第42話 まやかしの家族
家の扉に手をかけても、背後からミレサとネリナの声が聞こえていた。
「だから椅子に掛けたって言ってるでしょう」
「ないんだってば」
「ちゃんと下まで見たの?」
「見たよ」
「じゃあ寝台の横は?」
「あ」
「ほら」
「……最初からそこって言ってよ」
「自分で置いたんでしょう」
ネリナが何か言い返し、ミレサが呆れた声を上げる中、レイグは扉に手を掛けたまま、しばらく動けなかった。
聞き慣れた声だった。
朝食を終え、これからそれぞれ今日の用事を始める母と妹。その何でもないやり取りを、今まで何度聞いてきただろう。
母は明日の買い物を考え、ネリナは友達に会うつもりでいる。その二人を、どうして疑わなければならないのだろう。
「兄さん?」
家の奥からネリナの声が飛んでくる。
「まだいるの?」
「……今出る」
「遅れないでよ」
「もう行く」
「だったら早くして」
思わず笑いかけたが、最後まで笑えなかった。
レイグは扉を開けず、手を離した。
「今日は行かない」
「カレグノスへ?」
奥からミレサが顔を出す。
「ああ。確かめたいことがある」
その朝、レイグは家に残った。
ミレサとネリナを同じ部屋に入れず、ずっと前の冬について一人ずつ尋ねた。レイグが北の街道で十日間、隊商の護衛をしていた冬だ。
ミレサは、ネリナが熱を出して一歩も家から出られず、隣家のロタが小麦を届けてくれたと答えた。
そのあと同じことを聞かれたネリナは、母と二人で市場へ行き、雪の上で転んで油の瓶を割ったと答えた。
どちらも、迷いなく話した。
深夜を越え、また同じ朝が来た。
今度はネリナから先に尋ねた。すると妹は、熱を出した自分にロタが小麦を持ってきたと答えた。ミレサは、ネリナと市場へ行き、雪で転んだせいで油を駄目にしたと答えた。
前の朝とは、答えた者だけが入れ替わっていた。
二人とも嘘をついている顔ではなかった。確かに経験したことを思い出すように話し、食い違いを指摘すれば、本気で困り、本気で腹を立てた。
もう一度朝が戻ると、レイグは生前最後の探索について尋ねることにした。
ネリナが外へ出ている間に、レイグは食器を拭いているミレサのそばへ立った。
「前に、高額報酬の遺跡へ行っただろ。ダルクとフィエラと三人で」
「ええ」
「俺、あの夜は何時に帰った?」
ミレサは椀の底へ布を当てたまま、少し考えた。
「すっかり暗くなってからよ。泥だらけの靴で入ってきて、床を汚すなって叱ったでしょう」
ミレサは椀の縁を拭き終えると棚へ戻し、次の椀を取った。
「……俺が?」
「あなた以外に誰がいるの。靴を脱ぐより先に、お腹が空いたって」
レイグは棚へ片手をついた。
「それから?」
「ネリナが残していた煮込みまで食べたのよ。あの子、怒っていたでしょう」
ミレサは少し呆れた声で答え、手の中の布を畳み直した。
「帰ってきたのか」
「帰ってきたわよ」
もう一度、確かめるように母の顔を見た。ミレサは眉を寄せ、拭きかけの椀を下ろした。
「どうしたの。自分のことでしょう?」
「でも……」
そこで声が止まった。棚を掴む指を緩めようとしても、うまく離れない。ミレサはその手へ目を落とし、椀を脇へ寄せた。
「そこに座りなさい」
「平気だ」
「平気な顔じゃないわよ」
レイグは何も答えず、椅子へ腰を下ろした。母も問いを重ねなかったが、食器を片づけながら何度もこちらを振り返った。
ネリナが戻ったのは、それからミレサが水汲みに出たあとだった。レイグは母の返事を伏せたまま、妹にも同じ探索の夜について尋ねた。
「帰ってきたよ。真っ暗になってから。靴が泥だらけで、母さんに怒られたじゃん」
ネリナは椅子に掛けてあった上着を取り上げた。ほつれた袖口に指が引っかかり、小さく舌を鳴らす。
「そのあと、俺は何をした?」
「私の煮込み食べた」
即座に返ってきた。
「お腹減ったって。残しておいたのに、全部」
レイグは椅子から立ち上がりかけた。
床へ投げ出されていたフィエラの弓を思い出した。動かないダルクの身体も、その二人へ届かなかった自分の腕も。あの地下には、家へ続く道などなかった。
「……帰ってない」
ネリナが顔を上げた。
「何?」
「俺は、帰ってないんだ」
「帰ってきたでしょ。自分で食べたことくらい、覚えてないの?」
ミレサの言ったことを教えてはいない。泥のついた靴も、叱られたことも、煮込みを食べたことも、二人の答えは同じだった。
「ネリナ」
「何なの、さっきから。私が嘘ついてるみたいに聞かないでよ」
妹は上着を腕へ掛け、レイグを睨んだ。レイグは言い返そうとして口を開いたが、もう声が出なかった。
やがてネリナは目を逸らし、上着の袖を裏返した。縫い目から出ていた糸を引っ張りかけ、やめる。その手元を見つめたまま、レイグは椅子へ座り直した。
あの夜、レイグは帰っていない。ダルクとフィエラと共に地下で死んだ。
それなのに妹は、あの日レイグが食べたという煮込みのことで怒っている。母も、泥のついた靴で帰ってきた息子を叱ったという。
レイグが共にいた昔は揺れない。だが、彼の目が届かなかった時間だけ、朝ごとに別の過去へ変わった。
この朝が、二人の記憶の空白を埋めているように思えた。
それでも、その場で生まれる感情まで借り物には見えなかった。問い詰められて傷ついた顔も、答えられずに苛立った声も、翌日の予定を自分で考える姿も、レイグを慰めるために用意された反応ではない。
空っぽの人形ではない。
けれど、生者の世界に残した二人と、同じ過去を生きてもいなかった。
それから何度目かの朝、レイグはもう試すような質問をせず、家の扉を開けた。
朝のネルトアは何も変わらず動いている。通りでは店の木戸が開き、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。水桶を抱えた女が井戸へ向かい、荷車を引く男が前を歩く子供へ道を空けろと怒鳴っている。
いつもの待ち合わせ場所には、石壁にもたれている大柄な男と、その横で小さな果実を指先でもてあそんでいる女がいた。
「遅え」
レイグを見つけるなり、ダルクが言った。
「まだ時間前だ」
「俺が待った」
「それ、何回――」
言いかけて、レイグは止めた。
「何だよ」
「いや」
「朝から気持ち悪いな」
フィエラが果実を一口かじる。
「今日のレイグ、顔ひどいよ」
「お前までか」
「家でも言われた?」
「ああ」
「じゃあ本当にひどいんだね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくはないよ」
フィエラの声から、ふっと軽さが抜けた。
「何かあった?」
レイグはすぐには答えず、二人を見た。
ダルクはいつもの大盾を背負い、フィエラの肩にはコンポジットボウがある。二人の身体には傷一つなく、死んだ人間にはどうしても見えなかった。
それでも、この二人についてだけは知っている。
「なあ」
「何だ」
「前に三人で行った遺跡、覚えてるか」
ダルクの眉が寄った。
「どの遺跡だよ」
「高額報酬だったやつだ。地下へかなり深く入った」
ダルクの顔が少し変わる。
「……あれか」
フィエラも果実を持つ手を止めた。
「急にどうしたの?」
「どこまで覚えてる」
「どこまでって?」
「あの探索の最後だ」
「最後……」
フィエラの声が途切れた。
ダルクは露骨に嫌そうな顔をする。
「朝から何なんだよ。普通に帰っただろ」
「どうやって」
「どうって……」
「どの道を通って帰った。持ち帰った宝はどうした。その後、俺たちは何をした」
「知るか。何年前の話だと思ってんだ」
「奥へ行ったことは?」
ダルクが言葉に詰まり、フィエラも黙った。
「宝を取ったあとだ。二人は帰ろうって言った」
欠けていた記憶は今、石へ触れた指の冷たさまで鮮明に残っている。
「それでも俺が、もう少しだけ見たいって言った」
ダルクが目を細めた。
「……ああ」
かすれた返事だった。
「そこは覚えてる」
「私も」
フィエラがゆっくり頷いた。
「じゃあ、そのあと何があった」
ダルクが答えようとして、苛立ったように額を掻いた。
「奥へ行った。そこまでは覚えてる。でも……」
「それからは?」
「分かんねえんだよ」
ダルク自身が一番腹を立てているようだった。
「何なんだ、これ。行ったところまでは覚えてるのに、その後がねえ」
フィエラはこめかみに指を当てた。
「私も変。帰ったような気はするんだけど、帰ってるところが出てこない」
「帰ってない」
レイグが言った。
二人がこちらを見る。
「俺は思い出した。最後まで」
喉が詰まりそうになったが、それでも言わなければならなかった。
「俺たちは、あそこで死んだ」
ダルクの表情が固まった。
「……は?」
「床が崩れた。その下で魔物に襲われて――」
「待て」
「ダルクは盾で――」
「待てって言ってんだよ!」
怒声が通りへ響き、何人かがこちらを振り返った。
レイグが口を閉じると、ダルクが一歩近づいた。
「朝っぱらから勝手に俺を殺すな」
「勝手に言ってるんじゃない」
「じゃあ証拠はどこだ」
「ない」
「ない?」
「残らないんだよ!」
今度はレイグの声も大きくなった。
「あの日の傷も、死体も、何も残ってない! 俺が覚えてるだけだ!」
「だったら俺にどうしろってんだ」
「信じろとは言ってない」
「じゃあ何で聞いた!」
そこで、レイグは言葉に詰まった。
二人に信じてもらいたかったのかもしれない。
それとも、この二人も自分と同じ場所から先を覚えていないと、ただ確認したかっただけなのか。
「二人とも」
フィエラが間へ入った。
「ちょっと声落として」
「こいつが――」
「ダルク」
いつもより強い声だったためか、ダルクは舌打ちしたものの、それ以上は怒鳴らなかった。
フィエラがレイグを見る。
「私たち、本当に死んだの?」
「ああ」
「三人とも?」
「ああ」
「……レイグも?」
「俺もだ」
フィエラの顔がこわばった。
「どうやって」
数周前に取り戻した光景が、一気に蘇った。
砕けた盾。
血に濡れたダルク。
フィエラの身体を抱えた時の重さと、少しずつ冷えていった手。
レイグは目を逸らした。
「……言いたくない」
フィエラが少し驚いた顔をした。
以前なら、信じてもらうために全部話したかもしれない。ダルクが怖がったことも、フィエラが最後に何を言ったのかも、自分の記憶が正しい証拠として使おうとしただろう。
今は、そんなことをする気にはなれなかった。
「俺は覚えてる。それだけだ」
「よくねえよ」
ダルクが低く言った。
「俺が死んだって話されて、それだけで済むわけあるか」
「じゃあどうすればいい」
「知らねえ」
ダルクが吐き捨てる。
フィエラはまだレイグを見ていた。
「それが、今日のレイグがおかしい理由?」
レイグは少し迷い、頷いた。
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「ああ」
その瞬間、確かめるために家で過ごした朝が、続けて蘇った。
レイグは、自分が来た道を振り返った。
「……母さんたちは、俺たちが死んだ遺跡にはいなかった」
「何?」
ダルクが聞く。
「行ったのは俺たち三人だけだ。俺が家を出た時、二人は生きてた」
「そりゃそうだろ」
「でも家にいる二人は、俺が死んだ夜にも帰ってきたって言った」
二人が黙った。
レイグはさらに、別の冬の記憶が朝ごとに入れ替わったことを話した。
フィエラの顔から血の気が引く。
「じゃあ、レイグのお母さんたちじゃないの?」
「少なくとも、生者の世界に残した二人と同じだとは思えない」
口に出すたび、家を出る自分を見送ったミレサとネリナの顔が、朝の台所の明るさごと蘇った。
「でも、空っぽの幻でもない。俺が試すようなことをすれば、二人とも本気で傷ついた」
ダルクは何も言わず聞いている。
その二つをどう受け止めればいいのか、レイグにはまだ分からなかった。
その時、フィエラがレイグの肩越しを見た。
「レイグ」
「何だ」
「あれ」
振り返ると、大通りから少し外れた細い路地に白いものが見えた。
大きな翼だった。
白い翼を持つ者が、朝日の差し込む石壁の前に立っている。
何度も現れては答えではなく問いだけを残していった存在だと気づき、レイグの身体が先に動いた。
「おい」
「レイグ」
ダルクの声を背中で聞きながら路地へ走っても、白い翼の者は逃げず、静かに近づいてくるレイグを見ていた。
数歩手前で足を止める。
「聞きたいことがある」
返事はない。
「その前に、名前くらい教えろ。何度も現れてるのに、俺はお前を何と呼べばいいのかも知らない」
白い翼の者は、ほんのわずかに間を置いた。
「ヴァリュエル」
「……それが、お前の名前か」
「そう呼ばれています」
名だけを告げてヴァリュエルが再び口を閉ざしたところへ、後ろからダルクとフィエラも追いついた。
「こいつ……」
ダルクが警戒するように前へ出る。
「知り合いか?」
「何度か会った」
「俺は知らねえぞ」
「お前は覚えてない」
「またそれかよ……」
「今は黙っててくれ」
ダルクが顔をしかめたものの、フィエラが腕を掴んで止めた。
レイグはヴァリュエルだけを見る。
「家にいる母さんとネリナが、俺の知っていた二人なのか、お前には分かるのか」
ヴァリュエルは、レイグの背後へ目を向けた。
「死を共にした者たちは、今もあなたの隣にいます」
ダルクとフィエラが息を呑む。
次に、その視線はレイグが来た道の先へ移った。
「生に残した者たちは、この朝へ来てはいません」
何度も自分で確かめた答えだった。それでも他者の口から告げられると、今朝の食卓で笑っていた二人の顔が、痛いほど鮮明に浮かんだ。
「じゃあ、家にいる二人は」
「あなたが残した記憶を根に、この朝の中で形を得た者たちです」
「ただの幻だっていうのか」
「空の人形ではありません。今ここで考え、怒り、あなたを案じる思いは、彼女たちのものです」
ヴァリュエルの声は静かだった。
「ですが、彼女たちは、生者の世界にいる二人の魂そのものではありません。あなたがこの朝を去っても、本物の二人の魂がここへ取り残され、永く待ち続けることはありません」
救いの言葉に聞こえるはずなのに、レイグは少しも楽にならなかった。
置いていく魂はいない。
それでも、共に過ごした時間と、今ここにある感情まで消えるわけではない。別れが痛くなくなる理由にもならなかった。
「俺には、あの二人を偽物なんて呼べない」
「では、それもあなたが選んだことです」
ヴァリュエルは慰めるようには言わず、ただレイグ自身が出した答えを返した。
「あなたは、どこへ帰りたいのです」




