第47話 善意の取引
レイグは武器庫で手に入れたヒールポーションを二本、荷袋の一番上へ入れた。
前の一日の夜、自室で取り出しやすいよう並べ直しても、深夜を越えれば、瓶も包帯も荷袋の中身も、すべて朝の状態へ戻る。
今朝も家で包帯を詰め直してからカレグノスへ入り、兵舎で武器を交換した。
腰にはスチールロングソード。左腕にはバックラー。ダルクは朝から持ってきたバトルアックスを棚へ置き、代わりにウォーハンマーを腰へ下げている。
フィエラも補充した矢を一本ずつ確かめ、使えるものだけを矢筒へ収めていた。
ここへ来るまでに、レイグは武器庫の扉の癖や、まだ開けていない棚の中身を言い当てている。濁って使えない薬が一本あり、その隣には封の切れていないヒールポーションが二本あることも見せた。
それでようやく、二人はレイグが普通なら知り得ないことを知っていると認めた。
今日もまた、一からだった。
「で」
ダルクが大盾の革帯を締め直した。
「今日は本当に、人助けして回るのか」
「して回るって言い方やめろよ」
「他にどう言うんだ」
「助けられる人がいたら、積極的に手を貸す」
「同じじゃねえか」
レイグは言い返しかけたが、やめた。
前の一日、王城地下の古い礼拝堂で見た銀色が、まだ鮮明に残っている。
何度も条件を変えた。
道を変えた。到着する時間帯を変えた。装備も、途中で戦う魔物も変えてみた。
それでも何も起こらなかった祭壇が、予定を崩して負傷者を助けた日に反応した。
もっと前にも、カルゼンたちを助けた。
ネヴァルを助けるため、先へ進める状況から戻ったこともある。
祭壇が光った一日には、誰かを助けている。
「まだ決まったわけじゃない」
レイグは荷袋の口を閉じた。
「でも、確かめる価値はある」
「それは分かる」
ダルクが答えた。
「だから条件つきだ。薬が減りすぎたらやめる。霧が早けりゃ戻る。助けに入ったせいで三人まとめて動けなくなりそうなら退く」
「ああ」
「俺らにも聞け」
「ああ」
「その返事が軽い」
「何て返せば満足なんだよ」
「まず考えてから返せ」
「今考えたよ」
「早えんだよ!」
フィエラが小さく笑った。
「私は、人を助けること自体は反対しないよ」
「だろ?」
「でも」
フィエラはレイグではなく、荷袋を見た。
「助けた人を数え始めたら、ちょっと嫌かも」
「数えないよ」
「ならいい」
それだけ言って、フィエラはコンポジットボウを肩へ掛けた。
レイグも立ち上がる。
「行こう」
*
最初の救助は、崩れた城門からそれほど離れていない交差路で起きた。
金属が激しくぶつかる音を聞き、三人が角から様子を窺うと、探索者三人がスケルトン兵四体に押し込まれていた。
一人は右腕を血で濡らし、左側の壁へ背をつけている。剣は足元に落ちていた。
残る二人がその前を守っているが、正面から剣と槍を持つスケルトンに押され、右の細い道からも別の槍持ちが回り込もうとしている。さらに後方には短弓を構えた一体がいた。
「行く」
レイグが言うと、ダルクはもう大盾を左腕へ通していた。
「右の細い方、俺が塞ぐ!」
「私、弓持ち見る!」
フィエラが矢をつがえる。
三人は交差路へ飛び出した。
「こっちへ下がれ!」
レイグの声に、探索者の一人が振り返る。
「誰だ!」
「説明は後!」
ダルクが右の通路へ大盾を差し込んだ。
槍の穂先が盾へ当たり、金属を擦った。ダルクは腕だけで受けず、身体ごと前へ出て敵を押し返す。
「こいつは俺が止める! 前見ろ!」
フィエラの矢が飛んだ。
後方で短弓を構えていたスケルトンの肩に刺さり、狙いが逸れる。放たれた矢はレイグたちの頭上を越え、背後の石壁へ当たった。
「今!」
負傷者を守っていた探索者が剣を振り下ろし、正面のスケルトンの腕を砕く。
レイグはその横を抜けた。
狙うのは敵ではない。
「腕貸せ」
壁際にいた負傷者へ手を伸ばす。
「まだ戦える」
「剣落としてるだろ」
「左なら――」
「いいから来い!」
負傷していない左腕を取り、自分の肩へ回す。
スチールロングソードは鞘へ戻した。
人を支えながら片手で戦えるとは思わない。
「動くぞ」
「……悪い」
男を壁際から引き離す。
その時、ダルクの横を抜けようとしたスケルトンがこちらへ頭を向けた。
「レイグ!」
フィエラの矢が飛び、敵の膝へ突き刺さる。
スケルトンが崩れた。
「そのまま出して!」
「ああ!」
レイグは負傷者を交差路の外まで運び、崩れた低い石壁の陰へ座らせた。
「ここから動くな」
「お前は?」
「戻る」
男から腕を外し、スチールロングソードを抜く。
交差路へ戻った時には、ダルクが槍持ちを盾で壁へ押し込み、二人の探索者が正面の敵を挟んでいた。
「遅え!」
「人運んでたんだよ!」
「知ってる!」
ダルクが大盾を引いた。
体勢を崩したスケルトンの胸へレイグが踏み込み、斜めに剣を振り下ろす。肋骨が砕け、身体が石畳へ崩れた。
「弓!」
フィエラの声。
最後に残った短弓持ちが、もう次の矢をつがえている。
探索者の一人が剣を上げたが、間に合わない。
レイグは正面の空気へ魔力を集めた。
「ファイアボール!」
火球が飛び、スケルトンの胸へぶつかる。
骨と古い革鎧が炎に包まれ、敵がよろめいた。
そこへフィエラの三本目の矢が眼窩へ入る。
スケルトンは壁へぶつかり、そのまま動かなくなった。
「まだ武器下ろすな!」
ダルクが怒鳴った。
三人と、負傷者の仲間二人がそれぞれ周囲へ目を向ける。
別の足音はない。
フィエラも短く集中してから頷いた。
「近くに大きい反応はない」
「よし。怪我人見るぞ」
*
負傷していた男の右腕は、肘の上から深く裂けていた。
水で血と汚れを流し、布を押し当てても赤が滲んでくる。
「一本使う」
レイグは荷袋からヒールポーションを取り出した。
ダルクが横から見る。
「残り一本だぞ」
「分かってる」
「ならいい」
レイグは栓を抜き、男へ渡した。
「飲め」
「いいのか」
「そのために持ってる」
男は一瞬迷ったあと、瓶へ口をつけた。
薬を飲んだからといって傷が塞がるわけではない。それでも出血は弱まり、青ざめていた顔に少し色が戻る。
フィエラが新しい布を当て、包帯で固定した。
「指、動かせる?」
男がゆっくり指を曲げる。
「痛えけど……動く」
「じゃあ今日は剣持たない」
「いや、帰りに――」
「持たない」
「……はい」
フィエラに押し切られ、男が顔をしかめる。
仲間の一人がレイグたちへ何度も頭を下げた。
「助かった。本当にありがとう」
「礼はいい。橋が使えるうちに戻れ」
「そうする。こいつ連れて、今日は帰る」
「それがいい」
三人は負傷者を挟むようにして立ち上がった。
右腕を傷めた本人が、痛みをこらえながらレイグを見る。
「名前、聞いてもいいか」
「レイグ」
「俺は――」
その時、レイグは王城の尖塔を見ていた。
晴れた空の下、崩れた建物の向こうに尖った屋根が見える。
祭壇。
今日も、あそこまで行く。
「レイグ?」
フィエラに呼ばれ、視線を戻した。
「ああ。悪い」
負傷者が少し戸惑った顔をしている。
レイグは聞き逃した名前を尋ね直さなかった。
「気をつけて帰れ」
「ああ。本当に助かった」
三人が城門側へ歩いていく。
ダルクはその姿が角へ消えるまで見送ってから、レイグへ顔を向けた。
「お前、あいつの話、聞いてなかっただろ」
「聞いてたよ」
「じゃあ、何て名乗った」
レイグの返事が一瞬遅れた。
フィエラもこちらを見る。
レイグは、男が消えた角へ目をやった。
「……もう帰っただろ」
フィエラは何も言わず、レイグを見ていた。
「行こう」
レイグは先に歩き出した。
*
その後も、小さなことはいくつかあった。
旧市街の外れで道を見失っていた探索者たちには、今通ってきた安全な道を教えた。
別の通りでは、ジャイアントスパイダーに脚を浅く噛まれた男が仲間に支えられていた。傷そのものは深くなかったが、顔色と息づかいを見たフィエラが毒を疑った。
朝から荷袋に入れていたアンチドートを一本使った。
「歩ける?」
フィエラが聞く。
「ああ……さっきよりマシだ」
「急に走らないでね」
「分かった」
「橋側の大通りまでは一緒に――」
「もう仲間がいるだろ」
レイグは言った。
フィエラが振り向く。
「いるけど」
「なら大丈夫だ。行こう」
数歩進んでから、背後に二人の足音がないことに気づいた。
振り返る。
ダルクは荷袋の口を開き、残る薬を確認していた。
フィエラは、毒を受けた男が仲間に支えられて立ち上がるまで見ている。
「何してるんだ」
「確認」
ダルクが答えた。
「ヒールは一本。アンチドートは今のでなくなった。次に重いのが来たら、助けに入る前に考えろ」
「分かってる」
「朝から何回目だ、それ」
「数えてない」
「そういうのは数えねえのな」
レイグは言い返さず、先へ向き直った。
腕を傷めた男。
道を失った一団。
毒を受けた男。
祭壇で比べるなら、順番まで覚えておいた方がいい。
そう考えたところで、自分が何を数えようとしているのかに気づいた。
足は止まらなかった。
しばらくして、フィエラが横へ並ぶ。
「急いでる?」
「祭壇まで行かなきゃ意味ないだろ」
「意味?」
「今日の結果を見ないと、助けたことが関係あるのか確かめられない」
「そっか」
フィエラはそれ以上言わなかった。
その沈黙の方が、妙に気になった。
*
午後へ入った頃、黒い霧が外周から動き始めたという声が聞こえてきた。
まだ職人街までは届いていない。
石橋へ戻る余裕もある。
王城へ進む時間も、残っている。
三人が職人街の端を通り抜けようとした時だった。
「誰か――!」
左の脇道から、男の声が響いた。
三人とも足を止めた。
続けて剣が何かへぶつかる音がする。
「助けてくれ! こっちに二人いる!」
ダルクが大盾へ手を掛けた。
「行くぞ」
「待て」
レイグは言った。
ダルクがこちらを見る。
「何だ」
「先へ行く」
「聞こえなかったのか?」
「聞こえた」
フィエラが脇道へ一歩寄った。
「奥、確認する。まだ助けられるかもしれない」
「いい」
「何が?」
「行かない」
フィエラの手が止まった。
ダルクの顔からも表情が消える。
「……何言ってんだ」
「今日はもう何人も助けた」
口にしてから、自分でも一瞬だけ違和感があった。
それでも続けた。
「ヒールも使った。アンチドートも使った。ここからまた入ったら、どれだけ時間を食うか分からない」
「だから様子だけでも見るって言ってんだよ」
「それで戦ってたら放って戻れるのか?」
ダルクが黙る。
「無理だろ」
「だったら最初から見もしねえのかよ」
「今日、祭壇まで行けなかったら何も確かめられない」
「何も?」
フィエラが聞いた。
声が低かった。
「さっき助けた人たちは?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「ここまでやったんだぞ!」
声が大きくなった。
「薬も使った。時間も使った。祭壇まで行かずに戻ったら、今日何のために――」
言葉が途中で止まる。
ダルクがレイグを睨んでいた。
「今、何て言いかけた」
「……何でもない」
「何のために助けた、って言おうとしたのか?」
「違う」
「違わねえだろ!」
脇道の奥で、また金属がぶつかった。
「頼む! 誰か!」
フィエラがそちらを見る。
「まだ戦ってる」
「フィエラ」
「朝、私たちにも聞くって言ったよね」
レイグは口を閉じた。
「一人で決めないって、今日のレイグが言ったんだよ」
「今は時間がない」
「それを一人で決めてるって言ってんだ!」
ダルクの怒声が響いた。
レイグは王城方向へ向き直った。
「俺は先へ行く」
「おい!」
歩き出す。
「レイグ!」
フィエラの声も聞こえた。
止まらなかった。
十歩ほど進んだところで、背後から足音が追ってくる。
二人分だった。
レイグは振り向かない。
止まらなくても、二人は追ってくると思っていた。
そのまま一人で王城の奥へ行かせるはずがない。
そう分かっていたから、歩き出せた。
足音が近づく。
それでもレイグは何も言わず、歩調を速めた。
*
古い礼拝堂の祭壇は暗かった。
銀色の線は一本もない。
レイグは数歩手前で立ち尽くした。
「……何でだよ」
声が漏れる。
前の一日は、予定を崩して一人を助けたあとに光った。
今日は、それより多く手を貸した。
怪我人を救い、道を教え、解毒薬まで渡した。
なのに何もない。
「前は一人だったからか……?」
呟く。
「今日は――」
「最後の奴は?」
ダルクの声だった。
レイグは振り向いた。
「何?」
「職人街で助けを呼んでた奴だよ」
「あれが関係あるって決まったわけじゃない」
「じゃあ何で今日、人を助けて回った」
「確かめるためだろ!」
「だったら最後まで確かめろよ!」
「時間がなかった!」
「様子見る時間はあった!」
二人の声が礼拝堂へ響いた。
「やめて」
フィエラが言った。
怒鳴ってはいない。
その方が、レイグにはきつかった。
「私たち、戻ろうとしたよ」
「……何が言いたい」
「ダルクも私も、あの道へ戻ろうとした」
「だったら、二人で戻ればよかっただろ!」
言った。
言ってから、礼拝堂が急に静かになった。
ダルクの口が閉じる。
フィエラも何も言わない。
レイグの耳には、自分の声だけが残っていた。
『だったら、二人で戻ればよかっただろ』
取り消そうとしても、もう遅い。
ダルクがゆっくり顔を逸らした。
「朝、言ったよな」
低い声だった。
「俺らにも聞けって」
レイグは答えられなかった。
フィエラがこちらを見る。
「私たちが追ってくるって、分かってたんでしょ」
返す言葉がない。
自分一人で王城地下へ向かえば、二人がどうするか。
知っていた。
ダルクは口では見捨てろと言いながら、自分を一人にはしない。
フィエラだって同じだ。
分かっていて歩き出した。
「……くそ」
ダルクが低く吐き捨て、祭壇から離れた。
「帰るぞ」
その時だった。
礼拝堂の奥に、白い光が差した。
レイグの身体が強張る。
崩れた柱の向こう。
いつからそこにいたのか分からない。
白い翼を背にしたヴァリュエルが、静かに立っていた。
「……ヴァリュエル」
レイグは祭壇から離れ、彼女へ向き直った。
「何で光らない」
ヴァリュエルは答えない。
「助けたんだぞ。前の一日よりずっと多く! 薬も使った。危険だって負った!」
返事はなかった。
「帰りたいだけだ!」
喉が痛くなるほど声を上げた。
「母さんとネリナのところへ帰りたい! ダルクもフィエラも連れて帰りたい! その方法を探して何が悪いんだよ!」
ヴァリュエルの表情は変わらなかった。
ただ、レイグを見ている。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
「答えろよ!」
ようやく、ヴァリュエルが口を開いた。
「あなたはまだ、宝を探している」
「……何?」
次の瞬間、白い翼が淡い光へ溶けた。
「待て!」
レイグが手を伸ばした時には、もう誰もいなかった。
古い礼拝堂には、暗い祭壇だけが残っている。
銀色の光は、最後まで現れなかった。
*
三人は石橋が使えるうちにカレグノスを出た。
橋を渡ってからも、ダルクは何度も後ろを確認した。
フィエラは歩きながらコンポジットボウの弦を外し、傷んだ部分がないか黙って指で確かめている。
いつもなら、どちらかが何かを言う。
腹が減った。
今日の戦利品が少ない。
あの敵は面倒だった。
帰ったら何を食べる。
そんな話をしているうちに、三人の間にできた嫌な空気も少しずつ薄くなっていった。
今日は違った。
前線拠点へ戻っても、三人は食堂へ寄らなかった。
帰りの乗合馬車でも、ダルクは腕を組んで窓の外を見ていた。フィエラも反対側の景色を眺め、いつものように沈黙を冗談で埋めようとはしなかった。
レイグは二人の向かいに座っていた。
「……なあ」
声をかける。
ダルクが一度だけこちらを見る。
フィエラも顔を向けた。
何を言う。
分かっている。
謝ればいい。
職人街で勝手に歩き出したこと。
二人がついてくると分かっていたこと。
祭壇の前で、戻りたければ二人で戻ればよかったと言ったこと。
「……いや」
それだけしか出なかった。
ダルクは何も言わず、また外へ顔を向けた。
フィエラも同じだった。
*
ネルトアへ着いた頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
馬車を降りたダルクが、大盾を背負い直す。
「じゃあな」
「ああ」
それだけだった。
フィエラもコンポジットボウを肩へ掛けた。
「またね」
「……ああ」
二人がそれぞれの方向へ歩き出す。
いつもなら三人でしばらく同じ道を歩き、くだらない話をしてから別れていた。
今日はレイグだけが、その場に少し残った。
やがて二人の背中が人混みへ紛れていく。
『今日はもう何人も助けた』
職人街で口にした自分の声が蘇った。
助けを求める声へ、あの言葉を重ねた。
そのあと、自分を一人にできない二人が追ってくると分かっていながら歩き出した。
レイグは家へ向かって足を動かした。
次の朝になれば、二人は今日のことを忘れる。
けれど、自分は忘れない。
夕暮れのネルトアを歩きながら、レイグの耳には最後まで、自分が言ったあの言葉が残っていた。




