第34話 死人の痛み
レイグもザイルを見据えた。通りでは探索者や商人が行き交い、鍛冶場から鉄を打つ音も響いている。それなのに、周囲の音だけが急に遠のいたように感じられた。
「俺たちのことを言ったのか?」
「お前はどう思う」
「聞いてるのは俺だ」
「なら、考えろ」
「ふざけるな」
レイグが踏み出すより先に、ダルクが前へ出た。
「誰が死人だ」
大盾を背負ったまま、ザイルを睨みつける。
「俺は今ここに立ってる。腹も減るし眠くもなる。怪我すりゃ血も出る。それを死人って呼ぶなら、先に意味を説明しろ」
「ダルク」
「止めんな」
「止めてない」
「だったらいい」
ダルクはザイルから目を逸らさなかった。
「仮にだ。仮にお前の言う通り、俺たちが死人だったとしても、殴られりゃ痛えし、刺されたら怖え。息ができなくなりゃ苦しい。死ぬ時に痛えのも怖えのも同じなら、朝に戻ったから何だってんだ」
その言葉を聞いた途端、レイグは浅く息を吸ったまま、次を吐けなくなった。
『死んだって、次の朝には戻る』
祭壇が光らなかった、あの一日。助けを求める声を無視して、自分たちの時間と薬を優先した時、レイグ自身がそう口にした。
どうせ戻るのだから、今ここで死んでも次の朝には生きている。
その時もダルクは怒った。傷が消えたところで、痛かったことも怖かったことも、なかったことにはならないと。
そして今、同じ言葉をザイルにぶつけている。
ザイルは怒るでも笑うでもなく、ダルクを見ていた。
「何だよ」
ダルクが苛立つ。
「言いたいことがあるなら言え」
「何度まで、そう言えるだろうな」
「何?」
「それだけだ」
「何なんだよ、その言い方」
ダルクが踏み出したため、レイグはすぐ肩を掴んだ。
「待て」
「放せ」
「殴っても何も分からない」
「こいつが腹立つんだよ」
「俺もだ。でも殴るな」
ダルクはレイグを睨んだまま動かなかったが、やがて舌打ちして一歩下がった。
「……くそ」
その間、フィエラはザイルの顔ではなく、剣へ近い右手と足の向きを見ていた。弓を上げればダルクの背が射線を塞ぎ、横へ回れば今度はレイグが入る。矢はつがえず、三人を一度に見られる斜め後ろへ半歩だけ位置を変えた。
視線に気づいたのか、ザイルが彼女へ顔を向ける。
「何だ」
「聞いていい?」
「好きにしろ」
「何でレイグにそんな話したの?」
レイグもフィエラを見たが、ザイルは答えなかった。
「だって変じゃない?」
フィエラは続ける。
「仲間にしたいようには見えないし、仲良くなりたいわけでもない。邪魔なら、昨日でも今日でも、こんな話をする前に仕掛けられたんじゃない?」
ダルクが眉を寄せる。
「こいつが俺らより強いって決めつけんな」
「ダルク」
「何だよ」
「たぶん強いよ」
「……そこは少しくらい濁せ」
フィエラはザイルから目を離さなかった。
「なのに、ずっとレイグのこと見てる。もしかして、何か試してる?」
「何をだ」
初めてザイルの方から聞いた。
フィエラは少し考えてから首を振った。
「それが分かんないから聞いてるの」
ザイルの顔には何も浮かばなかったが、否定もしなかった。
「おい」
レイグが口を開く。
「前から俺を見てたって言ったな。何を――」
質問が終わる前に、ザイルは背を向けた。
「待て」
呼んでも止まらず、前線拠点の奥にある古い石橋へ向かって歩き始める。
「どこへ行く」
返事はなく、レイグも一歩踏み出した。
「追うの?」
フィエラが聞いた。
「あいつは何か知ってる。死人って何なのかも、何で俺が覚えてるのかも、知ってるかもしれない」
ダルクが顔をしかめた。
「だからって尻追っかけるのかよ」
「嫌なら待ってろ」
口にした途端、ダルクの目つきが変わった。
「お前、またそれやる気か」
「何が」
「勝手に一人で決めんのかって聞いてんだよ」
レイグが口を閉じると、フィエラもこちらを見ていた。
「……追いたい」
レイグは言い直した。
「二人は?」
ダルクが鼻を鳴らす。
「最初からそう聞け」
「私は行くよ。気になるし」
「決まりだ」
「ただし、霧が来るまでだ」
「越えない」
「越えそうになったら引きずってでも戻すぞ」
「今日は二人ともいるだろ」
ダルクは一瞬黙った。
「……なら止めるぞ」
「ああ」
三人はザイルを追った。
*
古い石橋を渡りきるまでは、黒い外套の背が人波の向こうに見えていた。
崩れた城門をくぐったところで、荷車二台が狭い通りへ同時に入り、探索者たちが左右から押し合った。レイグは荷台の角を避け、すぐ右へ抜ける。
その先に、ザイルはいなかった。
「どこだ」
右にも左にも黒い外套はない。走って遠ざかる足音も聞こえず、ただ城門を入った者たちが思い思いの方向へ散っていく。
「見失ったね」
フィエラは背伸びをして通りの先まで見た。
「まだ近くにいるはずだ」
「だからって、当てずっぽうに走るな」
ダルクがレイグの前へ大盾の縁を出した。
「三つに分かれてる。どれだ」
正面は兵舎へ続く大通り、左は市場跡、右は半壊した商家の並ぶ細道だった。ザイルが兵舎へ向かわなかったことだけは、城門での身体の向きから分かる。だが、その先までは見ていない。
レイグが正面の人波を探している間に、フィエラは城門脇へ戻った。荷車を誘導していた痩せた男へ声を掛ける。
「今、黒い外套の剣士が通ったの見た?」
「黒いのなんざ何人もいる」
「背が高くて、革の胸当てに灰色の金具。右腰に細身の剣。荷袋は小さくて、水筒が左」
男は面倒そうに眉を寄せたが、やがて右の細道へ顎を向けた。
「そいつならあっちだ。走りもしねえで、荷車が来る前に抜けやがった」
「ありがとう」
フィエラが戻ると、ダルクは感心したように彼女を見た。
「よくそこまで覚えてたな」
「見てたから」
「俺は顔しか見てなかった」
「ダルクは睨むので忙しかったもんね」
「悪いか」
「次は睨むついでに、格好も見てよね」
三人は右の細道へ入った。ただし、もうザイルの背を追って走りはしなかった。角へ来るたびに止まり、通った者へ尋ね、足元を確かめる。
最初の曲がり角には、崩れた酒場があった。入口の泥に新しい靴跡がいくつも重なっていたが、そのうち一つだけ、酒場の中へ入り、外へ戻っていない。
「中で消えたってこと?」
「抜け道がある」
レイグが扉へ手を掛けるより先に、ダルクが斧の頭で朽ちた木戸を押した。
「罠かもしれねえ。俺が先だ」
薄暗い店内に敵はいなかった。割れた酒樽と倒れた卓の向こう、床板が一枚だけ持ち上がっている。下には低い貯蔵庫があり、奥の石壁が人一人ぶん崩されていた。
ダルクが先に降り、盾を向けたまま穴を覗く。
「外へ続いてる」
穴の向こうは隣家の地下室だった。そこから狭い階段を上がると、三人は一本先の通りへ出た。
「こんなところ、地図にはない」
レイグは振り返った。酒場と隣家は表から見れば別の建物で、地下がつながっているとは分からない。
「ザイルは朝から、ここを通れるって知ってたんだね」
「それだけじゃねえ」
ダルクが階段の端を示した。厚く積もった埃の中に、片膝をついた跡がある。その脇の壁には小さな空洞があり、中に残っているのは薬瓶を包んでいたらしい乾いた布だけだった。
「装備を揃えた場所の一つか」
朝になれば武器も防具も薬も元へ戻る。ザイルだけが例外のはずはない。だが男は兵舎へ寄らず、誰にも争われない隠し場所をいくつもつないで、今日必要な物だけを拾っている。
「俺が兵舎へ行くより速いのか……?」
「速いんじゃねえ」
ダルクは空の穴へ布を戻した。
「お前が知らねえ準備を、あいつはもう終わらせてる」
外へ出ると、前方の広い通りから怒声と剣戟が響いた。探索者の一団と六体ほどのスケルトン兵がぶつかり、一人が壁際まで退いて腕を押さえている。
「このまま突っ切るのは無理だね」
フィエラは戦いを見るのではなく、通りの左右を見た。
「ザイルなら、どっちへ行くと思う?」
問われたレイグは、右端の瓦礫、左の半壊した商家、頭上で隣棟へ渡された古い木板を順に見る。
正面を抜ければ戦闘に巻き込まれる。右は行き止まりに見える。左の商家も奥の壁が残っているはずだった。
それでも、さっきの酒場も表からは行き止まりだった。
「左だ」
「理由は」
「二階が隣とつながってる。たぶん」
「たぶんで落ちるなよ」
ダルクを先頭に、三人は商家へ入った。倒れた棚の陰に石段があり、二階へ上がると、屋根の落ちた部屋から隣棟へ一本の板が渡されている。
板には、まだ消えていない新しい泥が細く残っていた。
「当たり」
フィエラが言う。
「先に板を確かめる」
レイグは逸る足を止め、剣の腹で板を押した。低い軋みは返ったが、釘も梁もまだ耐えている。三人は間を空けて一人ずつ渡った。
隣棟の階段を下りると、戦闘が起きていた大通りの先へ出た。剣戟は背後へ遠ざかり、こちら側に敵はいない。
「あいつの姿は?」
ダルクが聞く。
「いない。でも、通った道は残ってる」
レイグは靴底の泥を見た。同じ色の細い跡が石畳を斜めに横切り、倒れた荷車の裏へ続いている。
荷車の先では、右の路地が瓦礫で塞がれていた。泥跡は手前で途切れている。フィエラはその場にしゃがみ、瓦礫ではなく左の壁を見た。
「ここ、擦れてる」
人の肩ほどの高さで、苔が一筋だけ剥がれている。押すと壁の一部が内側へ動き、細い隙間が現れた。
「扉かよ」
「昔は荷を入れる場所だったのかも」
フィエラが隙間へ風を送り、向こう側の埃を散らした。短い通路の先には別の通りが見える。
レイグは足を踏み入れかけ、壁の下に張られた細い糸へ気づいた。糸の先には、崩れかけた煉瓦の山がある。
「待て。罠だ」
ダルクが盾を差し入れ、レイグが剣先で糸を持ち上げる。三人が跨いだあと、フィエラが振り返った。
「これ、ザイルが置いたのかな」
「分からない。あいつなら知って避けただけかもしれない」
答えながら、レイグは背筋が冷えるのを感じた。
自分が覚えているのは、兵舎の位置や地下への入口、いくつかの抜け道と崩れやすい場所だ。それらを一本ずつ増やし、カレグノスに詳しくなったつもりでいた。
だがザイルの足跡を拾ってみると、隠し薬、建物の地下、二階の渡り板、荷口の扉、罠の位置が、初めから一枚の地図としてつながっている。姿が見えなくても、道を一つ抜けるたび、ザイルがどれほどカレグノスを知っているか思い知らされた。
「次はどっちだ」
三本の通りが前へ延びている。
フィエラは通行人を捕まえたが、黒い外套の男を見た者はいなかった。靴跡も乾いた石の上で消え、残っている痕跡はない。
「ここまでか」
ダルクが周囲を見回す。
レイグは答えず、三本の道の先へ目を向けた。左は旧市街、右は地下水路、正面の建物の切れ間には王城の高い塔が見える。
ザイルは昨日、王城地下の礼拝堂にいた。今日もレイグへ話したあと、装備を最短で揃え、戦闘を避ける道を選んだ。
「王城だ」
「見たの?」
「見てない。でも、あいつは王城へ行く」
「外れたら?」
「その時は戻る」
レイグは二人を見た。
「霧が動くまで。そこは変えない」
ダルクがしばらくレイグの顔を見てから、正面へ顎を向けた。
「なら行くぞ。今度は足元も見ろ」
*
王城へ近づくほど、外側へ向かう探索者が増えた。
「霧が出たぞ!」
遠くから怒声が飛ぶ。
「橋へ戻るなら急げ!」
すでに午後へ入り、外周では黒い霧が動き始めている。
王城の門前まで来ても、ザイルの姿はなかった。
レイグは門の内側を覗いた。奥へ延びる回廊にも、崩れた中庭にも黒い外套は見えない。
「外れたか」
悔しさと一緒に口へ出すと、フィエラが王城の上階を指した。
「あれ」
崩れた窓の奥に、人影があった。
ザイルだった。
遠くて表情までは見えない。それでも、三人を見下ろしていることは分かった。
「ザイル!」
レイグの声が城壁へ返る。
「死人って何だ! お前は何回、この一日を繰り返した!」
ザイルは答えない。
追いついたのではない。男が姿を見せると決めたから、ようやく居場所が分かっただけだ。
「中へ入るのか」
ダルクが聞いた。
レイグは門の暗がりと、窓の人影を見比べた。今から王城へ入れば、部屋も階段も分からない場所でザイルを探すことになる。黒い霧はもう動いている。
母の上着と、ネリナの靴が脳裏をよぎった。欲しいものが金から答えに変わっても、自分の中にはまた「もう少し」がある。
「入らない」
声にすると、ザイルの影がわずかに動いた。
「今日は戻る。次は、あいつが使った道を俺たちの道にする」
「道を覚えても、本人が同じ道を使うとは限らないよ」
「分かってる。それでも、今日見つけたものは消えない」
フィエラは王城ではなく、ここまで来た三本の道を振り返った。
「じゃあ帰りながら、曲がった場所をもう一度見よう。次の私たちは忘れるんでしょ」
「俺が覚える」
「お前だけに任せるって意味じゃねえぞ」
ダルクが言う。
「今日は俺らも見る。危ねえ場所は、言葉で残せるくらい見て帰る」
レイグは頷き、王城へ背を向けた。
窓の奥で、ザイルはまだ動かなかった。追ってくるか確かめているのではない。三人が自分の足跡からどこまで辿り着くか、最初から見ていたのかもしれない。
「本当に気に入らねえ」
ダルクが吐き捨てる。
「そこは同意」
フィエラも答えた。
三人は帰路で酒場の地下口と渡り板と隠し扉を一つずつ確かめ、黒い霧が古い石橋に届く前に渡りきった。前線拠点へ戻ったところで、ダルクが腹に手を当てた。
「……飯」
フィエラが振り向いた。
「今?」
「昼飯まだだろうが」
「この流れで最初に出る言葉がそれ?」
「死人だろうが何だろうが、腹減ってんだから仕方ねえだろ」
「健康的だねえ」
「うるせえ」
二人が食堂の方へ歩いていく中、レイグは数歩遅れて、もう一度だけ振り返った。
石橋の向こうには巨大な城壁があり、そのさらに奥には王城がそびえている。死人という言葉の意味も、ザイルが何度この一日を繰り返したのかも、何のために自分を見ているのかも分からない。
それでも今日は、男の背中ではなく、男が残した道を見た。
食堂へ入ると、ダルクはもうパンを三つに分けており、フィエラは卓へこぼれた水を指で引いていた。
「酒場がここ」
濡れた線の端へ、丸を一つ描く。
「その先の大通りがこうで、左の商家から二階へ上がった」
「隠し扉は、もっと王城側だ」
レイグが指を添え、線を一本延ばした。
「罠の糸は扉のすぐ先。煉瓦が右側」
「次は盾を先に入れる」
ダルクが自分のパンを取った。
卓の水はすぐ乾き、朝になれば三人のうち二人から今日の道も消える。それでも今は、誰か一人の頭の中だけにある地図ではなかった。
「レイグ、食わねえならもらうぞ」
ダルクの手が二つ目のパンへ伸びる。
「それは俺のだ」
レイグは王城ではなく、卓の上の道と、そこへ並ぶ二人の指を見ながらパンを取り上げた。




