第49話 助けられる側
息ができなかった。
走らなければならないのに、脚が動かない。地面へ爪を立てても身体は前へ進まず、背後から冷たい何かが迫ってくる。
「待ってくれ!」
自分の声だったのか、それとも誰かに呼ばれたのか。
分からないまま、ネヴァルは跳ね起きた。
「――っ!」
荒く息を吸う。
見慣れた天井があった。
窓の外から、朝のネルトアを荷車が通っていく音が聞こえる。空は薄く曇っているらしく、窓板の隙間から入る光も弱い。
ネヴァルは寝台の上で自分の脚へ手を伸ばした。
傷はない。
膝も動く。足首にも力が入った。
「……夢か」
そう口にしても、胸の奥に残った恐怖までは消えなかった。
*
「今日のお前、変だぞ」
前線拠点へ向かう乗合馬車の中で、ボルンが言った。
「何がだ」
「朝から何回、帰る時間の話してんだよ」
斧を背負った大柄な男が、呆れた顔でこちらを見ている。
向かいではアーシャが弓弦を指で確かめていた。
「今日は、橋の近くだけにしとく?」
「そこまで言ってねえだろ」
「だって、帰る話ばっかり。どこまで行っていいのか分からないよ」
ネヴァルは窓の外へ顔を向けた。
「今日は欲を出すな。霧が外周へ来たら戻る。それだけだ」
「……分かった。外周に来たらね」
「今日は絶対だ」
アーシャが弓から目を上げた。
「何かあった?」
「……何もねえよ」
夢の話などしたくなかった。
黒いものに追われていた。
死ぬと思った。
ただそれだけのはずなのに、剣の柄を握っていないと落ち着かない。
前線拠点へ着き、馬車を降りたあとだった。
「ネヴァル」
知らないはずの声に呼ばれた。
振り向く。
人混みから少し離れた場所に、薄汚れた外套を着た男が立っている。
「誰だ」
「ザイル」
初めて聞く名前だった。
それなのに、背中が冷えた。
「何の用だ」
「昨夜、死ぬ夢を見たか」
ネヴァルの手が止まった。
「……何で知ってる」
「夢ではないものが残ることもある」
「何の話だよ」
ボルンとアーシャが、少し離れたところからこちらを見ている。
ザイルは二人を一度見ただけで、またネヴァルへ視線を戻した。
「覚えておけばいい」
「何を」
「死んでも、朝には戻る」
ネヴァルは眉を寄せた。
「は?」
「今日ここで死んでも、次の朝にはまた立っている」
「ふざけてんのか」
「信じなくても構わない」
ザイルはそれ以上説明せず、ネヴァルの横を通り過ぎた。
「待て!」
呼び止めても足は止まらない。
「何なんだよ、あいつ」
ボルンが近づいてきた。
「知り合いか?」
「知らねえ」
「じゃあ何であんな話してたの?」
アーシャに聞かれ、ネヴァルは答えられなかった。
死んでも朝には戻る。
馬鹿げている。
そんなわけがない。
それでも今朝の夢を思い出すと、笑い飛ばすこともできなかった。
石橋を渡ってからも、剣の柄へ何度も手が戻った。
途中の工房跡で荷を詰め直した時、アーシャがその手を見た。
「さっきの男、まだ気になる?」
「別に」
「私には、何の話だかさっぱりだった」
アーシャは弓を膝に載せたまま、荷から干し肉を一片取り出した。
「話さないならいいけど。これ、食べる?」
「子供扱いすんな」
そう言いながら、ネヴァルは柄から手を放した。こわばった指を開いて、干し肉を受け取る。
ボルンは入口から通りを見ている。いつもなら荷をまとめた方から先を急かすのに、今日はまだ斧を背へ戻さない。
「行けるぞ」
ネヴァルが言っても、顔を向けなかった。
「俺が見てる。食って休め」
「今日は早く帰るって言っただろ」
「分かった。食い終わったら出るぞ」
「……聞いてねえな」
アーシャが小さく笑う。
ネヴァルも口元だけを緩めて、干し肉を噛んだ。
この二人のどちらかが動けなくなったら、置いて帰るはずがない。ボルンの広い背と、向かいで弓を膝に載せたアーシャを見れば、それだけは考えるまでもなかった。
死んでも、朝には戻る。
あの声が混じった途端、口の中の干し肉が硬くなった気がした。
なら、この二人が自分を休ませているのは、無駄なのか。
「何だよ」
ボルンが振り返る。
「……何でもねえ」
ネヴァルは残りを口へ押し込んだ。アーシャに水筒を寄こされ、今度は黙って受け取った。
*
同じ午前、レイグたちは兵舎の武器庫で装備を替えていた。
腰にはスチールロングソード。ダルクはバトルアックスを棚へ置き、ウォーハンマーを得ている。使えるヒールポーションも、言い当てた小棚に二本あった。
前の一日に瓦礫へ挟まれたダルクの左脚は、今朝には元へ戻っている。盾の縁も、石材に挟まれて歪む前の形に戻っていた。
レイグは何度もその脚を見た。
「気になるなら聞けよ」
ダルクが言った。
「痛くねえ。歩ける。お前が言った傷もねえ。それでいいか」
「……ああ」
「剣の場所は覚えてんだろ?」
「そっちはしっかり聞いてるんだ」
フィエラが呆れた。
「ミスリルだぞ」
「知ってるよ」
レイグは笑いかけたが、うまくいかなかった。
前の一日にも、同じように剣を惜しんだ。けれど今のダルクは、脚を引きずって橋を渡った時の話を、ついさっき聞いただけだ。
「今日は、怪我してても帰れる道を見たい」
レイグは言った。
「奥へ行く道は知ってる。でも、それだけじゃ足りなかった」
「それでいい。剣は逃げねえしな」
「先を越されるって怒りそうだけど」
「明日の俺が何言うかまで知らねえよ」
ダルクは武器庫の入口を見てから、壁際へ腰を下ろした。食料包みを開き、パンをちぎる。
「また忘れてたら、今の話をすりゃいいだろ」
「簡単に言うなよ」
思うより先に声が出た。
ダルクの手が止まる。
「何?」
「お前が動けなかったことも、痛がってたことも、帰ってから笑ったことも、全部俺にだけ残るんだぞ。朝になったら、また疑われて、武器庫まで連れてきて……」
フィエラも笑うのをやめた。
「何回やったと思ってんだよ。話せば済むみたいに言うな!」
「俺だって好きで忘れてるわけじゃねえ!」
ダルクが声を上げた。
「覚えてねえ話を聞いて、確かめて、今信じたところだろ。それも駄目なら、どうすりゃいいんだよ!」
レイグは口を閉じた。
責めたいわけではなかった。
今日も二人はここまで来てくれた。それを分かっているのに、明日の朝にはまた失うと思うだけで苦しかった。
「……駄目とは言ってない」
「言われた方はそう聞こえるんだよ」
ダルクはパンへ目を落とした。
「前の一日の俺の代わりに、お前の苦労を全部分かれってのは無理だ。でも今日の俺は、話を聞いた。道も一緒に見る」
「私も」
フィエラが言う。
「明日はまた疑うかもしれないよ。でも、今日は聞いたでしょ。私にも話して。聞いてから考えるから」
レイグは二人を見た。
「……悪かった」
「明日の俺に怒鳴る前に、ちょっと考えろよ」
「分かった」
「返事する前にも考えろ」
レイグは一度口を閉じた。
「努力する。絶対に怒らないとは、言えない」
「そこは正直だね」
フィエラが隣へ座り、食料包みをレイグの膝にも広げた。ダルクがパンを一片投げる。床へ落ちない距離から、布の真ん中へ。
「とりあえず、今日の分を食え」
「投げるなよ」
「受け取れよ」
レイグが拾い上げると、フィエラは布の端を押さえたまま、自分の分をかじり始めた。
喧嘩した直後なのに、二人ともそこにいる。
パンを噛み切ろうとして、喉が一度詰まった。水を飲む間も、ダルクは顔を覗き込んでこなかった。
少しして、レイグも残りを口へ入れた。
貴族街から橋へ抜ける道を、今日の三人で見に行く。武器庫を出る前に、そのことだけをもう一度確かめた。
*
午後に入り、ネヴァルたちは王城寄りの通りを歩いていた。
遠く外周では黒い霧が入り始めているが、まだこの辺りまでは距離がある。
今日の稼ぎも悪くない。
これ以上欲を出さず戻るには、ちょうどいい頃だった。
「そろそろ帰るぞ」
「賛成」
アーシャがすぐ答える。
「珍しく意見が合ったな」
「今日は朝から帰る帰るってうるさかったから」
「分かったよ!」
ネヴァルが言い返した、その時だった。
「誰か!」
右前方から声がした。
三人とも足を止める。
崩れた建物の間から、探索者が三人出てきた。
一人の男は、両側から仲間に肩を支えられている。左脚が血で濡れていた。
その後ろから、グールが二体追ってくる。
「まずいな」
ボルンが斧を抜いた。
「まだ二体だけだ。俺が前を止める。アーシャ、右から撃て」
「分かった」
アーシャも弓へ手を伸ばした。
ネヴァルだけが動かなかった。
「ネヴァル?」
「待て」
「何をだよ」
負傷者の仲間が、こちらに気づいた。
「手を貸してくれ!」
声が届く。
グールはまだ距離がある。
三人で加われば追い払えるかもしれない。
分かっている。
なのに、今朝の声が蘇った。
『死んでも、朝には戻る』
胸の奥に残っていた恐怖へ、その言葉が絡みついた。
仮にあの男の話が本当なら。
ここで誰かが死んでも、終わりではない。
だったら、自分たちまで危険を冒す必要があるのか。
「行くぞ」
ネヴァルは左を指した。
「は?」
ボルンが振り返る。
「あっちの段差を抜ける。橋まで早い」
「おい、あいつらは」
「俺たちまで遅れる」
アーシャの顔が険しくなった。
「まだ助けられるよ」
「だから何だ!」
思った以上に強い声が出た。
負傷者たちがこちらを見ている。
「俺たちまで怪我してどうすんだ。帰るぞ!」
「待ってくれ!」
また声がした。
ネヴァルの足が一度だけ止まった。
振り返りそうになる。
だが、歯を食いしばって段差へ足を掛けた。
「ネヴァル」
「行くぞ!」
ボルンが舌打ちした。
アーシャもすぐには動かなかったが、最後には弓を下ろした。
三人は段差の多い細道へ入る。
後ろの声が遠ざかっていく。
負傷した脚では追ってこられない道だった。
*
「当たりだな」
ゴルディスは、埃を払った胸当てを持ち上げた。
王城外壁沿いの半壊した建物。
崩れずに残った奥の部屋から、状態のいいスチール製の防具が見つかった。
胸当て。腕当て。それに、ブロンズより質のいい兜もある。
「留め具も生きてる」
槍使いの仲間が覗き込んだ。
「売れば結構いくぞ」
「ああ」
ゴルディスも否定しなかった。
盾の補修には金がかかる。
何度も直して使っている大盾は、金属板にも細かな傷が増えていた。
これだけ売れば、その修理代を払っても余る。
「持って帰るか」
「当然」
斥候が笑った、その直後だった。
「助けてくれ!」
全員が入口を見る。
三人の探索者が、建物の前の通りへ転がり込むように現れた。
一人はまともに歩けていない。
左右から肩を支えられ、左脚を血で濡らしている。
後ろにはグールが二体。
「来るぞ!」
魔法使いが杖を上げた。
「まだいる!」
斥候が通りの奥を指す。
別の角から、大きな影が出てきた。
オーガ。
太い棍棒を肩に担ぎ、逃げる三人へ顔を向けた。
「最悪だな」
槍使いが吐き捨てる。
「ゴルディス、防具持って出るぞ!」
ゴルディスは手にした胸当てを一度見た。
次に、血を流している男を見る。
胸当てを床へ戻した。
「後だ」
「は?」
ゴルディスは大盾の持ち手を握る。
「槍は前。斥候は右を見ろ。魔法はまだ撃つな。あの三人が射線から外れてからだ」
「防具は!」
「後だ!」
ゴルディスが建物から飛び出した。
*
金属へ棍棒がぶつかる音は、通り二つ離れた場所まで聞こえた。
レイグは足を速めた。
「戦ってる」
「分かってる!」
ダルクも大盾を左腕へ通す。
フィエラは二人より先へ出た。
「角から見る!」
薄曇りの空の下、三人は貴族街から橋へ戻る経路を確かめながら歩いていた。
今日は王城地下へ急ぐつもりはなかった。
前の一日、負傷したダルクを支えて帰った時間が、レイグの中に残っている。
奥へ進める道を知っているだけでは足りない。誰かが傷ついた時にも戻れる道を、今日は見ておきたかった。
「見えた!」
角の手前でフィエラが振り返った。
「オーガ一体、グール二体! 人は……七人!」
「七?」
「守ってる四人と、怪我人が一人、支えてるのが二人!」
三人は角を曲がった。
見覚えのある大盾が最初に目へ入る。
「ゴルディス!」
重戦士ゴルディスが、オーガの棍棒を受け流していた。
真正面から止めるのではなく、盾を傾けて外へ逸らしている。それでも衝撃は重く、石畳の上を靴が滑った。
横では槍使いがグールを牽制し、魔法使いは火球を撃てる位置を探している。斥候は後ろの三人を庇いながら、逃げ道を確認していた。
「増援か!」
ゴルディスがこちらを見る。
「橋へ抜ける!」
レイグは周囲を見た。
知っている。
左側の崩れた建物の脇を抜ければ、正面の通りを迂回して橋側へ出られる。
「左だ! あそこを抜ければ――」
「待って!」
フィエラが遮った。
レイグは彼女を見る。
「あの人は無理」
「何で」
「段差」
言われて見直す。
細道の入口には腰ほどの高さまで石材が重なっていた。
健康な三人なら越えられる。
これまで何度も使った道だ。
だが、左脚を傷めた男を支えながら越えるには高すぎる。さらにその先にも、今日崩れたらしい瓦礫が増えていた。
「俺たちなら通れる」
「うん」
フィエラは負傷者を見る。
「でも、今は三人だけじゃない」
レイグの口が止まった。
「右は?」
ダルクが聞く。
フィエラが視線を走らせる。
「壁沿い。狭いけど平ら」
「そこだ」
ダルクが即座に決めた。
ゴルディスへ怒鳴る。
「そっちの盾! オーガをもう少し左へ寄せろ!」
「名前で呼べ!」
「今知らねえ奴もいるだろうが!」
「ゴルディスだ!」
「知ってるよ!」
「なら呼べ!」
「今それやるか!?」
フィエラが叫んだ。
「二人とも前!」
オーガの棍棒が再び持ち上がった。
ダルクはレイグを見る。
「お前、怪我人につけ!」
「俺が?」
「今はそっちだ! 俺はゴルディスと前を持つ!」
反射的に、違うと言いかけた。
自分が前で敵を止める。
ダルクとフィエラが援護する。
何度もやってきた形だった。
だが、負傷した男の顔が見えた。
唇から色が消え、仲間へほとんど体重を預けている。
「……分かった!」
レイグはスチールロングソードを鞘へ戻した。
「右側、貸せ!」
男の仲間へ駆け寄る。
「誰だ!」
「運ぶ方だ!」
負傷者の右腕を肩へ回す。
もう一人の仲間が左側へ入った。
「お前は前を見ろ!」
「分かった!」
残った男が剣を抜き、三人の前へ出る。
「フィエラ!」
「道見る!」
彼女はコンポジットボウを握ったまま壁沿いへ走った。
ゴルディス側の斥候も一緒に動く。
「ここ! 石は少ない!」
「でも先の角が狭い!」
「一人ずつなら抜ける!」
二人が声を飛ばし合う。
レイグは負傷者へ向き直った。
「行くぞ」
「悪い……」
「喋るな。足だけ見ろ」
一歩進む。
負傷者が呻いた。
「左脚、着けるな!」
「分かってる……!」
背後で金属音が弾ける。
振り返らない。
「ゴルディス、右!」
槍使いの声。
直後にオーガが吠えた。
「ファイアボール!」
魔法使いの火球が巨体の肩へ当たり、爆ぜた炎にオーガが一瞬だけ顔を逸らす。
「今だ!」
ゴルディスが大盾を押し込んだ。
その横からダルクがウォーハンマーを振り、オーガの腿を打つ。
「硬えな!」
「骨まで砕かなくていい! 向きを変えろ!」
「分かってる!」
その時、崩れた壁と槍使いの間から、グールが一体抜けた。
「来る!」
負傷者の前を守っていた男が剣を構える。
グールの爪が先に伸びた。
レイグは反射的に左腕を上げる。
バックラーへ爪が当たった。
押し返したと思った直後、もう片方の爪が盾の外側を回る。
「っ!」
左前腕が熱くなった。
革の袖が裂け、血が滲む。
「レイグ!」
フィエラの矢が飛んだ。
グールの肩へ刺さり、敵の身体が横を向く。
その隙に負傷者の仲間が剣を突き込んだ。
「行け!」
フィエラが叫ぶ。
「こっちは持つ!」
傷を確かめる暇はない。
レイグは負傷者を支え直した。
「あと少しだ!」
壁沿いの狭路。
入口まで数歩。
そこを抜ければ、オーガの棍棒がまともには振れない。
「急げ!」
ダルクの怒声。
負傷者が歯を食いしばる。
もう少しで入口へ入る。
その時、背後でゴルディスが叫んだ。
「伏せろ!」
レイグは振り向いた。
オーガが大きく踏み込んでいた。
ダルクの盾を横から殴りつけ、その身体を脇へ押し退ける。
続けて棍棒を大きく振り抜いた。
狙いは前衛ではない。
退いている人間の列だ。
「まず――」
逃げられない。
右肩には負傷者の腕。
左には狭い壁。
自分だけ伏せれば、支えている男が倒れる。
棍棒が迫った。
視界を、大きな盾が塞いだ。
轟音。
「ぐっ……!」
ゴルディスだった。
大盾の中央へ棍棒が食い込み、金属板が大きくへこんだ。
次の瞬間、盾の内側から木が裂ける音がした。
上端が割れる。
革帯の一本が切れ、ゴルディスの左腕が大きく下がった。
「ゴルディス!」
「前見ろ!」
怒鳴り返された。
ゴルディスは壊れた盾を抱えたまま膝をついている。
左腕が震えていた。
それでも、オーガとレイグたちの間から動かなかった。
「行け!」
レイグは奥歯を噛んだ。
負傷者を支え直す。
「出るぞ!」
三人で狭路へ入った。
先を守っていた男が、狭くなる角の手前で剣を収め、背を向けてしゃがんだ。
レイグは右手で負傷者の腰を支え、もう一人の仲間と一緒にその背へ移す。肩から腕を外すと、負傷者は仲間の首へしがみついた。
背負った男が角へ入る。もう一人は後ろへ回り、傷ついた左脚が壁へぶつからないよう支えた。レイグも続いた。
背後からダルクの声が飛ぶ。
「ゴルディス、下がれ! 次は俺が持つ!」
「俺はまだ――」
「盾見ろ! 持ててねえだろ!」
「言い方が腹立つな!」
「後で聞く!」
ダルクが前へ出る。
大盾を斜めに構え、オーガの進路を塞いだ。
「フィエラ!」
「分かってる!」
狭路の脇へ移ったフィエラが矢を放った。
オーガの顔の横を掠める。
巨体がそちらへ向いた。
「今!」
槍使いの穂先が腿へ入る。
魔法使いも杖を振り上げた。
炎が弾ける。
倒すには足りない。
それでよかった。
オーガの足が止まった一瞬に、ゴルディスの仲間たちが彼を引いた。
「怪我人、角を抜けた! こっちは入った!」
斥候が叫ぶ。
フィエラも弓を下げ、狭路へ入る。槍使いと魔法使いがゴルディスを奥へ引き、ダルクだけが入口に残った。
「ダルク!」
「今行く!」
最後にダルクが狭路へ飛び込んだ。
オーガが入口へ腕を伸ばしたが、巨体では壁に肩が引っかかる。
「走れ!」
十人が壁沿いの狭路を抜けた。
*
二つ先の崩れた商家へ入ったところで、ようやく止まった。
「まだ座らせるだけ。治療は待って」
フィエラが先に言った。
息を切らしながら入口へ戻り、外を窺う。
斥候も反対側の崩れへ回った。
負傷者を背負っていた男が膝をつく。レイグはもう一人の仲間とともに負傷者を壁際へ下ろし、スチールロングソードを抜き直した。
しばらくして二人が戻った。
「追ってきてない」
「オーガは向こうの通り。グールも見えない」
「よし」
そこで初めて、武器を下げた。
「傷、見るぞ」
ゴルディスの仲間の魔法使いが、負傷者の前へ膝をつく。
布を外すと、腿から膝の下にかけて深い裂傷が走っていた。
「噛まれてはいないな?」
「爪……だと思う」
「思う?」
「見る余裕なかったんだよ!」
「怒鳴れるなら意識ははっきりしてる」
「痛えもんは痛え!」
水で血と汚れを流す。
ゴルディス側の荷袋からヒールポーションが一本出された。
飲み終えてしばらくすると出血は弱まったが、傷が消えたわけではない。
清潔な布を当て、その上から包帯を巻く。
二人で支えれば歩ける程度だと確認してから、ようやく仲間たちも息を吐いた。
「次」
フィエラがレイグを見る。
「腕」
「浅い」
「血、出てる」
「これくらい――」
「人の怪我は放っとかないくせに」
「俺は歩ける」
「知ってる。だから今治すの」
ダルクが鼻を鳴らした。
「諦めろ」
「お前まで」
「血垂らしながら帰られる方が面倒だ」
レイグは言い返すのをやめた。
三人の荷袋からヒールポーションを一本出す。
飲むと、焼けるようだった左前腕の痛みが少し鈍った。
裂傷そのものは残っている。
フィエラが布を当て、包帯を巻いた。
結び目を締められると、レイグは指をわずかに曲げた。
「痛い?」
「少し」
「やっと言った」
「聞かれたからだろ」
フィエラは血のついた袖を傷へ擦らせないよう折り返した。朝、膝の布を押さえていたのと同じ指だった。
レイグは腕を引かず、終わるまで待った。
「これで一本残り」
「ああ」
「今日はもう無茶しない」
レイグは一度だけ考えてから答えた。
「……ああ」
「間があった」
「考えてから返事しろって言うから考えたんだよ」
ダルクが少しだけ笑った。
「そこだけ覚えがいいな」
水筒が順番に回った。
フィエラは残っていた硬いパンを取り出し、負傷した男と、その両脇にいた仲間へ先に渡す。
「食べられる?」
「少しなら」
「じゃあ少し。全部詰め込まなくていいから」
ダルクも自分の干し肉を一片取り出した。
隣で息を整えていた槍使いが見る。
「くれるのか?」
「違う。俺が食う」
「紛らわしいな」
「何で俺の飯をお前にやるんだよ」
「今の流れなら分けるのかと思うだろ」
「パンならある」
「じゃあ先にそっち出せよ」
「うるせえな」
フィエラが小さく笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「笑うなら、こっちも手伝え」
低い声がした。
ゴルディスだった。
壁際に座り、壊れた大盾を横へ置いている。
盾の上側は大きく割れ、中央の金属板も曲がっていた。革帯は一本切れ、残った持ち手も根元が浮いている。
ダルクの顔から笑いが消えた。
「……ひでえな」
「お前の盾じゃないぞ」
「分かってる」
「なら、そんな顔をするな」
「盾がこんななってんだから仕方ねえだろ」
ゴルディスが自分の左腕を動かした。
肩は上がる。
指も開く。
だが前腕に力を入れた途端、顔が僅かに歪んだ。
「痺れてる?」
フィエラが聞く。
「ああ。だが歩ける」
「盾は?」
「持って帰る」
ダルクが壊れた部分を覗く。
「修理できんのか、これ」
「金次第だ」
「高そうだな」
「だから腹が立っている」
ゴルディスは大盾を一度見た。
「防具も置いてきた」
「防具?」
「状態のいいスチール一式だ」
ダルクの顔がさらに険しくなった。
「それも惜しいな」
「ああ」
ゴルディスは即答した。
「本当に惜しい」
「戻る?」
フィエラが聞く。
「戻らん」
「じゃあ言うなよ」
ダルクが言うと、ゴルディスが睨んだ。
「惜しいものは惜しいだろう」
「……それは分かる」
「分かるんだ」
フィエラが呆れた。
レイグは二人のやり取りを聞きながら、商家の崩れた窓の向こうを見た。
遠くに王城の尖塔が見える。
あの地下に祭壇がある。
前の一日には、ダルクを助けたあとでそこへ行った。
銀色の紋様は、今までで一番大きく伸びていた。
「王城地下、どうする」
ダルクが聞いた。
レイグは少し黙った。
行けないわけではない。
知っている道もある。
ヒールポーションも一本残っている。
だが隣では、脚を包帯で固めた男が仲間の肩を借りて立ち上がろうとしていた。
ゴルディスの盾は壊れ、左腕にも痺れが残っている。
「……いや」
レイグは王城から目を離した。
「橋だ」
フィエラが頷く。
「うん」
ゴルディスも異論を挟まなかった。
「歩ける者から立て。負傷者には両側から肩を貸せ。走らせるな」
仲間へ声を飛ばす。
再び全員が動き始めた。
*
古い石橋を渡り切った時、レイグはようやく肩の力を抜いた。
薄曇りの空の下、カレグノスの外周には黒い霧が広がり始めていたが、まだ橋までは届いていない。
「治療が必要な奴はこっちだ!」
前線拠点の兵が声を張っている。
負傷した男を仲間二人が支え、その後ろをゴルディスたちが歩く。
レイグたちも続いた。
途中、ゴルディスの壊れた盾がずれた。
「貸せ」
ダルクが手を伸ばす。
「いらん」
「左腕、痺れてんだろ」
「右で持てる」
「そういう問題じゃねえ」
「俺の盾だ」
「誰も取らねえよ!」
「お前は人の武器を見て喜ぶ男だろう」
「何で知ってんだよ!」
「さっきから顔に出ている」
フィエラが吹き出した。
「やっぱり顔なんだ」
「お前まで笑うな!」
治療所の前へ着く。
負傷者が中へ運ばれていく。
ゴルディスも壊れた盾を抱え直し、その後を追おうとした。
「ゴルディス」
レイグが呼ぶ。
男が振り返る。
「……助かった」
言ってから、自分でも少し意外だった。
ゴルディスは壊れた盾へ一度目を落とす。
「こっちもだ。お前らが来なきゃ、あそこで押し切られてた」
それだけ答えた。
「じゃあな」
仲間たちと治療所へ入っていく。
レイグはその背中を見送った。
左前腕の包帯が少しだけきつい。
振り返れば、古い石橋の向こうにカレグノスがある。
さらに奥には王城。
その地下で、今日の祭壇がどうなっているのかは分からない。
「レイグ」
先へ行ったフィエラが呼んだ。
「行くよ」
レイグはもう一度だけ王城を見た。
それから顔を戻す。
「ああ」
二人の後を追った。




