第57話 最短ではない道
左の通りから飛んできた助けを求める声は、最後まで続かなかった。
直後、何か重いものが石壁へぶつかる鈍い音が響き、続けてゴブリンの甲高い叫びが重なる。
レイグは足を止めた。
右へ進めば、朝から決めていた比較的短い道を通って王城へ近づける。その途中には、《白狼のミスリルソード》もある。
「左だ!」
言い終えるより早く走り出す。
「言われる前から左だ」
後ろで金属が鳴った。ダルクはすでに大盾を左腕に通している。
「先見る」
フィエラがレイグを追い越し、角の手前から先を覗く。
「人が六人。脚をやられてる人が一人! オーガ一体、ゴブリンは六!」
「行くぞ!」
三人は角を曲がった。
通りの先では、探索者たちが崩れた荷車を背にして押し込まれていた。一人は左脚を血で濡らして仲間に肩を借り、残る者たちが剣や槍を構えている。その正面を大柄なオーガが塞ぎ、左右の瓦礫から武装したゴブリンが回り込もうとしていた。
探索者の一人が負傷者を引きずりながら「後ろが塞がってる」と叫ぶ。その前で、オーガが棍棒を振り上げた。
「ダルク」
「俺が受ける!」
ダルクが前へ飛び出した。
棍棒が落ちる。
大盾を真正面には出さない。左上から来た一撃へ盾を斜めに差し込み、身体ごと右へ流して衝撃を逃がす。
それでも重かった。
「ぐっ……」
ダルクの靴が石畳を滑った。
棍棒は盾の縁を擦り、そのまま地面へ叩きつけられる。割れた石片が跳ねた。
「重すぎんだろ、こいつ」
「文句はあと。荷車を使う!」
レイグは敵ではなく、探索者たちの背後にある崩れた荷車を見た。片方の車輪は外れているが、もう片方は軸に残り、折れた轅が瓦礫へ引っかかっている。
右から負傷者へ近づこうとしたゴブリンへ、フィエラの矢が飛んだ。一本目が肩を貫き、敵が身体を捻ったところへ二本目が太ももへ刺さる。
「右は止めた。左から二体!」
レイグはスチールロングソードを抜き、荷車を瓦礫へ縛りつけていた古い綱を断った。支えを失った荷台が片輪を軸に傾く。
「押せ! 通りへ向けろ!」
探索者二人が意図を察し、折れた轅へ肩を当てた。レイグも荷台の縁を蹴る。軋みながら回った荷車が左の瓦礫との間を塞ぎ、飛び込んできたゴブリン二体を向こう側へ押し返した。短槍が荷台の板を突き破ったが、柄は木に噛んで抜けなくなる。もう一体が荷台へ腕を掛けたところへ、フィエラの三本目の矢が手の甲を貫き、瓦礫側へ落とした。
「倒すな。道を開けたままにしろ!」
レイグは探索者たちへ怒鳴った。
「負傷者を右から出せ。走れる奴が肩を貸せ!」
「お前らは――」
「俺たちは最後に抜ける。今は運べ!」
返事を待たず、レイグは荷車の隙間から伸びた槍を剣の腹で板へ押しつけ、オーガへ向き直った。
オーガがダルクへ二撃目を振り下ろそうとしている。
「ダルク、下がれ!」
「下がったらこいつらに行くだろうが」
その通りだった。
オーガの視線は、盾の向こうにいる負傷者へ向いている。ダルクが退けば、あの棍棒が人の群れに届く。
「だったら――ファイアボール」
レイグは剣を持った右手を下げたまま、正面の空気へ意識を絞った。
火球が生まれ、オーガの左肩へ飛ぶ。
爆ぜた炎に巨体が顔を背けた。
「今だ!」
ダルクが盾を押し込み、オーガの進路をずらす。
探索者二人が負傷者を両側から支え、通りの端へ走り始めた。
「行け! 止まるな!」
ダルクが叫ぶ。
だが、その声に反応したようにオーガが再び棍棒を振り上げた。今度の狙いはダルクではなく、逃げ始めた負傷者だ。
「くそっ」
ダルクは踏み込み、大盾を差し込んだ。避ければ自分は助かるが、そうすれば棍棒はそのまま後ろへ抜ける。
轟音が通りに響き、ダルクの身体が横へ弾かれた。
「――っ」
盾の外縁が大きくへこみ、金属板の一部がめくれる。左肩まで衝撃を受けたダルクが膝をついた。
「ダルク!」
「前見ろ」
怒声が返ってきた。
「まだ使える」
レイグは歯を食いしばり、オーガが棍棒を戻すより先に距離を詰めた。
「ウィンドステップ」
足元へ集めた風が一気に弾けた。
身体が数歩分、強く前へ押し出される。
レイグはオーガの懐へ入り、膝の外側へロングソードを叩き込んだ。厚い皮と筋肉に阻まれ、深くは入らない。それでも巨体が揺れる。
「フィエラ」
「右目、狙う!」
矢がオーガの顔へ飛ぶ。
目を狙った一射を、オーガが腕で庇った。
その間に負傷者たちが角の向こうへ消える。
「抜けた」
探索者の声が遠くから届いた。
「こっちも下がるぞ!」
ダルクが立ち上がった。
左腕を振ると痛むらしく顔をしかめたが、盾はまだ構えられている。
「フィエラ、先」
「了解」
三人は一気に後退した。追ってきたゴブリンへフィエラが矢を放って足を止め、オーガも入れない細い路地へ逃げ込む。
「止まるな、距離を取るぞ!」
ダルクの声に従い、そのまま距離を稼いだ。
三人は負傷者たちに追いつき、さらに二本の路地を抜けた。フィエラが後方を確認し、レイグも曲がり角へ耳を澄ませる。
追ってくる足音が消えてから、ようやく速度を落とした。
*
「ここならいい」
半壊した石造りの倉庫へ入り、フィエラが周囲を確かめた。
「近くに大きな反応はない。入口も二つあるから、来ても逃げられる」
「座らせろ」
レイグは負傷者のそばに膝をついた。
左脚のすねから下が大きく裂け、布を巻いてはいるものの血が染み出している。
「いつやった」
「少し前だ。ゴブリンの槍で……そのあと走って開いた」
「包帯外すぞ」
固まった血が布に張りつき、男が顔を歪める。レイグは水で濡らした布で傷の周囲の汚れを落とし、新しい布を出血箇所に強く当てた。
「押さえてろ」
レイグが押さえる役を仲間に任せると、ダルクは荷袋からヒールポーションを一本取り出した。
「使うか」
「ああ」
「あと一本になるぞ」
ダルクは確認しただけだった。荷袋の中で瓶同士が一度触れ、澄んだ音がした。これを渡せば、自分たちに残る薬は一本だけになる。それでもレイグは迷わず頷いた。
「使う」
「分かった」
男に少しずつ飲ませた。
しばらくすると荒かった呼吸がわずかに落ち着き、青ざめていた顔にも少し色が戻った。それでも傷が塞がったわけではない。
「立てそうか?」
男は脚に力を入れかけ、すぐに呻いた。
「……無理だ」
「なら立つな」
レイグは新しい包帯を巻き、ずれないよう固定した。
「二人で支えろ。石橋まで戻れるうちに外へ出た方がいい」
「助かった」
探索者の一人が「本当に助かった」と言ったが、レイグは首を振った。
「まだだ。橋を渡るまでは気を抜くな」
その横で、ダルクが大盾を床へ下ろしていた。
「見せろ」
「見てどうすんだよ」
「いいから」
レイグが近づく。
盾の外縁は明らかに変形していた。金属板が内側へ押し込まれ、朝には浅い傷しかなかった部分の近くまで歪みが走っている。
ダルクは持ち手を確かめ、盾を持ち上げて何度か角度を変えた。
「……使える」
「本当か?」
「持ち手は生きてる。木も今すぐ割れる感じじゃねえ。ただ、この辺にもう一発でかいの食らうのは嫌だな」
「それ、危ないって意味?」
矢を数えていたフィエラが聞く。
「……そうとも言う」
「最初からそう言って」
「うるせえ」
怒鳴れるなら本人はまだ大丈夫そうで、レイグも息を吐いて自分の荷袋を確認する。
ヒールポーションは残り一本で、包帯も減った。フィエラの矢筒には朝よりはっきりと空きが増え、レイグ自身にもファイアボールとウィンドステップを使った疲労が残っている。
そして何より、時間を使った。
倉庫の外へ出ると、太陽は朝より高い位置にあった。
「……正午近いな」
レイグが言うと、ダルクが顔をしかめる。
「どれくらい遅れた」
「かなり」
「予定してた装備は?」
レイグが答えずにいると、フィエラが横から顔を覗き込んだ。
「何取りに行く予定だったの?」
「……《白狼のミスリルソード》」
ダルクが止まった。
「何?」
「白狼のミスリルソード」
「聞こえなかったんじゃねえよ! 何でそれを今言う!」
「言ったら左へ行かなかったのか?」
ダルクは口を開きかけたまま止まり、数秒、本気で悔しそうな顔をした。
「……行ったけどよ」
「じゃあ同じだろ」
「同じじゃねえ! 先に知ってたら、もっと悔しがりながら助けられただろ」
「何だよ、それ」
フィエラが吹き出した。
「ダルクらしいね」
「ミスリルだぞ! 悔しがる権利くらいある!」
「私も見たかったけどね」
「ほら」
「でも人が死ぬよりはいいかな」
「それも分かってんだよ」
分かっているからこそ腹が立つらしく、レイグも笑った。だが空の石箱を想像すると、右手はまだ白狼の柄の形を探した。
あの剣は本気で欲しかった。以前にも一度、手を伸ばせるところまで行きながら、ダルクを助けるために諦めた剣であり、今回こそ取れると思っていた。
「行くだけ行くぞ」
レイグは言った。
「残ってるかもしれない」
「そうだ。それだ」
ダルクがすぐ足を踏み出す。
「最初から諦めんな!」
「さっきまで文句言ってたの誰だよ」
「急げ!」
負傷者たちへ撤退路を教え、三人は再び王城側へ走った。
*
旧武具庫の隠し場所は、開いていた。
崩れた棚をどかし、奥の石箱を覗いたダルクが固まる。
「……ない」
フィエラも横から見る。
「空だね」
「嘘だろ……」
ダルクの肩が目に見えて落ちた。
「そんなに落ち込む?」
「ミスリルだぞ」
「まだ言うんだ」
レイグも石箱を見た。
レイグは石箱の底を指でなぞった。砂と欠けた石しか触れない。
「遅かったか」
「そうらしいな」
背後から声がして三人が一斉に振り返ると、入口にカルゼンが立っていた。
後ろには、オーガの襲撃で別路地へ押し出されていた前衛の二人がいる。そしてカルゼンの右手には、見覚えのある白銀の剣が握られていた。柄頭には白狼の意匠があり、曇りのないミスリルの刃が光を返している。
間違いない。
「あっ」
ダルクが声を上げた。
「それ」
カルゼンは剣を少し持ち上げた。
「これか」
「それ、俺らが取りに来たんだけどな」
「なら先に来るべきだった」
「助けに行ってたんだよ」
「知っている」
カルゼンの表情が少しだけ硬くなった。
「俺たちは襲撃で分断されて、武具庫の裏へ押し出された。仲間のところへ戻る道を探して中へ入り、この剣を見つけたんだ。お前たちがオーガと戦っていた頃だ。倉庫へ追いついた時には、もうお前たちが手当てをして出ていったあとだった」
救出された後衛とはすでに合流し、橋方面へ撤退させたらしい。
「助かった。礼を言う」
ダルクが剣を見たまま口を開く。
「礼ついでに、それ」
「渡さん」
「少しくらい悩めよ」
「ミスリルの剣を、礼のついでに持っていこうとするな」
フィエラが吹き出す中、カルゼンは剣を鞘へ戻した。
「助けてもらったことと、この剣を譲ることは別だ」
「お前、本当にそういうところだけ一貫してんな……」
「何の話だ」
「気分だよ」
カルゼンは怪訝そうな顔をしたが、追及はしなかった。
「剣は渡せない。だが借りは返す」
「借り?」
レイグが聞く。
「王城へ行くんだろう」
カルゼンはレイグの腰のスチールロングソードと、ダルクの歪んだ盾へ視線を落とした。
「途中まで同行する。こちらも王城方面へ行く予定だ」
レイグが二人を見ると、ダルクはまだ未練たっぷりに白狼の剣を見ている。
「……いいんじゃねえか」
フィエラも頷いた。
「人数多い方が、今は楽だしね」
「ああ」
レイグはカルゼンへ向き直った。
「頼む」
「貸し借りなしになるまではな」
「十分だ」
外へ出る。
時刻はもう正午を回っていた。黒い霧が外周へ現れ始めるまでに、少しでも中央へ寄っておきたい。
カルゼンたちと進路を確認している時、レイグは遠くの塔の上に黒い人影を見た。外套が風に揺れたように思える。
「……ザイル?」
「どこだ」
ダルクが振り向いたが、レイグが指した時にはもう塔の上に何もなかった。
「見間違い?」
「いや……分からない」
確信はない。それでも、背中に視線が残っているような嫌な感覚があった。
「今朝話した、ザイルって男?」
フィエラが聞いた。
「ああ。本当にあいつなら、俺たちの行き先を見てる」
フィエラは塔との距離を測るように目を細めた。
「ここからじゃサーチも届かない。近づく頃には、もういないと思う」
「追う時間もねえぞ」
ダルクの言葉に、レイグは人影が消えた場所をもう一度見てから頷いた。
「行くぞ」
カルゼンの声にレイグが前を向く一方、ダルクは歩き出してからも何度かカルゼンの腰へ目を向けていた。
「そんなに見ても返してくれないと思うよ」
フィエラが言う。
「見るくらいいいだろ」
「悪かったな」
レイグが言うと、ダルクがこちらを見る。
「何が」
「俺が左へ行ったから取れなかった」
ダルクはすぐには答えず、数歩進んでから大きく歪んだ盾を背負い直す。
「剣は惜しい」
「……ああ」
「すげえ惜しい。今からでも返せって言いたい」
「聞こえているぞ」
前を歩くカルゼンが言った。
「聞かせてんだよ」
「最悪だな、お前」
レイグが笑う。
ダルクは鼻を鳴らした。
「でも、あそこで左に行かなかったら、たぶん剣取れた時より後味悪い」
レイグは少しだけ目を見開いたが、ダルクはそれ以上言わず前を向く。
「だから謝んな。余計腹立つ」
「何でだよ」
「俺も左行ったからだよ」
「私は別に剣そこまで欲しくなかったけど」
フィエラが言う。
「今いい話してただろ」
「でも事実だし」
「少しくらい合わせろ」
三人の声に、前を歩いていたカルゼンの仲間が振り返った。
レイグは笑いながら歩いた。
薬も矢も減り、ダルクの盾には大きな歪みが残った。欲しかった剣も、今は別の男の腰にある。それでも助けた探索者は生きており、別の道を選べばよかったとは思えなかった。
屋根の上で何かが動き、レイグは顔を上げた。
崩れた屋根の端に、軽装の女が立っている。リュシェナだった。
目が合っても彼女は何も言わず、レイグたちとカルゼン一行を一度だけ見比べると、身を翻して屋根の向こうへ消えていった。




