第58話 覚えていない借り
リュシェナは半壊した煙突の陰に立ち、屋根の縁から、王城へ向かって歩くレイグたちを目で追っていた。
レイグ、ダルク、フィエラ。その少し前にはカルゼンたちもいて、カルゼンの腰に提げられた白銀の鞘が日差しを返している。
《白狼のミスリルソード》。
あれを取りに向かっていたはずの三人が、今は別の男の腰に収まった剣を奪おうともせず、カルゼンたちと並んで歩いていた。
「馬鹿ね」
リュシェナは小さく吐き捨てた。
少し前、彼らには右へ進む道があった。そちらへ行けば、カルゼンより先にあの剣へ手が届いたかもしれない。
それなのに、左の通りから助けを求める声が聞こえた途端、レイグは走った。ダルクもフィエラも、迷っているようには見えなかった。
結果として薬を一本使い、ダルクの盾は大きく歪み、欲しかった剣まで取られた。
「本当に割に合わない」
自分ならやらない。
知らない探索者が危険に陥っていたところで、助けに入って自分まで装備や薬を失う理由などない。ましてカレグノスでは、朝に一緒に橋を渡った人間が、午後には宝を奪う敵へ変わることさえある。
使えるものは使い、勝てる時に奪い、危険なら逃げる。その方が長く生き残れる。
リュシェナは屋根を蹴り、隣の建物へ移った。
王城へ近づくほど建物の高さが増していく。屋根の半分が崩れた邸宅を飛び越え、次の足場へ降りようとした時、下の通りにいる人間の配置が目に入った。
足が止まる。
「……何してるの」
半壊した建物の二階、その窓の内側に人影が二つあった。一人はクロスボウを持っている。二人とも、魔物ではなく通りの入口を見ている。
リュシェナは屋根に伏せた。
少し先の建物にも人がいる。地上には三人ほどが武器を持って待ち、そのさらに奥には見覚えのある男が立っていた。
「ネヴァル……」
顔と名は前から知っている。特別に目立つ男だと思ったことはなかった。
だが今、通りの入口へ向けた目つきが険しい。リュシェナは伏せたまま、その横顔に目を凝らした。
ネヴァルが頭上を指すと、リュシェナはその先へ目を向ける。
通りの中央近くに張り出した石壁。その根元には太い縄が回され、崩れかけた支柱へつながっていた。
縄を引けば、上に残った石材が落ちる。人間が下へ入ったところでやれば前後を塞ぎ、動きを止めたところへ二階からクロスボウを撃ち込める。
「雑だけど、嫌な罠」
精巧な仕掛けなど必要ない。
崩れかけた都市そのものを武器にすればいい。
そして、その通りへ向かっているのは――。
「本当に来るのか?」
下から声が聞こえた。
ネヴァルの仲間だ。
「来る」
ネヴァルは迷わなかった。
「あの人が言った」
「でも、あいつらが俺たちを先に狙うって話まで本当なのか?」
「俺たちの名前も、通る道も、この罠を張れる場所も、あの人は先に知ってた」
ネヴァルは通りの入口を睨んだ。
「レイグも前の一日を覚えてる。俺たちを囮にして、帰る手段を独占したら消すつもりだって言ってた」
「……殺す必要まであるのか」
別の仲間が低く聞いた。
「脚を止めろ。武器を捨てたら、それ以上はやらない」
「あの人の話が外れたら?」
「外れない」
仲間の問いを短く切り捨てる声にも、刺々しさがあった。リュシェナは眉を寄せたが、誰の話をしているのかまでは分からない。
だが、レイグたちの進路を知っている者がいる。
もう少しすれば、あの一団はこの通りへ入る。
自分には関係ない。
むしろレイグたちもカルゼンたちも、カレグノスでは競争相手だ。ここで人数が減れば、王城へ入った後に奪い合う相手も減る。
それでいいはずだった。
リュシェナは立ち上がって屋根の反対側へ歩き始めたが、数歩進んだところで足が止まった。
「……」
振り返っても何も変わらず、ネヴァルたちは待ったままで、遠くの通りにはレイグたちの姿も見えていた。
「……何なのよ」
腹が立った。
何に腹を立てているのか、自分でも分からない。
助ける義理などないし、借りもない。それなのに、このまま屋根の向こうへ消えてしまうのは、ひどく後味が悪かった。
リュシェナは舌打ちした。
「最悪」
そして踵を返した。
*
「おい」
歩きながら、ダルクが自分の大盾を覗き込んだ。
「さっきより曲がってねえか、これ」
「さっき曲がったんだよ」
レイグが答えると、ダルクが顔を上げた。
「分かってる。見りゃ分かる」
「じゃあ何で聞いたんだ」
「これ以上広がってねえかって話だ」
ダルクは左肩を軽く回したが、途中でわずかに顔をしかめた。
「肩は?」
「動く」
「痛い?」
フィエラが聞く。
「痛くねえとは言ってねえ」
「それ、痛いって意味だね」
「戦えるって意味だよ」
「二人とも同じこと言うようになってきたね」
「誰と誰だ」
「ダルクとレイグ」
「一緒にすんな」
「何で俺まで嫌がられるんだよ」
レイグが言うと、前を歩いていたカルゼンが振り返った。
「そんなに喋る余裕があるなら周囲を見ろ」
「見てるよ」
ダルクが言い返す。
「お前は俺の母親か」
「違う。なりたくもない」
「誰がなってくれって言った」
フィエラは笑いながらも、すぐ矢筒へ手をやった。
さっきの戦闘でかなり射っている。まだ戦えるだけの数は残っているものの、朝ほど余裕はない。
レイグ自身も、魔力を使った後のだるさが身体の奥に残っていた。ヒールポーションは残り一本で、包帯も減っている。
それでも足を止めるつもりはない。正午を過ぎ、予定より遅れてはいるものの、王城はもう近い。
「この先を抜ければ東側の外壁に出る」
レイグは前方の細い通りを指した。
「そこから――」
からん、と足元で音がした。
小石が転がっている。
三人が同時に止まり、カルゼンたちも武器に手をかけた。
「上」
フィエラが先に、屋根の縁からこちらを見下ろすリュシェナに気づいた。
レイグは今朝、以前の周回でリュシェナに薬を盗まれたことも、ダルクとフィエラに話していた。
「リュシェナ」
レイグが名前を呼ぶと、ダルクは即座に盾を上げた。
「今度は何盗む気だ」
「何も盗らない」
「信用できるか」
「なら勝手に進めば?」
リュシェナは顎で前方を示した。
「ただ、その通りには入らない方がいいわよ」
レイグは眉を寄せる。
「何がいる」
「ネヴァル。左右の建物の二階に人がいる。クロスボウ持ちもいるし、地上にも何人か待ってる。通りの真ん中まで入ったら、上の石を落として挟むつもり」
カルゼンが建物を見上げた。
「本当か」
「疑うなら行けばいいでしょ」
フィエラが目を閉じる。
「サーチ」
風がフィエラの髪を持ち上げ、しばらくして彼女は目を開く。
「人はいる。上と下……でも石壁が厚いし、位置まではきれいに分からない」
「だから言ったでしょ」
リュシェナが答えると、レイグは彼女を見上げた。
「何で教える」
「は?」
「俺たちがやられても、お前は困らないだろ」
リュシェナの表情がわずかにこわばった。
「借りはない」
「じゃあ何だ」
ダルクがすぐに聞くと、リュシェナは数秒黙ったあと、面倒そうに口を開いた。
「お前らがあいつの罠にかかるのが気に入らない。それだけ」
「それだけで教えるのか?」
「嫌なら聞かなかったことにすれば?」
「何でそこで怒るんだよ」
フィエラがレイグの肩を軽く叩いた。
「今は理由より罠でしょ」
「ああ」
レイグは前方を見る。
「正面からは行かない」
「でも王城へ行くなら、どこかで抜けなきゃならないよ」
「横は?」
カルゼンが首を振った。
「南側は崩落で遠回りになる。北側では、さっき魔物の群れを見た」
「だったら、ここを抜くしかないか」
ダルクが盾を構え直す。
レイグは屋根のリュシェナを見る。
「上から動けるか」
「誰に聞いてるの?」
「お前だよ」
「見れば分かるでしょ」
リュシェナが立ち上がった。
「フィエラ、来られる?」
「行けるけど」
「右から上がれる。外壁が崩れてる」
「命令されるの、ちょっと嫌だな」
「じゃあ下にいれば?」
「もっと嫌」
「面倒ね」
「そっちもね」
「今から仲良くなれそうだな」
ダルクが言った。
「ならない」
二人の声が重なった。
「息合ってんじゃねえか」
緊張の中でも、レイグの口から短い息が漏れた。屋根の伏兵に聞かせないよう、笑い声だけは飲み込む。
「行くぞ」
*
レイグとダルクが通りへ入り、カルゼンたちは少し距離を空けて後ろについた。
頭上の瓦礫を見上げず、伏兵へも気づいていないふりをして進む。
数歩進んだところで、右手の二階の暗がりに何かが動いた。
クロスボウだ。
見えても顔を向けない。
さらに歩くと、上から小さな金属音がした。
レイグは足を止めず、ダルクへ低く言う。
「そろそろだ」
「合図は聞き逃さねえ」
「今のは信用していいやつ?」
「黙れ」
その直後、屋根の上で弦が鳴った。
フィエラの矢だ。
二階の窓から短い悲鳴が上がる。
「ばれた」
誰かが叫んだ。
「落とせ!」
「早え」
ダルクが顔を上げる。
張り出した石壁の根元で、縄が勢いよく引かれた。
予定より早い。
「フィエラ」
「やってる」
屋根の上で風が弾ける。
「ウィンドカッター」
風の刃が走り、張られていた縄を途中で断ち切った。
支えが完全には引き抜かれなかったため、石材は大きく傾き、レイグたちの頭上ではなく、まだ誰も入っていない通りの中央へ落ちていく。
「下がれ!」
レイグたちは揃って後ろへ跳んだ。
石材が地面へ叩きつけられ、轟音と土煙が通りを満たす。
すぐさま頭上からクロスボウの矢が飛んできた。
カルゼンが《白狼のミスリルソード》を抜きながら壁際へ寄る。
「右から来るぞ!」
土煙の向こうから人影が三つ飛び出した。
「ダルク」
「任せろ」
大盾が前へ出る。
剣が盾へ当たり、火花が散った。
レイグはその横から踏み込み、相手の剣をスチールロングソードで押し返す。
「殺すな! 抜ける道だけ作る!」
「向こうにその気があればな」
ダルクが怒鳴った直後、長柄の鉄槌が横から振り込まれた。
「右」
ダルクが盾を向ける。
重い衝撃が腕から肩へ抜けた。
「ぐっ」
すでにオーガの棍棒で歪んでいた外縁近くへ、鉄槌の頭がまともにぶつかり、金属が嫌な音を立てる。
ダルクは一歩押されたものの倒れず、盾を返して相手の胸を突き飛ばした。
その瞬間、新しく走った深い傷が目に入った。
「……また増えた」
「何が」
屋根からフィエラの声が飛ぶ。
「傷だよ」
「今それ言う?」
「俺の盾だぞ」
「前!」
レイグが叫ぶ。
ダルクはすぐ盾を戻した。
「見えてる!」
反対側の屋根では、リュシェナが伏兵へ肉薄していた。
フィエラが一人を矢で窓際から追い払い、その空いた足場へリュシェナが滑り込む。短い攻防の末、クロスボウが屋根から落ちて石畳へ転がった。
「そっち二人」
フィエラが叫ぶ。
「左から回る!」
「見えてる」
「じゃあ先に言って」
「何で私が」
「喧嘩してる場合か」
ダルクの怒声が下から飛んだ。
「ダルクにだけは言われたくない」
フィエラは言い返しながらも次の矢を放ち、地上の男が腕を庇って後退した。
土煙が少しずつ薄くなる。
その切れ目の向こうに、一人の男が立っていた。
ネヴァルだった。
「ネヴァル」
呼ぶと、相手の顔が険しくなる。
「……お前か」
「何やってる」
「お前らを止める」
「俺たちが何をした」
「聞いてるんだよ。俺たちを囮にして、帰る手段を見つけたら殺す気だってな!」
「そんなことするか! 誰に聞いた」
「とぼけるな!」
ネヴァルは剣を抜き、レイグへ切っ先を向けた。柄を握る手が小刻みに震えている。
「何も知らねえって顔しやがって。見てるだけで腹が立つんだよ!」
バックラーを持つ左腕に、瓦礫の下から引き上げたネヴァルの重みが蘇った。
最初の一日では、瓦礫に脚を挟まれたネヴァルを助けるため、黒い霧に逆らって戻った。別の一日には、仲間を逃がすために残ったネヴァルも助けている。
そのどちらも、目の前のネヴァルは覚えていない。
「レイグ」
ネヴァルが斬り込んでくる。
レイグはバックラーで受け、身体を半歩ずらした。
「今は戦え!」
ダルクの声で意識を戻す。
「ああ」
レイグは剣を返した。
ネヴァルが下がる。
互いに致命傷を狙わないまま数度刃を交えたところで、後方からカルゼンたちが押し込んできた。
「ネヴァル!」
仲間の一人が叫ぶ。
「もう無理だ! 上も取られた!」
ネヴァルは周囲を見る。
屋根の伏兵は崩され、地上の仲間も分断されている。
「下がる!」
判断は早かった。
「待て」
レイグが声を飛ばす。
ネヴァルが振り向いた。
「誰にこの道を教えられた」
返事はない。
「俺たちがここを通るって、誰に聞いた」
ネヴァルがわずかに視線を逸らしただけで、レイグには分かった。
「ザイルか」
名前を出した瞬間、ネヴァルの顔が変わった。
「……あの人を知ってるのか」
「やっぱりか」
「答えろ」
「先にお前が答えろ。ザイルの言葉だけで、俺たちに剣を向けたのか」
ネヴァルは息を荒くしながらも、妙な確信を宿した目でレイグを見た。
「あの人は分かってる」
「何をだ」
「この日が何なのか」
レイグの手が止まる。
ネヴァルはさらに言った。
「あの人だけが、この日を終わらせられる」
「何を約束された」
「約束?」
ネヴァルの眉が寄り、何を言われたのか本気で測りかねる顔になった。
「そんなもの要らない」
「じゃあ何で信じる」
「分からない奴には分からねえよ」
仲間がネヴァルの肩を掴んだ。
「行くぞ!」
ネヴァルはレイグから目を逸らさないまま後退した。
「あの人についていけば分かる」
その言葉を残し、崩れた横道へ消えていく。
「追うか?」
ダルクが聞いた。
レイグはネヴァルが消えた道を見た。
ザイルがいる。
今追えば、もっと何か分かるかもしれないし、ネヴァルをあのまま放っておくことにも不安が残る。
それでも後ろにはダルクとフィエラがおり、目指している王城ももうすぐそこだった。
「いや」
レイグは剣を下げた。
「王城へ行く」
ダルクが少しだけ眉を上げる。
「いいのか」
「ああ」
「珍しいね」
屋根から降りてきたフィエラが言った。
「何が」
「絶対追うって言うかと思った」
「俺もだ」
ダルクまで続ける。
「お前らな……」
「違った?」
レイグはネヴァルが消えた道をもう一度見てから、首を振った。
「今は、こっちが先だ」
「ただし、ザイルは俺たちより先に王城へ入るかもしれない」
「祭壇を狙ってると思う?」
フィエラが聞いた。
「分からない。でも、ネヴァルに俺たちの道を言い当てて待ち伏せさせた。俺たちを止めたい理由がある」
ダルクが大盾を背負い直した。
「礼拝堂まで着いたら、入口だけじゃなく中も見るぞ」
「私もサーチする」
「ああ。ザイルがいないと決めつけない」
その時、近くの瓦礫の上で軽い着地音がした。
リュシェナだ。
ダルクは盾の傷を確かめながら顔を上げる。
「で、本当に何が目的なんだ」
「まだ聞くの?」
「聞く」
「ないって言ってるでしょ」
「普通、何もねえのにここまでやらねえだろ」
「お前たちが普通を語る?」
「どういう意味だ」
「そのままよ」
フィエラが弓を背に戻した。
「まあ、ありがとう」
「いらない」
「そっちがいらなくても、言うくらい自由でしょ」
リュシェナが嫌そうにフィエラを見る。
「そういうところ嫌い」
「お礼を言っただけなのに?」
「その言い方が嫌」
「細かいねえ」
リュシェナが睨み返し、フィエラは肩をすくめた。
カルゼンが深いため息をつく。
「もう行くぞ」
「賛成」
レイグも剣を鞘へ収めようとして途中で周囲へ目を向け、風が強くなっていることに気づいた。
さっきまでほとんど動いていなかった屋根の草が大きく一方向へ倒れ、遠くから聞こえる人の声も明らかに増えていた。
王城へ向かう者の声ではなく、外側から戻ってくる探索者たちが怒鳴り合う声だった。
リュシェナも同じ方向を見た。
「王城へ行くなら急いだ方がいいわよ」
「霧か?」
レイグが聞く。
「まだここからは見えない。でも、外側から戻ってくる人間が増えてる」
もう午後に入り、黒い霧が外周を侵食して人間も魔物も中央へ追い立て始める時間になっていた。
レイグは空を見上げた。
朝より明らかに風が強い。しかも外周から王城へ向けて、黒い霧を押し込む向きに変わっていた。
「行こう」
ダルクとフィエラを見ると、二人とも頷いた。
その後ろでは、カルゼンが《白狼のミスリルソード》の柄に手を置いている。
レイグたちは王城へ向かって歩き出した。
少し進んでから振り返ると、リュシェナはすでに屋根の上へ戻っていた。
なぜ彼女が自分たちを助けたのか、レイグには分からない。おそらくリュシェナ自身にも、うまく説明できないのだろう。
それよりも今は、ネヴァルが残した言葉が頭から離れなかった。
『あの人だけが、この日を終わらせられる』
レイグは再び王城を見た。
風は、さらに強くなっていた。




