第53話 帰るための地図
その日の朝、薄曇りの下の待ち合わせ場所には、いつもの二人がいた。
ダルクは石壁にもたれ、フィエラは小さな果実を指先でもてあそんでいる。前の一日、三人は王城地下の祭壇を前に、銀色の器が何を求めているのか話した。
答えらしきものは見えたが、《生命の雫》も出口も、まだ現れていない。
その時間を覚えているのは、今日もレイグだけだった。
「遅え」
ダルクの声が飛んでくる。
いつもの返事が口まで出かかったが、レイグは飲み込んだ。
「今日は兵舎まで付き合ってくれ。そこで話す。それと、今日は奥へ行かない」
ダルクの表情が固まった。
「……は?」
「そっちの方が怖いんだけど」
フィエラまで果実を持つ手を止める。
「何でだよ」
「レイグが自分から奥へ行かないって言った」
「俺だって毎回奥まで行くわけじゃない」
「毎回?」
ダルクの眉が寄った。
しまったと思ったが、もう遅い。
「その話も兵舎でする」
「朝から面倒くせえな」
「でも行くんでしょ?」
フィエラが聞く。
「こいつ一人で行かせる方が面倒だからな」
「じゃあ決まり」
前の一日の約束など二人は覚えていない。それでも、今朝の二人は今朝の判断でまた隣に立った。
三人は乗合馬車で前線拠点へ向かい、古い石橋を渡った。レイグは知っている道だからと先走らず、角や建物の入口ではその日の状況を確かめた。兵舎へ着くまで大きな戦闘はなく、訓練場にも敵影はなかった。
武器庫の前で、レイグは閉じた扉を指した。
下側が枠へ食い込んでいる。三人で肩を当ててずらし、中へ入ると、レイグは武器の棚へ行かず、古い机の埃を袖で払った。崩れた炉から炭の欠片を拾い、机へ一枚の紙を広げる。
「装備を見ないのか?」
「二人が自分で選んでくれ。俺は先に、忘れないうちに描く」
「朝から何を忘れるの」
フィエラの問いに、レイグはまだ答えず、紙へカレグノスの城壁を引き始めた。
ダルクは怪訝そうにしながらも右奥を探り、折れた槍の柄を退けてウォーハンマーを見つけた。鉄の頭を持ち上げ、重心を確かめた途端、口元が緩む。
「……何も言ってないぞ」
フィエラが先回りした。
「顔で分かるよ」
「うるせえ」
ダルクはバトルアックスを棚へ置き、ウォーハンマーに持ち替えた。フィエラは奥の木箱から使える矢を選び、小棚の三本も光へ透かす。底に黒い沈殿のある一本だけを戻し、残るヒールポーション二本をレイグの荷袋へ入れた。
レイグも左の棚からスチールロングソードを取り、朝の剣と交換する。それでも紙から目を離さず、城門から兵舎、市場跡へ線を伸ばした。
「知らねえ道まで描いてるな」
ダルクが机の向こうへ回る。
「だから話す。信じろと先に言う気はない。でも今日は、二人にこの地図の穴を見つけてほしい」
「穴って?」
「同じ朝へ戻るたび、俺だけが前の一日を覚えてる。ここに描く道も、何度も通った」
「待て」
ダルクが椅子を引き、紙の前へどかりと座った。
「一気に言うな。まず、その地図で何をする気か話せ」
フィエラも向かいの椅子へ腰を下ろし、矢を膝へ置く。
二人とも信じた顔ではなかった。それでも席を立たず、レイグの次の言葉を待っていた。
*
「……つまり」
しばらくして、ダルクが額を押さえた。
「俺とフィエラは、その話を何回も聞いてるのか」
「ああ」
「何回もお前を信じた」
「ああ」
「でも朝になったら全部忘れる」
「そうだ」
「王様も王妃も覚えてて、ザイルって奴も覚えてる」
「そこまで合ってる」
「なのに俺は今、初めて聞いた」
「……そうだ」
ダルクは大きく息を吐いた。
「頭痛え」
「そこは俺にもどうしようもない」
「お前だけ何日分も覚えてて、よく頭おかしくならねえな」
「なりかけたよ」
レイグが答えると、ダルクは何も言わなかった。
フィエラは古い机の向かい側に座り、レイグが広げた紙を見ていた。
「その紙も、朝になったら消えるんでしょ?」
「消える。だから今、二人にも見てほしい」
レイグは、紙の中央に描いたカレグノスの城壁を指した。
頭の中に積み重なった情報を、一度ここへ描き出す。自分では気づかなかった穴を、二人なら見つけるかもしれない。
「帰る方法を探す」
二人が黙る。
レイグは地図へ線を描き足した。
市場跡から職人街へ道を伸ばし、貴族街の位置も置く。その中央寄りに王城を描き、これまで利用した地下への入口や、途中で崩れたことのある通路も書き加えていった。
王城北側の地下通路には、壁を深く抉った巨大な爪痕と、何か重いものを引きずった跡も書き込む。以前、奥から低い咆哮だけを聞き、姿を確かめず引き返した場所だ。
「ここは使わない。何がいるのか分からないけど、三人で相手にする大きさじゃない」
ダルクもフィエラも、その印には異を唱えなかった。
「王城西側から入る道は近いけど、人が集まると詰まりやすい」
ダルクがパンを持ったまま、もう片方の手でその道を塞いだ。
「じゃあ、詰まった。次は?」
レイグは指の横から、別の入口へ線を引き足した。
「こっち。遠回りになるけど、今まで通れた日が多かった。ただ、人も魔物も同じようには動かない。天気でも変わる」
「だったらこっちも塞がるかもね」
フィエラが確認していた矢を一本、紙の上へ渡す。レイグは炭筆を止めた。
「二人して塞ぐなよ」
「穴を見つけろって言ったの、お前だろ」
「だから今、考えてる」
レイグは新たな道を書き込む前に、崩れたことのある通路を指した。
「こっちへ逃げるのは危ない。ここまで塞がってたら、もっと手前で進むのをやめる。装備を先に取られてても追わない」
フィエラは紙の上の矢を取り、軸についた炭の粉を払った。
「帰る道も選べるようにしてるんだ」
「ああ。未来を当てたいわけじゃない」
ダルクはまだ西の道を塞いでいた。レイグがその指を退かすと、紙にパン屑が残る。
「食いながら邪魔すんな」
「だから、お前が見ろって――」
「水。二人とも、一回飲んで」
レイグは水筒を取り、喉を湿らせてから再び紙へ向かった。
貴族街の一角へ印をつけようとしたところで、フィエラの声が飛んでくる。
「そこは?」
「崩落が起きやすい場所だ」
「人もよく巻き込まれる?」
レイグの手が止まった。
「……ああ」
「だから書くの?」
「危険な場所だからだ」
「それだけ?」
責める声ではなかった。
だからこそ、レイグはすぐ答えられなかった。
そこで負傷した探索者を助けた一日もあれば、助けを求める声を振り切って祭壇へ急いだこともある。さらには祭壇を反応させるため、誰かを助けること自体を目的にした一日まであった。
ダルクも紙へ目を落とした。
「助ける場所まで予定に入れんのか?」
「……いや」
レイグは印の横へ、崩落注意とだけ書き加えた。
「危険な場所として覚えておく。それだけだ」
「誰かいたら?」
「その時に見る」
「一人で決めんなよ」
ダルクがすぐに言った。
レイグは顔を上げる。
「三人で決める」
「俺らも一緒にいるなら、三人で決めろ」
「ああ」
レイグは「崩落注意」の文字を見つめた。危険な場所も近道も地図には書ける。けれど、そこで誰を助けることになるかまでは、先に決められない。
顔を上げると、ダルクとフィエラがこちらを見ていた。レイグは地図を自分だけの側へ引き寄せるのをやめ、三人の中央へ置き直した。
「霧は?」
ダルクが聞いた。
レイグは城壁の外周に沿って線を引く。
「午後になれば外から入ってくる。そこだけは変わらない。でも、どの地区へどの時刻に届くかまでは読めない。天気や戦い方でもずれる」
「一番大事な時間が読めねえじゃねえか」
「だから余裕を残す」
ダルクが顔を上げた。
「お前が?」
「何だよ」
「ぎりぎりまで行きたがるお前が、余裕を残す?」
「好きでやってるみたいに言うな」
「違うのか?」
レイグは言い返しかけたが、言葉を飲んだ。
まだ行ける。
あと少しなら進める。
そう考えて、生前の自分は帰るべき場所からさらに奥へ進んだ。
「……今度は残す」
「今度だけじゃ困る」
「分かったよ」
フィエラが、紙に描かれた王城を指で示した。
「じゃあ、一番大事なのはこの下?」
「ああ」
レイグは地下へ線を伸ばし、古い礼拝堂の祭壇を小さな四角で描いたところで、筆が止まった。
祭壇から先だけ、何も書けない。
ダルクが白紙の部分を指で叩く。
「で、ここからは?」
「分からない」
「《生命の雫》が出たら?」
「それも分からない」
フィエラが続けた。
「どうやって帰るのかも?」
「ああ」
ダルクは白い部分をしばらく眺め、呆れたように息を吐いた。
「肝心なところが全部分からねえじゃねえか」
「分からないものを分かったふりして書くよりいいだろ」
「そりゃそうだけどよ」
レイグも白紙を見た。
道も、武器の場所も、霧の性質も、祭壇が変わった時に自分たちが何をしていたかも覚えている。
それだけ知っていても、最後の部分だけは埋まらなかった。
王もザイルも知らない以上、自分たちでそこまで行って確かめるしかない。
「次で、今まで分かったことを全部試す」
レイグが言った。
ダルクは腕を組む。
「失敗したら?」
「また考える」
「じゃ、成功したら?」
今度はフィエラだった。
成功という言葉の方が、失敗より答えにくかった。
家の食卓が浮かぶ。
ミレサとネリナがいる、何度も繰り返してきた朝。そして、生者の二人のもとへ帰り、今度こそ帰らない夜を迎えさせずに済むかもしれない時間。
帰る先を選ぶことは、もう一つの食卓へ背を向けることだった。
「……帰る」
それだけ答えると、フィエラは何も言わず、ダルクも茶化さなかった。
しばらく三人で地図を眺めたあと、レイグは紙を丁寧に折った。
「まあ、これも次の朝には消えるけどな」
言った瞬間、ダルクの顔が険しくなった。
「それ、やめろ」
「何が」
「まだ忘れてねえ俺を、先に忘れた奴みたいに扱うな」
レイグは言葉に詰まった。
「次の朝の俺がどうなるかなんて知らねえし、俺にはどうしようもねえ。でも今の俺は聞いた」
以前なら、自分だけが覚えている苦しさをぶつけていたかもしれない。
今は、ダルクが何に怒ったのか分かった。
「……悪かった」
ダルクが少しだけ目を見開く。
「何だよ」
「謝ったんだよ」
「いや、聞こえたけど」
「じゃあ何だ」
「素直だと気持ち悪い」
「謝らなきゃよかった」
フィエラが声を上げて笑った。
「今のはダルクが悪い」
「何でだよ」
「せっかくレイグが成長したのに」
「子供みたいに言うな」
「じゃあ大人になった」
「そういう問題じゃない」
三人の声が、古い兵舎の部屋へ響いた。
*
帰りの石橋へ着いた時にも、空はまだ明るかった。
午後に入ったため、カレグノスの外周では黒い霧がすでに広がり始めている。それでも城門や石橋まではまだ距離があり、今から引き返したとしても、短い探索なら続けられるだけの時間は残っていた。
橋の途中で一度だけ足を止めて振り返ると、崩れた城門の向こうに王城の尖塔が見えた。
「どうした」
ダルクが聞いた。
「いや」
「まだ行けるぞ」
その一言に、レイグは王城を見たまま黙った。
兵舎で装備を整えたばかりで、薬もほとんど使っていない。魔力にも余裕があり、身体には大きな傷一つなかった。
今から戻れば、まだ先へ行ける。
以前の自分なら、その理由だけで城門へ向き直ったかもしれない。
「本当に帰るの?」
フィエラが聞いた。
レイグはようやく王城から目を離した。
「ああ」
「珍しいな」
ダルクが言う。
「何が」
「まだ行けるのに、お前から帰るって言うのがだよ」
「悪いか」
「悪くはねえ。気持ち悪いだけだ」
「お前、今日それ何回言うんだよ」
「気持ち悪い時に言ってる」
「じゃあ黙れ」
フィエラが笑いながら、二人より先に歩き出した。
レイグもその後を追おうとして、もう一度だけ城塞都市を振り返った。
まだ行けるからといって、行かなければならないわけではない。
「今日はこれで十分だ」
口にすると、隣にいたダルクは大盾の肩帯へ親指を掛けたまま、城塞都市と石橋を一度ずつ見比べた。
「……そうかよ」
「ああ」
三人はそのまま石橋を渡った。
ネルトアへ戻る馬車の中で、フィエラが手を出した。
「地図、もう一回見せて」
レイグは懐に手を入れた。夜を越えれば消える紙だ。そう言いかけ、何も言わずに渡す。
フィエラが折り目を開くと、ダルクまで横から覗き込んだ。
「おい、そこ折るな。西の入口が見えねえ」
「そっちが引っ張るからでしょ」
二人とも紙の端を離さなかった。レイグは揺れる荷台で膝を寄せ、真ん中にできた隙間から、自分が引いた線を覗き込んだ。




