第59話 霧の包囲
ネヴァルは一度だけ振り返り、通りの向こうで建物を呑み込む黒い霧を見て、すぐ前を向いた。
「走れ! 王城まで行く!」
ボルンとアーシャの足音が石畳を激しく叩く。
少し前まで罠を張っていた通りは、もう遠い。レイグたちを待ち伏せし、崩れかけた壁を落として進路を塞ぐはずだった。それを屋根の上からリュシェナに邪魔され、結局まともに戦うこともできず撤退した。
失敗した自分にも、邪魔をしたリュシェナにも、罠を切り抜けたレイグたちにも腹が立っていた。
走っているうちに、ザイルの言葉が頭に蘇る。
『死んでも朝には戻る』
初めて会ったはずなのに、どうしてか完全な他人とは思えなかった男だ。
危険な場所を知っていた。人の動きも知っていた。それどころか、ネヴァルが何を恐れているのかまで、こちらが口にするより先に分かっているような男だった。
『ここで何人死のうが、次にはいる』
それが本当なら、レイグたちを殺しかけたことも、取り返しのつかないことではない。
今日死んでも、朝になればまた生きている。
そう考えればいい。
「ネヴァル!」
後ろからアーシャが叫んだ。
「何だ」
「あれ」
指された方向を見る。
後方の通りを、探索者が四人走っていた。一人は脚を負傷しているらしく、両側から肩を支えられている。残る一人は何度も後ろを確認しながら、三人を急かしていた。
そのさらに後ろで、黒い霧がじわじわと距離を詰めている。
まだ離れてはいるものの、負傷者を支えながらの速度では逃げ切れそうにない。
「間に合わねえぞ」
ボルンが走りながら言う。
「放っとけ」
ネヴァルは前へ向き直った。
「俺たちまで遅れる」
「でも――」とアーシャが言いかけた。
「止まるな!」
強い声で遮り、そのまま走った。
知らない人間のために危険を冒す必要などない。ザイルの言うことが本当なら、なおさらだ。
「誰か」
背後から再び声が飛んできた。
「道を教えてくれ! 王城はどっちだ!」
ネヴァルの歩幅がわずかに狭くなった。
「おい」
アーシャが歩幅の変化に気づき、横へ並んだ。
「どうした」
「……何でもねえ」
再び速度を上げようとしたが、喉の奥には、さっき途切れた助けを呼ぶ声が残っている。
夢の中で何度も味わった恐怖に似ていた。
脚が動かず、黒い何かが迫ってくる。誰かを呼んだ気も、自分が誰かから呼ばれた気もする。
何一つはっきりとは思い出せないのに、置いていかれる時の恐怖だけは身体にこびりついていた。
「くそっ」
ネヴァルは走りながら振り返った。
「次の角を左だ!」
負傷者を運んでいる者たちが顔を上げる。
「左へ曲がったら崩れた礼拝所がある! その裏を右へ抜けろ! 王城側の通りに出る!」
「分かった」
「ありがとう」
「礼なんか言うな」
怒鳴り返して前へ向き直る。
ボルンが追いつき、すぐ隣に並んだ。
「助けるのか?」
「違う」
「でも道を――」
「教えただけだ」
自分自身へ言い聞かせるように声を荒らげた。
「あいつらが走れるなら、それでいいだろ」
「……まあ」
「行くぞ」
なぜ教えたのか、自分でも分からない。
見捨てればよかったはずなのに、夢の中で地面を掻いていた指先が疼いた。その感触から逃げるように、口が勝手に動いた気さえした。
横手の通りから、大勢の怒声が聞こえてきた。
「橋はもう駄目だ! 王城へ戻れ!」
旧市街側の横道から、石橋を諦めた探索者たちが王城へ向かう通りへ雪崩れ込んだ。交差する人波に進路を塞がれ、ネヴァルたちは足を止めた。
「何だ?」
「橋だ」
横道から出てきた男は顔を青ざめさせていた。
「石橋が霧に入った! もう戻れねえ!」
「は?」
ネヴァルは近くの半壊した家へ駆け込み、残っていた石段を上がった。
二階の壁が抜けた場所から外周を見た途端、喉が固まる。
遠くまで見えるはずの旧市街が、すでに半分以上黒い霧へ沈んでいた。建物の輪郭は次々に薄れ、石橋がある方向にも黒いものしか見えない。
「……嘘だろ」
霧が外周から入ってくることは知っている。
だから深く入りすぎなければ石橋から撤退できると思い、今日もそのつもりだった。
「ネヴァル」
「橋はもう無理だ」
階段を駆け下りる。
気づけば、剣を握る手が震えていた。
強く拳を作って押さえ込む。
朝へ戻るのなら、死ぬことを恐れる必要などないはずだった。そう言い聞かせても、息が詰まる悪夢の感触まで消えてはくれない。
「……戻るんだ」
「何だ?」
ボルンが聞いた。
「何でもねえ」
戻る。
たとえ戻るとしても、死ぬ時には痛い。
怖い。
あの夢のように息ができなくなるのは嫌だった。
ネヴァルは剣の柄を握り直す。
「王城へ行くぞ! ここにいたら霧に呑まれる!」
*
「霧が早い」
レイグが足を止めると、前を歩いていたカルゼンが振り向いた。
「何がだ」
「内側へ来るのがだ。今までなら、この時間でも石橋までは余裕があった」
「また予想外かよ」
ダルクが歪んだ大盾を背負い直した。
オーガの棍棒を受けた盾の外縁は大きくへこみ、その後の戦いでも細かな傷が増えている。
「細かい進み方までは毎回同じじゃないんだ」
「そういう大事なことは先に言え」
「何度も言ってる」
「俺は今日初めて聞いた」
「……そうだったな」
「そこで黙るな。調子狂う」
フィエラが二人の横を抜け、近くの半壊した家を見上げた。
「私、上から見てくる」
「気をつけろ」
「うん」
崩れた窓枠へ足を掛け、残った二階の床まで上がる。そのまま外壁の一部を使い、屋根が残っている高さまで出た。
レイグたちは通りからフィエラを見上げる。
周囲では別の探索者たちも外周の様子を確かめようとしており、その間にも旧市街側から王城へ逃げ込んでくる人間が増え続けていた。
やがてフィエラが下りてきたが、いつもの軽口は出なかった。
「……橋、見えない」
レイグの胸が冷える。
「霧か?」
「うん。石橋の辺り、もう全部黒い」
ダルクが舌打ちした。
「戻れねえってことか」
「ああ」
カルゼンが王城を見上げる。
「なら、ここで迷っている時間はない。中央へ寄るぞ」
レイグも王城へ視線を向けた。
これまで心のどこかには、最悪の場合でも石橋へ戻ればいいという逃げ道が残っていた。
今回は、もうそれがない。
「前へ行くしかない」
「珍しく意見が合うな」
ダルクは大盾を左腕に通した。
「今日は戻れって言われても戻れねえ」
「嫌な言い方するな」
「事実だろ」
「二人とも」
フィエラが弓を持ち上げた。
「前、見て」
大通りへ出た瞬間、レイグは息を呑んだ。
王城へ向かっているのは、人間だけではない。
左の路地からは十数体のゴブリンが互いを押し退けながら走り、その奥ではグールが建物の間から次々に飛び出してくる。反対側の道から現れたヘルハウンドまで、人間を襲うより先に王城方向へ駆けていた。
普段なら出会った瞬間に殺し合う者たちが、今は黒い霧に背を押され、同じ場所へ逃げ込もうとしている。
「こんなの見たことあるか?」
ダルクが聞く。
「ここまで一気に集まったことはない」
「嬉しくねえ初体験だな」
前方で激しい剣戟が響いた。
王城前へ続く狭い通りを、スケルトンの一団が塞いでいる。
逃げてきた探索者たちが足を止め、それとは別の方向から来たゴブリンたちまで進めなくなった。
一瞬、人間とゴブリンの双方が互いに武器を向ける。
「おい! ゴブリンが――」
「後ろ見ろ!」
別の男の怒声が遮った。
通りの向こうでは、黒い霧が石壁の下を這うように広がり、捨てられた荷物や倒れた荷車を次々に呑み込み始めている。
「前を開けろ!」
カルゼンが叫んだ。
「殺し合うなら中へ入ってからにしろ」
「それもどうなの?」
フィエラが言った。
「今はいい」
スケルトンの槍が探索者へ伸び、その盾へ激突した。
ほぼ同時に、横にいたゴブリンがクロスボウを撃つ。放たれたボルトがスケルトンの肩へ刺さり、人間の探索者とゴブリンが一瞬だけ顔を見合わせた。
どちらも相手を信用してはいないが、ゴブリンが次につがえたボルトは前方の敵へ向いた。
「フィエラ」
「見えてる」
コンポジットボウから放たれた矢が別の角度から飛び、剣を振り上げたスケルトンの肘を砕く。
「今だ!」
カルゼンが踏み込んだ。
腰の《白狼のミスリルソード》が鞘から抜かれ、白銀の刃がスケルトンを斬り払う。
レイグの目が一瞬だけ、その剣を追った。
本気で欲しかった武器だった。
今日も取りに向かうつもりだった。
だが、今はそれだけだった。
「左から来る!」
フィエラの声に、レイグはすぐ左へ目を向けた。
「ダルク」
「任せろ」
剣を持ったスケルトン二体が横路地から割り込もうとしたところへ、ダルクの大盾が入る。
さらに反対側から別の大盾が突き出され、もう一体の進路を塞いだ。
ゴルディスだった。
その後ろには、レイグにも見覚えのある三人がいた。別の一日、ゴルディスが救い出した三人――傷ついた一人と、それを支える二人だ。
今、三人は迷いなくゴルディスの大盾の後ろへ入り、武器を構えた。
「押すぞ!」
「勝手に入ってくんな」
「嫌なら下がれ」
「誰が下がるか」
二枚の盾が一時的に並んだ。
ゴルディスが押し崩した敵を、横からカルゼンが斬り倒す。
ダルクの盾にも錆びた剣が擦れ、歪んだ縁が甲高い音を立てた。左腕へ衝撃が走ったらしく、ダルクは一度肩を回したものの、すぐ盾を構え直した。
「まだ使える」
「誰も聞いてないよ」
フィエラの矢が、その頭上を飛んでいく。
さらに高い位置から人影が跳んだ。
リュシェナだ。
屋根から飛び降り、崩れた二階の窓枠へ軽く着地する。
リュシェナはダガーの切っ先で、上空から急降下してくるガーゴイルの左翼を示した。
「左。落として」
フィエラは言い返さず、走りながら射線をずらした。放たれた矢が片翼へ刺さり、飛行の軌道が崩れる。
窓枠にいたリュシェナは身体を低くして迫ってきた翼をかわし、すれ違いざまにダガーで翼の付け根を斬った。
ガーゴイルはそのまま王城の壁へ激突する。
倒したわけではない。それでも立て直すまでの時間は作れた。
「今のは合ったね」
「一度だけよ」
「走れ!」
誰かの声を合図に、人間が一斉に前へ出た。
すると、さっきまで同じスケルトンを攻撃していたゴブリンたちは人間を押し退け、真っ先に王城へ逃げ込んでいく。
「おい」
「放っとけ」
カルゼンが怒鳴った。
「今は入れればいい」
レイグたちも走った。
その途中で、グールが一人の探索者へ飛びかかった。
「うわっ」
男が倒れる。
周囲の者は足を止めなかった。この人波の中で止まれば、後続に押し倒されかねない。
グールが爪を振り上げる横を、一人の男が通り過ぎた。
ネヴァルだった。
「ネヴァル!」
レイグが思わず名を呼ぶ。
ネヴァルが一瞬だけこちらを見たものの、走る足は止まらない。
そのまま行く。
そう思った直後だった。
「――邪魔だ!」
ネヴァルが振り返りざまに剣を振った。
刃がグールの背中を斬り裂き、敵が横へよろめく。
倒すほどの傷ではない。
だが、それだけの隙があれば十分だった。襲われていた探索者は慌てて立ち上がり、人波へ逃げ込んだ。
ネヴァルもすぐ走り出す。
「助かった」
男が叫んだ。
「俺はお前を助けたんじゃねえ」
振り返りもせず怒鳴るネヴァルの背中を、レイグは一瞬見つめた。
「レイグ」
ダルクの声が飛ぶ。
「今はそっちじゃねえ」
「今は前を見る」
王城の門をくぐると、内部もすでに混乱していた。
探索者たちは階段を駆け上がり、別の者たちは少しでも霧から遠ざかろうと地下へ続く道を探している。人間に混じって魔物まで侵入しており、遠くでは剣と爪がぶつかる音や悲鳴が途切れなかった。
「上は駄目だ!」
カルゼンが周囲を見て叫ぶ。
「人が詰まりすぎてる」
「地下へ行く!」
レイグが答えた。
「祭壇まで行く!」
カルゼンがレイグを見る。
「場所は分かるのか」
「ああ」
「なら行け」
「お前は?」
カルゼンは《白狼のミスリルソード》を握り直した。
「借りが残ってる」
「もう返しただろ」
「俺が決める」
そこへゴルディスも追いついた。
「地下の方が霧は遅い。俺たちも行く」
「俺らもだ」
ダルクが答える。
少し離れた壁際では、リュシェナも同じ方向へ進んでいた。
「お前も来るの?」
フィエラが聞く。
「一緒に行くつもりはない」
「でも地下へ行く」
「上よりましだから」
フィエラは残りの矢を指先で確かめた。
「じゃあ、階段の右は私が見る」
リュシェナは左の壁際へ目を走らせる。
「左は私が先に行く」
「了解」
短い返事にリュシェナが横目を向けたが、もう文句は言わなかった。
レイグは剣の柄を握る指を、半呼吸だけ緩めた。
だが地下への階段へ人が雪崩れ込み始めると、そんな余裕もすぐに消えた。
*
王城地下には、いつも以上の足音と怒声が反響していた。
後ろから次々と人間が降りてくる。その中にはゴブリンまで混じっており、少しでも距離が近づけば互いに武器を構えるものの、今ここで殺し合いを始める余裕は誰にもなかった。
「右」
先頭のレイグが叫ぶ。
「その先を左だ」
「本当に合ってんだろうな」
ダルクが後ろから怒鳴る。
「何回も通った」
「俺は覚えてねえ」
「今それ言うな」
通路を曲がると、古い礼拝堂へ続く回廊まではもう遠くない。
その時、足元の石床がわずかに揺れた。
レイグは反射的に立ち止まった。
「……何だ?」
ダルクも足を止め、後ろから来た探索者がぶつかりそうになって怒鳴る。
「止まるな!」
「前が止まったんだ」
もう一度、床が震えた。
今度はさっきより強い。
腹の底まで響くような、重い足音だった。
フィエラの表情が変わる。
「前にいる」
「何が」
「大きいの」
コンポジットボウを握る指に力が入った。
「すごく大きい」
回廊の先は暗い。
その闇の中から、何かがゆっくり歩いてくる。
一歩進むごとに石床が揺れ、天井の隙間から細かな砂が落ちた。
やがて暗闇から巨大な角が現れ、その下から人間の胴ほどもある太い腕と、赤黒い皮膚に覆われた巨体が姿を現す。
「……冗談だろ」
ダルクが呟いた。
アビスデーモン。
狭い地下通路を、その巨体だけでほとんど塞いでいた。
赤黒い肩には石粉がつき、長い爪の高さは、兵舎で地図に書いた王城北側の抉れ跡と一致する。
「北の地下にいた奴だ」
レイグは息を呑んだ。普段なら避けられたはずの巨体まで、強風で早く入り込んだ霧と、中央へ雪崩れ込む魔物の群れに追われ、礼拝堂側の回廊へ移ってきていた。
後ろにいた探索者たちが反射的に下がろうとする。
しかし戻る先には、人間と魔物が押し合いながら次々に流れ込んできており、さらにその向こうでは黒い霧が王城そのものへ迫っている。
レイグがデーモンの向こうを見ると、その先に古い礼拝堂へ続く道がある。
ダルクが損傷した大盾を上げると、その横へゴルディスも進み出て大盾を構えた。
「……やるしかねえな」
「二人なら、一撃くらいは逸らせるか」
「一撃って言うな。不安になる」
「では二撃か」
「増やすな」
カルゼンが《白狼のミスリルソード》を抜く。
フィエラも矢をつがえ、少し離れた壁際ではリュシェナがダガーを逆手に構えた。
レイグもスチールロングソードを抜き、バックラーを左腕に固定する。
後方は人と魔物で塞がれ、その向こうには黒い霧がある。横へ逃げられる通路もなく、正面ではアビスデーモンが礼拝堂への道を塞いでいた。
レイグは剣の柄を握り直した。
あれを越えなければ、祭壇には辿り着けない。




