第61話 奪う者
レイグは左肘で胸元の薬入れを庇い、ダルクの大盾と位置を入れ替えながらザイルから距離を取った。
「……最初から、これが狙いだったのか」
ダルクが大盾を持ち上げた。
盾の縁はオーガとの戦いで歪み、その後も新しい傷を増やしている。先ほどアビスデーモンの巨腕を受けた時には、金属板の下から木芯近くまで届く亀裂も入った。
それでもダルクは、いつものようにレイグとフィエラより前へ出た。
フィエラも残った矢を一本抜き、コンポジットボウにつがえる。矢筒の中身はもう多くなく、索敵や風魔法を繰り返したため、魔力にも余裕はない。
レイグも同じで、アビスデーモンとの戦いを抜けたばかりの身体は重く、強い魔法を何度も使える状態ではない。
対するザイルは、薄汚れた外套の下に軽量のチェインメイルを着込み、右手には細身のスチールソードを握っていた。
朝になれば装備を失うのはザイルも同じだ。
それなのに今日も、自分が必要とする装備を揃え、ほとんど消耗した様子もなくここまで来ている。
誰も動きを止めてはいなかった。ザイルは剣を下げず、柱に沿って半円を描くように間合いを測る。レイグたちも三人の向きを少しずつ変え、フィエラの矢先とダルクの盾が同時に届く位置を崩さない。
ザイルが半歩入るたび、レイグが胸元を遠ざけ、ダルクが進路を塞ぐ。その探り合いの中で言葉が交わされていた。
「最初は、祭壇に何が起きているのか分からなかった」
ザイルの視線が、レイグの胸元へ向いた。
「変わり始めた。だから見ていた」
「塔の上も、回廊にいたのも、お前か」
レイグは一歩出かけた。ザイルの剣先が胸へ寄り、ダルクの盾の陰へ足を戻す。
振り返るたびに消えた影。追っても、屋根にはもう誰もいなかった。
「いつからだ。どこまで見てた」
「数えていない。全部でもない」
ザイルは祭壇を顎で示した。
「必要なところだけだ。お前が欲しがっていた剣を拾わず、仲間の方へ戻った。その後で、あれが変わった」
レイグの右手が柄を握り込み、鍔が手のひらへ食い込む。
「俺たちが迷って、間違えて、そのたびに走り直してる間、お前は外から見てただけか」
「ああ」
「薬が尽きても、道が潰れても、お前は見てるだけで済んだんだな!」
怒鳴っても、ザイルは半歩の間合いを崩さなかった。レイグが胸元を遠ざける方向へ、剣先だけをずらす。
フィエラも笑っていなかった。
「自分ではやらずに、レイグにやらせればいいんだ」
「必要がない。出るのを待てばいい」
「最悪。少しくらい気にしなよ、そう言われることを」
「今さらだ」
フィエラは何か言い返しかけたが口を閉じ、代わりにダルクが一歩前へ出る。
「つまり何だ。俺たちに散々走り回らせて、出たところを横から持ってくつもりだったってことか」
「そうだ」
「ぶん殴りてえ」
「もう戦うことになる」
「なら遠慮しなくて済むな」
ダルクが大盾を少し高くした。
レイグはザイルから目を離さないまま言った。
「奪って、どうする」
「使う」
「お前が帰れる保証はない」
「だから試す」
フィエラの矢先が、わずかに上がった。
「失敗したら?」
「またお前が出すまで待つ」
レイグは胸元の薬入れを左肘で押さえ直した。ザイルの中では、今日の傷も、外で戦う者たちの死も、次の朝にはやり直せる材料でしかない。銀の一滴が、剣より重く胸骨へ食い込んだ。
「……俺は嫌だね」
ダルクが吐き捨てた。
「何がだ」
「お前みたいになるのが」
ザイルの眉が、ほんのわずかに動いた。
怒ったのか、それとも別の何かを思い出したのか、レイグには分からなかった。
その時、礼拝堂の入口側から激しい剣戟が響いた。
「来るぞ!」
カルゼンの声に、レイグの剣先が入口側へわずかに流れた。
崩れた入口の向こう、狭い回廊で人影がぶつかっている。
カルゼンの手には《白狼のミスリルソード》があった。瓦礫から救出されたあと、自分で拾い直した剣だ。
その横ではゴルディスが大盾を構え、リュシェナも壁際を走っている。
だが、こちらへ来られない。
回廊の中央にネヴァルがいた。
「通すな!」
その声に合わせ、数人の探索者が進路を塞ぐ。
「ネヴァル!」
レイグが叫んだ。
ネヴァルはこちらを見ると、唇が何かを言いかけて動いたものの、すぐ剣を構え直した。
「邪魔するな!」
「お前、何してるか分かってるのか」
「分かってる」
ネヴァルは怒鳴り返した。
「あの人だけが、この日を終わらせられるんだ!」
カルゼンが横から踏み込んだ。
「そいつに何を言われたか知らんが、俺たちまで巻き込むな」
白銀の刃が走る。
ネヴァルはまともに受けず、後ろへ飛んだ。
だが、開いた隙間には別の探索者が入り込む。さらに奥からグールの唸り声が重なり、黒い霧に追い込まれた魔物まで別の回廊から流れ込んできた。
「最悪ね」
リュシェナが、飛びかかってきたグールの爪をダガーで払いながら吐き捨てた。
「どいつもこいつも狭いところに集まりすぎ」
「文句言ってる暇があるなら右を止めろ!」
カルゼンが怒鳴る。
「命令しないで」
「なら勝手に止めろ」
「言われなくても」
ゴルディスも前へ出て、押し寄せてきたスケルトン兵の槍を大盾で受け止めた。
「こっちは任せろ! 道を作る!」
だが、すぐには来られない。
ネヴァルたちだけではなく、黒い霧から逃げてきた魔物と探索者まで狭い回廊へ集まり始めている。
カルゼンたちを待てば、その間にザイルが胸元の《生命の雫》を奪いに来る。レイグは正面のザイルへ向き直った。
「用意はしていた」
ザイルが言った。
腹の底で怒りが煮えた。
「ネヴァルまで使ったのか」
「使う?」
ザイルがわずかに首を傾げる。
「本人が選んだ」
「お前が吹き込んだんだろ」
「この朝のあいつに話した。この朝のあいつが信じた。それだけだ」
レイグは言い返そうとして、止まった。
ネヴァルが前の一日を覚えていないことは分かっている。
それでも今ここにいるネヴァルは、ザイルを信じて、自分の意思で道を塞いでいる。
その事実が余計に腹立たしかった。
「退け」
ザイルが言った。
「《生命の雫》を置いていけ」
「断る」
レイグは即答した。
「聞くだけ無駄だろ」
ダルクも盾の陰から顔を出し、フィエラは弓を引いたままザイルを見た。
「もうちょっと交渉っぽい言い方できないの?」
「必要か」
「一応、私たち三人とも嫌だって言ってるから」
「なら奪う」
「やっぱり交渉する気ないじゃん」
「フィエラ」
「射線は空いてる」
ザイルが踏み込んだ。
石床を強く蹴り、一直線にレイグの胸元へ距離を詰めてくる。
「行かせるか!」
ダルクが正面へ出た。
ザイルの剣と大盾がぶつかり、甲高い金属音が礼拝堂へ響く。ダルクは盾を傾けて刃を外へ流すと、そのまま右手のウォーハンマーを横から振った。
ザイルは剣を引きながら上体を沈める。
鉄の頭が、その髪の上を抜けた。
「レイグ」
「ああ」
左が空いた。
レイグは踏み込み、ザイルの脇腹へロングソードを突き込む。
刃が迫る直前、ザイルが一歩退く。
「フィエラ」
間を置かず矢が飛んだ。
胸を直接狙ったものではない。ザイルが退いた先を塞ぐ射撃だった。
避けるには横へ動くしかない。
「押せる」
ダルクが叫んだ。
レイグも同じことを感じていた。
ザイルは強い。
それでも、剣を受ければ退くし、三方向から攻撃を重ねれば避けざるを得ない。
三人なら戦える。
「左へ追う!」
「分かった」
フィエラが次の矢をつがえる。
ダルクが正面を塞ぎ、レイグは右から回り込んだ。
ザイルが足を止める。
「今だ!」
レイグが斬り込んだ。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
続けて横から斬り返すと、ザイルは剣の腹で受けながら外へ流した。そこへダルクのウォーハンマーが突き込まれ、ザイルはさらに一歩下がる。
「どうした」
ダルクが吠える。
「待ってた割には押されてんぞ」
「ダルク、喋ってると舌噛むよ」
「誰のせいで喋ってると思ってんだ」
「自分でしょ」
「今それやるな」
レイグも怒鳴った。三人でザイルを二歩下げた靴跡を見て、レイグの足はさらに半歩前へ出た。
勝てない相手ではない。
そう思った直後だった。
ザイルの視線がレイグからダルクへ移り、さらにフィエラを見た。
次の攻防から、わずかに流れが変わった。
レイグが右へ踏み込もうとすると、それより先にザイルが半歩左へずれる。
斬撃が届かない。
追えば、今度はフィエラの射線から外れる位置へ移動している。
「何で――」
「もう一回だ」
ダルクが盾を押し出した。
ザイルは正面から受けず、盾の右側へ滑り込む。
ダルクが慌てて向きを変えると、その大盾が一瞬だけフィエラの正面を塞いだ。
「ダルク」
「悪い」
矢を撃てない。
その間にザイルの剣が盾の横を抜け、レイグへ伸びてきた。
バックラーで受ける。
「ぐっ……」
左腕へ衝撃が走った。
押し負けるほどではない。
だが反撃へ移る前に、ザイルはもう距離を取っていた。
「こいつ……」
ダルクも気づいたらしい。
「見てやがる」
フィエラが低く言った。
「私たちを」
レイグは荒くなりかけた呼吸を整えた。
なら、知らない形を使えばいい。
「ダルク」
「何だ」
「次、正面を開けろ」
ダルクの眉が跳ね、それだけで意図は通じた。
「……分かった」
「フィエラ」
「聞こえてる」
三人で長く戦ってきたため、彼女も理由を聞かなかった。過去に使ったことのない形でも、互いの狙いはある程度分かる。
ダルクが前へ出た。
ザイルも剣を構える。
盾がぶつかる寸前、ダルクは意図的に身体をずらし、正面へ道を開けた。
ザイルから見れば、レイグへ最短で踏み込める。
ザイルが動く。
「今!」
だがレイグは真正面へ出なかった。
「ウィンドステップ」
足元へ集めた風を弾き、斜め右へ数歩分、一気に身体を運ぶ。
同時に、ダルクの大盾に隠れていたフィエラが姿を現した。
弓はすでに引き切られている。
「そこ」
矢が飛んだ。
その瞬間だけ、ザイルの顔が変わった。
身体を捻る。
矢は胸を外れたものの、肩口の外套を裂いて背後の壁へ突き刺さった。
ザイルが大きく二歩退く。
「入った」
「服だけだ」
レイグは言いながら追いかけた。
「でも退かした」
「それで十分だ」
ダルクが笑った。
「知らねえ動きなら読めねえんだろ」
怒りも焦りも見せず、ザイルはただ確認するように裂けた外套へ一度だけ視線を落とした。
その顔に、レイグは嫌なものを感じた。
「もう一回」
ダルクが再び前へ出る。
「待て」
止めるより先に、大盾が正面からずれた。
今度のザイルは、開いた道へ入ってこなかった。
横へ動く。
「フィエラ、撃つな!」
フィエラはすでに弓を引き始めていたが、すぐ指を止めた。
ザイルは射線から外れている。
レイグが先ほどと同じように斜めへ踏み出そうとした瞬間、ザイルの剣先がその方向へ向いた。
足が止まる。
もしウィンドステップを使っていれば、自分から刃へ飛び込んでいた。
「……嘘でしょ」
フィエラの声がかすれた。
一度。
たった一度見ただけだ。
ザイルが今度はフィエラへ向かう。
「フィエラ」
レイグは反射的に彼女との間へ入ろうとした。
その瞬間、ザイルの剣先がこちらへ変わる。
「レイグ!」
横からダルクの大盾が割り込んだ。
剣が盾へ激突する。
重い音が響き、ダルクの顔が歪んだ。
「っ……」
「大丈夫か」
「まだ平気だ」
ダルクはすぐにウォーハンマーを返した。
だがザイルは届く前に離れている。
フィエラを狙えば自分が動き、自分が危険になればダルクが盾を入れるところまで、ザイルは見ている。
「……何回だ」
レイグは息を切らしながら聞いた。
ザイルは答えない。
「何回、俺たちと戦った」
今度は声を強くした。
ダルクもフィエラもザイルを見る。
「俺たちは、お前との戦いなんか覚えてない。だけど、お前は違うんだろ。俺がどっちへ踏み込むかも、ダルクがどこへ盾を出すかも、フィエラがどこから撃ちたがるかも知ってる」
レイグは剣の柄を握り直した。
「何回だ」
ザイルがしばらく黙る間も、礼拝堂の外ではカルゼンたちと魔物の戦う音が続いている。
さらに遠くで大きな崩落音が響く中、黒い霧は確実に王城の奥まで迫っていた。
やがてザイルが口を開く。
「数えていない」
レイグの背中を冷たい汗が流れた。
自分たちが何をする人間なのかを、この男は自分たち以上に知っている。
「……くそ」
ダルクが大盾を上げ直した。
左腕に衝撃が残っているのか、一度だけ肩を回す。それでも下がろうとはしない。
フィエラも矢筒へ手を伸ばし、残った矢から一本を抜いた。
ザイルが剣を構え直す。
「続けるか」
ダルクが鼻を鳴らした。
「当たり前だろ」
「聞くだけ無駄だよ」
フィエラも弓を引く。
レイグは二人の間でスチールロングソードを握り直した。
「ああ」
今度はこちらから行く。
そう決めた、その時だった。
ザイルの視線が、もう一度だけ下へ落ちた。
レイグもその先を見る。
ダルクの大盾。
オーガやアビスデーモンとの戦いを重ね、表面から木芯近くまで走った大きな亀裂。
ザイルは、そこを見ていた。




