第68話 明日のある場所
次の瞬間、足裏に硬い石の感触が戻った。肩に回していたダルクの腕も、反対側で支えていたフィエラの重みも消えている。脇腹を裂く痛みも、血で濡れた服の重さも、背後から迫っていた黒い霧の冷たさも、一度に遠ざかっていた。
「――っ」
レイグは息を呑んだ。
痛くない。
右脇腹に手を当てても傷はなく、服も血に濡れていなかった。肩も腕も動く。ついさっきまで身体を支えることさえ難しかったはずなのに、両脚で立っている。
だが、それより先に目に入ったものがあった。
松明の火が、古い亀裂の走る石壁を照らしていた。通路は緩やかに下り、数歩先でわずかに広くなっている。その先は光の届かない暗闇だった。
肩には、宝を詰めた荷袋の紐が食い込んでいる。銀器も金貨も古い遺物も、三人で分ければしばらく危険な仕事を減らせるだけの量が入っていた。
そして奥から、石と石が擦れるような低い軋みが聞こえた。天井の隙間から、細かな砂が一筋落ちる。
レイグの喉が鳴った。
「……ここ」
自分の声が震えた。知っている。忘れるはずのない場所だった。
「レイグ」
フィエラの声に振り向くと、そこに二人がいた。
コンポジットボウを構えたフィエラが、不安を隠さずこちらを見ている。その隣ではダルクが大盾を握り、奥の暗闇を睨んでいた。
フィエラは両脚で立ち、ダルクは左腕で大盾を構えている。二人とも、間違いなく生きていた。
「分かってるって顔じゃねえな」
ダルクが言った。
「戻るんだぞ」
その言葉で、レイグは悟った。
ここだ。
あの日、フィエラが嫌な予感を訴え、ダルクが戻れと言った。それでも自分が「あそこまで」と踏み出す、その直前。
二人があの礼拝堂や黒い霧を覚えているのか、レイグには分からなかった。ただ、自分の中には、三人で越えた裂け目まで鮮明に残っている。
『命の糸が断たれる前……最後に帰る道を選び得た刻へ』
暗い通路が、大きく口を開けて待っている。
前の自分は、二人の顔ではなく、その闇を見た。
だが今は違う。
一歩先には死があり、振り返れば、まだ生きている二人がいた。
レイグは肩から荷袋を外し、石床へ落とした。
銀器がぶつかり、小箱の中で金属が鳴る。
「おい」
ダルクの目が見開かれた。
「何してんだ。持って戻れよ」
「戻る」
レイグは二人を見た。
「今すぐ戻る。荷物も捨てる」
「は?」
「全部だ。二人も下ろせ!」
さらに大きな軋みが地下を走り、三人の足元がわずかに揺れた。天井から砂と小石が落ちてくる。
フィエラの顔から驚きが消えた。
「ダルク、話はあと!」
自分の荷袋を肩から外し、床へ落とす。
「走るよ!」
ダルクは二人と宝を交互に見た。
「これだけあれば、しばらく危ない仕事をしなくて済むんだぞ」
「命があればまた稼げる!」
レイグが怒鳴る。
「今度こそ、三人で帰る!」
奥の暗闇から、石材が連続して砕ける轟音が響いた。
ダルクは最後にレイグを睨み、自分の荷袋を投げ捨てた。
「後で絶対説明しろよ」
「ああ」
三人は来た道へ走り出した。
*
崩落は、すぐ後ろまで迫ってきた。
石床が何度も揺れ、天井から落ちた石が背後で砕ける。三人が角を曲がった直後、さっきまでいた通路の一部が轟音とともに潰れ、舞い上がった砂埃が追いかけるように押し寄せてきた。
崩落の向こうから、目を覚ました怪物の低い咆哮が追ってきた。
「速く!」
フィエラが先頭で叫ぶ。
「走ってる!」
ダルクが怒鳴り返した。
戦う必要も、敵を倒す必要も、宝を取り戻す必要もない。三人で帰れば、それでよかったのだ。
前方でフィエラの足が石片を踏んだ。
「きゃっ」
身体が傾く。
レイグは反射的に腕を伸ばし、フィエラの肘を掴んだ。
「大丈夫か」
「平気! 離して、走って!」
「転ぶなよ」
「転びたくて転んだんじゃない」
「喧嘩してる場合か」
後ろからダルクが怒鳴った直後、さらに強い振動が来た。
今度はダルクが壁に手をつく。
「ダルク!」
「行け! 止まんな!」
レイグは数歩先へ出たところで止まった。
「何止まってんだ」
「一緒に行くんだよ!」
「今追いつく!」
「信用できるか」
「お前に言われたくねえ」
ダルクが悪態をつきながら走ってくる。
レイグも再び足を動かした。先にはフィエラ、後ろにはダルクがいる。誰も置いていかない。
遺跡の出口へ続く上り道が見えた時、背後から今までで一番大きな崩落音が響いた。
フィエラが階段を駆け上がり、レイグが続き、最後にダルクが地上へ飛び出した。
三人が転がるように外へ出た直後、地下から大量の砂埃が噴き上がる。
しばらく誰も立てなかった。外の空気を吸い込むと、土と草の匂いがした。頭上には空があり、風が頬を撫でている。
レイグは仰向けになったまま何度も息を吸い、自分たちが生きていることを確かめた。
「……説明しろ」
隣から荒い声が飛んできた。
ダルクは地面に座り込み、膝の上に両腕を乗せてこちらを睨んでいる。
「俺らが何を捨ててきたか、分かってんだろうな」
「全部置いてきた」
「金貨だけじゃねえぞ。銀器も、あの小箱も、奥で拾った遺物もだ」
「金貨も銀器も覚えてるよ」
「だったら何で――」
地下から再び低い崩落音が響き、三人が同時に入口を見る。
さっきまで通れた場所は奥から流れ込んだ瓦礫で完全に塞がれており、ダルクが口を閉じ、フィエラも言葉を失った。
レイグには、その先が見えていた。
今ここにいる二人には起きていない。それでもレイグは、あの向こうでダルクが血を流し、フィエラが倒れ、自分も帰れなかった一日を覚えている。
「……悪かった」
レイグが言うと、ダルクの眉が寄った。
「何がだよ」
レイグは崩れた入口から目を離せなかった。
「帰らなかったこと」
「は?」
「前に……」
レイグは言葉に詰まった。
死者の世界で繰り返した同じ朝も、黒い霧も、何度も忘れられた約束も、今ここで説明しようとすれば、どこから話せばいいのか分からなかった。
「何でもない」
「何でもなくねえだろ」
「帰ってから話す」
「全部だぞ」
「ああ」
「途中で面倒くさくなって逃げんなよ」
「逃げない」
フィエラが地面に座ったまま、レイグの顔をじっと見ていた。
「レイグ」
「何だ」
「ほんとに何があったの?」
いつもの軽さがない。
レイグは答えかけて、結局首を振った。
「今は……帰ろう」
フィエラはしばらくレイグを見つめ、それから崩れた入口へ目を向けた。
「うん」
ダルクが立ち上がりながら盛大に舌打ちする。
「宝なしで帰るとか最悪だ」
「生きてるだけいいでしょ」
「よくねえ。よくねえけど……」
ダルクは瓦礫を見た。
「まあ、死んだら持って帰れねえしな」
ダルクの言葉に、ずっと前のネヴァルの声が重なった。死んだら何も持って帰れない。当たり前のことを理解するまで、あまりにも長くかかった。
「帰ろう」
今度は静かに言った。
三人で歩き出した。
*
ネルトアへ戻った頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
三人が町へ入ると、ダルクはまだ宝を惜しんでいた。
「せめて一袋くらい持って出られただろ」
「崩落してる中で選別するの?」
フィエラが呆れる。
「ダルク、まだ言う?」
「あれだけあったんだぞ。言うに決まってんだろ」
レイグは思わず笑った。
ダルクが睨む。
「何笑ってんだ。原因お前だからな」
「悪い」
「軽い」
「でも帰ってきただろ」
口にした瞬間、自分の声が少し震えた。
ダルクが何か言いかけ、フィエラの視線もこちらへ向いたが、レイグはそれ以上話せなかった。
町の分かれ道で別れる時、フィエラは「明日、絶対説明だからね」と念を押し、ダルクも金の話を聞かせろと怒鳴った。
二人の声を背中に受けながら、レイグは家へ向かった。
死者の世界でも毎朝見たはずの通りなのに、家へ近づくほど足が震えた。
家が見え、窓から灯りが漏れている。けれど扉の前まで来ると、向こうに母と妹がいると思うだけで手を伸ばせなくなった。
「……ただいま、って言えばいいだろ」
自分へ言い聞かせる。
何度も言った言葉なのに、取っ手へ伸ばした指が二度止まった。三度目に、ようやく掴んだ。
開ける。
「ただいま」
台所から聞こえていた皿の触れ合う音が止まった。
「兄さん?」
ネリナが顔を出した。
十五歳の妹は、死者の世界で何度も見たネリナと何一つ違わない顔をしていた。
なのにレイグは、その場から動けなくなった。
「何?」
ネリナが眉を寄せる。
「そんなところで突っ立って。怪我した?」
「……ネリナ」
「何」
レイグは土埃も払わず妹へ歩き、そのまま抱き締めた。
「ちょ、何?」
「兄さん?」
腕の中でネリナが暴れる。
「痛いって」
レイグの力が緩んだ。
最初に死んだ次の朝にも、同じように妹を抱き締めた。あの時のネリナも痛がって怒り、今のネリナも同じように腕の中で文句を言っている。
それなのに、レイグの目から涙が落ちた。
「え、何? 本当にどうしたの?」
「……ごめん」
「何が?」
「ごめん」
「だから何が」
「レイグ?」
奥からミレサが出てきた。
母の顔を見た瞬間、今度こそ何も言えなくなった。
向こうの世界の母もこの顔で笑い、怒り、早く帰れと何度も言った。甘い菓子を買って帰った夜の「また明日ね」というネリナの声まで蘇る。
あの二人が無意味だったわけではない。
レイグは、そこで愛した時間も抱えたまま帰ってきた。
「母さん」
声がかすれた。
ミレサは驚きながら近づき、レイグの顔を覗く。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ何があったの」
「……いろいろ」
「それじゃ分からないでしょう」
その言い方まで、よく知っていた。
レイグは泣きながら少し笑った。
「ただいま」
ミレサが目を瞬く。
「さっきも聞いたわよ」
「もう一回言いたかった」
「変な子ね」
ミレサは呆れたように息を吐き、いつもの声で言った。
「おかえり」
レイグは目を閉じた。
「ああ」
ようやく帰ってきた。
自分が帰らなかった後、母と妹がどうしていたのかは、もう知ることができない。
今度は、二人を待たせたままにはしなかった。
*
目を覚ました瞬間、レイグの身体は硬直した。
目に入ったのは見慣れた自室の天井で、窓の外では朝の荷車が石畳を鳴らし、階下からミレサの声が聞こえた。
「ネリナ、先に食べないの」
「一枚だけ」
「お兄ちゃんの分でしょう」
「まだ起きてないじゃん」
心臓が激しく打ち、また同じ朝へ戻ったのではないかという恐怖が、一瞬で頭の中を埋め尽くした。
「……違う」
レイグは寝台から飛び降りた。
壁際の装備や自分の身体を見ても何も判断できず、レイグは壁の暦へ駆け寄った。
昨日の日付を覚えていたレイグが暦を指で確かめると、日付は一日進んでいた。
見間違いではないと分かり、レイグは動けなくなった。
昨日とは違う日付を前に指先が震え、何度見ても数字は昨日の先を示している。
階下からネリナが叫んだ。
「兄さん! 今日こそ私のパン取らないでよ!」
「それはお兄ちゃんの台詞でしょう」
ミレサが笑っている。
昨日とは違う会話だった。
レイグが暦に手をつくと、喉の奥から息が漏れる。
笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、自分でも分からなかった。
涙が一滴、暦の下へ落ちた。
「……明日だ」
声にすると、また涙が出た。
「明日が来た……」
今度は誰も巻き戻さなかった。昨日の夕食は昨日にあり、今日がその続きとしてここにある。
レイグはしばらく暦の前から動けなかった。
階下では母と妹が、もう今日のことで言い合っている。その声を聞きながら何度も涙を拭い、やがて深く息を吸った。
「今行く!」
階下へ向かって叫ぶ。
「遅いよ」
ネリナの返事が飛んでくる。
「今行くって言っただろ」
「昨日は帰るなり泣くし、今朝は飛び起きるし。兄さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ。昨日の続きも、ちゃんと話す」
「その前に朝ごはん」
今度はミレサの声が上がった。
「それから今日は探索を休んで、ダルクさんとフィエラさんを呼びなさい。夕食を二人分増やして、昨日の話の続きを聞きます」
「二人も?」
「あなた一人に任せると、『いろいろ』で済ませるでしょう」
レイグは笑いながら部屋を出た。
*
その夕方、食卓には椅子が二つ増えた。
レイグは、同じ朝を繰り返したことも、ダルクとフィエラとともに戦ったことも話した。途中で言葉に詰まると、ダルクは急かさずにパンをちぎり、フィエラも卓に頬杖をついたまま待った。
「怖くても、二人とも逃げなかった」
二人の顔を見て、レイグは続けた。
「そのことは、ちゃんと言いたかった」
「今の話、俺らが止めても聞かなかったんだろ。そっちも忘れんなよ」
ダルクの声に、レイグは頷いた。
「忘れない」
「なら、次は帰るって決めたら帰れ。お前が動かなきゃ引きずるぞ」
「私も手伝う」
フィエラがすぐに加わり、レイグは苦笑した。
「分かった。自分で歩くよ」
「頼むよ、本当に。私、次は何も追いかけずに歩きたい」
フィエラは頬杖を外した。
「明日、市場の方へ行かない? 食べる店をゆっくり選びたいんだけど」
「飯のためだけに呼ぶのか」
「それじゃ駄目?」
ダルクはパンを口へ放り込み、飲み込んでから答えた。
「うまいところにしろよ」
「だから選ぶんでしょ。レイグは?」
「行く」
返事が思ったより大きくなった。フィエラが笑う。
「まだ何を食べるかも決まってないよ」
「それも一緒に選ぶ」
「高い店は駄目だぞ」
ダルクが念を押し、台所の方でネリナが吹き出した。
フィエラが二人に言った。
「じゃあ、いつもの場所ね。朝ごはんは食べてから来てよ」
「昼まで待たせんなよ」
「私がいつそんなに待たせた?」
「店で迷い始めたら分かんねえだろ」
二人が言い合う間、レイグはちぎったパンを持ったまま、その声を聞いていた。ネリナに横から手を伸ばされ、慌てて口へ放り込む。
明日も、三人で会う。
その時には今日の話の続きもできるし、まだ知らない話も聞ける。レイグは飲み込んでから、二人へ言った。
「じゃあ、明日な」
フィエラが目を丸くした。
「まだ帰らないけど?」
「分かってるよ」
卓の向こうでダルクが笑い出し、レイグも堪えきれなくなった。
*
雨が《王家臨時館》の窓を叩いていた。
ヴァレド・ヴェルナは机の上の報告書へ目を落とし、しばらく一文字も読まなかった。
また同じ朝だった。
向かいにはイセラがいる。
二人とも、昨日の一日を覚えていた。それでも朝を越えた紙には、《生命の雫》の名も、三人の行方も残っていない。
ヴァレドが覚えている最後の報告は、レイグ・オルディアと同行者二人が古い石橋を渡り、旧市街の奥へ向かったというものだった。その後、橋は霧に閉ざされ、城内から伝令は戻らなかった。
「レイグ・オルディアたちは」
「現時点では、三名とも探索受付に姿を見せておりません」
役人の返答に、ヴァレドの指が止まった。
昨日と同じ朝でも、今日の選択まで同じとは限らない。今ここにいないというだけで、結論は出せなかった。
「三人を捜せ。ネルトアと探索受付を当たれ」
「はっ」
「王城地下の古い礼拝堂と祭壇へ送る隊の準備も進めろ。日が傾く前に、橋のこちら側へ戻せ。今度は一人も、霧の向こうへ残すな」
「はっ」
イセラがヴァレドを見る。
「もし、あの三人が」
「まだ結論は出せない。だが、見過ごしもしない」
「報告を」
ヴァレドが言うと、控えていた役人が紙を開いた。
「本日のカレグノス探索について、参加希望者が前線拠点へ集まり始めております。王家の布告についても、改めて確認を求める者が――」
「内容は変えない」
「はっ」
役人が頭を下げる。
イセラは窓の外を見たまま言った。
「……続けるのですね」
「他に手掛かりはない」
短い返事だった。
「探索は続ける」
「ええ」
ヴァレドは役人へ向き直る。
「橋が霧に覆われる前に戻るよう、改めて全員へ伝えろ。負傷者の受け入れも増やせ。報告はこれまで通り、発見物の種類にかかわらずすべて持ってこさせる」
「承知しました」
役人が退出して扉が閉じると、雨音が少し大きく聞こえた。
ヴァレドが窓へ目を向けると、前線拠点の向こう、雨に濡れた古い石橋を何人もの探索者が歩いていた。
剣を背負う者も、盾を持つ者も、薬と食料を詰めた荷袋を抱える者もいた。今日こそ宝を持ち帰ろうと話す者も、家族のために稼ごうとする者もいるだろう。
その誰も、自分が死者だとは知らない。
橋の先には、雨に煙る巨大な城塞都市カレグノスが待っていた。
王も王妃も、この世界の仕組みを知りながら、まだ答えだけを知らなかった。
古い石橋の上を、探索者たちは今日も向こう岸へ歩いていく。
そして死者たちの世界には、まだ明日は来なかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
物語をうまくまとめきれず、読みづらい部分も多かったかと思います。
作者としても、もう少し読みやすく、わかりやすい作品にしたいと考えております。
今後、現在の作品を修正するか、改訂版として改めて投稿するかは、検討していきたいと思います。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




