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明日のないカレグノス  作者: Aramaki_mai
第四部 死者の国
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39/68

第39話 死のない国

挿絵(By みてみん)

《王家臨時館》の扉を押し開けた瞬間、午後のざわめきがレイグを包んだ。


負傷者を運ぶ一団の掛け声に、鍛冶場の金属音、古い石橋を渡って戻った探索者たちの怒鳴り声が重なる。その向こうでは、カレグノスの外周へ黒い霧が入り始めたと伝令が声を張っていた。


どれも、いつもと変わらない前線拠点の音で、こんな場所が生者の一人もいない国だとは思えなかった。


「レイグ」


背後からダルクが呼んだ。


レイグは止まらない。


「待てって!」


肩を掴まれ、ようやく振り返った。


「離せ」


「どこ行く気だ」


「証明する」


「何をだよ」


「あの人たちが間違ってるってことだ」


思った以上に大きな声が出て、近くを歩いていた探索者がこちらを見たが、それでもレイグは声を落とせなかった。


「ここに生きてる奴はいない? そんなわけあるか。町中に人がいる。飯を食って、働いて、怪我して、病気にもなる。母さんもネリナも――」


「レイグ」


フィエラは追いついても、レイグの前へは回らなかった。治療所へ運ばれる男、橋から戻った探索者、霧の到来を叫ぶ伝令へ順に視線を送り、最後に治療所の入口を示す。


「あの人たちの、どれを見れば証明になるの?」


「……何?」


「何を見つけたら、王妃が間違ってるって言えるの? 気に入らない答えだったら、また別のところへ行くの?」


答えは出なかったが、何かあるはずだった。生きている人間と死んだ人間が違う証拠など、探そうと思えばいくらでも見つかるはずだ。


「町へ戻る。ここにいたって何も分からない」


レイグは肩を掴む手を振り払った。


「お前らは納得したかもしれないけど、俺は――」


「誰が納得したって言った!」


ダルクの声に、また探索者が振り向いた。


「誰が死人だって言われて、はいそうですかって頷けるか。お前だけの話にすんな」


「だったら来ればいいだろ」


「行くに決まってんだろうが」


レイグは背を向けた。すぐ後ろでダルクが、邪魔だ、と誰かに怒鳴る。レイグは馬車乗り場へ向かいながら、その声にさえ腹を立てていた。


フィエラが追いついてきたが、今度は何も言わず、並んで歩いた。


*


ネルトアへ戻る乗合馬車では三人ともほとんど口を開かず、窓の外を畑と低い林が流れ、車輪が街道の石を踏むたびに座席が小さく揺れた。


いつもと同じ帰り道だった。


前方では商人が居眠りをし、その隣では腕を包帯で吊った探索者が仲間と小声で話している。


「明日は休む」


「そうしろ。腕、ちゃんと治してからにしろよ」


「ああ」


その会話を耳にして、レイグは思わず二人へ視線を向けた。


また、明日だ。


「レイグ」


向かいからフィエラが小さく呼んだ。


「何だ」


「さっきから、誰かが明日って言うたびに顔変わってるよ」


「……放っとけ」


「放っとけないから言ってるんだけど」


隣のダルクは窓の外を向いたまま、口を閉じていた。車輪が石を踏むと肩がぶつかったが、二人とも座り直さなかった。


レイグが窓へ顔を向けると、遠くにネルトアの屋根が見え始めていた。


あそこには母がいて、ネリナもいる。今朝だって三人で同じ食卓を囲み、ネリナは話を聞いていなかった自分へ腹を立て、母は危ないことをするなと心配していた。


二人とも、自分で考えて怒り、笑っている。


それを全部、死者の世界だから存在しているものだとは思いたくなかった。


*


ネルトアへ戻ったレイグが最初に向かった教会の裏手には、古い墓地が広がっている。夕方が近づき、大小の墓石の間には長い影が伸びていた。


真新しい墓石の前には花が供えられ、少し離れた場所では老人が、文字の削れかけた古い墓石についた土を丁寧に拭っている。祈りを捧げている者もいた。


どこから見ても、ごく普通の墓地だった。


「……ほら」


ダルクが隣に並ぶ。


「何がだ」


「墓がある」


「見りゃ分かる」


「ここで生きて、死んだ人間の墓だろ。死んだ奴と、生きてる奴がちゃんと分かれてる」


レイグは墓石を指した。


「だったら王妃の言ってることはおかしい」


ダルクはしばらく墓を眺めていた。


「それは死んだ奴がいる証拠だ」


「何?」


「お前が生きてる証拠じゃねえ」


胸を突かれたようだった。


「同じだろ」


「同じじゃねえ」


「じゃあ何なら証拠になるんだよ」


「それを俺に聞くな」


「……うるさいな」


「答えただけだろ」


「今は黙ってろ」


吐き捨てると、ダルクの眉が上がった。


「お前な――」


「あれ」


フィエラが教会の方を見ると、何人かの男が横手の扉から細長い木箱を運び出していた。


それは棺で、その後ろを目を赤くした女と幼い少年が歩いている。


レイグの足が止まった。


棺を運んでいた男が聖職者に聞く。


「このまま置くんですか」


「今からでは遅いでしょう。埋葬は明朝にします」


「……分かりました」


女が棺に手を置いた。


「主人を、一晩ここへ?」


「中でお預かりします。ご心配なく。明日の朝、鐘の後に始めましょう」


その言葉を聞いた瞬間、レイグは棺から目を離せなくなった。


「……明日?」


聖職者がこちらを見る。


「はい?」


気づけば、レイグは棺へ近づいていた。


「その人……今日、死んだんですか」


女の肩がこわばる。


聖職者が少し不快そうな顔をした。


「カレグノスで亡くなられたそうです。仲間の方が黒い霧に退路を塞がれる前に、ここまで運ばれました」


「明日、埋めるんですよね」


「ええ」


「本当に?」


今度は聖職者だけでなく、棺の周りにいた全員がレイグを見た。


「何をお尋ねになりたいのですか」


「明日の朝も、この人はここにいるんですか」


「レイグ」


フィエラが腕を掴んだ。


「行こう」


「でも――」


「今それ、その人たちに聞くことじゃない」


棺の横にいる少年の怯えた目を見て、レイグは我に返った。


「……すみません」


家族が棺とともに教会へ入ったあと、レイグは聖職者を追った。何度も頼み込み、奥の小部屋へ通された。


卓に出されたのは、墓地の帳面と、教会が残してきた出生と埋葬の帳面だった。


乾いた紙を一枚ずつめくった。葬られた者の名。生まれた子の名。何年分もの名が並んでいる。だが最後の頁は、どの帳面も今日の日付で終わっていた。


帳面の脇には、今日生まれた子の届けと、棺の男の名を書いた紙が重ねてあった。どちらにも、隅に小さく「明日」と記されていた。


指先が、紙の端で止まった。


頭を下げて教会から離れたが、墓地を出ても棺が頭から離れなかった。


今夜また同じことが起きれば、深夜の鐘が鳴ったあとに世界は朝へ戻る。


そうなれば、あの棺も葬儀の準備も消える。そして今日カレグノスで死んだ男自身も、何事もなかった朝の姿へ戻っているはずだ。


妻も息子も、棺を前に泣いたことを覚えていない。聖職者も、明朝の埋葬を約束したことなど知らない顔をする。


葬儀は明日に予定された。


その明日は来ない。


「違う」


思わず口から漏れた。


「何が?」


フィエラが聞く。


「これだけじゃ何も分からない」


「私、何も言ってないけど」


「顔に出てる」


「レイグ」


「まだある」


レイグは早足になった。


「町には記録がある。昔のことだってちゃんと残ってる。人が生きてきた証拠がある」


「待てって」


ダルクの声を無視して役所へ向かいながら、レイグ自身、何を見つければ王妃に勝てるのか分からなくなり始めていた。


それでも止まれない。


家へ帰れば母がいる。ネリナもいる。


二人と食卓を囲めば喧嘩もするし、くだらないことで笑いもする。今日の朝だってそうだった。


あの時間を全部、死者の世界にある偽物の暮らしとして片づけられたくなかった。


*


夕方の役所は、仕事を終えようとする者と、閉まる前に用事を済ませようとする者で混み合っていた。


「それは明日に回せ!」


若い役人が紙束を二つに分ける。その手つきを見た瞬間、教会で見た出生と埋葬の届けがレイグの目に重なった。


「その日誌、見せてくれ」


机へ手を伸ばすと、役人がレイグの手首を掴んだ。


「触るな。何の用だ」


開いた頁には今日の日付があり、その下には新しい文字が並んでいる。次の行は白いままだった。


「今日の文字は、明日の朝も残るのか」


「当たり前だろ」


役人の指は温かく、掴む力も確かだった。紙と墨の匂いも、周囲の苛立った声も、死者の国にある偽物とは思えない。


「紙に書いた文字が、一晩で消えてたまるか」


その答えを聞きながら、レイグは空になった隠し場所を思い出していた。自分で書いた紙も、金貨に刻んだ傷も、深夜を越えられなかった。今ここにある温かさも声も本物なのに、それを記した文字は朝になれば消える。


「……悪かった」


役人が気味悪そうに手を放す。


役所を出ると、夕日がネルトアの屋根を赤く染めていた。仕事を終えた者は酒場へ向かい、子供たちは家へ駆けていく。皆が確かに今日を生き、その先に明日があると信じている。


レイグだけが、その白い頁へ明日の文字が書かれないことを知っていた。


「もうやめろ」


背後からダルクが言った。


レイグは振り返った。


「何でだよ」


「分かってんだろ」


「何を」


「お前、もう証拠なんか探してねえ」


「探してる」


「王妃が間違ってる理由だけ探してんだよ」


レイグの頭に血が上った。


「当たり前だろ」


「何が当たり前なんだ」


「あれが本当だったら」


レイグは言葉に詰まり、この先を口にしたくなかった。


言ってしまえば、自分がそこまで考えていたことまで認めるような気がした。


ダルクもフィエラも黙っている。


「……だったら」


喉が震えた。


「母さんたちは何なんだよ」


ダルクの表情が変わった。


「母さんは毎朝、飯を作ってる。俺が遅けりゃ怒るし、怪我して帰れば心配する。ネリナだって笑うし、怒るし、俺にちゃんと帰ってこいって言う!」


声が抑えられない。


「それでも死人だっていうのかよ!」


誰も答えなかった。


「なあ」


「分からねえよ」


ダルクが怒鳴り返した。


「俺だって分からねえ」


「だったら王妃が正しいみたいに言うな」


「言ってねえだろ」


ダルクが一歩近づく。


「分からねえから、分からねえまま見ろって言ってんだ!」


「俺は見てる」


「見てねえ」


「何でお前に分かるんだよ」


「お前が怖がってるからだよ」


胸を殴られたようで、レイグは黙った。


ダルクも荒い呼吸を繰り返しながら、拳を握っている。


「俺だって怖えよ」


少し低くなった声には、それでも怒りが残っていた。


「死人だって言われて、怖くねえわけねえだろ。だけどな、怖いからって自分の欲しい答えに決めたら、前のお前と同じだろうが!」


「……うるさい」


「レイグ」


「うるさい」


レイグが背を向けると、フィエラが追おうとしたが、ダルクが一瞬だけ腕を出して止めた。


それでも二人は、レイグが歩き出すと少し距離を空けて後ろからついてきた。


放ってはおかない。


それが今は余計に腹立たしかった。


通りの端では、荷運びの男たちが石材を荷車から下ろしていた。


「そっち持て」


「待て、傾いてる!」


誰かが叫ぶ。


次の瞬間、支えを外れた石材が地面へ落ちた。


ガンッ――


角が割れ、乾いた破砕音が通りへ響いた。


レイグの足が止まる。


夕焼けに染まったネルトアが、視界から消えた。


「――え?」


次に見えたのは、松明に照らされた地下の石造りの通路だった。


見覚えのないはずの場所なのに、足元に置かれた荷袋も、その口から覗く金貨や銀の器、古い装飾品も、なぜか知っている。


そこには、十分どころか三人では運び切れないほどの宝がすでにあった。


『もう戻ろうぜ』


ダルクの声が聞こえた。


『これだけあれば十分でしょ』


フィエラもおり、二人とも今より少し汚れ、疲れていた。


レイグは何か答えている。


だが、自分の声だけが聞こえない。


その直後、石床へ細い亀裂が走った。


「レイグ!」


ダルクの叫びと同時に亀裂が広がり、足元の床が大きく沈んだ。


フィエラが腕を伸ばし、その顔は、今まで見たどの戦いよりも強い恐怖に歪んでいた。


レイグも手を伸ばした。


指先が近づく。


それでも届かない。


床が崩れ落ち、身体が暗闇へ投げ出された。


そのさらに下から、何か巨大なものが目を覚ましたような咆哮が突き上げてくる。


「――レイグ!」


肩を強く掴まれた。


視界が戻った。


夕暮れのネルトア。


割れた石材。


目の前にはフィエラがいる。


「大丈夫?」


レイグの膝から力が抜け、石畳に片手をついた。


「おい」


ダルクも駆け寄る。


「どうした! どこか痛えのか!」


息がうまく吸えなかった。


身体に傷などない。それなのに、足元が崩れた浮遊感と、暗闇へ落ちていく恐怖だけが腹の底に残っている。


レイグは顔を上げた。


ダルクとフィエラ。


さっき見えた光景にも、同じ二人がいた。


「今の……」


「何?」


フィエラがしゃがみ込む。


「何を見たの?」


口を開いたものの、出てきたのは冷えた息だけだった。


松明に照らされた地下通路。持ちきれないほどの宝。床に走った亀裂。そして、落ちていく自分へ手を伸ばしていた二人。


あれはカレグノスではない。


それでも、知らない場所ではなかった。


「……あの遺跡」


「遺跡?」


レイグは震える手を強く握った。


「俺……行ったことがある」


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