然としていたのは、弦の残響が消えるまでだった。次の瞬間には腰のダガーを抜き、「まだ」と短い刃をザイルの剣へ合わせようとする。
近すぎる。
「フィエラ」
レイグが石床を蹴るより早く、ザイルの刃が低く走った。フィエラは身体を捻って急所だけは逃がしたが、刃は左太ももの外側を深く裂く。
「――っ」
噛み殺した悲鳴の代わりに血が噴き、左脚から力が抜けた。フィエラは近くの柱へ手をつき、それでもダガーを上げた。
ザイルは追撃せず、代わりにレイグの進路へ身体を入れた。
「邪魔だ」
斬り込む。
受けられる。
その間にフィエラは片脚で下がろうとしたが、傷ついた左脚が石床に触れた途端、膝が崩れた。
「っ……」
肩から瓦礫へぶつかり、そのまま床へ倒れる。
「フィエラ」
レイグが向きを変えた。
「来ないで!」
鋭い声に足が止まる。
ザイルはその間に間合いの外へ下がった。剣先をレイグへ向けたまま、空いた左手で腰の小瓶を抜き、栓を歯で外して中身を飲み干す。
頬の傷が塞がり、脇腹に滲んでいた血も止まった。だが右上腕の矢は抜けず、傷口から流れる血が弱まっただけだった。
空瓶が石床へ転がる。ザイルの薬差しには、もう何も残っていなかった。最後まで温存していた一本だ。
「でも――」
「ダルクの時と同じことする気?」
片肘で身体を起こそうとするフィエラの顔からは血の気が失せ、左太ももの血が石床へ広がっていた。
「私はもう動けない!」
「まだ――」
「動けないって言ってるでしょ!」
怒っていた。
声も震えていた。
落ちたダガーへ手を伸ばすが、指先が届かない。
代わりに腰袋を探り、残っていた清潔な布を引き出した。震える両手で左太ももへ押し当てる。布はすぐ赤く染まったが、流れるままにはしておけなかった。
「……最悪」
折れたコンポジットボウが目に入った。
「弓まで壊れた」
「フィエラ」
「これ……弁償してもらえるかな」
痛みの中で出た「弁償」という言葉に、レイグの口が半開きになった。
「誰にだよ」
「ザイル」
「無理に決まってるだろ」
「だよね」
笑おうとしたらしいが、口元が少し歪んだだけだった。
「……笑えないなあ」
目尻に涙が浮かんでいた。
フィエラはそれを拭わず、折れた弓を睨んだ。左腿の布を押す手だけが、小刻みに震えていた。
剣を構え直したザイルの右上腕には、フィエラが撃ち込んだ矢がまだ残っている。
レイグもロングソードを握り直した。
ザイルはすぐには踏み込まず、レイグがフィエラへ顔を向ける瞬間を待つように間合いの外を回っている。レイグも剣先でその動きを追い、振り返らず声だけを返した。
「レイグ」
後ろから呼ばれる。
ザイルから目を離せないまま答えた。
「何だ」
「次も……」
フィエラが息を整えようとして失敗し、短く咳き込んだ。
「次も同じ朝だったらさ」
その言葉だけで、次の朝の寝台と、何も知らないフィエラの顔が目の前に浮かんだ。
次がある。
それは、今日ここから帰れなかったということでもある。
「私、また忘れてるんでしょ」
「……ああ」
「じゃあ」
フィエラはそこで一度言葉を止めた。
「また言って」
「何を」
「今日……私、逃げなかったって」
レイグは返事ができなかった。
「怖かったけど」
声がかすれる。
「ちゃんとここまで来たって。それだけ」
「そんなこと、忘れた方が楽だろ」
「勝手に決めないでよ」
弱々しくても、フィエラらしい言い方だった。
「忘れてたら……その時の私に、また決めさせて」
レイグの中に、いくつもの朝が蘇った。
何度説明しても信じてもらえなかった日がある。
喧嘩した。
怒鳴られた。
フィエラに呆れられたこともある。
それでも、最後には何度も二人は自分の横へ来た。
「……分かった」
ようやく答えると、フィエラは目を閉じかけ、すぐにまた開いた。
「寝てないからね」
「ちゃんと聞こえてる」
「今は……ちゃんと覚えてるから」
それ以上は続かず、呼吸を整えるだけで精一杯らしい。
レイグは正面へ向き直った。
ダルクも生きている。
フィエラも生きている。
けれど、もう二人とも戦えない。
レイグの胸元にある薬入れの中では、《生命の雫》を収めた小瓶がまだ淡く光っていた。その銀色の一滴は誰が傷つこうと、ただ形を崩さず瓶の底にある。
だが、ここまでの戦いは無駄ではなかった。
ダルクが、ザイルの体力を削った。
フィエラが、右腕に矢を撃ち込んだ。
あの一射を、ザイルは読めなかった。
二人の戦いを、今度はレイグが引き継ぐ。
ロングソードの切っ先を上げる。
ザイルも静かに剣を構えた。
背後には、立てない二人がいる。
その前で、レイグは一人、ザイルと向き合った。




