第40話 三人の最期
あの遺跡へ行ったことがあると認めた声は、自分の口から出たのに、ひどく遠くから聞こえた。
夕暮れのネルトアで、レイグは割れた石材のそばに膝をついている。目の前にはフィエラがいて、その後ろではダルクが、何が起きたのか分からない顔でこちらを見ていた。
「さっき見えた遺跡?」
フィエラが聞く。
「ああ」
「カレグノスじゃないんだよね?」
「違う」
松明に照らされた石造りの地下通路。湿った土の匂い。肩へ食い込むほど重い荷袋。
あそこはカレグノスではなく、ずっと前に三人で入った遺跡だ。
「……待て」
ダルクが眉を寄せた。
「お前、その遺跡のこと忘れてたのか?」
レイグは答えようとして、言葉に詰まった。
「違う」
「何がだ」
「忘れてたわけじゃない」
高額報酬の探索だったことも、三人で依頼を受けたことも覚えている。何度も魔物と戦い、深い場所まで進み、十分すぎるほどの宝を見つけた。
さらに奥へ続く道を見つけたことも、ダルクとフィエラから帰ろうと言われたことも、その忠告を聞かずに自分が先へ進もうとしたことさえ、ずっと記憶に残っていた。
「俺、知ってたんだ」
レイグは額に手を当てた。
「そこまでは……ずっと覚えてた」
「じゃあ、今見えたのは?」
フィエラの声から、わずかに力が抜けた。
レイグは二人を見る。
「その先だ」
「その先?」
「奥へ行って……そこから先だけ、何もなかった」
不思議に思ったことさえなかった。
だが今、その空白の奥から音が聞こえている。
石が割れる。
誰かが叫ぶ。
地の底から、巨大な何かが咆哮する。
「レイグ?」
フィエラが手を伸ばした。
その指先を見た瞬間、夕暮れの町並みが視界から消えた。
*
「帰るぞ」
ダルクが言った。
松明の火が揺れ、古い地下通路の壁に三人の影を映している。
足元には荷袋が置かれていた。どれも持ち上げるだけで肩に負担がかかるほど重く、中には金貨や銀器、装飾の施された小箱、それに価値のありそうな古い遺物まで詰まっている。
これだけ持ち帰れば、三人で分けても、しばらく危険な仕事を減らせるほどの稼ぎになる。
「私も賛成」
フィエラが壁に背を預けると、汗で髪が額に張りつき、左腕には浅い切り傷があった。矢筒の中身もかなり減っていた。
「今日はもう疲れた。帰ったら温かいもの食べたい」
「お前、さっき干し肉食っただろ」
「あれは食事じゃないよ。硬い何か」
「食料に謝れ」
「ダルクはあれだけで満足なの?」
「腹に入れば大体同じだ」
「人生かなり損してるよ」
「余計なお世話だ」
フィエラが笑い、ダルクも呆れたように顔をしかめた。
そのやり取りも、フィエラの声も、ダルクが盾を石床に下ろした時の重い音も、レイグは覚えていた。
記憶が欠けていたのは、まだ先だ。
「レイグ」
呼ばれて顔を上げると、ダルクがこちらを見ていた。
「聞いてんのか」
「ああ」
「なら帰るぞ。ヒールポーションも、もう一本しかねえ」
「……ああ」
答えながらレイグが通路の奥へ目を向けると、松明の光が届かない暗闇へと石造りの道が続き、その先にはまだ誰も足を踏み入れていなかった。
「何だよ」
ダルクがすぐに気づく。
「いや」
「その顔やめろ」
「どんな顔だよ」
「奥に何があるか気になってますって顔だ」
フィエラまで覗き込んでくる。
「してるね」
「お前まで」
「分かりやすいよ、レイグ」
レイグは再び暗い通路を見た。
十分なのは分かっていた。それでも高額報酬の探索で、ここまで誰も入っていない場所を見つけたのだ。
この先にも、まだ何かあるかもしれない。
「……少しだけ見ないか」
「見ねえ」
ダルクの返事は早かった。
「まだ何も言ってないだろ」
「言っただろ。少しだけ見るって」
「入口だけだよ」
「同じだ」
怒声が石壁に跳ね返った。
「これだけ取っただろ! 何で十分なところで帰れねえんだよ!」
「別に奥まで行くとは言ってない」
「だったら見る必要もねえ」
「何かあったらどうするんだよ」
「何もなくても帰るんだよ」
レイグの胸にも苛立ちが湧いた。
「せっかくここまで来たんだぞ」
「だから帰るんだ」
「二人とも」
フィエラは二人の間へ半歩入り、先にダルク側へ身体を向けた。
「私はダルクに賛成」
レイグは彼女を見る。
「フィエラまで?」
「まで、じゃない。矢も減ったし、私は魔法も使ってる。レイグも右脚、まだ痛いでしょ」
「歩ける」
「歩けるのと、また戦えるのは違うじゃん」
「戦うって決まったわけじゃない」
「そういう言い方する時が一番嫌」
はっきり言われ、レイグは黙った。
「今日はもう十分だよ」
フィエラが荷袋を指す。
「これ以上持てないくらい取ったじゃん」
「でも、もう少しあれば――」
「何に使う」
ダルクが聞いた。
「決まってるだろ」
「言ってみろ」
「母さんとネリナだよ」
声が強くなる。
「もう少し稼げれば、二人をもっと楽にできる。俺だって、しばらくこんな危ない仕事をしなくて済む」
「だったら今帰れ!」
ダルクが怒鳴った。
「それで帰ってこなかったら、誰が楽になるんだ!」
その言葉が胸に突き刺さったが、それでも、その時のレイグは引かなかった。
「帰るって言ってるだろ」
「俺が言ってんのは今帰れってことだ」
「入口を見るだけだ」
「それを帰るって言わねえんだよ」
「うるさいな」
レイグは自分の荷袋を持ち上げた。
「分かったよ。二人は帰れ」
ダルクの顔つきが変わり、フィエラも目を見開いた。
「俺だけ見てくる。何もなかったら戻る」
「お前……」
「無理に来いなんて言ってないだろ」
次の瞬間、ダルクがレイグの胸倉を掴んだ。
「その言い方が一番腹立つんだよ」
「何だよ」
「お前一人で行かせて、俺らだけ帰れるわけねえだろうが!」
「だったら来なきゃいい」
「そういう問題じゃねえ」
胸倉を掴む手に力が入る。
「お前、俺らが帰るって言ったら、本当に一人で行くだろ」
「俺の勝手だろ」
「勝手にすんなって言ってんだ!」
「ダルク」
フィエラが二人の間へ腕を入れた。
「離して」
ダルクが荒々しく手を放し、レイグも一歩下がった。
「レイグ」
フィエラがこちらへ向けた目には、怒りが浮かんでいた。
「私も帰りたいよ」
「なら帰れよ」
「一人にして帰れるわけないでしょ!」
声が震えていた。
「何で分かんないの」
「……俺は」
「レイグが行くなら、私たちだって行くことになるんだよ」
「そんなこと頼んでない」
「頼まれたからじゃない」
フィエラまで声を上げた。
「友達を危ない場所へ一人で行かせて、じゃあ私たちは帰りますってできるわけないでしょ!」
レイグは何も返せなかった。
ダルクが床に置いていた盾を拾い上げる。
「何もなかったら即戻る」
吐き捨てるように言った。
「次はねえからな」
「……分かった」
「信用してねえ」
「分かったって」
「その言葉も信用してねえ」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「黙って戻りゃいいんだよ」
フィエラが額に手を当てた。
「もう……二人とも本当に嫌」
それでも彼女はコンポジットボウを手に取り、三人で奥へ進んだ。
*
通路は緩やかに下っていた。
人が足を踏み入れた痕跡はほとんどなく、壁には古い亀裂が何本も走っている。ところどころで石材が床へ落ち、天井も低いため、ダルクは何度か盾の上端を擦った。
その奥から、石と石が擦れるような低い軋みが聞こえた。天井の隙間から細かな砂が一筋落ちる。
レイグは一度だけ見上げたが、古い遺跡なら珍しくないと決めつけ、暗闇を見続けた。
「本当に何もなかったら帰るからね」
フィエラが言う。
「ああ」
「宝箱が一個見えても?」
「中身くらい見るだろ」
「帰るぞ」
ダルクが即座に返した。
「まだ何もないだろ」
「今のうちに言っとくんだよ」
「二人とも、声落として」
フィエラが足を止めた。
「……何か嫌」
レイグも止まる。
「何が?」
「分かんない。でも、これ以上行きたくない」
ダルクが前方を見る。
「ならここまでだ。戻るぞ」
レイグも暗闇へ目を凝らしたが、何も見えない。それでも、さらに数歩先で通路が広がっているようだった。
「レイグ」
「戻る。……あそこを見たら」
「戻るんだぞ」
レイグの左足は、まだ二人のいる方を向いていた。
右足のつま先まで戻せば、それでよかった。
あの日、三人とも生きて帰れる最後の瞬間だった。
だがレイグは、先にある暗闇を見た。
「……あそこまで」
「おい」
「広くなってる。そこだけ確認する」
「レイグ!」
一歩踏み込んだ。
その足が石床へ着くより先に、通路の奥から、さっきより大きな鈍い音が響いた。
踵を返した。ダルクの盾も、フィエラの手も、一歩ぶん遠い。
三人の表情が同時に変わる。
石床へ細い亀裂が走った。
「下がって!」
フィエラが叫ぶ。
レイグも戻ろうとした。
だが亀裂は一瞬で左右へ広がり、足元の石が沈んだ。
「レイグ」
ダルクが走る。
フィエラも腕を伸ばした。
「手!」
レイグも手を伸ばす。
指先が触れそうになる。
そこで床が崩れた。
三人の身体が、無数の石材と一緒に暗闇へ落ちていった。
背中を岩に叩きつけられて肺から空気が抜け、そのまま崩れた斜面を転がりながら、肩と右脚を何度も石にぶつけた。
ようやく身体が止まった時には、上下さえ分からなくなっていた。
「……っ」
どうにか息を吸う。胸が痛み、右脚にも鋭い痛みが走る。
「ダルク」
声を張った。
「フィエラ」
「こっち!」
少し離れた場所からフィエラの声が返る。
「私いる! ダルクは!?」
「生きてる」
怒声が暗闇から飛んできた。
「くそ……何だここ」
レイグは近くに落ちていた松明まで這った。
火は消えかけていたが、まだ橙色の芯が残っている。拾い上げると、崩れた石や折れた柱が薄闇から浮かび上がり、その向こうでフィエラが立とうとしていた。
少し離れた場所には片膝をついたダルクもおり、三人とも傷ついていたが、まだ動ける。
「立てるか」
ダルクが叫ぶ。
「脚が痛い。でも歩ける」
「フィエラ」
「肩打った! 弓はある、弦も切れてない!」
「上へ戻れる場所を探すぞ!」
レイグが松明を掲げた、その時だった。
崩落の奥から、重い音が響いた。
三人とも動きを止める。
もう一度。
今度は石が押し退けられる音まで混じった。
「……何だよ」
ダルクが盾を構え、右手でバトルアックスを抜く。
レイグは松明をさらに高く上げた。
崩れた石材の向こうで、大きな影がゆっくりと起き上がる。
さっきの崩落で目覚めたのかもしれない。
何なのかを確かめる暇はなかった。
地下空間を揺らすような咆哮が響いたからだ。
「走れ!」
ダルクが叫んだ。
三人は落ちてきた場所とは反対側へ走ったが、上へ戻ろうにも、崩落した穴の下は瓦礫で塞がれていた。
「こっち」
フィエラが細い通路を見つける。
「奥に抜けられる」
レイグが先へ向かった。
背後から巨体が石を踏み砕く音が迫ってくる。
「来るぞ!」
ダルクが最後尾で振り向き、大盾を構えた。
「お前ら先行け!」
「ダルク」
「盾持ってんの俺だろ! 早く行け!」
巨大な影が迫る。
「止まれええっ!」
ダルクが盾を前へ突き出した。
衝撃音が地下へ響き、大柄な身体が何歩も後ろへ滑った。盾の表面は大きくへこみ、ダルクの左腕まで震えている。
「ぐっ……」
「ダルク」
「止まんな!」
フィエラが振り返りざまに矢を放った。
一射目に続けて二射目を射込み、さらに三本目へ手を伸ばす。
「効いてる?」
「分からん」
「じゃあもう一回」
「無駄撃ちすんな」
「今それ言う?」
声が上ずっていた。
怖いのだ。
フィエラは怖い時ほどよく喋る。
「フィエラ、前!」
「見てる」
通路まであと少しだった。
そこで魔物が壁へ身体をぶつけ、空間全体が大きく揺れた。
亀裂の入っていた石柱が折れる。
「上!」
レイグの叫びと同時に、石材が降ってきた。
三人は別方向へ飛ぶ。
轟音とともに粉塵が広がり、何も見えなくなった。
「ダルク」
返事がない。
「ダルク」
「……うるせえ」
瓦礫の向こうから、かすかな声がした。
レイグは急いで駆け寄った。
ダルクは壁際へ倒れ、大盾には大きな亀裂が走っている。左肩からも血が流れ、右脚に力を入れようとするたび顔を歪めた。
「立てるか」
「立つ」
壁に手をついたものの、身体が上がらない。
レイグは荷袋へ手を突っ込んだ。
「薬」
「最後だぞ」
「今使わなくていつ使うんだよ」
ヒールポーションの蓋を外し、ダルクに押しつける。
「飲め!」
「フィエラが――」
「腕が動かなきゃ全員終わる!」
フィエラも矢を構えたまま叫ぶ。
「飲んで」
ダルクは瓶の口と、矢を構えたままのフィエラを見比べた。だが迷っている間にも左肩から血が落ちる。瓶を奪うように受け取り、一気に飲み干した。
それで傷が消えるわけではない。肩からの出血が少し落ち着き、荒い呼吸もいくらか整った程度だったが、ダルクは歯を食いしばって立ち上がった。
「……行くぞ」
空になった瓶を投げ捨てる。
これで治療薬はない。
三人は再び通路へ向かった。
しかし遅い。
フィエラがダルクの反対側から身体を支え、レイグも肩を貸す。それでも負傷した三人では、迫ってくる巨体から逃げ切れない。
ダルクの呼吸は速く、盾を握る左手は薬を飲んだ後も震えていた。
「……怖え」
小さな声だった。
レイグが横を見る。
「何?」
「怖えって言ったんだよ」
ダルクが怒鳴った。
「死にたくねえんだよ!」
「俺だって」
「だったら何で奥なんか来たんだ、この馬鹿」
何も返せなかった。
フィエラが泣きそうな顔で声を張る。
「喧嘩は帰ってからにして」
「帰れたらな」
「帰るの」
フィエラが叫んだ。
「帰って三人で死ぬほど喧嘩するの! だから今は走って」
レイグはダルクを支え直した。
通路の入口まで、あと数歩。
そこで天井が再び大きく揺れた。
「走れ!」
レイグはダルクを前へ押し、フィエラも身を低くして駆けた。
巨大な石材が三人の間へ落ちる。
衝撃でレイグは床へ転がった。
「レイグ」
粉塵の向こうで、フィエラがこちらへ手を伸ばしていた。
レイグも立ち上がろうとする。
「フィエラ」
「こっち」
その瞬間、巨体が横から突っ込んできた。
「危ない!」
ダルクが叫ぶ。
フィエラの身体が弾き飛ばされ、石壁へ激しくぶつかった。
弓が手から離れ、床を滑っていく。
「フィエラ」
レイグは右脚の痛みを無視して走った。
フィエラは壁際に倒れていた。目は開いていたが、呼吸は浅かった。
「フィエラ」
「……痛い」
かすれた声だった。
「待ってろ。薬――」
荷袋へ手を入れたところで止まる。
もうない。
最後の一本はダルクへ使った。
フィエラもそれを分かっていた。
「ないでしょ」
「包帯がある」
「それでどうするの」
「何でもいい」
「怒鳴らないでよ……」
「悪い」
フィエラの顔が歪んだ。
「怖いから」
「ああ」
「すごく、怖い」
胸が潰れそうだった。
「大丈夫だ」
根拠のない言葉が口から出た。
「帰るから」
「……うん」
「三人で帰る」
「うん……」
フィエラがレイグの肩越しを見た。
「ダルク……」
振り返る。
ダルクが立っていた。
ヒールポーションでどうにか動くようになった左腕に、ひびの入った盾をつけている。右手のバトルアックスも下がり、脚は震えていた。
その正面に魔物がいる。
「ダルク」
「来んな!」
「無理だ」
「フィエラ連れて行け!」
「一人で残るな!」
「誰のせいで覚えたと思ってんだ」
ダルクが振り返った。
顔が恐怖で引きつっている。
「一人で決めんなって、お前に何回言や分かる!」
魔物が動いた。
ダルクが盾を上げる。
衝突と同時に、亀裂の入っていた盾が砕けた。
ダルクの身体が石柱へ叩きつけられる。
「ダルク」
返事はなかった。
ダルクが石柱の根元に崩れると、右手からバトルアックスが抜け落ち、床を転がっていく。
レイグは立ち上がろうとした。
背後でフィエラが咳き込む。
「レイグ……」
振り返ると、彼女がかすかに手を動かしていた。
レイグはすぐにその手を握った。
「ここにいる」
「……ダルクは?」
答えられなかった。
フィエラにも分かったのだろう。
目を閉じかけ、また開く。
「行かないで」
「ああ」
「一人で……行かないで」
「行かない」
握っていた指から、少しずつ力が抜けた。
「フィエラ?」
返事がない。
「おい」
もう一度名前を呼ぶ。
「フィエラ」
動かなかった。
レイグはその手を握ったまま、しばらく何もできなかった。
背後で石が砕ける。
魔物が近づいてくる。
ダルクも動かない。
フィエラも動かない。
そこでようやく理解した。
自分が奥へ行かなければ。
一人で行くなどと言わなければ。
二人はここにいなかった。
レイグはゆっくり立ち上がり、剣を握って魔物へ向き直った。
「俺が……」
握る手に力を込める。
「俺が連れてきたんだ」
振り下ろした剣は弾かれ、手首に激しい衝撃が走った。もう一度踏み込もうとしたところへ巨体が横から振るわれ、避けきれず身体が宙へ浮く。
床へ叩きつけられた衝撃で肺から空気が抜け、剣も手を離れて転がった。
立てない。
視界の端にはダルクが倒れ、反対側にはフィエラがいる。自分の耳には、もう魔物の音さえ遠かった。
どうして帰らなかった。
宝は十分にあり、二人とも帰ろうと言っていた。それなのに自分は、もう少しだけ、あと少しだけと先へ進んだ。
家族のためだと言えば、間違っていないような気がしていた。
レイグは腕を伸ばしたが、誰にも届かない。そのまま視界が暗くなっていった。
最後に思い出したのは、奥へ進む前の二人の言葉だった。
帰ろう。
もう十分だ。
そこで記憶は終わらなかった。
ダルクは死んだ。
フィエラも死んだ。
そしてレイグ自身も、その地下で息絶えた。
今まで欠けていた最後の部分が、すべてつながった。
*
「――っ」
レイグは大きく息を吸った。
夕暮れのネルトアだった。
自分は石畳に両手をついており、身体が止められないほど震えている。
「レイグ!」
ダルクが肩を掴んだ。
「おい! 聞こえてるか!」
レイグは顔を上げた。
ダルクがいる。
フィエラもいる。
傷一つなく、生きているようにしか見えない。
だが、もう知らないふりはできなかった。
「……死んだ」
「何?」
「俺たち……三人とも、あそこで死んだ」
フィエラの顔がこわばった。
「思い出したの?」
レイグはゆっくり頷いた。
「最後まで?」
「ああ」
喉が震えた。
「二人は帰ろうって言ってた」
ダルクの手から少し力が抜ける。
「もう十分だから帰ろうって……二人とも言ってた」
「レイグ」
「俺が行った」
声がうまく出ない。
「俺が、もう少しだけって言った」
ダルクが何か言おうとして口を開いた。
だが、口を開いたまま数秒動きを止め、結局、何も言わずに閉じた。
「二人は来たくなかった」
レイグは止まれなかった。
「俺が一人で行くって言ったから……置いて帰れないって、二人ともついてきた」
「……私たちが?」
フィエラの声がかすれた。
「ああ」
「私、何も……覚えてない」
「二人が覚えてないことも、分かってる」
「そんなこと言われても、何て言えばいいか――」
「責めてるんじゃない。俺が、忘れたふりをできないだけだ」
思わず強く言った。
フィエラの肩が揺れる。
レイグはすぐに顔を伏せた。
「……悪い」
石畳についた自分の手には血も土もないのに、あの地下で触れたフィエラの手の冷たさが、まだ指に残っていた。
「俺が二人を死なせた」
ダルクは否定しなかった。
フィエラも、できなかった。
二人には、最期の記憶がない。
何度かダルクが口を開きかけたが、結局何も言わなかった。フィエラもレイグへ手を伸ばしかけ、途中で止める。
夕方の風だけが、黙り込んだ三人の間を抜けていった。
しばらくして、ダルクが低い声で言った。
「……帰るぞ」
レイグは顔を上げなかった。
「家まで送る」
「一人で帰れる」
「そういう話してねえ」
「放っといてくれ」
「嫌だ」
即答だった。
「今のお前を一人にして帰れるか」
あの地下では届かなかったダルクの手が、今は逃がすまいとレイグの腕を掴んでいる。何も覚えていないはずなのに、生前と同じように、ダルクはまた自分を一人にしない。ダルクの指が、腕に痛いほど食い込んでいた。
フィエラも黙ったままレイグの反対側へ立ち、レイグはもう何も言えなかった。
*
その夜、レイグは自室の寝台に座ったまま、ほとんど動かなかった。
階下からはミレサとネリナの声が聞こえている。何かを話しているらしく、ときどきネリナが笑い、それをミレサがたしなめる声まで届いた。
いつもなら安心する音だったが、今は顔を見に下りることさえできない。
『ここに、生きている者はいません』
王妃の言葉が、何度も頭の中に蘇る。
自分は死んだ。
ダルクとフィエラも、自分と同じ場所で死んだ。
それだけは、もう否定できなかった。
ならば、階下で笑っている二人は何なのか。
そこまで考えた瞬間、レイグは両手で顔を覆った。
「やめろ……」
今は考えたくなかった。
これ以上考えれば、自分の中でまだ残っている何かまで壊れてしまう気がした。
やがて遠くで、深夜を告げる鐘が鳴り始めた。
一度目の音が町を渡り、続いて二度目、三度目と重なっていく。
レイグが顔を上げないまま鐘が最後まで鳴り終わる頃、階下の気配も外の音も唐突に途切れ、部屋ごと世界が暗闇へ沈んでいった。
意識が消える直前まで残っていたのは、あの遺跡で聞いた二人の声だった。
帰ろう。
もう十分だ。
あの日、二人は確かにそう言っていた。




