第35話 数えることをやめた王
その日の《王家臨時館》へ、靴に泥をこびりつかせた伝令が飛び込んできた。
「王城西壁の崩れた倉庫、その地下で石段が見つかりました。ですが、およそ百歩先で――」
崩れている。続きを聞く前から、ヴァレドには分かっていた。前の朝にはもっと手前で魔物に追われ、別の朝には報告そのものが届かなかった。今日は崩落地点まで辿り着いたらしい。
「通路が崩落しています。探索者の一人が転び、左腕を痛めました」
「命に関わる傷か」
「いいえ」
ヴァレドは、知らず机の縁を握り込んでいた指をゆっくり開いた。
「入口は塞ぐな。場所を記録し、負傷者を先に休ませろ」
伝令が頭を下げる。彼にとっては、この地下通路も負傷も、今日初めて持ち帰った報告だった。ヴァレドはそれを知るからこそ、最後まで遮らなかった。
次の役人が開いた木箱には、小さな銀杯が収まっていた。つる草の彫刻も、底の消えかけた文字も見覚えがある。以前は額から血を流した男が、これを自分の発見だと誇らしげに差し出した。今日持ち帰ったのは、まるで別人だった。
「違う。だが買い取り所へ回し、持ち帰った者には相応の額を」
杯を戻す音に重なって、若い書記の筆が紙を走った。その文字は今夜までしか残らない。それでも今日、危険な崩落へ踏み込む者を止め、負傷者へ人を送るには必要だった。
兵舎の骨、墓地のレイス、戻らない王城東側の一団。報告が重なるたび、ヴァレドは地図へ危険を刻ませ、近づける道と閉じる道を選んだ。順番も人数も昨日までとは違う。報告する者にとっては、どの死も傷も今日初めてのものだった。
窓の外で「負傷者を先に治療所へ」と叫ぶ声が上がり、やがて橋へ急げという声へ変わった。黒い霧が外周へ入り始めたのだ。地図の上の道は毎朝少しずつ違うのに、最後に霧へ呑まれることだけは変わらない。
「本日の定時報告は以上です」
書記が筆を置いた。
ヴァレドは、まだ乾ききらない地図の印を見つめてから言った。
「少し席を外せ。呼ぶまで入るな」
役人も護衛も退出し、扉が閉じる。紙の擦れる音と報告の声が消えると、部屋には窓の外の怒号だけが残った。
ヴァレドは椅子へ深く腰を下ろすと、朝から剣を振ったわけでも重い鎧を着ていたわけでもないのに、身体の重さを感じた。
「今は、何度目です」
イセラが言った。
ヴァレドは顔を上げなかった。
「何がだ」
「この朝を迎えた回数です」
何のことかは分かっており、問い返す必要などなかったが、ただ答えたくなかった。
机には今日書き込まれた地図が広がっている。探索済みの場所も危険地点も、そこへ引かれた黒い線や赤い印も、今日が終わるまでは役に立つ。
最初の頃、ヴァレドは自分でも反復の回数を数えていた。
一度目を終え、二度目、三度目と重ね、十を越えてもまだ覚えていた。その先もしばらくは数え続けていたはずだが、いつからか数字に意味を感じなくなった。
「数えることはやめた」
ヴァレドは言った。
イセラは少し黙った。
「いつからです」
ヴァレドは地図へ目を落としたまま答える。
「それも覚えていない」
イセラは今日の日付が記された報告書へ目を落とし、その下の何も書かれていない余白へ指を置いた。
「そうですか」
それだけ言って立ち上がると、机の端に並べられた遺物へ目を向けた。
先ほど運び込まれた銀杯のほかにも、石板や欠けた像、赤黒く変色した腕輪がある。形も材質も違うが、どれも王家が求めている物ではなかった。
ヴァレド自身、護衛を伴って王城の最深部まで入った朝は、一度や二度ではない。イセラを臨時館へ残して向かった日も、役目を替えた日も、選び抜いた兵だけを先へ送った日もあった。
古い祭壇の前で待ち、王家に残る断片どおりの品を並べても、何一つ現れなかった。
自分が一つの道を辿る間にも、臨時館には別の地区から何十もの報告が集まる。試し尽くした末、今は自ら同じ失敗を重ねるより、ここですべての結果を記憶へ残す方を選んでいた。
イセラは地図の北側、今日ヴァレドが閉じさせた細道へ指を置いた。
「ここは、私が祭壇まで入れた朝の道です」
「その朝は北塔が崩れていた。今日は残っている。塔の中にいる魔物が、この道へ回る」
「では、私がもう一度確かめます」
イセラが卓上の黒い駒を取る。ヴァレドは反射的に、その手首を掴みかけた。触れる寸前で止めた手を、地図の上へ戻す。
「行かせない」
「また私を、ここへ残すのですか」
「報告を束ねる者が必要だ」
「役目を替えた朝、あなたも同じことを言いました」
その朝は、イセラが王城へ向かい、ヴァレドが臨時館に残った。日が傾いても妻は戻らず、最後に届いたのは、王城地下へ続く階段で一行を見失ったという報告だった。次の朝、イセラは自分の最期を覚えたまま、傷一つない身体で隣に立った。彼女が倒れたあとの臨時館のことも、護衛たちが帰らないまま待ち続けた時間も、ヴァレドだけが抱えていた。
別の朝にはヴァレドが王城から帰らず、今度はイセラが同じものを抱えた。二人とも、自分を残すための役目など頼んでいない。それでも片方が地図の前に残れば、もう片方は戻る理由を一つ増やしてしまう。
「誰かではなく、私を残したいのでしょう」
イセラは黒い駒を握ったまま言った。
ヴァレドは否定できなかった。
「今日は、この道へ兵も出さない」
それだけを答えると、イセラはしばらく駒を離さなかった。やがて自分の手で地図の外へ戻したが、それは同意ではなく、今日の道では誰も祭壇へ届かないと認めただけだった。
「今日も、《生命の雫》はありませんでしたね」
「ああ」
その名を聞くたび、イセラの指は銀杯の脚をわずかに強く挟んだ。これほど同じ朝を重ねても、その癖だけはなくならなかった。
イセラは銀杯から目を離した。
「……もし」
小さな声だった。
「もし、あれが本当に一人分しかないのなら」
ヴァレドの指が止まる。
イセラがこちらを見る。
「見つかった時、どちらが使うのです」
何度考えても答えが出ず、ヴァレドは答えられなかった。
ヴァレドは机の上の報告書を一枚手に取った。読むつもりなどない。ただ、イセラを見続けることができなかった。
紙には、先ほど聞いたばかりの内容が並んでいる。
その文字を追っているふりをしている自分が、ひどくみっともなく思えた。
「……まだ見つかっていない」
ようやく口から出たのは、問いへの答えにもなっていない言葉だった。
「ええ」
イセラがそれ以上追及しなかったことが、かえって痛かった。
部屋に沈黙が落ち、遠くで鐘が一度鳴った。
しばらくして、扉が叩かれた。
「陛下」
外から声がする。
「追加報告です」
ヴァレドは手にしていた紙を机へ戻した。
「入れ」
扉が開き、若い役人が入ってきた。
「王城方面から撤退してきた探索者について、報告がございます」
「続けろ」
「黒い霧がさらに中央へ入る前に、王城前の広場から引き返した三人組がいます。名はレイグ・オルディア。同行者はダルク・セヴェル、フィエラ・カレスです」
その名を聞いた瞬間、ヴァレドの意識が報告に集中した。
「もう一度言え」
役人が少し戸惑う。
「レイグ・オルディアです」
知っている。
珍しい名前だからではない。別の朝にも、何度も報告の中で聞いた名だった。以前からカレグノスへ入っていた探索者で、仲間もいつも同じ二人だった。
最初の頃は兵舎や市場跡の報告に名が混じる程度だったのに、最近になって明らかに変わった。以前より早く深部へ入り、別の朝には王城地下に近い場所でも名前を聞くようになっている。
一つの朝だけを見れば、腕を上げた探索者としか思わないだろう。だがヴァレドには、その変化が朝を越えて続いているように見えた。
「今日は、どこで目撃された」
「城門をくぐった後、兵舎へは向かわず、旧市街の半壊した商家の上階を抜ける道を使っています。戦闘が起きていた大通りを避け、そのまま王城前まで進みました」
「道を知っていたように見えた、と?」
「少なくとも、迷っていたという証言はありません」
ヴァレドは地図へ目を落とした。
城門から王城まで、初めて進む者なら何度も足が止まる。使えない道へ入り、魔物を避け、場合によっては来た道を戻る。それだけで時間を失う。
「王城へ入ったのか」
「いいえ。広場でしばらく足を止めた後、同行者二人と話し、自分から背を向けたそうです。その後は寄り道せず石橋へ向かっています」
少しずつ無駄な道を減らし、進める場所を変えている。しかも今日は、王城を目前にしながら、自分から引き返した。
「三人は今どこにいる」
「前線拠点へ戻っています。負傷の確認と、装備の点検をしている頃かと」
「石橋を渡って戻ったのか」
「はい。霧が橋に届く前に」
ヴァレドは黙った。
進む場所だけではなく、退く判断まで変わっている。一日の経験だけでは説明しにくい変化だった。
「……陛下?」
役人の声で、ヴァレドは顔を上げた。
「レイグ・オルディアを連れてこい」
「……陛下が、直接お会いになるのでしょうか」
「そう言った」
役人は慌てて姿勢を正した。
「同行者も呼びますか」
ヴァレドは一瞬考えた。
「まず本人を呼べ」
「承知いたしました」
役人が一礼して部屋を出ていき、扉が閉じたあとも、ヴァレドはしばらくそこを見ていた。
「……気づいたのですか」
イセラが聞く。
「まだ分からない」
「では、なぜ」
ヴァレドは再び地図へ目を戻した。
同じ朝が来るたびに建物も道具も元へ戻り、人々は昨日を知らない顔で一日を始める。
その中で、あの男だけは以前より深くへ進み、以前とは違うところで引き返すようになった。
偶然や、その朝ごとの条件の違いという可能性もあるが、それでも本人の口から確かめる価値はあった。
「確かめる」
ヴァレドはそう答えた。




