第41話 家にいる母
「レイグ、朝ご飯よ」
母の声が聞こえた。
レイグは目を開けなかった。
薄い寝具の感触も、背中に触れる寝台の硬さも分かっている。窓の外から荷車の軋む音がして、遠くでは誰かが店の木戸を開けていた。
ネルトアの朝だった。
何度も戻ってきた、いつもの朝。
けれど今は、目を開けることが怖かった。
目を閉じたままでも、崩れた地下遺跡の土と血の匂いがした。
崩れた地下遺跡で、ダルクは血を流しながら最後まで自分を置いていこうとしなかった。フィエラも傷つき、それでも二人とも、自分だけを奥へ残して帰ろうとはしなかった。
そして最後には、自分も死んだ。
三人とも、あの場所から帰れなかった。
「レイグ?」
もう一度、ミレサの声がした。
「起きてるの?」
レイグがようやく目を開けると、見慣れた天井があり、壁際にはロングソードと傷のないバックラーが戻っている。荷袋も、出発前の状態だった。
何も変わらない。
「……母さん」
「何?」
階下からミレサがすぐに答え、その声は少し苛立っていた。
「起きてるなら返事くらいしなさい。スープが冷めるでしょう」
レイグが寝台の縁に座ると、胸が苦しくなった。
怖いはずなのに、母の声を聞けたことが嬉しかった。
あの遺跡で死ぬ時、自分は何度も思った。
母に会いたい。
ネリナに会いたい。
帰りたい。
その二人が、今はすぐ下にいる。
「……今行く」
どうにか返事をして、レイグは立ち上がった。
*
「兄さん、今日遅くない?」
レイグが食卓のある部屋へ入るなり、ネリナが言った。
片手には薄いパンを持ち、もう一方の手ではスープをかき回しながら干し肉を探している。
「寝坊?」
「いや」
「じゃあ何してたの?」
「ちょっと……考えてた」
「朝から?」
「朝だから考えることもあるだろ」
「私は朝は食べることで忙しいけど」
「それは知ってる」
反射的に返すと、ネリナが少し笑った。
「やっと普通のこと言った」
「俺、そんなに変か?」
「今のところはね」
「今のところ?」
「起きてくるの遅いし、顔怖いし」
「ネリナ」
鍋を運んできたミレサが窘めた。
「朝から人の顔を怖いなんて言わないの」
「だって怖いよ」
ネリナは悪びれもせずレイグを見る。
「何かあった?」
「……何もない」
「絶対何かある顔」
「どんな顔だよ」
「何かある顔」
「説明になってないぞ」
「顔なんだから説明できないよ」
ミレサが小さく笑い、レイグの前に椀を置いた。
「食べなさい。冷めるわよ」
「ああ」
豆と野菜のスープには少しだけ干し肉が入り、その隣には薄いパンがある。何度も見た朝食だった。
レイグが匙を持つと、目の前ではミレサが自分の席に座り、ネリナは早くも二枚目のパンへ手を伸ばそうとしていた。
「それはお兄ちゃんの分」
ミレサが言った。
「まだ取ってないよ」
「手を伸ばしたでしょう」
「見るだけ」
「手で?」
「近くで見たかったの」
「戻しなさい」
ネリナが渋々手を引っ込め、レイグは笑いそうになった。
いつもと同じだ。
あまりにも、いつもと同じだった。
ネリナが足を動かすと、卓の下から革靴が見えた。
つま先には新しい糸が走り、底には革片が当てられていた。何度も修理され、それでもまだ履き続けている靴だった。
レイグの手が止まる。
「兄さん?」
「……その靴」
「靴?」
ネリナが片足を持ち上げた。
「何?」
「まだ履けるのか」
「履いてるんだから履けるでしょ」
「痛くないか?」
「別に」
ネリナは自分の靴を見てから、怪訝そうにレイグを見た。
「急にどうしたの?」
「いや……」
レイグは椀へ目を落とした。
新しい靴を買ってやりたかった。
母にも楽をさせたかった。
冬の薪代を気にしなくてもいいくらい、金を持ち帰りたかった。
生前も、そうだった。
あの遺跡で十分すぎるほどの宝を手に入れた後も、レイグは満足できなかった。
もう帰ろうとダルクは言った。
フィエラも帰りたがっていた。
それなのに、自分は奥を見た。
『もう少し稼げれば、二人をもっと楽にできる』
そう言って、自分は帰らなかった。
家族を思う気持ちまで嘘だったとは思わない。
だが、その言葉を理由にして退き時を失ったのも事実だった。
そして、ダルクとフィエラまで巻き込んだ。
「……レイグ?」
ミレサの声で顔を上げた。
「本当にどうしたの?」
「何が」
「さっきから食べてないでしょう」
言われて見ると、匙を持ったまま、一口も食べていなかった。
「食欲ない?」
「いや」
「熱でもあるんじゃない?」
ミレサが立ち上がり、レイグの額へ手を伸ばす。
温かく、何度も触れられたことのある手だった。
レイグは動けなくなった。
「熱はなさそうね」
ミレサが手を離す。
「具合が悪いなら今日は休みなさいよ」
「……母さん」
「何?」
「明日は?」
ミレサが瞬きをした。
「明日?」
「ああ」
「何が?」
「明日は……火曜日だよな」
ネリナが匙を置いた。
「兄さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ」
「曜日分からなくなってる人が言っても信用できないよ」
「分からないんじゃない。確認しただけだ」
「何を確認するの?」
答えられないレイグをミレサも不思議そうに見ていたが、やがて普通に答えた。
「火曜日よ」
その答えに迷いはなく、レイグの胸が重くなった。
「じゃあ、明日は何する?」
「……今日は妙なことばかり聞くのね」
「いいから」
「いいから、って何よ」
少し強い声だったため、レイグはすぐに言い直した。
「悪い。ただ、聞きたかっただけだ」
ミレサはしばらく息子を見ていたが、やがて椅子に座り直した。
「市場へ行くわよ」
「市場?」
「油が減ってるでしょう。それに糸も買わないと」
レイグは壁際の棚を見たが、油壺の中身など気にしたこともなかった。
「糸も?」
「ネリナの上着を直したいの。袖口がほつれてるから」
「まだ着られるよ」
ネリナが口を挟む。
「だから直すの」
「今でも着られるって」
「今のうちに直せば長く着られるでしょう」
「母さん、そういうところ細かいよね」
「あなたが雑なの」
「普通だよ」
ミレサはそこで、ネリナが洗濯物を乱雑に畳んだ話を始め、レイグは黙って聞いた。
知らなかった。
油が減っていることも、上着を直すために糸を買おうとしていることも、自分は何も知らない。
それなのに母は、レイグの知らない明日の予定を、自分で考えている。
「ネリナは?」
「何が?」
「明日」
「私?」
「何か予定あるのか」
ネリナは不思議そうな顔をした。
「友達と会うけど」
「聞いてないぞ」
「何で兄さんに全部言わなきゃいけないの?」
「いや……そういう意味じゃない」
「じゃあ何?」
「何するんだ?」
「だから、何でそこまで聞くの?」
「いいだろ、別に」
「よくない。気持ち悪い」
「気持ち悪いって言うな」
「朝から明日の予定を根掘り葉掘り聞いてくる方が悪いよ」
ネリナはパンをちぎり、スープへ浸した。
「市場見たり、ぶらぶらしたりする。明日になったら気が変わるかもしれないけど」
レイグは何も言えなくなった。
明日になったら、気が変わるかもしれない。
ごく普通の言葉だった。
何もおかしくない。
ミレサは明日、市場へ行くつもりでいる。ネリナも友人と出かけ、その時の気分で予定を変えるかもしれない。
誰かに決められた言葉には見えない。自分の知らない明日を考え、ちゃんと生きている。
だからこそ、怖かった。
『明日は休みなさい』
別の朝のミレサの声が蘇った。あの時も、本気で息子を休ませるつもりだった。
けれど、母が市場へ行く火曜日も、妹が友人と会う火曜日も来ない。
「……そんな」
声が漏れた。
「何?」
ミレサが聞いた。
レイグは二人を見た。
「兄さん」
ネリナの表情から苛立ちが消えた。
「本当にどうしたの?」
レイグは唇を開いた。
「母さん」
「何?」
「もし……俺が今日帰ってこなかったら、どうする?」
ミレサの顔がこわばった。
「何を言ってるの」
「もしもの話だ」
「嫌よ」
「母さん」
「嫌だと言ったでしょう」
思っていたより強い声だった。
ネリナもレイグを見る。
「兄さん、朝から何なの」
「答えてくれ」
「何を答えるのよ」
「俺が帰ってこなかったら、その後――」
「やめなさい」
ミレサが遮った。
「でも――」
「息子が帰ってこなかった後にどうするかなんて、朝食を食べながら考えたくありません」
その言葉が胸に刺さったが、それでもレイグは止まれなかった。
確かめたい。
二人がどこまで自分たちの先を考えられるのか、もっと聞けば何か分かるのではないかという思いが、頭から離れなかった。
「その後だって生活は――」
「兄さん、やめてよ」
ネリナが椅子を鳴らして立ち上がり、レイグは口を閉じた。
ネリナは本気で怒っていた。
「何でそんな話するの? 今日カレグノス行くんでしょ?」
「ああ」
「だったら余計にやめてよ」
声が震えている。
「兄さんが帰ってこなかったらとか、そんなこと朝から聞きたくない!」
レイグは何も言えなかった。
質問を続ければ、もっと確かめられるかもしれない。
この二人が何なのか。
どこまで考えられるのか。
だが、目の前にいるネリナは手掛かりではない。
今、本気で傷ついている。
ミレサも怒っている。
二人を見た瞬間、レイグの中に残っていた確かめたい衝動が萎んだ。
ようやく匙を置く。
「……悪かった」
ネリナは座らない。
「本当に」
「ああ」
「朝から変だし、怖いこと言うし」
「悪かったって」
「一回言えば終わりじゃないからね」
「分かってる」
「私まで、兄さんが帰ってこないところ想像しちゃったじゃない」
レイグは口を開きかけたが、ネリナは顔を背けた。
「もう食べる。今は話しかけないで」
ネリナは不機嫌そうに椅子に座り直し、ミレサもしばらく何も言わなかったが、やがて冷めかけたスープの鍋を持ち上げた。
「食べないなら片づけるわよ」
「食べる」
「だったら食べなさい」
「ああ」
すぐに許してはくれなかったが、それでも食事は続いた。
ネリナはまだ怒り、ミレサも口数が少ない中、レイグが冷めたスープを口へ運ぶと、いつもの味がした。
*
食事が終わる頃にはネリナが先に席を立ち、食器を運びながらも、レイグとはほとんど目を合わせなかった。
「まだ怒ってるのか」
「怒ってるよ」
「悪かったって」
「聞いた」
「じゃあ――」
「謝ったらすぐ機嫌直さなきゃ駄目なの?」
「いや」
「じゃあ放っといて」
食器を抱えて奥へ行ってしまうネリナの背中を、レイグは黙って見送った。
「あなたね」
ミレサが言った。
振り向く。
「今日は本当にどうしたの?」
「……分からない」
「分からない?」
「ああ」
それだけは嘘ではなかった。ミレサは息をつき、レイグの前から空になった椀を取った。
「カレグノスへ行くの?」
空の椀を重ねる母の手を前に、「行かない」とは言えなかった。
「たぶん」
「行くなら」
ミレサの手が止まった。
「帰ってきなさい」
返事をしようとした喉が痛んだ。
何度も聞いた言葉なのに、今はまるで違って聞こえる。
「……ああ」
「早く帰るって言って、奥まで行きすぎないこと」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
ミレサはまだ疑っていたが、それ以上は言わず、食器を運び始めた。
レイグは母の背中を見つめたが、偽物には見えず、少なくとも自分にはそう呼べなかった。
息子へ腹を立て、心配し、帰ってこなかった後の話を聞かされれば本気で嫌がる。ネリナにだって自分の友人も予定もあり、兄だからといって何でも許すわけではない。
二人とも、レイグを慰めるためだけにそこにいる人間ではなかった。
それなのに。
昨夜取り戻した記憶が、湿った土と消えかけた松明の匂いを伴って蘇った。
生前、高額報酬の探索依頼を受けて遺跡へ向かったのは、レイグとダルク、フィエラの三人だった。
十分な宝を手に入れ、それでもレイグが奥へ進み、二人も彼を一人にはできずについてきた。
そして崩落に巻き込まれ、魔物に襲われ、三人とも帰れなかった。
そこに母はいなかった。
ネリナもいなかった。
少なくとも二人は、自分たちと一緒にあの遺跡では死んでいない。
だが、そこから先は分からない。
レイグが死んだあと、二人がどう生き、いつ命を終えたのか、それを確かめられる記憶はどこにもなかった。
『ここに、生きている者はいません』
イセラの声が蘇った。
レイグは立ち上がった。
「母さん」
「何?」
ミレサが振り返ると、見慣れた母の顔があった。
「……いや」
「またそれ?」
「ごめん」
「変な子ね」
呆れたように言ってミレサが食器を抱えたまま奥へ消えると、少しして別の部屋からネリナの声が聞こえた。
「母さん、私の上着どこ?」
「椅子に掛けたでしょう」
「ないよ」
「自分で動かしたんじゃないの?」
「動かしてない」
「じゃあちゃんと探しなさい」
「探してるよ」
二人の声が家の中を行き来し、家の様子はいつもの朝と何も変わらない。
普通の家で、普通の母と妹が、今日の生活を続けている。
レイグはその声を聞いたまま動けなかった。
家にいる二人は、あの朝に残した母と妹そのものなのか。
それとも、同じ顔と記憶を持つ別の存在なのか。
レイグには、まだ確かめようがなかった。




