第63話 怖くても退かない
ザイルの剣が走った。
「っ」
ダルクは右手のウォーハンマーを持ち上げ、柄の金属部分で刃を受けた。
甲高い音が礼拝堂へ響く。
今までなら、大盾を斜めに差し出して外へ流せた一撃だった。だが盾はもうなく、受け止めた衝撃がそのまま腕から肩へ突き抜ける。
ザイルは剣を引くより先に身体を寄せ、肩からぶつかった。
「ぐっ……」
ダルクが石床を二歩滑った。
「下がれ!」
レイグは盾を失ったダルクの前へ滑り込み、横から斬り込んでザイルを引き離した。
スチールロングソードが外套をかすめる。
「フィエラ」
「撃つ」
すぐ後方で弦が鳴った。
飛んできた矢にザイルが反応し、レイグの身体を挟む位置へ回り込む。
フィエラが舌打ちした。
「レイグが邪魔」
「俺のせいかよ」
「今はそう」
レイグは右へ動き、射線を空けた。
それを待っていたかのように、ザイルの身体がフィエラへ向く。
「来る!」
フィエラが矢筒へ手を伸ばしたが、次の一本をつがえるよりザイルの踏み込みの方が速い。
レイグも戻ろうとした。
その横を、ダルクが抜けた。
「行かせるか!」
ウォーハンマーが下から振り上げられる。
ザイルは剣の腹で受けたものの、重い鉄の頭を完全には止められず、腕ごと外へ押し流された。
「今だ!」
レイグが踏み込み、胸元へ剣を突き出す。
ザイルは半身になってかわしたが、今度は二歩ほど距離を取った。
追おうとしたダルクの足が、そこで止まった。
「……ダルク?」
ダルクが追撃へ出るはずの間に、靴底が石床へ貼りついた。
その遅れを、レイグは見逃さなかった。
盾を失った左腕が身体の横へ垂れ、その先で握られた拳が小刻みに震えている。呼吸も荒く、肩がいつもより大きく上下していた。
疲労だけではない。
レイグは、この震えを知っている。
地下水路でジャイアントスパイダーと戦ったあと、ダルクは洗い終えた盾を抱え、震える指を握り込んで隠そうとしていた。
ダルク自身はあの一日を覚えておらず、次の朝には恐怖も会話も消えた。
けれどレイグだけはその後も、ダルクが死ぬことを怖がる姿を何度も見てきた。
誰より大声で怒鳴り、誰より真っ先に盾を出す男が、死ぬ時の痛みだけはずっと怖がっていた。
「ダルク」
「見るな」
「手が――」
「見るなって言ってんだろ」
怒声が返ってきた。
ダルクは震える左手を握り込み、それでも隠し切れなかった。
ザイルは待ってくれない。
今度はレイグへ踏み込んでくる。
剣を合わせた。
最初の斬撃をロングソードで受け、下から返ってきた刃をバックラーで外へ流す。そのまま押し返そうとしたが、ザイルは力比べをせず、レイグが前へ重心を乗せた瞬間に身体を引いた。
追えば崩される。
レイグが踏みとどまったところで、ザイルが再びフィエラを見る。
「こっち来た!」
フィエラは矢を構えたまま後退した。
ダルクが一歩前へ出る。
「ダルク、待て!」
「じゃあ誰が止めるんだよ」
「俺がやる!」
「お前がこいつとやってる間、胸の雫は誰が守る」
言われてレイグは、外套の内側にある革の薬入れを意識した。
小瓶はまだそこにある。だがザイルに一度でも三人の間を抜けられ、胸元へ手を伸ばされれば、それで終わる。
「でも、お前……」
レイグは再びダルクを見る。
「震えてるだろ」
ダルクの顔が歪んだ。
「うるせえ」
「無理してるの分かってるんだよ!」
「だったら何だ」
礼拝堂の空気を震わせるほどの怒声だった。
フィエラの瞳だけがダルクへ滑ったが、引いた弦も矢先もザイルから外さなかった。レイグも半歩ずつ位置を合わせ、ザイルを胸元へ近づけない。
ザイルは剣先を揺らしながら二人の外を回り、フィエラの射線とダルクのウォーハンマーが重なる間合いには無理に入らなかった。
「怖えよ!」
レイグは息を呑んだ。
「怖えに決まってんだろ」
ダルクの声は怒鳴っているのに震えていた。
「死ぬのなんか嫌だ! 刺されたくねえし、息できなくなるのも嫌だ! 次の朝に戻るとか知るか! 死ぬ時に痛えのは、今ここにいる俺だろうが!」
握り込んだ左手は、まだ震えている。
それでももう隠さなかった。
「俺は最初から怖えんだよ」
「ダルク……」
「だからって」
右手のウォーハンマーを持ち上げ、鉄の頭をザイルへ向ける。
「お前らの後ろに隠れられるか!」
ザイルはしばらく何も言わず、笑いもせず、ただダルクを見つめる目だけをわずかに細めた。
「お前は何度でも、そうやって前へ出てくる」
「それが分かってんなら、いちいち言うんじゃねえ!」
ダルクは怒鳴り返すと、足元に散った盾の残骸を一度だけ見た。もう大盾で通路を塞ぐことはできない。ザイルとフィエラを結ぶ最短の線を見定め、ウォーハンマーの柄を身体の前へ斜めに置く。
「フィエラ、矢をつがえるまでは長椅子の内側から出るな。レイグは追う時、俺の右を空けろ」
「急に細かいね」
「盾がねえんだ。お前らがばらけたら、次は身体で塞ぐしかなくなる」
レイグは剣先をザイルへ向けたまま、ダルクの右側を確かめた。
「最初から身体で行く気かよ」
「他に何がある」
フィエラが弦を引き、長椅子の背へ肩を隠す。
「分かった。撃てるまで出ない」
ザイルが半歩左へ移ると、ダルクの槌頭も同じだけ滑り、二人へ続く直線を塞いだ。
ザイルが動いた。
「来るぞ!」
レイグはロングソードを構え直したが、ザイルは正面のダルクへ向かわなかった。
フィエラだ。
「だから私ばっかり」
フィエラが矢を放つ。
ザイルは剣で払った。
二本目をつがえる間に距離を詰められ、フィエラは射撃を諦めて崩れた長椅子の向こうへ跳ぶ。
「フィエラ、右へ!」
「見えてる」
レイグも追う。
しかしダルクの方がフィエラに近かった。
「どけ」
負傷していない右脚で踏み込み、ウォーハンマーを振り下ろす。
ザイルはその攻撃を受けず、わずかに身体をずらして柄を剣で横へ流した。
重い鉄の頭が石床を叩く。
ダルクの身体が開いた。
ザイルの剣が低く走った。
「――っ」
刃が右太ももの外側を深く裂き、血が石床へ散った。
「ダルク」
膝が落ちる。
ザイルはそのまま追撃へ入ろうとした。
レイグはウィンドステップのために魔力を集めかけ、寸前でやめた。
まだ使うな。
走れば届く。
「うああっ」
地面を蹴り、二人の間へ飛び込む。
ロングソードでザイルの剣を弾いた。
腕の骨まで痺れるような衝撃が走る。
「フィエラ! ダルクを!」
「分かった」
「触んな」
ダルクが怒鳴った。
「立てる」
ウォーハンマーを床へ突き、杖代わりにして身体を起こそうとする。
右脚に体重を掛けた瞬間、傷が開いたのか顔が大きく歪んだ。
「ぐっ……」
槌頭が石床を滑り、右の靴先まで外へ流れた。膝を正面へ戻そうとしても、裂かれた太ももが震えるだけで止まらない。左脚へ重心を移し、左手も柄へ添えようとしたが、盾越しの衝撃を受け続けた肩が軋み、その手だけが一拍遅れた。
ダルクは右手だけで柄を立て直し、もう一度、左脚から身体を押し上げようとする。
フィエラが腕を取ろうとする。
「立ててないじゃん」
「今立つ」
「無理だって」
「うるせえ」
「そこで喧嘩するな」
レイグはザイルから目を離さず怒鳴った。
こちらがダルクに気を取られている間にも、ザイルは攻めてくる。
剣を合わせるたび、腕へ衝撃が積み重なった。
一度目は受けられた。
返した二撃目も外へ流せた。
だが三度目には押し込まれ、レイグは後ろ足を滑らせた。
ザイルも万全ではない。
脇腹にはレイグたちがつけた傷が残り、チェインメイルも何か所か裂けている。それでもアビスデーモンとの総力戦を避けてきた分、消耗の差はあまりにも大きかった。
「レイグ、下がって!」
フィエラの矢が飛ぶ。
直撃はかわしたが、矢じりがザイルの頬をかすめ、細い血の線を残した。
その隙にレイグも間合いを外す。
「ダルク、傷見せて」
「後だ」
「血出てる」
「見りゃ分かる」
いつもの怒鳴り声だった。
けれど、立ち上がったダルクの右脚は明らかに安定していない。
それでもウォーハンマーを手放さず、再びレイグたちより半歩前へ出ようとする。
「もう前に出るな」
「嫌だ」
「脚が動いてないだろ」
「まだ一本ある」
「そういう問題じゃ――」
ザイルが動いた。途中までレイグへ向かい、レイグが剣を上げた瞬間に踏み込みの角度を変えて、フィエラへ走る。
「っ」
フィエラは矢をつがえる暇もなく下がり、レイグもすぐに追った。だがダルクは、深く斬られた右脚を引きずりながら、すでに彼女の前へ身体をねじ込んでいた。
「何やってんだ」
「見りゃ分かるだろ」
「分かるから言ってんだ」
盾はない。
残っているのはウォーハンマーだけだった。
ダルクはザイルの剣ではなく、その切っ先とフィエラを結ぶ線を見た。傷ついた右脚を一度だけ引きずり、左足をその線へ差し入れる。すでに痛めている左肩を前へ向け、ウォーハンマーの柄を斜めに渡した。
ザイルからフィエラへの直線に、柄とダルクの左肩が重なった。
フィエラへ伸びる剣先を、ダルクは右手で握った柄に左手も添えて受けようとする。だが、その瞬間に蓄積していた肩の痛みが走り、左腕が力なく下がった。
「ぐ……っ」
それでも柄を離さず、ザイルの剣と激しく打ち合わせる。ザイルは押し切ろうとせずに刃を引いたが、右脚を負傷したダルクは後ろへ逃がした重心を戻せず、身体をわずかに傾けた。
その隙へザイルが潜り込む。
「ダルク」
間に合わない。
何度も衝撃を受けている左肩へザイルの肩が叩き込まれ、ダルクは横へ弾かれた。
「がっ……」
左肩から石床へ落ちる鈍い音が響き、ウォーハンマーが手を離れて床を滑っていった。
「ダルク」
レイグが反射的に戻ろうとする一方で、ダルクは右手を床につき、もう立とうとしていた。だが左腕は上がらず、右脚にも力が入らない。
「……くそ」
歯を食いしばって身体を押し上げても、震える肘では支えきれず、わずかに床を離れた胸がすぐ落ちた。
「くそ……っ」
拳を石床へ叩きつける。
「立てよ……」
礼拝堂の入口は、ダルクの背後にある。だが、床についた右手はそちらへ這おうとはせず、床を滑っていったウォーハンマーを探していた。届かない指先が石を掻き、爪の間へ白い粉が入る。それでも目だけは、ザイルと二人の間から外れなかった。
「待ってろ! 今――」
「来るな!」
怒声に、レイグの足が止まった。
ダルクが顔を上げる。
額には冷たい汗が浮かび、唇から血の気が失われている。それでもレイグとフィエラを睨む目だけは、まだ力を失っていなかった。
「俺はいい」
「よくないだろ」
「動けねえ奴のところに三人集まってどうすんだ!」
「でも――」
「二人で行け」
レイグは答えられなかった。
ダルクはもう一度、右手で床を押した。
立とうとした。
右脚が震え、身体はほとんど持ち上がらない。
「くそ……」
今度の声は小さかった。
「こんなところで……」
噛みしめた奥歯が小さく鳴り、視線が一度だけ、霧のない礼拝堂の出口へ走った。
それでも次に顔を上げた時には、また怒鳴った。
「行けって言ってんだろ!」
その直後、ザイルが動いた。
レイグは振り向く。
ダルクはもう前へ出られない。
盾もない。
次に狙われる人間が誰なのか、考えるまでもなかった。
「フィエラ!」
ザイルの剣先が、彼女へ向いた。




