第52話 待つ者
三人分の足音が回廊の向こうへ消えてから、ザイルは崩れた柱の陰を出た。
礼拝堂には誰もいない。
祭壇の表面では銀色の紋様が左右から中央へつながり、小さな器の縁にも見える形を作っている。しかし、その上には何もない。
「まだだな」
ザイルは指を当てた。指先に伝わるのは冷たい石の感触だけで、《生命の雫》ではない。
以前、祭壇を動かそうと、入口や時刻を変え、遺物を持ち込み、自分の血まで流した。それでも古い石は沈黙した。
ところが、レイグたちが去った後には銀色が残る。
ザイルは、白銀の剣を目前にして仲間へ走った背中も、薬を奪った女のために引き返した姿も見ていた。どちらの日も、レイグは失うものを惜しんでいた。それでも、目の前の人間へ引き返した。
「くだらない」
なぜ祭壇がそんな選択を求めるのか、ザイルにはどうでもよかった。《生命の雫》さえ石の上へ現れれば、それでよかった。
ただ、レイグが選んだ道を理解できないわけではなかった。
ザイルにも、かつては仲間を救おうとした時期がある。
雨の降る一日だった。その朝は、昼までかけて時間の巻き戻りを信じさせ、ようやく四人で動けるようになった日でもあった。
崩れた回廊の向こうで、赤毛の槍使いが石板に脚を挟まれていた。黒い霧は中庭の敷石を這い、倒れた燭台の火を端から呑み込んでいた。ほかの仲間は先へ逃げている。戻れば二人とも間に合わないと、誰もが分かる距離だった。
「来るな、ザイル!」
槍使いは石板を両手で押し返そうとしながら怒鳴った。
「二人で潰れるだけだ。置いていけ!」
ザイルは返事をせず、落ちていた槍の石突きを隙間へ差し込んだ。両腕に力を込めると、雨で滑る柄が手のひらの皮を削った。石板がわずかに浮いたところへ肩をねじ込み、男の脚を引き抜く。鎖帷子の下で骨が鳴ったが、男は声を噛み殺した。
「俺を助けても、明日には忘れるぞ」
「今ここで潰されるのは、今日のお前だ」
ザイルは男の腕を肩へ回し、霧に背を向けた。
半刻後、二人は仲間に追いついた。だが、城壁へ抜ける狭間で骸骨兵の槍が飛んだ。赤毛の男は傷めた脚を引きずりながら踏み込み、ザイルを石壁へ突き飛ばした。穂先が男の脇腹から鎖帷子を突き破り、背へ抜けた。
「借りは、返したぞ」
「返すな。明日、また俺に返させろ」
ザイルが傷口を押さえても、指の間から血は雨水へ混じった。男は笑ったつもりらしかった。歯の隙間から赤い泡が出ただけだった。
「なら明日も、橋の西で」
その声は、雨音より先に消えた。
黒い霧がザイルを呑み、朝が戻った。
次の朝、橋の西には赤毛の男がいた。槍ではなく、腰の剣へ手を掛け、まだ傷一つない脚で立っていた。ザイルは胸当てを指で二度叩いた。何日も並んで戦った時に、背を預ける合図として使っていたものだ。
「遅かったな。脚は痛まないか」
男の顔から笑みが消えた。
「何の話だ」
「昨日、回廊で石に挟まれた。お前は俺を庇って――」
鞘走りの音が、言葉を断った。
剣先がザイルの喉へ向いた。昨日、自分を庇ったまま槍を取り落とした手が、今は剣を握っている。男はザイルを、見知らぬものを見る目で睨んでいた。
「近づくな。何で俺の脚のことを知ってる。何で橋の西を知ってる」
「お前が言った」
「俺はお前なんか知らない」
ザイルが一歩出ると、刃が走った。手袋の甲が裂け、雨粒ほどの血が浮いた。仲間だった者たちも物音を聞きつけ、弓と斧を構えて男の背に並んだ。
「次に近づいたら斬る。俺たちをどこから見張っていた」
ザイルは答えられなかった。
彼らを救うために知った傷も、好物も、癖も、本人たちには監視の証拠にしかならない。別の朝には、先に罠を知らせた。さらに別の朝には、共に決めた合言葉を告げた。信じさせるたびに時を使い、その間に別の誰かが死んだ。ようやく肩を並べても、霧が来れば、また剣先から始まった。
救った人数より、忘れられた回数の方が重くなった。
だから、やめた。
祭壇の銀色を見ても、昔へ戻ろうとは思わない。
むしろ答えは単純だった。
レイグは、まだ誰かのために欲しいものを手放せる。ならば彼が《生命の雫》を出すまで待ち、現れた瞬間に奪えばいい。
祭壇が、出した者にしか雫を使わせないとは限らない。
「使うのは俺だ」
誰かを救い直すことも、信じてもらうことも、もうしない。一人でこの日から抜ければいい。
それでも、柱の陰へ戻る前に、ザイルは器状の銀線をもう一度見た。
かつての自分なら、この光を見て別のことを考えただろう。仲間を連れてここへ来る道、全員が生きたまま祭壇へ辿り着く方法、忘れられても信じてもらうための言葉。
今は、そのどれにも手を伸ばさない。
レイグはまだ仲間の忘却に耐え、今日の相手を前の一日の代わりにしないでいられる。だからこそ、欲しいものを諦めてでも、誰かを助ける方を選べる。
「いつまで続くか見ものだな」
嘲りではなかった。ザイルは本気で、いずれレイグも自分と同じ場所へ来ると思っていた。忘れられる痛みは、回数を重ねるほど人間を削る。自分だけが例外だったはずはない。
礼拝堂の入口から黒い霧が流れ込んだ。
ザイルは逃げなかった。銀の器を見たまま、冷気がつま先から腿へ昇るのを待った。明日になれば祭壇は元へ戻り、ダルクとフィエラは忘れるが、レイグは覚えている。ザイルもまた、銀線の形と三人の選択を一つも失わない。
暗闇が視界を塞いだ。
*
朝、薄雲の下で目を開けると、ザイルはいつもの順に装備を拾った。
潰れた衛兵詰所の床下から軽いチェインメイルを引き出し、仕立屋の裏口で細身の剣を拾う。薬は必要な分だけ薬差しへ収めた。重い盾も予備の武器も持たない。戦うためではなく、見失わないための装備だった。
レイグはダルクとフィエラに会うと、深部へ向かわず兵舎へ歩いた。ザイルは一筋離れた屋根を進み、崩れた鐘楼から三人が入るのを見届けた。
兵舎の二階は壁の半分が落ち、訓練場を見下ろせる。風で揺れる旗布の陰に伏せれば、下からは瓦礫の影にしか見えない。
レイグは長机の上へ地図を広げた。
炭筆が地図を走る。白銀の剣がある場所。魔物が集まりやすい通り。王城へ入る道。黒い霧の到着が読めない場所。ダルクが西の道を指すと、フィエラが矢の残数を数える仕草をした。二人には初めて聞く話でも、レイグの指は迷わなかった。
「次で、今まで分かったことを全部試す」
ザイルは屋根瓦の隙間から、炭筆の動きを目でなぞった。
使える事実が、また一つ増えた。
三人が兵舎を出たのは、まだ霧が街の外周へ届く前だった。レイグたちは橋へ戻る。ザイルは反対側の路地へ降りた。
ネヴァルは仲間から少し離れ、空の水袋を握っていた。革袋の口を結ぼうとする指が、二度も紐を取り落とした。朝から何も起きていないのに、何度も喉を擦っている。息を奪われた死の感触だけが、記憶の底から身体へ残っているのだ。
「また、息ができない夢を見たか」
ネヴァルが振り向き、剣の柄へ手を掛けた。
「誰だ」
「ザイル。お前の名はネヴァル。あそこにいる斧使いはボルンで、弓を背負った女はアーシャだ」
仲間の名が出るたび、ネヴァルの親指が鍔へ寄った。
「何で知ってる」
「お前も同じ朝を繰り返している。俺は、前の一日を覚えている」
ザイルは路地の出口に立ったまま、近づかなかった。赤毛の槍使いに斬られた手袋の感触が、何年分もの朝を越えて手のひらに戻った。
「レイグ・オルディアも同じだ。あいつは仲間二人を連れ、明日の朝、装備を回収して王城へ向かう」
「それが俺たちと何の関係がある」
ここまでは真実だった。真実の中へ、刃を一本だけ差し込む。
「あの三人は、お前たちの一団を先に潰す」
ネヴァルの指が止まった。
「お前たちを王城へ入る囮に使い、帰還手段を見つけた後で生き残りを消す。出口を独占するためだ。レイグは、お前たちがどこを通り、誰が先頭に立つかまで知っている」
「そんな話を、信じろっていうのか」
「信じる必要はない。明日、白銀の剣を取りに動く三人が、正午の鐘が鳴る頃に王城手前の古い通りへ来る。中央に張り出した石壁があり、その根元は崩れかけている。縄を掛けて支えを落とせば道を塞げる。二階の窓も二つ残っている」
ネヴァルの目が、ザイルの顔から路地の先へ動いた。場所を思い浮かべたのだろう。仲間を守るための陣形なら、彼は恐怖より早く組める。
「殺せとは言わない。先に脚を止めろ。武器を捨てた相手まで斬るな」
「なぜ俺に教える。お前は何を取るつもりだ」
「同じ朝を終わらせたいだけだ」
「終わらせられるのか」
「俺ならここから出られる。お前が死んでも朝には戻る。怖がる必要はない。ただ、恐怖で仲間を失うな」
ネヴァルの仲間が遠くから名を呼んだ。ネヴァルは答えず、柄を握ったままザイルを見ていた。疑いは消えていない。だが、「仲間を失う」という言葉を聞いてから、その目には計算が生まれていた。
ザイルは背を向けた。
背後でようやく水袋の紐が締まり、革の鳴る音がした。ネヴァルが仲間の方へ戻る気配を聞いても、ザイルは振り返らなかった。
今夜を越えれば、会話はネヴァルの中から消える。だが、名前を告げた時には親指が鍔へ寄り、「先に潰す」と言った時には止まり、帰還手段より仲間を持ち出した時に初めて視線が揺れた。その順番はザイルの側に残る。次の朝も同じ場所へ立ち、同じ順で恐れを渡せばいい。レイグの経路が変わった時だけ、道と時刻を変えて告げる。
嘘を抱えて朝を越すのは、ザイル一人で足りる。身体へ残った恐怖が、ネヴァル自身の手で罠を組ませる。
黒い霧が路地へ満ちる頃、ザイルは王城の外壁を見上げていた。チェインメイルの裾から鎖の輪が一つずつ白く凍り、薬差しの革が固くなる。腰の細剣を抜く理由はなかった。
霧が膝を越えた時、橋の西で待つと言った赤毛の男の声が、雨音を連れて戻った。
ザイルは橋を見なかった。
明日の朝、持ち上げるのは衛兵詰所の床板だ。その後で屋根へ上がり、レイグを追う。もう誰かとの待ち合わせへ急ぐことはない。
「出せ。出た後は、俺が取る」
霧が胸まで昇る。閉じかけた視界の中央で、王城だけが最後まで黒く残った。その地下で銀の器が満ちる時を思い、ザイルは剣から手を離した。
ようやく、この日が終わる。




