第43話 愛した時間
レイグは、しばらく何も言えなかった。
白い翼を背にしたヴァリュエルは、答えを急かさない。ダルクもフィエラも口を閉ざしたままだった。遠くでは荷車が石畳を軋ませ、店を開く者たちの声も聞こえているのに、いつものネルトアの朝がひどく遠い場所にあるように感じられた。
「……どこへって、何だよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。
ヴァリュエルは何も言わない。
「あの家へ戻るのか、この朝の外へ帰るのかってことか?」
喉の奥が熱くなった。
「そんなふうに選べっていうのかよ」
「レイグ」
フィエラが呼んだ。
「今はいい」
自分でも何が「いい」のか分からないまま、レイグは彼女を遮り、ヴァリュエルへ背を向けた。
「おい、どこへ行く」
ダルクに聞かれ、足を止めずに答える。
「家だ」
「今、戻るの?」
フィエラの問いには答えられなかった。
路地を出て表通りへ戻ると、ダルクとフィエラの足音が続いた。ヴァリュエルは追わず、白い翼を畳んだまま元の場所に立っていた。
道すがら、二人に問われたことには答えた。ネヴァルを託して自分一人が残り、その死のあとに記憶が残り始めたこと。王夫妻が《生命の雫》で一人を生へ戻せると言ったこと。
家へ向かう途中、生活道具を並べた店の前でレイグは止まった。軒下には蓋をした油壺が並び、その奥の棚には色と太さの違う糸束が掛けられている。
「小さい油瓶を一本」
店主が壺から油を移す間に、レイグは棚の糸を指した。
「その焦げ茶のも。上着の袖を直せるくらい」
「ずいぶん所帯じみた買い物だな」
ダルクが言った。
「悪いか」
「悪いとは言ってねえ」
代金を払い、油瓶と糸束を布へ包んでもらう。さらに数軒先の菓子屋で蜂蜜を練り込んだ小さな焼き菓子を一つ買うと、フィエラがその包みを見た。
「渡すの?」
「……分からない」
分からないと言いながら、足は家までの道を間違えなかった。
見慣れた戸口へ着く。扉の向こうから、ネリナの声が聞こえた。
「これ、まだ着たままじゃ駄目?」
「袖口を見るのに腕を入れたままでどうするの」
「見えるでしょ」
「裏側のほつれが見えないでしょう」
レイグは扉を叩こうとし、握った手を止めた。
夜になれば、買った油も糸も店の棚へ戻り、払った硬貨は手元へ戻る。ネリナが菓子を食べても、その味は次の朝へ残らない。それでも扉の向こうでは、まだ袖を脱ぎたくない妹と、針を持って待つ母が言い合っている。
「入らねえのか」
少し後ろでダルクが聞いた。
レイグはもう一度、扉へ拳を近づけた。今度は二度叩く。
「はーい」
足音が近づき、ネリナが扉を開けた。
「兄さん? 忘れ物?」
「これ」
レイグは布包みを差し出した。
「何?」
「油と糸。油、減ってただろ。糸は上着に使えると思う」
ネリナは受け取らず、レイグと包みを見比べた。
「兄さん、油壺なんか見たことあった?」
「見れば分かる」
「見てなかったから聞いてるんだけど」
奥からミレサも出てきた。
「どうしたの?」
「兄さんが急に、油と糸を買ってきた」
「急じゃない」
「朝は何も言ってなかったよ」
「今、思いついたんだよ」
苦しい答えだったが、ミレサは包みを開き、糸の色を窓の光へかざした。
「これならネリナの上着に使えそうね」
「だろ」
「どうして得意そうなの。選んだのは初めてでしょう」
言い返せずにいると、ネリナがもう一つの小さな包みに気づいた。
「そっちは?」
「お前のじゃない」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出てる」
「兄さんこそ」
ネリナが手を伸ばす前に、レイグは焼き菓子を半分に割った。大きい方をネリナへ、小さい方をミレサへ渡す。
「あなたは食べないの?」
ミレサが聞いた。
「今日はいい」
「変なの」
そう言いながら、ネリナはすぐ一口かじった。ミレサはまだ怪訝そうに息子を見ている。
「仕事へ行くんじゃなかったの?」
「別の用事ができた」
「危ないこと?」
「今は違う」
「今は、って何よ」
「……行ってくる」
ミレサは納得していなかったが、最後には布包みを抱え直した。
「朝にも聞いたわよ、それ」
「もう一回、言っておきたかった」
「変な子ね。用事が済んだら、今度は中まで入りなさい」
「分かった」
家の中へ入ることはできなかった。戸口へ片足を進めれば、そのまま今日の終わりまで二人のそばにいたくなる気がした。
レイグが下がると、ネリナは菓子を食べながら扉を閉めた。閉まりきる直前、ミレサが糸を針穴へ通そうとしている姿が見えた。
レイグが来た道を戻ると、ヴァリュエルは同じ路地の同じ場所で待っていた。
「今の油も糸も、夜になれば元へ戻る」
レイグは空になった両手を見た。
「ネリナが菓子を食べたことも、母さんが糸を針へ通したことも、明日の二人は知らない。それでも、今あいつが喜んだことまで偽物になるのか」
ヴァリュエルの表情は変わらなかった。
「俺が死んだあとも生きていた母さんとネリナは、ここにはいない。そこはもう分かってる」
返事はなく、その沈黙が否定されるより苦しかった。
「だったら、今ここにいる二人は何なんだよ。誰が作った。何のためにいる。俺に同じことを繰り返させて、またカレグノスへ行かせるためなのか?」
ヴァリュエルは答えなかった。
「答えろよ」
「答えを聞けば、何が変わるのです」
静かな声だった。
レイグは息を詰まらせる。
「……何?」
「誰が作ったのか。何のために存在するのか。それを私が告げれば、あなたが共に過ごした時間の意味まで決まるのですか」
「意味なんか……」
言い返そうとして、レイグは言葉に詰まった。
「同じ二人じゃなかったんだろ」
口にした瞬間、閉まった戸口へ目が戻った。「今度は中まで入りなさい」と言った母の声が蘇り、それ以上は言えなくなった。
フィエラも戸口を見て、ダルクは奥歯を噛んだまま何も言わなかった。
ヴァリュエルだけが、変わらずレイグを見ていた。
「あなたが愛したことまで、偽りになるのでしょうか」
何も返せずにいるレイグの前で、白い翼の先が風に静かに揺れた。
「……違う」
絞り出した声は震えたが、ヴァリュエルは黙ったままだった。
「俺は、本当に二人を……」
その先が出てこない。
母さんだと思っていた。
妹だと思っていた。
だが、それだけでは足りない。
思い込んでいただけではない。
「家族だった」
口にした途端、膝から力が抜けそうになった。
「少なくとも、俺には家族だったんだ」
ヴァリュエルは頷きも否定もせず、ただレイグを見ていた。
「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」
答えは返ってこない。
「生者の母さんたちのところへ帰れっていうのか。今の二人と別れて?」
ヴァリュエルは動かない。
「それとも、あの家で永遠に同じ朝を繰り返せっていうのか?」
何も言わない相手を見ているうちに、怒りが再び膨れ上がった。
「どっちも選べるわけないだろ!」
レイグは叫んだ。
「家に帰ったら母さんがいるんだぞ! ネリナがいるんだ! 俺が何も言わなきゃ、二人は明日が来ると思って笑ってる! それを知ってて、どうやって簡単に別れろっていうんだよ!」
荒い呼吸だけが残り、しばらくしてフィエラが小さく息を吸う。
「レイグ」
「今は――」
振り向いた時にはもう白い翼はなく、ヴァリュエルが立っていた場所には朝の光が落ちているだけだった。
「……逃げやがった」
「違うと思う」
フィエラが言った。
「じゃあ何だよ」
「もう言うことがないんじゃない?」
「何も答えてないだろ」
「うん」
「だったら――」
「でも、あの人が決めることじゃないんでしょ」
レイグはフィエラを睨んだ。
「簡単に言うなよ」
「簡単に言ってない」
珍しく、フィエラも目を逸らさなかった。
「私だって、死んでるって言われて、まだ受け止めきれてないよ。昨日まで普通に生きてるつもりだったんだよ? レイグのお母さんと妹が同じ魂じゃないって聞いても、簡単に割り切れるわけない」
「だったら黙ってろよ」
言った瞬間、フィエラの顔が固まり、ダルクが一歩出た。
「おい」
「何だよ」
「今のは違うだろ」
「二人には分からないだろ」
止まれなかった。
「俺は毎朝あの家に戻るんだ! 母さんの飯食って、ネリナと喧嘩して、それが全部――」
「全部何だ」
ダルクが怒鳴った。
レイグも睨み返す。
「同じ二人じゃなかったって言ってるんだよ」
「だからって、今までの全部が偽物になるのか!」
「同じ魂じゃねえからって、何も感じてなかったことになるのか」
「ならない」
「だったら何を切り捨てようとしてんだ」
「生者の二人が、俺の死んだあとどうしたのかは、家にいる二人も知らない。俺も知らない。だから確かめたいんだよ!」
叫んだあと、息が詰まり、ダルクも黙った。
「俺が家を出た時、二人は生きてた。それだけだ」
口に出すたび、それまで考えないようにしていた現実が形を持っていく。
「俺が帰ってくると思って、待ってたかもしれない。いつまで待っても帰らなくて、それでも次の日になって……」
その先のことを、レイグは考えたことがなかった。
自分が死んだあと、二人の時間がどこまで続いたのかは分からない。
朝になっても帰らない兄。
依頼先から戻らない息子。
誰かが知らせに来たのかもしれない。遺体すら戻らず、何が起きたのか分からないまま待ち続けたのかもしれない。
家にいる二人は、その答えを持っていない。レイグの知らない昔の出来事は、朝ごとに話が変わった。死んで帰らなかった夜のことさえ、帰ってきたと答えた。
「俺、何も知らない」
声が震えた。
「母さんがそのあとどうしたのかも、ネリナが泣いたのか、怒ったのかも……何にも知らないんだ」
足から力が抜け、レイグは石の地面に片手をついた。
「レイグ」
フィエラが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
反射的に怒鳴ると、フィエラの足が止まった。
レイグは地面についた自分の手を見たが、傷一つなかった。
生前最後の探索で命を落とした時も、その後カレグノスで何度も傷ついた時も、ここでは朝になるたび身体は何事もなかったように戻ってくる。
「何で俺だけ、こんなところで毎朝飯食ってんだよ……」
声がかすれた。
「二人に何があったのかも知らないのに」
誰も言葉を返さず、レイグはしばらく立てなかった。
やがて鎧の擦れる音が近づき、ダルクが少し離れた場所に腰を下ろした。
「……何してんだよ」
「座ってる」
「見りゃ分かる」
「じゃあ聞くな」
「帰れよ」
「嫌だ」
間を置かない返事だった。
「何で」
「お前を一人にすると面倒だからだ」
「今、一人にしてくれ」
「それで前にどうなった」
レイグが顔を上げると、ダルクはこっちを見ていなかった。
「一人で決めて、一人で残って、一人で死んだ」
「それとこれは――」
「同じじゃねえのは分かってる。でも今のお前を一人にしたくねえ。それだけだ」
ダルクは立ち上がらなかった。レイグが顔を伏せると、靴先だけが視界に残った。
やがて反対側にも人の気配がし、目を向けるとフィエラだった。
「……お前もか」
「うん」
「さっき黙ってろって言っただろ」
「だから黙ってる」
「帰れって意味だよ」
「そこまでは言われてない」
「今言った」
「聞こえなかった」
「嘘つけ」
「今日は耳が悪い日なの」
いつもの軽口だったが、声は少し震えており、レイグは二人を見た。
少なくとも、この二人は生前から自分と一緒にいた。三人で依頼を受け、あの遺跡へ入り、最後には同じ場所で命を落とした。
その事実は今、仲間が本当にここにいるという安心よりも、二人まで自分に付き合わせて死なせた痛みを強くした。
「お前らは……俺のせいで死んだ」
ダルクの顔が険しくなる。
「またそれか」
「事実だろ」
「お前が奥へ行ったのは事実だ」
ダルクは言った。
「俺が止めたのも、フィエラが止めたのも事実だ。それでも最後に行ったのは俺だ」
「お前らは俺を一人にできなかっただけだ」
「だから何だ」
「だから俺が――」
「全部お前の選択にすんな」
ダルクの声が強くなった。
「腹立つんだよ、それ」
レイグが口を閉じると、フィエラも膝を抱えたまま言う。
「私も行ったよ」
「でも――」
「怖かったし、帰りたかった。でもレイグを置いていくのも嫌だった。だから行った」
「それで死んだんだぞ」
「うん」
フィエラは目を逸らさなかった。
「だから怒ってる。今でも怒ってる。でも、私が行くって決めたところまでレイグに取られたくない」
謝るために開いた口が、そのまま動かなくなった。
「……俺が止まってれば、お前らは死ななかった」
「そうだろうな」
ダルクの返事に、レイグは顔を上げた。
「お前が悪くねえなんて、誰が言った」
「二人が来るって分かってたんだ。自分なら何とかできると思って、止められても進んだ。だから――」
「聞いてるよ!」
フィエラの声が跳ねた。抱えた膝を押さえる腕に、力がこもっている。
レイグは口を閉じた。すぐ横にいるのに、彼女の顔を見るまでに時間がかかった。
「……お前らが自分で行くって決めたのは、分かってる」
フィエラは頷かなかった。
「でも、俺が悪かったことまで、なくなったみたいに言うなよ」
「言ってねえだろ!」
ダルクが拳を持ち上げ、途中で膝へ戻した。
「今の、殴る気だったか?」
「少しな」
「そこは嘘でも違うって言えよ」
レイグの声はかすれていた。フィエラは二人を見たが、笑わなかった。ダルクの拳も膝の上で握られたままだった。
三人はそのまま座っていた。
その間にもネルトアの町は動き続け、店主が客を呼ぶ声や荷車の音に混じって、どこかから子供たちの笑い声まで聞こえてくる。
家へ戻れば、ミレサとネリナがいる。
今朝レイグと話し、腹を立てたり心配したりした二人がいる。そして深夜を越えれば、今日の出来事を知らない二人が、また同じ朝を迎える。
けれど、生者の世界で母と妹に何があったのか、レイグは知らない。
自分が知らない時間を、二人がどこまで生きたのか。
もし会えたとして、何を言えばいいのだろう。
家族を楽にしたいと言いながら帰れなくなったことを謝るのか。長い間心配させたことを謝るのか。それとも言葉など出てこなくて、ただ二人の顔を見るだけになるのかもしれない。
何一つ分からなくても、その二人の名を呼びたい気持ちだけは、もう喉の奥へ押し戻せなかった。
「……会いたい」
小さな声だった。
フィエラが顔を上げる。
「誰に?」
レイグがすぐには答えられずにいるうち、家にいる二人の顔も浮かんできた。
あの二人を否定したくはない。共に過ごした時間まで捨てたくもなかった。
それでも、自分が死んだあと二人に何があったのか、確かめたい気持ちもどうしようもなく込み上げてきた。
「母さんと、ネリナに」
喉が震えた。
「会えるなら、会いたい」
二度目は、少しだけはっきりと言えた。




