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明日のないカレグノス  作者: Aramaki_mai
第四部 死者の国
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第44話 帰りたい

挿絵(By みてみん)

生者の世界へ帰りたいと認めた途端、それまで言葉になる前に押し戻していた思いが、逃げられないほどはっきりした。


あの朝、家に残してきた母と妹にもう一度会いたい。顔を見て、声を聞きたい。


自分が遺跡から帰らなかったあと、二人がどうなったのか。答えを想像するたび、握った手のひらへ爪が食い込んだ。それでも、知るのが怖いから会いたくないとは思えなかった。


ダルクは隣に腰を下ろしたまま何も言わず、反対側にはフィエラもいた。


ヴァリュエルが消えたあとの朝の通りでは、三人のことなど知らない人々がいつもの一日を始めていた。荷車が石畳を軋ませ、店先では商人が木戸を開き、焼きたてのパンの匂いが風に混じって流れてくる。


誰にとっても普通の朝だったが、レイグにとってはもう、昨日までと同じ朝ではなかった。


「……変だよな」


レイグが呟くと、フィエラが横を見る。


「何が?」


「母さんとネリナに何があったのか知りたいって思ったら……今、家にいる二人を裏切ってるみたいに感じる」


自分で言葉にすると、喉が詰まった。


「あの二人だって、俺にとっては母さんとネリナなんだよ。少なくとも俺は、ずっとそう思って暮らしてきた」


朝食を作ってもらい、無茶をすれば叱られ、カレグノスへ行くたびに心配された。ネリナとはくだらないことで何度も言い合ったし、今朝だって二人はレイグの異変を本気で心配していた。


それらの時間が消えるわけではない。それでも、あの朝のあと、二人に何があったのかを知りたい。


「俺、最低なのかな」


「知らねえよ」


ダルクの返事はあまりにも早く、レイグは思わず顔を向けた。


「……少しくらい考えろよ」


「考えたって分かんねえもんは分かんねえ」


「お前な」


「じゃあ何だ。俺に『そんなことねえよ』って言ってほしいのか?」


レイグが答えられずにいると、ダルクは膝を立て、その上に腕を乗せる。


「今いる母親と妹が同じ魂じゃねえってことは聞いた。それでも、お前が簡単に別れられるかなんて俺には分からねえ。生きてた二人がそのあとどうしたのかだって知らねえ。そんなもん、俺が簡単に答えられるわけねえだろ」


ぶっきらぼうな声のまま、ダルクは続けた。


「でも、お前は会いてえんだろ」


「……ああ」


「だったら、その気持ちまで俺に決めさせんな」


慰められた気はしなかったが、不思議と腹は立たなかった。


フィエラが足元に転がっていた小石を靴先で押すと、小石は石畳を転がってダルクの靴へ当たった。


「私も分かんない」


「お前までか」


「分かんないものは仕方ないでしょ」


「何で俺に石当てた」


「蹴ったらそっちに行っただけ」


「絶対わざとだろ」


「今その話する?」


フィエラはそこで一度口を閉じ、改めてレイグを見た。


「でもさ。会いたいって思ったんでしょ?」


「ああ」


「だったら、今はそれでいいんじゃない?」


それ以上、彼女は何も言わず、レイグも返事をしないまま、しばらく通りを行き交う人々を眺めていた。


やがて、ヴァレドの低い声とともに、一つの名前が蘇った。


王家臨時館で聞いたもの。


王と王妃が、何度同じ朝を迎えても探し続けているもの。


《生命の雫》。


ヴァレドは、それが死者を生者の世界へ戻すものだと言った。


レイグは顔を上げた。


「……方法はある」


「何?」


フィエラが聞く。


「帰る方法だ」


ダルクの表情も変わった。


レイグは石畳に手をついて立ち上がり、座り続けて痺れた脚を軽く伸ばした。


「《生命の雫》」


その名前を声にした瞬間、これまで別々だったものが一本の道につながった。


王家が多額の報酬を出してまで求めているもの。王と王妃が反復を知りながら探索者をカレグノスへ送り続ける理由。そして、自分が生者の世界へ帰るために必要になるかもしれないもの。


「俺が見つける」


ダルクが黙ってこちらを見る。


「王のためじゃない。報酬もいらない」


これまでは、王家の布告を見るたびに金のことを考えていた。


あれだけの報酬があれば母を楽にできる。ネリナに新しい靴を買ってやれるし、冬の薪代を気にする必要もなくなる。危険な仕事だって減らせる。


その思い自体は嘘ではなかった。


生前の自分も、同じように家族を楽にしたいと願っていた。しかし十分な宝を手にしても退かず、さらに奥へ進んだ結果、ダルクとフィエラまで巻き込んで死んだ。


もう、金を持ち帰ることそのものを答えにはしたくなかった。


「母さんとネリナに何があったのか確かめるために、《生命の雫》を探す」


そう言うと、次に踏み出す方角がようやく一つに定まった。


「それと――」


レイグは二人を見る。


「俺は、《生命の雫》を探して、生者の世界へ帰りたい」


先ほどまでなら、そのまま二人も連れていくと言い切っていただろう。


石畳に立ったまま、レイグは一度口を閉じた。自分が先へ進んだ責任と、二人が自分で選んだことは、どちらも消さないと話したばかりだ。


「二人は、どうしたい」


ダルクが片方の眉を上げた。


「今、俺らに聞いたのか」


「聞いた」


「熱でもあんのか」


「真面目に聞いてるんだよ」


「だから驚いてんだ」


フィエラは二人のやり取りへ入らず、しばらく通りの向こうを見ていた。前線拠点へ向かう探索者が、まだ朝の光が残る道を歩いていく。その誰もが、今夜の先にも次の日が来ると思っているように見えた。


「もし私が、ここに残りたいって言ったら?」


やがてフィエラが聞いた。


胸の内側で、すぐに否定したい気持ちが動いた。


「止めたい」


レイグは嘘をつかなかった。


「たぶん、理由も何度も聞く。でも、最後に決めるのはお前だ」


「置いていける?」


「簡単には無理だ」


「正直だね」


「今、きれいに答えても仕方ないだろ」


フィエラは膝の前で両手を組んだ。弓を引く時には迷わない指が、今は互いを確かめるように何度も組み替わる。


「私は帰りたい」


はっきりした声だった。


「何なのかも分からない場所で、ずっと同じ朝を繰り返すのは嫌。死んだら戻るって分かっても、また死ぬのは怖い。今日話したことを明日の私が忘れて、また何も知らない顔でカレグノスへ行くのも嫌」


通りの向こうで、店主が日除け布を広げた。朝に畳まれていた布が開き、風を受けて揺れる。


「次の朝じゃなくて、今日の次に来る日を見たい。雨でも、寝坊しても、仕事がなくてもいいから、まだ見たことのない日を」


レイグは頷いた。


「分かった」


「それだけ?」


「……今は、うまく言えない」


フィエラは少し驚いた顔をしたあと、膝を抱え直した。


「じゃあ、それでいい」


レイグはダルクへ向き直る。


「お前は?」


「俺か」


「他に誰がいる」


ダルクはすぐには答えなかった。大きな右手を開き、手のひらを見たあと、ゆっくり握る。


「俺は、自分が死んだって話もまだ全部飲み込めてねえ」


「うん」


「覚えてねえ最期を勝手に決められるのは腹が立つ。昨日まで生きてたつもりの俺に、ここが死者の国だって言われても、分かった顔なんかできねえ」


ダルクは膝へ肘を置いた。


「でも、死んで戻った日の怖さを、お前が覚えてる。俺は忘れてる。そのくせ次の朝になれば、また同じ道へ行くかもしれねえ」


地下水路から戻ったあと、震えを隠すために何度も拳を握っていた手だった。今のダルク自身には、その一日の記憶がない。それでもレイグの顔を見て、作り話だと切り捨てずにいる。


「忘れてる俺の分まで、お前一人に怖がらせ続けるのも気に入らねえ」


「それは俺が――」


言いかけて、レイグは止めた。


ダルクが鼻を鳴らす。


「今、また取ろうとしただろ」


「……悪い」


「俺は帰る。自分で確かめる。死ぬ前の俺が何をして、何を残したのかもな」


「そうか」


「あと、明日の飯が食いてえ」


「最後にそれ?」


フィエラが呆れた。


「今日と同じ飯じゃねえぞ。次の日の飯だ」


「急に深いことみたいに言わないでよ」


「大事だろうが」


「そこは否定しないけど」


二人の声を聞きながら、レイグは言葉を選んだ。


「じゃあ、三人で帰る道を探そう」


フィエラは組んでいた指をほどいた。


「ただし」


ダルクが言った。


「一つある」


「何だ?」


「《生命の雫》だ。王様、何て言ってた」


「……死者を一人、生者の世界へ戻す」


「一人なんだよな」


フィエラはほどいたばかりの指を、膝の上で止めた。三人で帰ろうと言ったばかりなのに、一人という数が重くのしかかった。


「本当に一人だけなの?」


「分からない。王も『そう読める』って言ってただけだ。実際に使ったことがあるわけじゃない」


「そりゃそうか」


ダルクが頭を掻いた。


「使って帰ってたら、ここにいねえもんな」


今度は誰も笑わず、しばらくしてダルクがレイグを見た。


「本当に一人分だったら、どうする」


レイグは答えかけて、言葉を失った。


三人で帰りたいと今決めたばかりなのに、本当に一人しか帰れないとしたら、誰か二人は残ることになる。


自分なのか、ダルクなのか、フィエラなのか。


何か言わなければならない気がしたが、今ここで誰かを選ぶこと自体が間違っているようにも思えた。


「……分からない」


ようやく出した答えにダルクは何も返さず、フィエラも黙って待っている。


「《生命の雫》が本当に一人しか使えないのかも分からない。どこにあるのかも、どうやったら手に入るのかも、まだ何も分かってない」


レイグは二人を順番に見る。


「だから、分からないままなのに今ここで答えを決めたくない」


フィエラが小さく頷いた。


「うん」


少し遅れて、ダルクも鼻を鳴らす。


「それでいい」


「何だよ。聞いたのはお前だろ」


「聞いたからって、絶対答えろとは言ってねえ」


「本当に面倒くさいな」


「だから、お前に言われたくねえ」


今度はレイグも少し笑ってから、朝の通りへ目を向ける。


前線拠点へ向かう探索者たちが、武器と荷物を抱えて歩いている。王家の報酬を狙う者もいれば、一日分の稼ぎを求める者もいるだろう。


昨日までのレイグも、その中の一人だった。


「探すよ」


レイグが言った。


「《生命の雫》を」


「ああ」


ダルクが答える。


「三人でね」


フィエラも続いた。


「三人で」


レイグはもう一度言って、カレグノスのある方角を見た。


これまで何度も、あの城塞へ向かった。家族へ金を持ち帰るため、もっと良い物を手に入れるため、もう少しだけ奥へ行けば今より楽な暮らしが待っていると信じて。


今度は違う。


「次にカレグノスへ入るのは、金のためじゃない」


フィエラが横を見る。


「じゃあ、何のため?」


レイグは迷わなかった。


「帰るためだ」


口にして初めて、カレグノスの奥へ延びていた道が、ネルトアの家へ帰る道としてつながった。


直後、三人の間に妙な音が響いた。


ぐう、とかなり大きい。


レイグとフィエラが同時にダルクを見る。


「……何だよ」


「今のダルク?」


「朝から何も食ってねえんだよ」


「こんな時に?」


「こんな時でも腹は減るだろ」


フィエラが吹き出した。


「死者でもお腹は減るんだね」


「笑うな! お前も朝飯食ってねえだろ!」


「私は食べたよ」


「いつ」


「待ってる間にパン」


「何で俺の分は買ってねえんだ」


「頼まれてないし」


「仲間だろ」


「都合いい時だけ仲間にしないでよ」


久しぶりに三人の声が何の遠慮もなく重なり、レイグも笑った。


この世界で共に暮らしてきた母とネリナを思えば胸はまだ痛み、あの朝のあとの二人を考えれば、別の痛みが押し寄せてくる。生者の世界に残した二人と同一の存在ではないと分かっても、別れの痛みまで解決したわけではない。それでも石畳に座り込んでいた時とは違った。


そして、もう一つだけ手掛かりがあった。


レイグが初めて前の朝を覚えたのは、逃げ切る道を捨て、ネヴァルを助けに戻って死んだ後だ。ダルクとフィエラも一緒に戻ったのに、二人は朝になれば忘れた。善い行いをした者全員への褒美ではない。


『あなたは、その選択まで手放すのですか』


ヴァリュエルの問いが蘇る。


生前は、十分な宝を得ても退く方を選べず、二人まで死なせた。あの日は初めて、得るために進む道を捨て、誰かのために戻った。


なぜそれが記憶へつながったのかは、まだ分からない。だが、自分自身が死を招いた選択を、今度こそ選び直したことに意味があるのかもしれなかった。


立っている。


二人も隣にいる。


そして、進む先がある。


「飯食ったら、《王家臨時館》へ行こう」


「また王様んとこか」


「《生命の雫》について、王が持ってる記録を見せてもらう」


ダルクはもう食堂のある方角へ歩き始めていた。


「その前に飯」


「分かったよ」


「絶対だぞ」


「何でそこだけ念押しするんだよ」


「重要だからだ」


フィエラが笑いながら二人の間へ入り、レイグもその隣に並んだ。


三人が歩くのは、昨日までと変わらないネルトアの通りだった。


それでもレイグには、初めて今日の先へ向かって歩き始めたように感じられた。


*


三人から離れた通りで、ザイル・ヴェルグはその背中を見送っていたが、何を話していたのか、ここまでは聞こえない。


それでも、少し前まで石畳に崩れていたレイグが立ち上がり、また二人の仲間と肩を並べて歩き始めたことは見えていた。


ダルクが何かを怒鳴れば、フィエラが笑い、その隣でレイグまで笑っている。


その光景に、ザイルはわずかに目を細めた。かつて自分にも、ああして仲間と並んでいた頃があった。


朝になれば忘れられても、また事情を話して信じてもらい直し、今度こそ死なせないために道を覚えた。何度失敗しても、いつかは全員でここから出られると本気で信じていた。


あの頃の自分は、まだ知らなかった。


昨日を失い続ける仲間の隣で、自分だけがすべての昨日を抱え続けることが、どれほど人間を削っていくのかを。


ザイルは三人の背中をもうしばらく眺めてから、静かに呟いた。


「……昔の俺と同じだ」


そこに嘲りはなく、やがて三人が人波の向こうへ消えると、ザイルも背を向けた。


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