第37話 一人分の帰還
王も朝を越えて記憶しているのか。問い返したレイグの声は、自分で思っていたより小さかった。
ヴァレドはすぐには答えず、ほんの一瞬だったはずの沈黙がひどく長く感じられた。
《王家臨時館》の一室には、もう五人しか残っていない。先ほどまで地図を囲んでいた書記も、壁際に控えていた護衛も退出し、閉じた扉の向こうから前線拠点を行き交う人々の声や、遠くで鉄を打つ音だけがかすかに届いていた。
目の前にいるのは、ヴァルセノア王国の王と王妃。
その王が今、自分に尋ねたのだ。
朝を越えて記憶しているのか、と。
「そうだ」
ヴァレドが答えた。
レイグは息を止めた。
「……本当に?」
「今さら、お前に嘘をつく意味があるか」
王の顔に冗談の色はない。自分を試しているようにも見えなかった。
知らずに上がっていた両肩が、不意に落ちた。肺の底まで息が入る。
「いた……」
声が漏れた。
ザイルだけではなく、同じ月曜日を繰り返しながら、その前に過ごした一日を覚えたまま次の朝を迎える者が、ほかにもいる。
自分だけが狂ったわけではない。
脇腹を大剣に貫かれて死んだことも、深夜を生き延びたのに朝へ戻されたことも、全部が自分の頭の中だけで作られた悪夢ではなかった。
レイグは思わず机へ一歩近づいた。
「じゃあ、本当にあるんですね。俺だけじゃない。この一日を何度も繰り返して、それでも前のことを覚えてる人が――」
「待てよ」
低い声が割り込んだ。
ダルクだった。
レイグが振り向くと、ダルクは自分ではなく王を睨んでいる。
「陛下も、じゃねえ。いつからだ」
王へ向けるにはあまりに短く、鋭い問いだった。
ダルクは机の縁まで進んだが、手は武器へ伸ばさなかった。背負った大盾の留め具を握り、革が軋むほど指へ力を込めている。
「俺たちは今朝まで何も知らなかった。レイグだけが前のことを覚えて、おかしくなったみてえに一人で抱えてた。あんたたちは、その間もずっと知ってたのか」
レイグは名前を呼びかけて、やめた。ダルクが王を相手にしていることを忘れているのではない。承知した上で、礼儀より先に確かめなければならないことを選んでいる。
「何度目の朝から、俺たちが忘れてるって知ってた」
王を相手にした口調ではなかったが、イセラもヴァレドも咎めなかった。
「お前たちより遥かに前からだ」
「どれくらい前だよ」
「数えていない」
ダルクの眉が寄る。
「数えてない?」
「数えることをやめた」
怒っていたダルクの顔が一瞬こわばり、レイグも何も言えなかった。
自分はまだ一つ一つの朝を思い出し、晴れた日も雨の日も曇った日も、何があったかを覚えているのに、ヴァレドはその回数を数えることさえやめたという。
「王妃様も?」
フィエラが尋ねた。
イセラは静かに頷いた。
「私も覚えています」
「最初の朝からですか」
レイグが聞くと、イセラはヴァレドと短く視線を交わした。
「ええ。この朝を初めて迎えた時から、前に起きたことを失ってはいません」
「陛下も?」
「同じだ」
レイグは自分の右脇腹に手を当てた。
「俺は違う。最初は何も知らなかった。ネヴァルを助けに戻って死んだ、その次の朝からです」
「ならば、記憶を持つに至った理由まで、我々と同じとは限らない」
ヴァレドの言葉に、レイグは答えられなかった。
自分と同じように、前の一日を覚えていた男が頭に浮かんだ。
「ザイル・ヴェルグも、朝を越えて覚えています。陛下は知っていたんですか」
ヴァレドの目がわずかに細くなる。
「知っている。以前、王家も協力を求めたが、あの男は拒んだ。使者や監視役を向けた朝には報告網から姿を消し、次の朝にはこちらの追い方を読んで経路まで変える。同じ手は二度通じない」
長く覚えているからといって、同じ目的で手を組めるわけではない。レイグは、ザイルの疲れた目を思い出した。
フィエラは机の端に置かれた布告の写しへ目を落とした。王家の印と今日の日付を指先で追い、それからヴァレドを見る。
「じゃあ……毎朝、覚えたまま布告を出してたんですか」
その問いで、レイグの中に生まれかけていた安堵に別の感情が混じった。
王家の布告は、同じ月曜日の朝が来るたびに町で読み上げられる。
カレグノスから王家の求める遺物を持ち帰った者には、多額の報酬を与える。
その金を求めて探索者たちは城塞都市へ入り、魔物と戦い、黒い霧に追われる。死ぬ者もいるが、朝になれば本人さえその死を知らないまま、また同じ一日を始める。
「だったら……」
レイグはヴァレドを見た。
「何のためなんです」
王は黙っている。
「陛下は知ってるんでしょう。黒い霧が来ることも、深夜まで行けばまた朝へ戻ることも」
「ああ」
「死ぬ奴が出ることも?」
「知っている」
あまりにも短い返事だった。
目の裏が熱くなり、レイグは一度だけ強く瞬きをした。
「それでも毎朝、探索者をカレグノスへ送ってたんですか」
「そうだ」
「戻るから死んでもいいってことですか」
言葉を投げつけた直後、自分の胸にも同じ刃が返ってきた。
『死んだって、次の朝には戻る』
自分も一度、同じことを言った。
助けを求める声を切り捨て、どうせ傷も死も朝には戻るのだからと考えた。
ヴァレドは怒らなかった。
「いいとは言っていない」
「じゃあ何で――」
「止められなかったからだ」
王の声が初めて少し強くなった。
「この一日から出られる可能性がある。それを知ったまま、何もしないことが私にはできなかった」
レイグは言い返せなかった。
納得したわけではないが、王が何も感じず人を送り込んでいたわけではないことだけは、その顔を見れば分かった。
ヴァレドが机の上へ視線を落とすと、そこにはカレグノスの地図と、今日持ち込まれた遺物が置かれていた。欠けた石板や古びた腕輪、布に包まれた銀製の聖具など、形も用途も違う品が並んでいた。
「我々が探しているものは一つだ」
王が言った。
「《生命の雫》」
聞いたことのない名前だった。
「生命の……雫?」
ダルクも眉を寄せる。
「何だ、それ」
「カレグノスの深部に現れると伝えられているものだ」
「現れる?」
フィエラが反応した。
「どこかに置かれてるんじゃなくて?」
「少なくとも、王家に残る記録にはそうある」
レイグが机に並ぶ遺物へ目を向けると、フィエラも同じものを見ていたらしい。
「だから、探索者が持ち帰った物を王家が一つずつ確かめてたんですね」
「ああ」
それだけで、今まで別々に見えていたものがつながった。
何度朝へ戻っても繰り返される布告と、遺物買い取り所へ集まる品々。それらが王家臨時館へ運ばれ、王と王妃がこの前線拠点に留まり続けているのも、すべて《生命の雫》を探すためだった。
「それを見つけたら、何ができるんです」
レイグは尋ねた。
「そこまでして探してる物なら、何かあるんでしょう」
王と王妃の間に短い沈黙が落ち、イセラが夫を見た。
ヴァレドはその視線を受けても、すぐには答えなかった。
「帰れる」
やがて王が言った。
レイグは眉を寄せた。
「帰る?」
「ここからだ」
「この一日から?」
思わず机の縁に右手をつき、身を乗り出した。
「同じ朝へ戻らなくなるってことですか」
「それだけではない」
ヴァレドはレイグを見据えた。
「残された記録が正しければ、《生命の雫》は一人を帰す」
ダルクがすぐに反応した。
「……一人?」
「そう記されている」
「本当に一人だけなのかよ」
「確かめた者はいない」
「何だよ、それ」
ダルクが苛立ったように吐き捨てる。
「だから探している」
ヴァレドの声にも力が入った。
「存在しないと決めて諦めるには、私はこの朝を繰り返しすぎた」
室内が静かになる中、レイグは《生命の雫》という名を頭の中で何度も繰り返した。
もし本当にあるのなら、この一日から出られる。
深夜になれば約束も金も傷も消え、自分だけが記憶を抱えたまま同じ朝へ戻される。そんな日々を終わらせられる可能性が、初めて目の前に現れた。
「帰れる……」
口にしただけで、その言葉が急に重くなった。
今までは、なぜ朝へ戻るのかを知ろうとしていた。
死なずに深夜まで過ごし、物を残そうとし、何度もダルクとフィエラに信じてもらい直した。祭壇に現れた銀色の光も調べた。
けれど、この世界そのものから出られるかもしれないとは考えたことがなかった。
「レイグ・オルディア」
ヴァレドに呼ばれ、顔を上げる。
「お前を呼んだ理由は分かるな」
「……俺が覚えてるからですか」
「それだけではない」
ヴァレドは机に広げられた地図に指を置いた。
「以前のお前は、兵舎や市場跡の報告で名を聞く程度だった。だが最近は、王城付近へ着くまでが明らかに早くなり、地下へ入ったという報告も増えている」
レイグは黙った。
ザイルからも、以前のお前は毎回似たような動きをしていたのに最近は変わったと指摘された。
「王城までの道だけではない。装備を得られる場所も知っているのだろう」
「全部じゃありません」
「それでも、この一日しか知らない者より多くを知っている」
ヴァレドの指が地図から離れた。
「《生命の雫》を探すなら、お前が覚えていることは大きな力になる。王家は、お前に探索を続けてもらいたい」
レイグは反射的に口を開いた。
「だったら――」
「レイグ」
ダルクが止めた。
「何だよ」
「今ここで返事すんな」
「でも、帰れるかもしれないんだぞ」
「だからだよ」
ダルクの顔は険しかった。
「そういう時のお前が一番危ねえ。帰れる、すげえ物がある、じゃあ取りに行こうって、もう頭の中で先まで走ってただろ」
「まだ何も言ってない」
「言う前から、もう取りに行く気だろ」
「また決めつけかよ」
「今回は私もダルクに一票」
フィエラまで口を挟んだ。
「お前まで?」
「まず全部聞こうよ。それから三人で決めればいい」
三人で。
その言葉に、レイグは口を閉じた。
一人で決めない。
何度朝へ戻っても、その約束を覚えているのは自分だけだ。それでも、今日ここにいるダルクとフィエラを置いて勝手に決めていい理由にはならない。
「……分かった」
「最初からそうしろ」
「お前に言われると腹立つな」
「何でだよ」
「二人とも、王様の前だからね」
フィエラに言われ、ダルクが一瞬だけ黙った。
「……今さらだろ」
張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだが、《生命の雫》という言葉はレイグの頭から離れなかった。
「陛下」
「何だ」
「決める前に、一つ聞かせてください」
「言え」
レイグは少し迷ってから、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「帰れるって、どこへ帰るんですか」
ヴァレドの表情が、わずかに変わった。
「この月曜日じゃない場所ですか。朝になっても戻らないところへ行けるってことですよね」
「そうだ」
「じゃあ、どこなんです」
今度のヴァレドはイセラを見ず、まっすぐレイグを見返して低い声で答えた。
「生者の世界だ」
レイグは瞬きをした。
「……生者?」
意味は分かるからこそ、なぜ今その言葉が出てくるのか分からなかった。
「それ、どういう――」
「《生命の雫》は、死者を生者の世界へ戻すためのものだ」
ヴァレドの言葉を聞いた瞬間、レイグの耳に入っていた前線拠点のざわめきが遠のいた。
扉の向こうを歩く靴音も、遠くの鍛冶場で響いていた鉄の音も聞こえているはずなのに、意味のある音として頭に入ってこない。
『死人が、死を怖がるのか』
ザイルの声が蘇り、あの時は、長く反復を続けるうちにザイルが壊れ、その結果として人間を「死人」と呼んでいるのだと思っていた。
どうせ朝へ戻るから。
だから死者と呼んでいるだけなのだと。
「……また、それかよ」
ダルクが呟き、その顔からは、さっきまでの苛立ちが消えていた。
フィエラも王を見たまま、何も言わなかった。
「待ってください」
自分の声が震えていた。
「今、《生命の雫》は死者を帰すって言いましたよね」
「ああ」
「それで、帰る先が生者の世界?」
「そうだ」
指先から感覚が引いていく。
母とネリナの顔が浮かんだ。
今朝も同じ家で食卓を囲んだ。母は心配すれば怒るし、ネリナはくだらないことで笑い、機嫌を悪くもする。
自分だって腹が減れば食べるし、疲れれば眠る。怪我をすれば血が流れ、痛みに叫び、死ぬ時には怖くてたまらなかった。
そんな自分たちと「死者」という言葉が、どうしても結びつかない。
それでも、ザイルだけでなく王まで同じ言葉を使った。
「死者って……」
喉が詰まった。
これ以上聞けば、今まで当たり前だと思っていたものまで壊れてしまうような気がした。
それでも、聞かずにはいられない。
レイグはヴァレドから目を逸らさなかった。
「死者って、誰のことです」
ヴァレドが口を閉ざしたままでいるうちに、レイグは襟元へ指をかけた。引いても、喉の詰まりは消えなかった。
「陛下」
それでも答えない。
代わりに、ずっと夫の横で静かに話を聞いていたイセラが、ゆっくりと顔を上げた。
王妃の表情が、はっきりと変わっていた。




