第60話 現れた雫
アビスデーモンが一歩踏み出すと、その巨体を受け止めるように石床が低く震え、天井の亀裂から細かな砂が落ちてきた。
レイグはスチールロングソードを握ったまま、巨体の向こうへ目を向けた。
あの先だ。
古い礼拝堂へ続く回廊は、もう遠くない。何度も通り、目を閉じても道順を思い出せるほど歩いた場所なのに、今はその手前をアビスデーモンが塞いでいる。
「来るぞ!」
ゴルディスが大盾を上げた。
「正面は俺たちで持つ!」
「勝手に俺まで数えんな」
横に並んだダルクが怒鳴る。
「なら逃げるか?」
「誰が逃げるって言った」
「二人とも前見て!」
フィエラの声が飛んだ直後、アビスデーモンの右腕が振り上げられた。
剣でも棍棒でもない。太い腕そのものが、ダルクとゴルディスへ叩きつけられる。
「受けるな! 流せ!」
「流す。そっちも合わせろ」
二人は大盾を斜めに構え、真正面から止めるのではなく身体ごと横へ動いて衝撃を逃がした。
それでも重い。
巨腕が盾へ激突した瞬間、金属が悲鳴を上げ、二人の靴が石床を削りながら数歩押し戻された。
「オーガの方がまだ可愛かったぞ!」
「踏ん張れ!」
「言われなくても」
その横をカルゼンが駆け抜ける。
暗い地下で、《白狼のミスリルソード》の白銀の刃がひときわ強く光った。
カルゼンはアビスデーモンの左側へ回り込み、脇腹へ斬りつける。刃は赤黒い皮膚を裂いたものの、思ったほど深く入らない。
「硬い」
すぐにカルゼンが離れる。
追うようにアビスデーモンが身体を捻り、左腕を横薙ぎに振った。
「下がれ!」
レイグの声に、カルゼンは身を伏せた。
太い腕が頭上を通過し、そのまま壁へ激突する。石材が砕け、拳ほどの破片が通路へ飛び散った。
「フィエラ」
「狙ってる」
弦が鳴り、矢がアビスデーモンの顔へ飛んだ。
右目の下へ突き刺さる。
巨体が咆哮する。
「浅い」
「目が小さいの」
フィエラが次の矢へ手を伸ばした時、右側の崩れた壁をリュシェナが駆け上がった。
「次、左から入る」
フィエラはアビスデーモンの肩から崩れた壁までの動線を見た。
「三つ数える。遅れないで」
「そっちこそ」
「一」
リュシェナは壁を蹴り、アビスデーモンの肩へ飛び乗った。
「二」
首筋へダガーを突き立てるが、刃は半ばまでしか沈まない。
「……浅い」
刃を引き抜き、巨体が振り払うより先に跳ぶ。
床へ降りると同時に一度転がり、その勢いのまま立ち上がった。
「三」
フィエラが矢を放つ。
矢は左頬へ浅く刺さり、リュシェナを追おうとした巨体の顔を外へ逸らした。
アビスデーモンが再び前進する。
レイグたちの背後には、黒い霧に追われて地下へ流れ込んできた探索者たちがひしめいていた。ゴブリンまで混じり、互いに武器を向けているものの、ここで本格的な殺し合いを始めれば前にも後ろにも進めなくなる。
さらに奥からはグールの叫びまで近づいていた。
時間がない。
「倒すこと考えるな!」
レイグは剣を構え直した。
「礼拝堂への道からどかせればいい」
「簡単に言うな」
ダルクが吐き捨てる。
「こいつ、俺より重いぞ」
「比べるところそこ?」
「フィエラ、右肩!」
「あいよ」
矢がアビスデーモンの右肩へ突き刺さる。
敵の顔がフィエラへ向いた隙に、レイグは残った魔力へ意識を集中した。ここまでの戦闘ですでにかなり消耗している。大きな魔法を何度も撃てる余裕はない。
「ファイアボール」
火球が右肩へ直撃し、矢の刺さった場所で炎が弾けた。
アビスデーモンが一歩よろめく。
「押すぞ!」
ゴルディスが前へ出た。
ダルクも続く。
「俺に合わせろ」
「そっちが合わせろ」
二枚の大盾が並び、肩と胸に押しつけられる。二人が全身で力を掛けると、アビスデーモンの巨体がようやく半歩下がった。
「もっとだ」
「無茶言うな」
アビスデーモンが吠え、両腕を大きく広げる。
「離れろ!」
ゴルディスはすぐに後ろへ跳んだ。
ダルクも下がろうとしたが、その背後には脚を負傷した探索者がいた。仲間に支えられながら壁際へ逃げようとしている。
背後で負傷者の鎧が壁を擦り、ダルクの顎がそちらへ動いた。
「くそっ」
下がるのをやめる。
「ダルク」
「後ろにいる」
アビスデーモンの腕が落ちてきた。
ダルクはすでに何度も傷ついた大盾を斜めに差し込み、身体ごと衝撃を逃がそうとした。
轟音が響いた。
「ぐあっ」
金属だけではない。
盾の内側で、木が裂ける音がした。
ダルクの身体が横へ弾かれ、そのまま片膝をつく。
「ダルク」
フィエラが叫んだ。
「前見ろ!」
ダルクはすぐに立ち上がったものの、左腕が震えている。
大盾には中央近くまで長い亀裂が伸び、表面の金属板の隙間から割れた木芯が覗いていた。
「それ、もう駄目じゃない?」
「まだ割れてねえ」
「そういう問題?」
「使えるうちは使う」
盾を構え直すダルクを見て、レイグは歯を食いしばった。
「次は正面で受けるな!」
カルゼンへ顔を向ける。
「左をもう一度斬れるか」
「誰に言ってる」
カルゼンが《白狼のミスリルソード》を握り直した。
「なら俺が右を取る!」
レイグは走った。
アビスデーモンがダルクへ注意を向けている間に側面へ回り込み、振り下ろされた左腕をバックラーでは受けず、その軌道から身体を外す。それでも腕が通過した風圧だけで肩を押された。
踏みとどまり、太ももへロングソードを叩き込む。
硬い肉へ刃が食い込んだ。
浅い。
それでも敵の注意はこちらへ向いた。
「こっちだ」
わざと叫ぶ。
アビスデーモンがレイグへ踏み込んだ。
「レイグ、離れて!」
「まだ」
もう一歩だけ引きつける。
右腕が伸びてきた瞬間、レイグは足元へ風を集めた。
「ウィンドステップ」
風が弾け、身体が数歩分横へ押し出される。
アビスデーモンの拳が空を切り、その勢いのまま後方の石柱へ激突した。
太い亀裂が走る。
「カルゼン」
「ああ」
《白狼のミスリルソード》が、先ほど傷をつけた左脇腹へ再び入った。
今度は深い。
アビスデーモンが咆哮し、身体を大きく捻る。カルゼンが剣を抜いて離れるのとほぼ同時に、反対側からリュシェナが傷口へダガーを突き立てた。
フィエラの矢も続く。
痛みに狂ったアビスデーモンが両腕を振り回した。
「下がれ!」
全員が距離を取る。
巨体の肩が、さっき拳を打ちつけた石柱へ激突した。
嫌な音がした。
柱の亀裂が一気に広がる。
「まずい!」
ゴルディスが天井を見上げた。
石組みの一部が沈む。
「走れ!」
次の瞬間、石材が落ち始めた。
レイグは礼拝堂側へ飛ぶ。
背後で轟音が連続し、地下全体が大きく揺れた。砂と埃が一気に舞い上がり、ほんの数歩先まで見えなくなる。
「フィエラ」
「いる」
「ダルク」
「ここだ」
二人の声が近くから返ってきた。
レイグは口元を腕で覆いながら咳き込み、薄れていく粉塵の向こうへ目を凝らした。
崩落した石材がアビスデーモンとの間を斜めに塞いでいる。完全に閉じたわけではないが、あの巨体ではすぐに抜けてこられない。
そして反対側には、礼拝堂へ続く回廊が開いていた。
「……行ける」
フィエラが息を弾ませた。
三人だけなら走れる。
祭壇まで届く。
レイグも一歩踏み出した。
「カルゼン」
背後から声が飛んだ。
足が止まる。
崩落の向こうから、誰かが叫んでいる。
「こっちだ! 脚が挟まってる!」
「ゴルディス! そっち持て!」
瓦礫を動かそうとする音と、苦しそうな咳が重なった。
レイグは礼拝堂への回廊を見た。
もうすぐそこだ。
何度も探し続けてきた祭壇が、その先にある。
だが、次に身体が向いたのは反対側だった。
「戻る」
「もう戻ってる!」
ダルクはすでに走り始めていた。
「もう、本当に」
フィエラも矢を戻して後を追う。
レイグが瓦礫へ向かおうとした時、白銀の光が視界の端を滑った。
硬い金属音を立て、一振りの剣が足元近くまで滑ってくる。
《白狼のミスリルソード》。
カルゼンが崩落の際に手放した白銀の刃は、鞘から抜けたまま、埃の中でもはっきり光を返している。
手を伸ばせば拾える。
ほんの一瞬で済む。
あの剣を目の前にしながら手放した時の感覚が、鮮明に蘇りかけた。
欲しかった。
今だって欲しい。
それでもレイグの足は止まらなかった。
白銀の刃を跨ぎ、そのまま瓦礫へ走る。
「カルゼン」
「こっちだ」
声の先では、カルゼンが腰の高さまで瓦礫に囲まれ、片脚の脚当てを大きな石材の縁へ挟まれていた。上体や腰に石材が直撃した様子はない。隣で倒れている仲間へ、必死に腕を伸ばしていた。
「俺はいい! 先にこいつを出せ!」
「黙って二人とも出るぞ!」
レイグはスチールロングソードを鞘へ戻し、近くに落ちていた折れた槍を拾った。太い柄を大きな石材の隙間へ差し込み、拳大の平たい石を支点にして梃子にする。
「ダルク」
「押す」
ダルクは大盾を横へ置き、槍の柄へ右肩を当てた。レイグが両手で押すのに合わせ、全身の重さを掛ける。
二人で押しても、柄が軋み、石材の縁がわずかに浮くだけだった。
「フィエラ」
「待って」
フィエラが支点の下へ、もう一つ平たい石を滑り込ませる。
「もう一回」
三人で同時に力を掛けると、石材の片側が数寸持ち上がった。
「今だ、そいつから!」
カルゼンが仲間の腕を引く。
レイグも空いた手で肩を掴み、ダルクと二人で男を瓦礫の外へ引きずり出した。男の脇腹は石材で深く裂け、服の下から血が広がっている。
「次、カルゼン!」
「自分で――」
「黙れ」
浮かせた石が戻る前に、レイグとダルクがカルゼンの両腕を掴む。フィエラが折れた槍に全体重を掛けて隙間を保ち、その間に二人が力任せに引いた。
カルゼンの脚当てが石材の縁から抜け、腰が瓦礫の外へ出る。
「離して」
フィエラが槍の柄から手を放して飛び退くと、柄は支点の上で折れ、石材が再び落ちて重い音を立てた。
「っ……」
カルゼンは床へ転がったまま顔を歪め、挟まれていた脚を曲げ伸ばしした。強い痺れは残っているが、関節は動き、骨が折れた痛みもない。
「歩けるか」
「歩ける。痺れが引けば走れる」
「それなら十分だ」
少し離れた場所では、ゴルディスが倒れた探索者へ覆いかぶさるように盾を上げ、小さな落石を何度も受けていた。
「もういい! 出ろ!」
下の男が叫ぶ。
「お前が動け」
「脚が――」
「なら引きずる」
ゴルディスは男の鎧を掴み、片手で後方へ引き始める。
反対側では、リュシェナが一度瓦礫の外へ出ていた。
そのまま行くのかと思ったが、石の下から伸びた脚を見て足を止める。
「……面倒」
舌打ちして戻り、探索者の脚に絡みついた革帯をダガーで切った。
「動ける?」
「た、多分」
「なら自分で這って」
男が必死に身体を抜き出す。
「助かった」
「次は自分で逃げて」
リュシェナはもう男を見ず、アビスデーモンがいる方へ顔を向けた。
「来るぞ!」
カルゼンの声が飛ぶ。
瓦礫の向こうで、アビスデーモンが石材を押し退けていた。
赤黒い腕が隙間から伸びる。
「治療はあとだ」
レイグは周囲へ声を張った。
「出血がひどい奴だけ止血しろ! 歩けるなら礼拝堂側へ移動!」
レイグは残っていた最後のヒールポーションを、脇腹を深く裂かれた男に飲ませた。出血は弱まったが傷は残り、フィエラが布を当てて強く圧迫する。続けて別の負傷者の脚にも布を回し、出血している箇所を締めた。
レイグは空になった小瓶へ栓を戻し、荷袋の外側へ差した。
その間にカルゼンは脚当てを外し、仲間の肩を借りて何度か足を踏み直した。痺れは残るが、自分の体重を掛けられるところまで戻っていた。
ダルクも横に置いた大盾を拾い上げる。
亀裂へ目を落とした途端、顔が引きつった。
「その盾、次は本当に割れるぞ」
ゴルディスが言う。
「縁起でもねえこと言うな」
「事実だ」
「今は黙れ」
アビスデーモンが瓦礫を崩しながら身体を押し込んでくる。
レイグはロングソードを抜き直した。
「倒さなくていい! 礼拝堂前まで下がれればいい!」
「それならやれる」
カルゼンが答えたあと、手元を見て顔をしかめた。
「剣がない」
「あそこだ」
レイグが前方を示すと、少し離れた場所に《白狼のミスリルソード》が落ちていた。
カルゼンは挟まれていた脚をわずかに庇いながら数歩走り、剣を拾い上げると、刃を一度確かめて構え直した。
「無事だ」
「なら使え」
「言われなくても」
アビスデーモンが迫る。
ダルクとゴルディスが前へ出た。
今度は攻撃を止めようとはしない。左右から盾を当て、巨体の進む向きだけを変える。
「今!」
カルゼンが傷ついた脇腹へ《白狼のミスリルソード》を突き込んだ。
フィエラの矢が同じ傷を射抜き、リュシェナも反対側からダガーを入れる。
レイグは残り少ない魔力へ、もう一度意識を集中した。
「ファイアボール」
火球が開いた傷口で爆ぜる。
アビスデーモンが大きく仰け反った。
「下がれ」
その隙に全員が礼拝堂側へ走る。
アビスデーモンは追おうとしたものの、足元の瓦礫と傷ついた脚に阻まれ、すぐには距離を詰められなかった。
礼拝堂前の回廊まで入ったところで、カルゼンが振り向く。
「ここは俺たちで持つ!」
「でも――」
「行け!」
カルゼンは《白狼のミスリルソード》を構えた。
ゴルディスもその横へ立ち、傷ついた探索者たちの前に大盾を出す。
その背後では、あの三人が今度は傷ついた探索者へ肩を貸していた。
リュシェナは壁際へ移り、回廊へ入ってくるものを横から狙える位置を取った。
「今度はそっちの番だ」
カルゼンが言う。
レイグはカルゼンの痺れが残る脚と、その背後で迫るアビスデーモンを見比べた。
「……死ぬなよ」
「お前に言われたくない」
「それもそうだな」
ダルクがレイグの背中を叩いた。
「行くぞ」
「ああ」
三人は最深部へ走った。
*
古い礼拝堂の最深部は、外の混乱が嘘のように静かだった。
入口をくぐるなり、ダルクは祭壇ではなく、左右の暗がりへ大盾を向ける。
「先に中だ。ザイルがいるかもしれねえ」
レイグも剣を抜いたまま、崩れた柱の陰と壁の窪みへ目を走らせた。
「サーチ」
弱い風がフィエラの髪を揺らし、礼拝堂の床を這った。しかし回廊にひしめく人間と魔物の反応が重なり、彼女はすぐに眉を寄せる。
「駄目。中に一人いるかどうかまで拾い分けられない」
見える範囲に人影はなかった。ただ、崩れた柱の根元では石材が折り重なり、その奥だけが闇に沈んでいた。
レイグが目を凝らした時、外で再びアビスデーモンが暴れ、カルゼンの怒声と石の砕ける音が響いた。
「俺が入口を見る。二人は祭壇を確かめろ」
ダルクの言葉に二人が頷く。朝の状態に戻った祭壇には、銀色の光など残っていない。
レイグは荒い呼吸を整えながら、その前まで歩いた。
「……何もないね」
フィエラも息を弾ませている。
「ああ」
それ以上、レイグは言わなかった。
最短の道を捨て、《白狼のミスリルソード》も拾わなかった。その意味を考え始めれば、また祭壇のために今日の選択に値段をつけてしまう気がした。
だから、考えるのをやめた。あの場で戻りたかったから戻った。カルゼンたちを置いていけなかった――それだけだった。
ダルクは入口へ大盾を向けたまま、縁だけを壁に預けて重さを逃がす。左腕の帯までは外さなかった。
「……本当にやべえな、これ」
「今さら?」
フィエラは矢筒を前へ回し、残った矢を確かめた。
「私もこの先は近接が増えそう」
「お前の近接は不安なんだよ」
「失礼だね」
「弓使いだろ」
「ダガーもあるし」
「そういう問題じゃ――」
「レイグ」
フィエラの声が変わった。
レイグは振り向いた。
彼女は祭壇を見ている。
古びた石の紋様、その端に銀色の光が生まれていた。
「……来た」
レイグは息を止める。
一本の銀線が祭壇の端から中央へ伸びる途中で、別の紋様にも光が宿った。さらにその隣へと輝きが移り、複数の線が途切れることなく中央へ集まっていく。
何度も見てきた変化だった。
だが、今日は止まらない。
左右から伸びた銀線がつながり、器の縁にも見える形を作ったあとも、光はさらに濃くなった。
「これ……」
入口へ盾を向けたまま、ダルクも一歩だけ祭壇へ寄った。その目の前で、石の表面に描かれていたはずの光が中央の一点へ集まり始める。
小さな輝きが、石から浮き上がった。
レイグは目を見開いた。
光は液体のように丸く膨らみ、やがて銀色に輝く一滴の形を取った。
祭壇の上にある。
今までの光とは違う。
手を伸ばせば、そこに触れられる。
「……これか?」
ダルクの声が低くなった。
フィエラは矢をつがえたまま、レイグの左右へ視線を走らせている。
「たぶん……そうだよ」
レイグは何も答えられなかった。
王と王妃が探し続けていたもの。
ザイルも狙っているかもしれないもの。
自分たちが、生者の世界へ帰るために求めてきたもの。
《生命の雫》。
「瓶」
フィエラの声で、レイグは荷袋の外側へ差した空瓶を思い出した。右手の剣を握ったまま、左手で瓶を祭壇に置く。栓を抜いて脇へ置き、震える左手を伸ばした。
指先が銀色の一滴に触れる。
冷たい重みが乗ったが、皮膚は濡れなかった。どこかへ続く扉が現れることも、礼拝堂が光に包まれることもない。
レイグは指先を瓶の口へ傾けた。
銀色の一滴は形を崩さず、瓶の底へ滑り落ちた。
レイグはすぐに脇の栓を拾って押し込み、外套の内側、胸帯に固定した革の薬入れへ瓶を収める。小瓶を割らず運ぶため、内側に布が重ねられた入れ物だった。
「……これで帰れるのか?」
ダルクが聞いた。
「分からない。でも、ここへ置いてはいかない」
その時、背後で石床を蹴る鋭い音がした。
「レイグ」
先ほど調べ切れなかった柱と壁の隙間から、ザイルが飛び出した。
細身の剣がレイグの胸元へ走り、空いた左手は瓶を収めた小袋へ伸びる。
レイグは身を捻り、握っていたスチールロングソードで辛うじて剣先を逸らした。ほぼ同時にダルクが左腕を跳ね上げ、大盾の縁でザイルを横から押し返す。
ザイルは二歩退った。
フィエラが残り少ない矢をつがえ、レイグは胸元を庇いながら剣を構える。
三人の前でザイルが足を止めた。その視線は祭壇ではなく、レイグの外套の内側へ向いている。
「……ようやく出したか」




