第45話 生命の雫
ダルクは食堂へ入るなり、一番大きな椀を頼んだ。
「それ、朝飯の量じゃないだろ」
「昼の分まで入ってんだよ」
「まだ昼じゃないよ」
フィエラに言われても、ダルクは熱い煮込みを急いで口へ運び、すぐ水へ手を伸ばした。レイグは思わず笑った。
家で待つ二人を否定せず、それでもこの朝の外へ帰る。そう決めても、何一つ解決してはいない。今はただ、立ち止まるより《生命の雫》を調べるべきだった。
「食ったら《王家臨時館》へ行くぞ」
「置いてくなよ」
「もう一人で決めない。やりそうになったら止めてくれ」
「最初からそのつもりだ」
「私は止め方を選ばないけど」
「殴るのはなしだぞ」
「場合による」
三人は食事を終えると、前線拠点行きの乗合馬車へ乗った。古い街道を揺られ、昼前に拠点へ着くと、そのまま《王家臨時館》へ向かった。《生命の雫》の名を出した途端、入口の護衛は顔色を変え、しばらくして三人を王夫妻の執務室へ通した。
*
以前と同じ部屋だった。
机の上には地図や報告書が積まれ、壁際にはカレグノスから持ち込まれた遺物がいくつも置かれている。
ヴァレドは広げていた書類から顔を上げた。
その隣にはイセラもいる。
「今度は何だ」
歓迎している声ではなかったが、レイグは王の前へ立った。
「《生命の雫》を探します」
ヴァレドの目が細くなる。
「これまでと何が違う」
「王のためじゃない」
部屋の空気がわずかに張り、ダルクが横からレイグを見る。フィエラは何も言わなかった。
「俺たちが帰るために探す」
ヴァレドはしばらくレイグを見た。
「それを私に宣言するために来たのか」
「違います。そのために、陛下が持っている記録を見せてほしい」
「随分な言い方をするようになったな」
「何も知らないまま探しても、今までと同じです」
「我々が何も調べていないと思っているのか」
「思ってません。だから見せてほしいんです」
ヴァレドの表情が硬くなる。
「王家の記録を、望めば誰にでも見せるとでも?」
「なら、また同じように探索者を送り続けるんですか」
自分でも声が強くなったのが分かり、王の目も鋭くなった。
それでもレイグは退かなかった。
「陛下は俺よりずっと長く、この一日を繰り返してる。それでも見つかってない。俺も何度も王城地下まで入った。でも、雫は見つけられなかった」
「だから何だ」
「やり方を変えるしかない」
短い沈黙が落ち、その横からダルクが口を挟んだ。
「隠したまま何度やっても見つかってねえなら、見せても損はねえだろ」
「ダルク」
「何だよ。間違ってねえだろ」
ヴァレドがダルクを睨んだ。
普通なら王へ向ける口調ではないが、ダルクも視線を外さなかった。
イセラが静かに口を開く。
「あなた方は、何か知ったのですか」
レイグは王妃を見る。
ここへ来るまで、どこまで話すか迷っていた。
王夫妻も、自分たちが帰るために《生命の雫》を求めている。目的が同じだからといって、味方とは限らない。
それでも、自分だけ手札を隠したまま相手の情報をすべて求めるわけにもいかなかった。
「祭壇が光ったことがあります」
ヴァレドが身じろぎした。
「何?」
「王城地下の古い礼拝堂。その最深部にある祭壇です」
イセラもわずかに身を乗り出した。
「何が起きたのです」
「紋様の一部が銀色に光った。最初は石の表面だけだったけど、少しずつ強くなって、最後には光そのものが浮いたんです」
レイグは記憶を探りながら、指先で小さな形を作った。
「羽根の欠片みたいになった。でも、触れる前に消えました。何も残らなかった」
「いつだ」
ヴァレドの声が低くなった。
「何度か前、祭壇が初めて光った日です」
「その時、何をした」
「それが分からないから調べたいんです」
ヴァレドは黙り、レイグはさらに続けた。
「同じ場所へ行って、何も起きなかった日もある。祭壇そのものは同じだった。それなのに、反応だけが違った」
「……銀色」
イセラが小さく呟くと、ヴァレドは彼女を見た。
「記録を」
イセラが言った。
王はすぐには動かなかった。
「待て」
ヴァレドは鍵へ手を伸ばさず、レイグを見た。
「この者は、我らのために探すつもりはないと言ったばかりだ」
「ええ。ですが、銀色の反応を実際に見ています」
イセラは王から視線を外さなかった。
「記録を隠したままなら、私たちは今までと同じ結果を繰り返すだけです」
ヴァレドの目が、再びレイグへ向く。
「雫が現れた時、私に渡すと約束できるか」
レイグはダルクとフィエラを見てから、首を横へ振った。
「できません」
「ならば私も、お前たちに使わせるとは約束しない」
「それで構いません」
短い沈黙のあと、イセラが言った。
「協力ではなく、情報の交換です。この部屋を出た後は、互いに別の目的で探す。それでも、何も知らせず同じ失敗を重ねるよりはいい」
「後ろに兵をつける気か?」
ダルクが警戒するように聞いた。
「王家はこれまでどおり、王城へ入った者と戻った者から報告を受ける」
ヴァレドは答えた。
「だが、祭壇へ余計な人間を送って条件そのものを変える愚は犯さない。お前たちが成果を隠しても、王城への出入りと足取りは報告から追う。それだけだ」
「ヴァレド」
「分かっている」
短く答えると、王は机の脇にある鍵を取り、壁際の小さな戸棚を開けた。
中から取り出したのは、古い紙をまとめた薄い束だった。
「これがすべてではない」
「見せられるものだけで構いません」
「勝手に持ち出すな」
「しません」
「破るな」
「破りませんよ」
「お前は妙なところで雑だからな」
「何でダルクまで注意するんだよ」
「先に注意しといてやったんだ」
フィエラが口を挟んだ。
「子供じゃないんだけど」
「お前が言うな」
「私、何もしてないよ?」
ヴァレドが額に手を当てる。
「読むなら静かに読め」
三人とも黙った。
*
記録は思っていたより少なく、しかも答えが一つの記録としてまとまっているわけではなかった。
文章の途中が欠けた古い紙もあれば、さらに古い記録を書き写したらしい断片もあり、祭壇らしい図だけを残したものまである。
レイグは一枚ずつ目を通していった。
「……これ」
指が止まり、古い文章の中に《生命の雫》という名があった。
前後は傷んで読み取れないため、かろうじて残っている部分を追った。
「『最深の祭壇に……現れ……』」
横からダルクが覗き込む。
「置かれてる、じゃねえんだな」
「そうみたいだ」
レイグはヴァレドを見た。
「陛下も、これを?」
「ああ」
「だから祭壇を調べていたんですか」
「祭壇自体は以前から把握していた」
「でも、雫はなかった」
「一度もな」
レイグの視線が、紙に残った「現れ」の二字へ戻った。
王城地下へ辿り着けば拾える宝ではない。
何らかの条件で祭壇に異変が起こり、その結果として初めて《生命の雫》が現れる。
「じゃあ、どうすれば出るんです」
「分からない」
ヴァレドの返答には迷いがなかった。
「これだけ繰り返しても?」
「分からないものは分からない」
苛立ちが声に滲み、レイグは別の紙へ目を移した。
「一人しか帰れないっていうのは?」
ヴァレドの視線が上がった。
「何だ」
「前に、一人を生者の世界へ戻すと言いましたよね。どこに書いてあるんです」
王は少し黙ったあと、一枚の写しを示し、そこに残る文章はさらに短かった。
レイグは読める部分を追った。
「……『一つの命を、生へ導く』」
その下には、消えかけた別の一行があった。
「『命の糸が断たれる前……最後に帰る道を選び得た刻へ』」
前後は失われ、二つの文がどうつながるのかも分からない。
「刻って、時間のこと?」
フィエラが聞く。
「そうかもしれない。でも、これだけじゃ分からない」
レイグはその一行を、ほかの断片と同じように頭へ刻んだ。
「これで、一人分だと?」
「他にどう読めという」
「分かりません。でも……」
レイグは紙から顔を上げた。
「これだけで、一人しか帰れないと決まったわけでもない」
ヴァレドの顔が険しくなった。
「都合よく読むな」
「陛下だって、残った部分からそう読んでるだけでしょう」
一瞬、部屋の空気が凍り、ダルクが横で小さく言った。
「お前、王様相手だぞ」
「今言うのかよ」
「俺でもちょっと怖くなった」
フィエラは二人を無視して写しを覗き込んだ。
「でも、レイグの言ってることも分かるよ。実際に使った人がいて、一人しか無理だったって書いてあるわけじゃないんでしょ?」
ヴァレドは答えなかった。
レイグは写しを置かず、もう一つ尋ねた。
「陛下は一人分だと思ってる。だったら、見つかった時は陛下と王妃様のどちらが使うんです」
イセラの指が紙の端で止まった。ヴァレドは妻を見ず、欠けた文を見たままだった。どちらも答えない。
ダルクが姿勢を変え、フィエラも写しから王夫妻へ視線を上げた。
レイグはそれ以上追わなかった。
三人で帰れると分かったわけではないが、一人しか帰れないことを誰かが実際に確かめたわけでもなかった。
今は、それだけ覚えておけばいい。
「ねえ」
フィエラが別の紙を持ち上げた。
「これ、祭壇?」
レイグが横へ寄ると、そこにあったのは古い写図だった。
四角い石の祭壇。その表面には、王城地下で何度も見たものとよく似た紋様が描かれている。
しかしレイグの目を引いたのは、祭壇の形ではなかった。
表面の紋様のうち、一部分だけがかすかな銀色でなぞられている。
呼吸が詰まり、写図を覗き込んだまま動けなくなった。
「ここだ」
「何?」
ダルクが聞く。
「光ったところ」
レイグは紙に触れないよう、指先をすぐ上で止めた。
「この線だ。祭壇で銀色になったのは、ここだった」
「間違いない?」
フィエラは写図を持ち直し、レイグが示す線の両端を親指で押さえた。答えを聞くまで、紙を次へ回そうとはしなかった。
「ああ」
覚えている。
最初は古い石の溝をなぞるだけの細い輝きだった。それが少しずつ強くなり、最後には石の表面から浮き上がって、羽根の欠片のような形を取った。
しかし、手に取れる物は何も現れなかった。
「これが《生命の雫》なのか?」
ダルクが聞く。
「違う」
レイグはすぐに首を振った。
「あの時、何も残らなかった。触る前に消えた」
「じゃあ何なんだよ」
「分からない。でも、《生命の雫》と無関係じゃないはずだ」
今まで祭壇の銀色は意味の分からない異変でしかなかったが、その光は初めて《生命の雫》へ続く手掛かりになった。
「じゃあ、あの光をもう一度出さなきゃね」
フィエラは写図をレイグの方へ寄せた。
「前にも比べたんだ。光らなかった日と。でも、違うところが多すぎた」
レイグは銀色に光っていた紋様の形を目で辿った。
「最初に光った日は、カルゼンを助けて、教えられた抜け道を使った。ネヴァルも助けたから着くのが遅れた。正確な時刻は分からない」
「時刻を合わせりゃいいって話でもねえんだろ」
「薬も魔力も減ってた。戦った魔物も違う」
「天気も?」
フィエラに言われ、頷く。道を知っているだけでうまくいくと思った日は、晴れていた。途中で何を変えてしまったか、あの時は考えることさえ嫌だった。
「同じ一日にはできない。でも、一つずつ変えれば――」
「魔物も雨も、お前の都合で揃うかよ」
ダルクが遮った。レイグは写図から顔を上げる。
「分かってる。変えるつもりがなかったところも覚える。道を同じにして天気が違ったら、違ったってことを次に持っていく。何度か比べれば、関係ないものは減らせるはずだ」
ダルクが嫌そうに眉を寄せる。
「簡単に言うなよ。俺とフィエラは、そのたび忘れるんだぞ」
忘れる側のダルクにそう言われると、レイグはすぐには返事ができなかった。それでも、もう視線は逸らさない。
「ああ」
「お前だけ残る」
「ああ」
「……きついな」
「そうだな」
前なら、その事実に腹を立てていた。
今も苦しくないわけではないものの、覚えていることを恨んでいるだけでは何も変わらない。
フィエラが少しだけ笑う。
「じゃあ、次の私たちにもまた説明するんだ」
「そうなる」
「面倒だね」
「俺が一番面倒なんだけど」
「そこは否定しない」
「少しは否定しろよ」
ダルクが鼻を鳴らした。
「で、今日はどうする」
レイグが窓の外へ目を向けると、いつの間にか日はかなり傾いている。今からカレグノスへ入り、王城地下まで向かうには遅すぎる。
「帰る」
ダルクが目を丸くした。
「……本当に?」
「何だよ」
「お前が自分から言うと不安になる」
「帰るって言ってるだろ!」
フィエラが笑った。
「じゃあ今日は帰ろう。次の朝から始めればいい」
「ああ」
レイグは頷いた。
焦って奥へ入る必要はない。考え違いでも、また別の道を探せる。
これまで反復は、手に入れた物も、交わした約束も、積み重ねた一日も奪っていくだけのものだった。
だが、自分が覚えている限り、失敗した道まで消えるわけではない。
*
その夜、レイグは寝台の中で、傷んだ写しの文を何度も口の中でなぞった。
『最深の祭壇に……現れ……』
『一つの命を、生へ導く』
そして、消えかけた『最後に帰る道を選び得た刻へ』の一行。
瞼を閉じると、写図の銀色の線が、祭壇でほどけた羽根の形に重なった。
深夜の鐘が十二度鳴ると、部屋も意識も暗闇へ沈んだ。
次の朝、壁際には使い慣れたロングソードと傷のないバックラーが戻っていた。前の一日に読んだ記録も、三人で交わした言葉も、三人の中ではレイグしか覚えていない。
それでも、レイグの中には、あの言葉と銀色の線が残っていた。




