第54話 同じ夕食
町の分かれ道で、レイグはダルクとフィエラに別れを告げた。
一人で家へ向かう途中、甘い匂いがした。
レイグは通りを数歩進んでから足を止め、振り返った。
小さな露店に、焼き色のついた菓子が並んでいる。小麦の生地に蜂蜜を練り込んだものらしく、夕方になって少し固くなったぶん、朝より値を下げて売っていた。
店の前では、子供が母親の袖を引きながら菓子を指している。
それを見ているうちに、レイグの中に、あの朝の声が蘇った。
『じゃあ帰りに何か買ってきて』
『何を?』
『甘いやつ』
最初の頃、ネリナが言った言葉だ。
新しい靴とどちらがいいか聞けば、妹は悩んだ末に靴を選んだ。それでも甘い物も欲しいと言い張り、レイグを呆れさせた。
「……余裕はあるな」
レイグは露店へ戻り、小さな菓子を二つ買った。
一つだけでもいいかと思ったが、母の分を買わずに帰れば、たぶんネリナが自分の菓子を半分に割ろうとする。それから少し大きい方を自分で取って、残りを母へ渡すだろう。
そんな姿まで簡単に想像できた。
紙包みを荷袋へ入れ、再び家へ向かう。
空にはまだ夕方の明るさが残っており、仕事を終えた職人が道具を担いで帰り、店先では夕食用の野菜を巡って客と店主が値段を言い合っている。家々から漂い始めた煮炊きの匂いを嗅ぎながら歩いていると、自分がこんな時間にネルトアへ戻っていることが、妙に不思議に感じられた。
以前なら、まだカレグノスに残れたはずだと考えただろう。薬にも余裕があり、身体も動くなら、もう少し奥まで進んでもいい。そうやって一つ先の宝、一つ先の部屋を求め続けてきた。
今日は、自分から石橋を渡った。
『今日はこれで十分だ』
そう口にして石橋へ足を向けた時、肩から荷物が一つ下りたように軽くなった。その感覚を、今も身体が覚えている。
レイグは歩みを速めた。
*
家の扉を開けると、台所から聞こえていた包丁の音が止まった。
「ただいま」
先に顔を出したのはネリナだった。
「兄さん?」
「ああ」
ネリナはしばらくこちらを見たあと、窓の外へ目を向けた。
「……早くない?」
「早く帰ったら駄目なのかよ」
「駄目じゃないけど。何でいるのかなって」
「家だから帰ってきたんだよ」
「そうじゃなくて」
今度は奥からミレサが出てきた。腰に巻いた布で手を拭きながらレイグを見るなり、眉を寄せる。
「どうしたの?」
「母さんまでそれか」
「怪我したの?」
「してないよ」
「本当に?」
「何で早く帰っただけで怪我を疑われるんだよ」
「あなたがこんな時間に帰ってくる方が珍しいからでしょう」
言い返せなかった。
ミレサは近づいてくると、本当にレイグの腕や肩を確かめ始めた。途中の戦闘でできた小さな擦り傷はあるが、治療が必要な怪我ではない。
「ほら。何ともない」
「ならいいけど」
「信用ないなあ」
「積み重ねよ」
ダルクにも似たようなことを何度言われただろう。
レイグが苦笑していると、ネリナが荷袋を見ていた。
「何かある?」
「何で分かる」
「さっきからそこだけぶつけないようにしてるから」
「よく見てるな……」
「何?」
レイグは荷袋から紙包みを取り出し、ネリナへ渡した。
「ほら」
「何これ」
「甘いやつ」
ネリナが目を瞬かせる。
「甘いやつ?」
「開ければ分かる」
紙をめくった途端、蜂蜜の匂いが広がり、ネリナの顔がぱっと明るくなった。
「お菓子じゃん」
「だから甘いやつって言っただろ」
「何で?」
「前に欲しいって言っただろ」
ネリナの手が止まった。
「今日?」
今度はレイグが言葉に詰まった。
あの約束をした朝は、自分の中にはまだ残っている。けれど、目の前の妹にとっては、そんな会話をした覚えなどない。
「……前にな」
「いつ?」
「いいだろ、いつでも。いらないなら俺が食うぞ」
「いる」
ネリナは即座に包みを胸元へ引いた。
「じゃあ聞くなよ」
「聞くくらいいいでしょ」
包みの中にもう一つ入っているのに気づき、ネリナが指を差す。
「二つある」
「母さんの分」
「私、二つでも食べられるよ」
「聞いてない」
「半分なら?」
「母さんのだって言ってるだろ」
「夕食前に食べるんじゃないわよ」
ミレサの声が飛んできた。
「一口だけ」
「駄目」
「小さい一口」
「大きさの問題じゃありません」
ネリナがレイグを見る。
「兄さん」
「俺を巻き込むな」
「買ってきた人の権限で」
「そんな権限はない」
「けち」
その言葉に、レイグは思わず口元を緩めた。
「懐かしいな、それ」
「何が?」
「……何でもない」
ネリナは怪訝そうにしたものの、菓子を食卓の端に置いた。
それだけのやり取りだったが、買って帰ってよかったと思った。
*
夕食も、特別なものではなかった。
豆と野菜を煮たスープに薄いパン、それに昼間買ってきたらしい根菜を焼いたものが少し添えられている。
「兄さん、それ取って」
「どれだよ」
「そっち」
「だから、どれだ」
「焼いたやつ」
「最初からそう言え」
皿を渡すと、ネリナは当然のように一番大きなものへ手を伸ばした。
すぐにミレサの匙が手の甲を軽く叩く。
「痛っ」
「それ、お兄ちゃんの分」
「兄さん、いいよね?」
「何で俺に聞く前から取ろうとしてるんだ」
「駄目なの?」
「……一個くらいいいよ」
「ほら」
「最初から許されてたみたいな顔するな」
「レイグも甘やかさないの」
ミレサが呆れる。
「兄妹なんだから、一個くらいいいだろ」
「そうやって渡すから、この子が遠慮しなくなるのよ」
「家族に遠慮してどうするの」
「少しはしなさい」
「母さんはどっちの味方なの?」
「常識の味方」
「ずるい答え」
ネリナが足を揺らした。
卓の下から、何度も繕われた革靴が見える。つま先には新しい糸が走り、底には革片が重ねられていた。
あの靴を買い替えてやり、母にも楽をさせたかった。
そのために、もう少し稼ごうと思い続けた。
それ自体が間違いだったとは、今でも思わない。ただ、その「もう少し」をやめられなかった先で、自分はダルクとフィエラまで死なせた。
今日は大きな宝を持ち帰っていない。
それでも、こうして三人で夕食を囲んでいる。
「……何?」
ネリナの声で我に返った。
「何が」
「さっきからこっち見てる」
「見てない」
「見てたよ」
ミレサもレイグへ視線を向けた。
「今日は本当に変ね」
「早く帰っただけで、そこまで言われるのかよ」
「そうじゃないわ。帰ってきてから、ずっと私たちの顔を見てるでしょう」
「母さんも気づいてたんだ」
「あなたより先にね」
「何で競うんだよ」
ネリナは少し笑ったが、ミレサは険しい顔のままだった。
「カレグノスで何かあったの?」
「……別に」
「その答えは、何かあった時の答えよ」
逃がす気のない声音だった。
「レイグ。本当に何かあったんでしょう」
レイグは匙を置いた。
自分たちはもう死んでいる。この日は深夜になると終わり、また同じ朝へ戻る。
目の前の二人は、生者の世界に残したミレサとネリナ本人ではない。何度か朝を使って確かめた。レイグの目が届かなかった時間の記憶は入れ替わり、帰らなかった夜のことまで、帰ってきた出来事として語った。
それでも今ここでレイグを案じている感情は本物だった。レイグがこの朝を去っても、生者の世界にいるミレサとネリナの魂を地獄へ置き去りにすることにはならない。
真実をすべて話しても、二人をここから連れ出せるわけではない。ただ今日の終わりを背負わせ、自分だけが告げたことで少し楽になる。そのために話すのは違うと思った。
「母さん、俺……」
ミレサが待っている。
ネリナの笑みも消えていた。
ここで過ごしてきた時間をどう言葉にすれば、二人を嘘にせず別れを告げられるのか。それだけは、まだ分からない。
「……何?」
ネリナが促す。
レイグは視線を落とした。
「今は、うまく言えない」
食卓が静まり返った。
先に表情を変えたのはネリナだった。
「何それ」
「悪い」
「自分から言いかけたんじゃん」
「……分かってるよ」
「じゃあ言ってよ」
「今は無理なんだ」
「何で?」
「ネリナ」
ミレサが止める。
「だって気になるでしょ! 帰ってきてからずっと変で、何か言おうとして、やっぱり言えないって。一番嫌なやつじゃん」
「……悪い」
「またそれ」
ネリナは顔を背けた。
ミレサも納得してはいない。
「危ないことをするつもりじゃないでしょうね」
「カレグノスへは、また行く」
「なら、なおさら話してほしいわ」
「話したい。でも今は、本当に言えないんだ」
「そう」
その返事は短く、許してくれたわけではなかった。
重くなった食卓を、レイグは無理に明るくしようとはしなかった。
*
食器を片づけ終えた頃、ようやくネリナは菓子の包みを開いた。
「食べていい?」
「夕食は終わったからね」
ミレサが答える。
ネリナは一つ取り、半分に割ろうとした。
「何してる」
「半分残すの」
「母さんのはもう一個あるだろ」
「知ってるよ。明日の分」
ネリナは割った半分を紙へ戻し、包みの端を丁寧に折り込んだ。レイグはその手元を見ていられず、卓に残った菓子へ視線を落とした。
「……今日食えよ」
「何で?」
「固くなるぞ。せっかく買ってきたんだから、うまいうちに食え」
「兄さん、今日やたら食べさせようとするね」
「買った本人が言ってるんだからいいだろ」
「太ったら兄さんのせいだからね」
「一個で太るか」
結局、ネリナは全部食べた。
一口目で目を少し大きくし、二口目から急に食べる速度が上がる。
「……うまいか?」
「普通」
「じゃあ返せ」
「もう食べた」
「普通なのに?」
「普通においしい」
「最初からそう言え」
空になった紙包みを、レイグは折り目どおりに畳み、何となく荷袋の外ポケットへ戻した。
「それ、ごみだよ」
「あとで捨てる」
「ここ家だけど」
返す言葉がなく、レイグは荷袋の口を閉じた。
そのやり取りにミレサまで笑い、重かった空気がようやく少し緩んだ。
レイグは二人を見てから、静かに呼んだ。
「母さん。ネリナ」
「今度は何?」
ネリナが警戒する。
「……ありがとう」
二人とも黙った。
数秒後、ネリナがますます怪しいものを見る顔になった。
「やっぱり何かあるじゃん」
「何でそうなる」
「絶対変だもん」
ミレサも困ったように首を傾げる。
「何に対してのお礼なの?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「飯とか」
「それなら毎日言いなさい」
「母さんまで」
「そうでしょう?」
ネリナもまだレイグを見ている。
「絶対それだけじゃない」
「今日は勘が鋭いな」
「今日は、じゃない」
「はいはい」
「誤魔化した」
「もういいだろ」
「よくない」
感動的な別れにはならなかった。
それでよかった。
*
夜が深くなり、ネリナが自室へ向かう頃には、いつもの家の静けさが戻っていた。
廊下を歩いていた妹が、途中で一度だけ振り返る。
「兄さん」
「何だ」
「明日は普通にしてよね」
「普通って何だよ」
「今日みたいに変なこと言わない」
「努力する」
「そこは約束して」
「無理な約束はしない」
「けち」
ネリナは口を尖らせたまま再び歩き出し、自室へ入る直前、何でもない調子で手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
レイグの返事が遅れた。
ほんの一瞬だったが、ネリナは気づいて振り返る。
「何?」
「……何でもない」
「またそれ」
「ああ。また明日」
「うん」
今度こそ扉が閉まった。
レイグはしばらく、その扉から目を離せなかった。
*
寝台へ入ってからも、なかなか眠れなかった。
以前、初めて深夜の反復を確かめた時のように、眠らないと決めているわけではない。金貨も紙も用意していなければ、鐘の回数を数えるつもりもなかった。
ただ目を閉じるたび、夕食の光景が戻ってくる。
自分の分の根菜を当然のように取ったネリナと、それを叱ったミレサ。蜂蜜の菓子を食べて「普通においしい」と言った妹。そして、ありがとうと口にした自分を、二人とも最後まで怪しんでいた。
特別な夕食ではなかったからこそ、忘れたくなかった。
朝になれば、二人は今日のことを知らなくなる。甘い物を買って帰ったことも、レイグが礼を言ったことも、ネリナが「また明日」と手を振ったことも、二人の中には残らない。
そのことを思えばやはり寂しく、何度経験しても慣れるものではない。
それでも、二人を責める気持ちはもうなかった。
遠くから深夜の鐘が聞こえてきても、レイグは数えず、目も開けなかった。
生者の母とネリナのところへ帰りたい。もし記録どおり、まだ帰る方を選べた時へ戻れるのなら、今度こそ二人を待たせず家へ帰りたい。
その思いと一緒に、今夜ここで笑っていた二人の顔も胸の中に残っている。どちらか一方を消そうとしても、もう消せなかった。
鐘の余韻が少しずつ遠ざかる。
世界から音が失われる直前、レイグは寝具の中で小さく呟いた。
「明日は来なくても……俺は帰る」
そして、すべてが暗くなった。




