第55話 最後の朝
レイグは目を開けると、寝台の脇へ手を伸ばした。
荷袋はいつもの位置にあった。外ポケットへ指を入れ、底まで探る。折り畳んだ焼き菓子の紙包みは、どこにもなかった。
「……やっぱり、ないよな」
荷袋を膝へ引き上げる。身体に疲労はなく、前の一日についた擦り傷も消えていた。壁際には、スチールロングソードではなく、毎朝のロングソードと傷一つないバックラーが戻っている。
『それ、ごみだよ』
昨夜、ネリナに言われた時も、レイグはこのポケットを閉じた。捨てるなら家で捨てればいい。言い返せずにいる自分を見て、ミレサまで笑った。
紙包みはないのに、その声は今も耳に残っていた。
菓子を明日に半分残そうとした指も、「ありがとう」と言われて怪しんだ顔も、最後に振られた手も。今朝の二人へ確かめたところで、困らせるだけだろう。
レイグはもう一度だけポケットへ触れ、それから荷袋を床へ戻した。
「レイグ! 起きてるの?」
階下からミレサの声が飛んできた。
「ああ」
「だったら早く来なさい。スープが冷めるわよ」
「今行く」
すぐ後にネリナの声も聞こえた。
「兄さん遅いよ」
「お前に言われたくない」
「私はもう食べてるもん」
「それは早いだけだろ」
階下から笑い声が聞こえた。
レイグも小さく笑い、寝台から立ち上がった。
*
食卓のある部屋へ入ると、ネリナがレイグの皿を見ていた。
「何だよ」
「兄さん、そのパン食べる?」
「食べる」
「じゃあ聞かなきゃよかった」
「何で聞いたんだよ」
「もしかしたら、いらないって言うかもしれないじゃん」
「朝飯食わずにどこへ行くんだ」
「カレグノス?」
「そうじゃなくて」
鍋を置いたミレサが吹き出した。
「朝から元気ね」
「兄さんが細かいんだよ」
「人のパンを狙ってる奴が言うな」
「狙ってないって。確認しただけ」
「口で確認するならともかく、何で手まで伸びてたんだ」
「近くで見たかったの」
「パンを?」
「うん」
「苦しくなってきてるぞ、その言い訳」
ネリナは不満そうな顔をしながら自分のパンをちぎった。
レイグも椅子に座る。
豆と野菜のスープから湯気が立ち、薄いパンと少量の干し肉が卓に並んでいる。何度も見た朝食だった。
匙を入れ、一口飲む。
前の夜とは違う料理だ。それでも、ミレサが作った味だった。
「兄さん」
「ん?」
「何か考えてる?」
「考えるくらいするだろ」
「危ないこと?」
「何でそうなるんだよ」
「兄さんが真面目な顔してる時、大体カレグノスのこと考えてるから」
レイグは答えに詰まった。
ミレサまでこちらを見る。
「今日はちゃんと帰ってくるのよ」
「ああ」
「奥へ行きすぎないで」
「ああ」
「黒い霧が出たら、欲張らずに帰る」
「今日はそうする」
ミレサが眉を上げた。
「珍しく言い切ったわね」
「何だよ、それ」
「いつもは『分かってる』って答えて、そのあと無茶をするでしょう」
レイグは苦笑した。
ダルクにも何度似たようなことを言われただろう。
「だから今日は、帰れるうちに帰る」
「ならいいけど」
ミレサはまだ半分ほど疑っている顔だった。
卓の下でネリナの足が揺れ、何度も繕われた革靴が見えた。
最初の頃は、あの靴を見るたび金が欲しいと思った。
新しい靴を買ってやり、母にも楽をさせ、傷み始めた屋根まで直したかった。だから十分な稼ぎを手にしても、もう少し奥へ行けばもっと持ち帰れると思い続けた。
生前の自分は、その「もう少し」で帰れなくなった。
レイグは残っていたパンを食べた。
今日は、違う一日にしたかった。
「ごちそうさま」
椀を置いて立ち上がる。
「もう行くの?」
ネリナが聞いた。
「ああ」
「今日は何か買ってくる?」
その言葉に、前の夜の甘い匂いが蘇った。
「何が欲しい?」
「うーん……」
ネリナは少し考えたあと、首を振った。
「別にいいや」
「珍しいな」
「その代わり、ちゃんと帰ってきて」
レイグは妹を見る。
前の一日とは違う言葉だったが、それを受け止めた時の重さは変わらなかった。
「ああ」
荷袋を背負い、腰にロングソードを差す。左腕にはバックラーを通した。
ミレサが玄関までついてくる。
「無茶しないでね」
「ああ。帰ってくる」
ミレサは少しだけ目を細めた。
「なら、行動で見せなさい」
「厳しいな」
「今までの積み重ねよ」
返す言葉もなく、レイグは扉へ手をかけた。
もし今日、生者の世界へ帰ることができれば、この家へ戻ることはない。
だからといって、今ここで何か特別な言葉を残したくはなかった。前の夜に言えなかった真相を、今さら別れのためだけに二人へぶつけることもできない。
レイグは振り返った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ミレサが答えた。
家の奥からネリナの声も飛んでくる。
「怪我しないでよ!」
「ああ」
扉を開けると、晴れた朝の空気が頬に触れた。
*
「遅え」
聞き慣れた声に、レイグは反射的に言い返しかけた。
だが今日は、口元が先に緩んだ。
「何だよ」
ダルクが怪訝そうに見る。
「いや。今日もそれなんだなと思って」
「今日も?」
フィエラがすぐ反応した。
「朝から変だよ、レイグ」
「家でも言われた」
「じゃあ本当に変なんだね」
「そこまで即答するな」
レイグは二人の前まで来ると、馬車乗り場へ目を向けた。
「兵舎まで付き合ってくれ。途中で話す。兵舎で一回だけ、俺が嘘をついてないことを見せる」
「いきなり面倒くせえ」
ダルクは嫌そうな顔をしたものの、歩き出した。
「来るんだな」
「お前一人にした方が面倒だからだ」
「私は話を聞いてから決める」
フィエラも並ぶ。
三人で馬車乗り場へ向かいながら、レイグは要点だけを話した。
同じ日付の朝へ何度も戻っていること。ダルクとフィエラは朝になると前の一日を忘れ、レイグだけが覚えていること。そして、この一日から出る方法を探していること。
ダルクは当然のように信じなかった。
「そんな話を聞いて、はいそうですかって言えるか」
「言わなくていい。兵舎で見てくれ」
フィエラは内容よりレイグの顔を見ていた。
「毎回、私たちに説明してるの?」
「ああ」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
*
前線拠点へ着いた三人は、そのまま古い石橋を渡った。
晴れた空の下にカレグノスの城壁がそびえ、その奥には王城の尖塔が見えている。何度渡ったか分からない橋だったが、今日の二人にとってはいつもの探索へ向かう一本の橋でしかない。
レイグは歩調を合わせた。
先を知っているから急ぐのではなく、その日の道を三人で確かめながら進む。
兵舎までの道には大きな戦闘がなく、訓練場にも敵影はなかった。
武器庫の扉の前で、レイグは短く息を吸った。
「今日は、俺から一気に言わない」
「何の話だ」
「二人が確かめたい物を選んでくれ。俺が場所を答える」
ダルクは疑う目を扉へ向けた。
「じゃあ、隠れてる武器だ。目につく剣以外」
「右奥。折れた槍の柄の後ろに、スチールのウォーハンマーがある」
「私は薬」
フィエラがすぐ続ける。
「何本あるの? 全部使える?」
「小棚に三本。底に黒い沈殿がある一本だけ使えない」
ダルクが扉の下を靴先で示した。
「これはどう開ける」
「下側が枠に噛んでる。少し持ち上げて、三人で横へずらす」
「外れたら好きなだけ笑っていい」
「覚えとけよ」
三人で扉をずらした。
中へ入ると、ダルクはまっすぐ右奥へ向かい、折れた槍の柄をどけた。フィエラは小棚の三本を一本ずつ光へ透かす。レイグは口を挟まず、二人が自分で確かめるのを待った。
やがて、ダルクがウォーハンマーを持って戻り、フィエラも底に黒い沈殿のある小瓶を一本だけ離して置いた。
「……槌が隠れてる場所まで、先に知ってやがった」
「私は外れてほしかったけどね。底の汚れまで合ってる」
フィエラは奥の木箱も開き、入っていた矢を一本抜いて軸を確かめた。
「全部信じるのはまだ無理。でも、聞かない方が怖い」
ダルクもウォーハンマーを肩へ載せる。
「話せ。聞いてから決める」
レイグは返事の代わりに、朝のロングソードを棚へ置き、スチールロングソードに持ち替えた。ダルクもバトルアックスをウォーハンマーに交換し、フィエラは矢を補充した。使えるヒールポーション二本も荷袋へ収める。
「それで」
ダルクが言った。
さっきまでの軽さが、声から消えている。
「何をする気だ」
レイグは二人を見る。
前の一日の二人なら、もう知っていた。
帰るための地図を一緒に作り、祭壇について話し、自分たちなりに答えを探したことも覚えていた。
今ここにいる二人には、その時間がない。
だから、もう一度話す。
「この一日から出る方法を探してる」
フィエラの手が止まった。
「出る?」
「ああ」
「どういう意味だ」
ダルクが聞く。
「全部話す。ただ、かなり長い」
ダルクはウォーハンマーを腰の吊り具に固定した。
「だったら歩きながら話せ」
レイグは少し驚いた。
「信じるのか?」
「まだ全部は信じてねえよ」
ダルクは大盾を背負い直す。
「でも、お前がここまで面倒くせえ芝居して俺らを騙す理由も分からねえし、槌や薬の場所まで当てたのは事実だ」
「私は聞くよ」
フィエラも矢筒を背負った。
「本当かどうかは、聞いてから考える」
レイグは二人を見た。
前の一日で交わした約束は、二人の中には残っていない。
それでも今日のダルクとフィエラは、自分たちが今見たものを自分で考え、またレイグの隣へ立った。
「……分かった」
レイグも荷袋を背負い、三人で武器庫を出る。
兵舎の外には晴れたカレグノスが広がり、遠くには王城の尖塔が見えている。まだ午前で、黒い霧が外周を侵食し始めるまでには時間があった。
三人は王城方向へ歩き始めた。
レイグは二人の歩調に合わせながら、どこから話すべきかを探した。ダルクとフィエラは急かさず、その言葉を待っていた。




