第38話 王妃の答え
死者とは誰なのか。答えを待つレイグに、誰も口を開かなかった。
《王家臨時館》の一室には、五人しかいない。机の向こうにヴァレドとイセラ、その正面にレイグが立ち、左右にはダルクとフィエラがいる。
閉じた扉の向こうからは役人たちの足音がかすかに聞こえ、さらに遠くでは、前線拠点へ戻ってきた探索者を誘導する声が飛び交っていた。
それなのに、この部屋だけが周囲の喧騒から切り離されたように静かだった。
「誰を生き返らせるために、《生命の雫》を探してるんです」
レイグがもう一度聞いたが、ヴァレドは答えない。
イセラは、口を閉ざした夫と、答えを待つレイグを交互に見た。
「今、それを知る必要はない」
ヴァレドが言った。
レイグの顔が険しくなる。
「ここまで話しておいて?」
「知れば、知らなかった頃には戻れない」
「俺はもう何度も同じ朝へ戻ってるんですよ」
声が部屋へ響いた。
ダルクが横目でレイグを見る。フィエラは口を挟まず、王夫妻の表情を見比べていた。
「俺が聞いてるのは、死者って誰なのかです。《生命の雫》は死者を生へ戻すんでしょう?」
ヴァレドの口が閉じる。
「だったら、誰を戻すんです」
「ヴァレド」
イセラが夫を呼ぶと、ヴァレドがこちらを見た。
「ここまで知った者に、まだ隠すのですか」
「イセラ」
「知らずに戻れるところは、もう過ぎています」
夫の顔がわずかにこわばったが、イセラはそれ以上待たなかった。
「レイグ・オルディア」
名を呼ぶと、レイグがこちらを向いた。
「あなたが尋ねた死者とは、私たちのことです」
一瞬、レイグの顔から表情が消えたが、イセラはその顔を見たまま告げた。
「ここに、生きている者はいません」
*
「……何を言ってるんです」
レイグは王妃を見たまま問い返した。聞き間違えたのだと思いたかった。そうでなければ、今の言葉の意味が分からない。
イセラは視線を逸らさない。
「私も、陛下も、あなたも」
そしてダルクとフィエラにも目を向けた。
「この王国にいる者は、すでに死んでいます」
「違う」
考えるより先に言葉が出て、レイグは自分の胸に手を当てると、服越しに伝わる鼓動を確かめた。
「俺は生きてる」
心臓は動いているし、呼吸もしている。今朝は母が作ったスープを食べ、馬車に乗り、石橋を渡り、カレグノスの街路を走った。疲れれば身体は重くなり、喉だって渇く。
「触れば分かるだろ。身体だって温かい。傷つけば血だって――」
「いつだ」
横から、押し殺した声がした。
ダルクがレイグより前へ出た。しかし怒鳴りもせず、胸を叩きもしない。右手の革手袋を外し、手のひらの古い傷を見下ろしている。
「俺が死んだっていうなら、いつだ。どこで、何にやられた」
イセラはすぐには答えなかった。
「俺が覚えてる昨日はある。寝て、起きて、腹が減ったから飯を食った。今朝はレイグに呼ばれて、ここまで来た。どこにも死んだ覚えなんかねえ」
手のひらを握ると、厚い指の関節が鳴った。
「覚えてねえ時間を、何であんたが俺の死だって決める」
ヴァレドの眉が動いたが、イセラは怒らなかった。
「あなたが、いつ、どこで命を終えたのか。私は知りません」
「なら――」
「知っているふりもいたしません」
静かな言葉に遮られ、ダルクは口を閉じた。
「私が自分の死として覚えているのは、私自身の最期です。陛下も同じです。あなた方一人一人の最期を見たわけではありません」
「それで、全員死んでると言ったのか」
ダルクの声は荒くならなかった。その代わり、王妃の答えを一つも逃すまいとするように、身体ごと机へ近づいていた。
「長い反復の中で確かめた事実を重ね、その結論へ至りました」
「結論だろ。俺の記憶じゃねえ」
「ええ」
イセラは否定しなかった。
その一言の方が、言い切られるよりダルクを怯ませた。怒鳴り返す相手がいないまま、外した手袋だけが太い指の中で歪んでいる。
ダルクは手袋をはめ直そうとして、親指を違う穴へ押し込んだ。舌打ちしかけ、今度は革を一本ずつ指へ合わせる。怒りの行き先を失っても、話まで投げ出すつもりはないらしかった。
「俺はまだ、自分が死んだとは認めねえ」
「ええ」
「あんたの結論を、俺の記憶みたいに受け取る気もねえ」
「それで構いません」
「でも、知らねえことを知らねえと言ったのは聞いた。そこは覚えとく。……朝になりゃ忘れるんだろうけどよ」
手袋を最後まで引き上げると、ダルクはレイグの前から半歩だけ退いた。机へ詰め寄っていた肩は戻しても、イセラから視線は外さなかった。
イセラは礼を言わなかった。代わりに、机の上で組んでいた手をほどき、次の問いを受けるように手のひらを伏せた。
「……どうして分かるんですか」
今度はフィエラだった。
コンポジットボウを握り締める代わりに、彼女は弦から指を外した。すぐに射てる構えを自分から解き、答えを聞く姿勢を取る。
「陛下と王妃様が、自分たちの死を覚えている。それは……そうだとして」
一度言葉を切ってから、イセラをまっすぐ見た。
「どうして私たちまで? それに、町にいる人たち全員が死んでるって、どうして言えるんですか」
イセラは少し黙った。
「今日カレグノスで命を落とした者は、次の朝になれば傷もなく戻ります。私たちは名と傷と死んだ場所を記録し、次の朝に本人を訪ねることまで繰り返しました」
「それは……」
フィエラは矢筒の縁へ手を置いた。反論を探しているのではなく、王妃が挙げる事実を一つずつ数えているようだった。
だが、その事実自体は三人も知っている。ネヴァルは戻ったし、レイグ自身も死んだ次の朝に傷一つない身体で目を覚ました。
「死なずに夜を越えた者も、深夜の鐘のあとにはこの朝へ戻る。町でも前線でも、この一日の先へ進んだ者は一人も確認できません」
イセラは、革手袋をはめたダルクの拳へ目を向けた。
「だからといって、信じろと命じるつもりはありません。疑うなら、あなた方も確かめてください」
イセラはそこで言葉を切った。
「ですが、それだけを並べて、あなた方が納得できるとも思っていません」
フィエラが眉を寄せる。
「じゃあ……私たちは何なんですか」
「今、私に言えるのは一つだけです」
イセラは三人を見渡した。
「あなた方は、生者ではありません」
フィエラの唇が閉じ、その顔には納得ではなく、はっきりとした恐怖が浮かんでいた。
「陛下も……」
レイグはヴァレドを見る。
「本気で、そう思ってるんですか」
「思っているのではない」
「じゃあ何です」
「私は、自分が死んだことを覚えている。そして、それでも私はここにいる」
ヴァレドの声には迷いがなかった。
「でも、それは陛下の話でしょう」
レイグはすぐに言い返した。
「俺まで死んだ証拠にはならない」
「レイグ」
フィエラが小さく呼ぶ。
「俺は一度、カレグノスで死んだ。それは覚えてる」
レイグは右脇腹に手を当てたが、そこに傷はない。
それでも、スケルトンジェネラルの大剣に脇腹を貫かれた感触だけは、今でも忘れられなかった。
腹を貫かれた瞬間の衝撃も、あふれた血の温かさも、空気を吸えなくなった苦しさも覚えている。最後には石畳へ倒れ、その冷たさを頬で感じながら、本当に死ぬのだと恐怖した。
「でも、それで朝に戻っただけかもしれない」
レイグは声を強くした。
「呪いかもしれない。何かの魔法かもしれない。俺たちの知らない力で時間を戻されてるだけかもしれないだろ」
誰も答えない。
「最初から死んでた証拠にはならない!」
そう言い切った瞬間、ずっと前に三人で受けた高額報酬の探索が脳裏をかすめた。
宝を見つけ、ダルクとフィエラに帰ろうと言われ、それでも奥へ進んだところまでは覚えている。だが、その依頼からどう帰ったのかを思い出そうとすると、帰路だけが不自然に抜け落ちていた。
昔の依頼だ。細部を忘れただけだと、レイグはその空白を押し戻した。
イセラが口を開いた。
「今すぐ信じろとは言いません」
その言葉が、レイグの怒りに火をつけた。
「じゃあ何で言ったんです」
机へ一歩詰める。
「俺たちを死人だって言って、それで信じなくてもいいって何なんだよ」
「レイグ」
ダルクが止めようとしたが、レイグは振り向かなかった。
「勝手に俺たちが死んだって決めて、それで納得できなきゃ好きにしろってことですか」
「あなたが尋ねたからです」
イセラは声を荒らげなかった。
「私は、その問いに答えました」
「そんな答え聞きたかったんじゃない!」
叫んだ直後、レイグ自身が動きを止めた。
何を言っているのかは分かっている。
自分で聞いた。答えろと迫った。
それでも、こんな答えが欲しかったわけではなかった。
何かの呪いだと言ってほしかった。王妃が間違えているだけで、朝へ戻ることには別の理由があり、自分たちはちゃんと生きているのだと、誰かに言ってほしかった。
イセラは何も言わず、レイグにはその沈黙が苦しかった。
「……俺には家族がいる」
気づけば、そう口にしていた。
イセラの表情がわずかに変わる。
「母さんがいる。妹もいる」
今朝も二人は同じ家にいた。ミレサは鍋を火にかけ、ネリナは食卓で文句を言っていた。
「毎朝飯を作ってくれて、怒ったり笑ったりして……俺が帰るのを待ってる」
ネリナの顔が浮かぶ。
『ちゃんと帰ってきてよ』
何度、その言葉を聞いただろう。
何度、次の朝には忘れられただろう。
それでも毎朝、妹は同じように心配してくれる。
「俺が死んでるなら」
声が震え始めたが、止められなかった。
「母さんとネリナは何なんだよ。あの二人まで死んでるって言うのか!」
王夫妻を見ると、ヴァレドは口を閉ざし、イセラも何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれず、レイグは王夫妻へ手を突き出した。
「ほら」
声がかすれる。
「答えられないじゃないか」
フィエラは王妃を見て、一瞬だけその顔に何かを見つけたようだったが、何も言わなかった。
「もういい」
レイグは背を向けた。
「待て」
ヴァレドの声が飛ぶ。
それでも足を止めない。
「嫌です」
「レイグ」
「自分で確かめる」
扉を開けた。
「俺が生きてるってことを」




