第39話 死のない国
《王家臨時館》の扉を押し開けた瞬間、午後のざわめきがレイグを包んだ。
負傷者を運ぶ一団の掛け声に、鍛冶場の金属音、古い石橋を渡って戻った探索者たちの怒鳴り声が重なる。その向こうでは、カレグノスの外周へ黒い霧が入り始めたと伝令が声を張っていた。
どれも、いつもと変わらない前線拠点の音で、こんな場所が生者の一人もいない国だとは思えなかった。
「レイグ」
背後からダルクが呼んだ。
レイグは止まらない。
「待てって!」
肩を掴まれ、ようやく振り返った。
「離せ」
「どこ行く気だ」
「証明する」
「何をだよ」
「あの人たちが間違ってるってことだ」
思った以上に大きな声が出て、近くを歩いていた探索者がこちらを見たが、それでもレイグは声を落とせなかった。
「ここに生きてる奴はいない? そんなわけあるか。町中に人がいる。飯を食って、働いて、怪我して、病気にもなる。母さんもネリナも――」
「レイグ」
フィエラは追いついても、レイグの前へは回らなかった。治療所へ運ばれる男、橋から戻った探索者、霧の到来を叫ぶ伝令へ順に視線を送り、最後に治療所の入口を示す。
「あの人たちの、どれを見れば証明になるの?」
「……何?」
「何を見つけたら、王妃が間違ってるって言えるの? 気に入らない答えだったら、また別のところへ行くの?」
答えは出なかったが、何かあるはずだった。生きている人間と死んだ人間が違う証拠など、探そうと思えばいくらでも見つかるはずだ。
「町へ戻る。ここにいたって何も分からない」
レイグは肩を掴む手を振り払った。
「お前らは納得したかもしれないけど、俺は――」
「誰が納得したって言った!」
ダルクの声に、また探索者が振り向いた。
「誰が死人だって言われて、はいそうですかって頷けるか。お前だけの話にすんな」
「だったら来ればいいだろ」
「行くに決まってんだろうが」
レイグは背を向けた。すぐ後ろでダルクが、邪魔だ、と誰かに怒鳴る。レイグは馬車乗り場へ向かいながら、その声にさえ腹を立てていた。
フィエラが追いついてきたが、今度は何も言わず、並んで歩いた。
*
ネルトアへ戻る乗合馬車では三人ともほとんど口を開かず、窓の外を畑と低い林が流れ、車輪が街道の石を踏むたびに座席が小さく揺れた。
いつもと同じ帰り道だった。
前方では商人が居眠りをし、その隣では腕を包帯で吊った探索者が仲間と小声で話している。
「明日は休む」
「そうしろ。腕、ちゃんと治してからにしろよ」
「ああ」
その会話を耳にして、レイグは思わず二人へ視線を向けた。
また、明日だ。
「レイグ」
向かいからフィエラが小さく呼んだ。
「何だ」
「さっきから、誰かが明日って言うたびに顔変わってるよ」
「……放っとけ」
「放っとけないから言ってるんだけど」
隣のダルクは窓の外を向いたまま、口を閉じていた。車輪が石を踏むと肩がぶつかったが、二人とも座り直さなかった。
レイグが窓へ顔を向けると、遠くにネルトアの屋根が見え始めていた。
あそこには母がいて、ネリナもいる。今朝だって三人で同じ食卓を囲み、ネリナは話を聞いていなかった自分へ腹を立て、母は危ないことをするなと心配していた。
二人とも、自分で考えて怒り、笑っている。
それを全部、死者の世界だから存在しているものだとは思いたくなかった。
*
ネルトアへ戻ったレイグが最初に向かった教会の裏手には、古い墓地が広がっている。夕方が近づき、大小の墓石の間には長い影が伸びていた。
真新しい墓石の前には花が供えられ、少し離れた場所では老人が、文字の削れかけた古い墓石についた土を丁寧に拭っている。祈りを捧げている者もいた。
どこから見ても、ごく普通の墓地だった。
「……ほら」
ダルクが隣に並ぶ。
「何がだ」
「墓がある」
「見りゃ分かる」
「ここで生きて、死んだ人間の墓だろ。死んだ奴と、生きてる奴がちゃんと分かれてる」
レイグは墓石を指した。
「だったら王妃の言ってることはおかしい」
ダルクはしばらく墓を眺めていた。
「それは死んだ奴がいる証拠だ」
「何?」
「お前が生きてる証拠じゃねえ」
胸を突かれたようだった。
「同じだろ」
「同じじゃねえ」
「じゃあ何なら証拠になるんだよ」
「それを俺に聞くな」
「……うるさいな」
「答えただけだろ」
「今は黙ってろ」
吐き捨てると、ダルクの眉が上がった。
「お前な――」
「あれ」
フィエラが教会の方を見ると、何人かの男が横手の扉から細長い木箱を運び出していた。
それは棺で、その後ろを目を赤くした女と幼い少年が歩いている。
レイグの足が止まった。
棺を運んでいた男が聖職者に聞く。
「このまま置くんですか」
「今からでは遅いでしょう。埋葬は明朝にします」
「……分かりました」
女が棺に手を置いた。
「主人を、一晩ここへ?」
「中でお預かりします。ご心配なく。明日の朝、鐘の後に始めましょう」
その言葉を聞いた瞬間、レイグは棺から目を離せなくなった。
「……明日?」
聖職者がこちらを見る。
「はい?」
気づけば、レイグは棺へ近づいていた。
「その人……今日、死んだんですか」
女の肩がこわばる。
聖職者が少し不快そうな顔をした。
「カレグノスで亡くなられたそうです。仲間の方が黒い霧に退路を塞がれる前に、ここまで運ばれました」
「明日、埋めるんですよね」
「ええ」
「本当に?」
今度は聖職者だけでなく、棺の周りにいた全員がレイグを見た。
「何をお尋ねになりたいのですか」
「明日の朝も、この人はここにいるんですか」
「レイグ」
フィエラが腕を掴んだ。
「行こう」
「でも――」
「今それ、その人たちに聞くことじゃない」
棺の横にいる少年の怯えた目を見て、レイグは我に返った。
「……すみません」
家族が棺とともに教会へ入ったあと、レイグは聖職者を追った。何度も頼み込み、奥の小部屋へ通された。
卓に出されたのは、墓地の帳面と、教会が残してきた出生と埋葬の帳面だった。
乾いた紙を一枚ずつめくった。葬られた者の名。生まれた子の名。何年分もの名が並んでいる。だが最後の頁は、どの帳面も今日の日付で終わっていた。
帳面の脇には、今日生まれた子の届けと、棺の男の名を書いた紙が重ねてあった。どちらにも、隅に小さく「明日」と記されていた。
指先が、紙の端で止まった。
頭を下げて教会から離れたが、墓地を出ても棺が頭から離れなかった。
今夜また同じことが起きれば、深夜の鐘が鳴ったあとに世界は朝へ戻る。
そうなれば、あの棺も葬儀の準備も消える。そして今日カレグノスで死んだ男自身も、何事もなかった朝の姿へ戻っているはずだ。
妻も息子も、棺を前に泣いたことを覚えていない。聖職者も、明朝の埋葬を約束したことなど知らない顔をする。
葬儀は明日に予定された。
その明日は来ない。
「違う」
思わず口から漏れた。
「何が?」
フィエラが聞く。
「これだけじゃ何も分からない」
「私、何も言ってないけど」
「顔に出てる」
「レイグ」
「まだある」
レイグは早足になった。
「町には記録がある。昔のことだってちゃんと残ってる。人が生きてきた証拠がある」
「待てって」
ダルクの声を無視して役所へ向かいながら、レイグ自身、何を見つければ王妃に勝てるのか分からなくなり始めていた。
それでも止まれない。
家へ帰れば母がいる。ネリナもいる。
二人と食卓を囲めば喧嘩もするし、くだらないことで笑いもする。今日の朝だってそうだった。
あの時間を全部、死者の世界にある偽物の暮らしとして片づけられたくなかった。
*
夕方の役所は、仕事を終えようとする者と、閉まる前に用事を済ませようとする者で混み合っていた。
「それは明日に回せ!」
若い役人が紙束を二つに分ける。その手つきを見た瞬間、教会で見た出生と埋葬の届けがレイグの目に重なった。
「その日誌、見せてくれ」
机へ手を伸ばすと、役人がレイグの手首を掴んだ。
「触るな。何の用だ」
開いた頁には今日の日付があり、その下には新しい文字が並んでいる。次の行は白いままだった。
「今日の文字は、明日の朝も残るのか」
「当たり前だろ」
役人の指は温かく、掴む力も確かだった。紙と墨の匂いも、周囲の苛立った声も、死者の国にある偽物とは思えない。
「紙に書いた文字が、一晩で消えてたまるか」
その答えを聞きながら、レイグは空になった隠し場所を思い出していた。自分で書いた紙も、金貨に刻んだ傷も、深夜を越えられなかった。今ここにある温かさも声も本物なのに、それを記した文字は朝になれば消える。
「……悪かった」
役人が気味悪そうに手を放す。
役所を出ると、夕日がネルトアの屋根を赤く染めていた。仕事を終えた者は酒場へ向かい、子供たちは家へ駆けていく。皆が確かに今日を生き、その先に明日があると信じている。
レイグだけが、その白い頁へ明日の文字が書かれないことを知っていた。
「もうやめろ」
背後からダルクが言った。
レイグは振り返った。
「何でだよ」
「分かってんだろ」
「何を」
「お前、もう証拠なんか探してねえ」
「探してる」
「王妃が間違ってる理由だけ探してんだよ」
レイグの頭に血が上った。
「当たり前だろ」
「何が当たり前なんだ」
「あれが本当だったら」
レイグは言葉に詰まり、この先を口にしたくなかった。
言ってしまえば、自分がそこまで考えていたことまで認めるような気がした。
ダルクもフィエラも黙っている。
「……だったら」
喉が震えた。
「母さんたちは何なんだよ」
ダルクの表情が変わった。
「母さんは毎朝、飯を作ってる。俺が遅けりゃ怒るし、怪我して帰れば心配する。ネリナだって笑うし、怒るし、俺にちゃんと帰ってこいって言う!」
声が抑えられない。
「それでも死人だっていうのかよ!」
誰も答えなかった。
「なあ」
「分からねえよ」
ダルクが怒鳴り返した。
「俺だって分からねえ」
「だったら王妃が正しいみたいに言うな」
「言ってねえだろ」
ダルクが一歩近づく。
「分からねえから、分からねえまま見ろって言ってんだ!」
「俺は見てる」
「見てねえ」
「何でお前に分かるんだよ」
「お前が怖がってるからだよ」
胸を殴られたようで、レイグは黙った。
ダルクも荒い呼吸を繰り返しながら、拳を握っている。
「俺だって怖えよ」
少し低くなった声には、それでも怒りが残っていた。
「死人だって言われて、怖くねえわけねえだろ。だけどな、怖いからって自分の欲しい答えに決めたら、前のお前と同じだろうが!」
「……うるさい」
「レイグ」
「うるさい」
レイグが背を向けると、フィエラが追おうとしたが、ダルクが一瞬だけ腕を出して止めた。
それでも二人は、レイグが歩き出すと少し距離を空けて後ろからついてきた。
放ってはおかない。
それが今は余計に腹立たしかった。
通りの端では、荷運びの男たちが石材を荷車から下ろしていた。
「そっち持て」
「待て、傾いてる!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、支えを外れた石材が地面へ落ちた。
ガンッ――
角が割れ、乾いた破砕音が通りへ響いた。
レイグの足が止まる。
夕焼けに染まったネルトアが、視界から消えた。
「――え?」
次に見えたのは、松明に照らされた地下の石造りの通路だった。
見覚えのないはずの場所なのに、足元に置かれた荷袋も、その口から覗く金貨や銀の器、古い装飾品も、なぜか知っている。
そこには、十分どころか三人では運び切れないほどの宝がすでにあった。
『もう戻ろうぜ』
ダルクの声が聞こえた。
『これだけあれば十分でしょ』
フィエラもおり、二人とも今より少し汚れ、疲れていた。
レイグは何か答えている。
だが、自分の声だけが聞こえない。
その直後、石床へ細い亀裂が走った。
「レイグ!」
ダルクの叫びと同時に亀裂が広がり、足元の床が大きく沈んだ。
フィエラが腕を伸ばし、その顔は、今まで見たどの戦いよりも強い恐怖に歪んでいた。
レイグも手を伸ばした。
指先が近づく。
それでも届かない。
床が崩れ落ち、身体が暗闇へ投げ出された。
そのさらに下から、何か巨大なものが目を覚ましたような咆哮が突き上げてくる。
「――レイグ!」
肩を強く掴まれた。
視界が戻った。
夕暮れのネルトア。
割れた石材。
目の前にはフィエラがいる。
「大丈夫?」
レイグの膝から力が抜け、石畳に片手をついた。
「おい」
ダルクも駆け寄る。
「どうした! どこか痛えのか!」
息がうまく吸えなかった。
身体に傷などない。それなのに、足元が崩れた浮遊感と、暗闇へ落ちていく恐怖だけが腹の底に残っている。
レイグは顔を上げた。
ダルクとフィエラ。
さっき見えた光景にも、同じ二人がいた。
「今の……」
「何?」
フィエラがしゃがみ込む。
「何を見たの?」
口を開いたものの、出てきたのは冷えた息だけだった。
松明に照らされた地下通路。持ちきれないほどの宝。床に走った亀裂。そして、落ちていく自分へ手を伸ばしていた二人。
あれはカレグノスではない。
それでも、知らない場所ではなかった。
「……あの遺跡」
「遺跡?」
レイグは震える手を強く握った。
「俺……行ったことがある」




