第33話 知っている男
目を開けた瞬間、昨夜の男の声が蘇った。
レイグは寝台の上で身体を起こし、しばらく見慣れた部屋を見回した。窓の向こうからはネルトアの朝の物音が聞こえ、壁際には使い慣れたロングソードと、傷一つないバックラーが戻っている。
右脇腹にも傷はない。
また、同じ日の朝だった。
それでも今日は、同じ朝を呪うより先に、昨夜の男を捜さなければと思った。
「いた……」
自分以外にも、前の一日を覚えている人間がいた。
昨夜、王城地下から黒い霧に追われて移動する途中、崩れた回廊の向こうから三人を見ていた男だ。
その男が、最後にこう聞いた。
『何周目で気づいた?』
ダルクも聞いていた。
フィエラも聞いていた。
三人とも、確かにあの男を見た。
「レイグ、朝ご飯よ」
階下からミレサの声が飛んできた。
「ああ」
返事をしながら寝台を降りる。
今日は、一刻も早く二人に会いたかった。
*
「昨日の男、覚えてるか」
待ち合わせ場所へ着くなり、レイグは挨拶より先に聞いた。
ダルクが露骨に眉を寄せる。
「何だ、昨日の男って」
その返事だけで十分だった。
「……やっぱりか」
「何がだよ」
「何一人で納得してんの?」
フィエラも首を傾げている。
朝の通りには、前線拠点へ向かう探索者たちが武器と荷物を抱えて行き交い、少し離れた馬車乗り場からは御者が出発時刻を知らせる声を張っていた。
そんな朝の中に立つ二人も、昨日までと何も変わっていない。
昨夜、男から「何周目で気づいた」と聞かれた時、ダルクは確かに声を上げ、フィエラは男とレイグを交互に見て低い声で名を呼んだ。それなのに今、二人の中にはその夜が存在していない。
以前なら、その事実に腹を立てていたかもしれない。
何度説明しても、何度信じてもらっても、朝になれば忘れられる。その度に、二人に苛立ちをぶつけたこともある。
今は、説明の最初の一言が喉へ引っかかるだけだった。
「昨日、俺たちは王城の地下にいた」
「朝から始まったぞ」
ダルクが嫌そうな顔をした。
「何が?」
フィエラが聞くと、ダルクはレイグを指した。
「こいつが一人で何か思いついた時の顔だ」
「何だよ、その顔って」
「面倒くせえ話になる顔」
フィエラがレイグの顔を見る。
「……合ってそう」
「フィエラまで言うな」
レイグは息を吐き、また一から全部説明する気にはなれなかった。
「長い話は後だ。今日は探したい奴がいる」
「それが昨日の男?」
「ああ」
「どんな人?」
レイグは昨夜の姿を思い返した。
「俺の名前を知ってた」
「それだけなら、どこかで聞いたんじゃねえのか」
「戦い方まで知ってた。俺が右へ踏み込む癖もだ。それだけじゃない。カレグノスの道を俺より知ってたし、罠も、崩れる床も迷わず避けて、抜け道も迷わず使った」
ダルクの顔から、ふざけた色が少し消える。
「最後に俺に聞いたんだ。『何周目で気づいた?』って」
今度はフィエラも黙った。
「何に気づいたの?」
「たぶん、俺と同じことにだ」
「同じ?」
「朝へ戻ってること」
フィエラは眉間に皺を寄せたまま、しばらく考え込んだ。やがて自分の片腕をさする。
「……何か嫌」
「思い出したのか?」
レイグが一歩近づくと、フィエラは上体を引いた。
「近いって。思い出してないよ」
「じゃあ何が嫌なんだ」
「分かんない。知らない人のはずなんだけど、その話を聞いてると気持ち悪い」
レイグはそれ以上聞かなかった。
昨日そのものは残っていない。それでもフィエラの中には、理由の分からない警戒だけが残っている。
「とりあえず馬車に乗るぞ」
ダルクが荷袋を肩に担ぎ直した。
「話は中で聞く。このままやってたら置いてかれる」
「信じるのか?」
「信じるとは言ってねえ」
ダルクは歩き出しながら振り返る。
「どうせ俺らもカレグノスへ行くんだ。前線拠点までなら同じ道だろ」
「十分だ」
「ただし、変な奴を追って一人でどっか行ったら殴るからな」
「何で先に殴る宣言されるんだよ」
「お前だからだ」
フィエラも当然のように頷いた。
「それは分かる」
「お前まで納得するな」
いつものやり取りにレイグも少しだけ笑ったが、昨夜聞いた男の声は頭から離れなかった。
*
前線拠点へ着くと、レイグは行き交う探索者の顔を一人ずつ確かめながら歩いた。
鍛冶屋の前では剣の刃を見てもらっている男がいて、ポーション屋には朝の薬を買い込む者が並んでいる。食堂では立ったまま朝食を済ませる探索者がおり、遺物買い取り所の前でも昨日の稼ぎを持ち込んだ者たちが声を上げていた。
その間を歩きながら、レイグは昨夜の男を探し続けた。
「どんな格好なんだよ」
ダルクが後ろから聞く。
「昨日と同じとは限らない」
「役に立たねえ情報だな」
「朝になったら装備は戻るんだよ。昨日の夜と違って当然だろ」
フィエラが道の反対側へ顔を向ける。
「あの人?」
「違う」
「じゃあ、あっちは?」
「違――」
言いかけたところで、薬屋の横で荷物をまとめる一人の男が目に入り、レイグは足を止めた。
豪華な鎧を着ているわけではなく、腰の剣も周囲から目立つほど上等には見えない。それでも昨夜の男だと、顔を見た瞬間に分かった。
「……いた」
レイグが歩き出すと、男は小瓶を一本、朝日に透かして中身を確かめ、腰の袋へ収めた。足元には水筒や包帯、保存食も揃っているが、荷袋そのものは驚くほど小さい。
予備を欲張って詰め込んでいる様子がない。必要な物と必要でない物を、最初から分け切っているような荷造りだった。
装備がすごいのではない。
迷いがない。
レイグたちが近づくと、男が顔を上げた。
「来たか」
その一言で心臓が大きく鳴り、レイグは息を呑んだ。
「……覚えてる」
声がかすれた。
「昨日のことを、覚えてるんだな」
「ああ」
たった一言だった。
それなのに、レイグは身体から力が抜けそうになった。
本当にいた。
死んだことも、朝へ戻ったことも、自分と同じように抱えている人間がいる。
思わず男の腕を掴もうとしたが、相手が半歩引いたため、伸ばしかけた手を止めた。
「悪い」
「昨日より不用心だな」
「何?」
「同じ記憶を持っているだけで、味方だと思ったのか」
冷たい言葉だった。
それでも今は、そんな言葉でさえ返してくれる人間がいることが嬉しかった。
「名前を聞いてなかった」
男はわずかに間を置いて答えた。
「ザイル・ヴェルグ」
「ザイル……」
そこへダルクとフィエラも追いつき、ダルクはザイルを上から下まで見たあと、レイグへ視線を移した。
「こいつか?」
「ああ」
「昨日会ったっていう男?」
フィエラの問いには、ザイル自身が答えた。
「そうだ」
ダルクの目つきが変わる。
「俺は覚えてねえぞ」
「知っている」
「……何だと」
「お前が覚えていないことを、俺は知っている」
レイグには、その言葉の重さが分かった。
ザイルは、朝になれば忘れる人間を何度も見てきたのだ。
「前から俺を知ってたのか」
「何度も見た」
「だったら、何で今まで声をかけなかった」
ザイルは荷袋の口を閉じてから、ようやくレイグへ向き直った。
「変わったのが最近だからだ」
「変わった?」
「前のお前は、毎回似たようなものだった。カレグノスへ入り、宝を拾い、奥へ行く。危なくなっても、もう少し進む」
「お前たち三人と、敵として剣を交えた朝もある。ダルクが盾を上げる順も、フィエラが矢を放つ前の呼吸も見てきた」
聞きたくないほど自分に覚えのある行動だった。剣を握っていないのに、右手の指が柄を探す形へ曲がった。
「だが最近は違う。兵舎へ迷わず向かい、武器の位置を知っている。今まで使わなかった道を使い、王城地下へ何度も入った」
ザイルはまっすぐレイグを見る。
「そこで分かった。お前も朝を越えている」
レイグはこの世界を調べているつもりだった。
地形を覚え、人を覚え、失敗したことを次の一日へ持ち越しながら、少しずつ前へ進んできた。
しかし、その間ずっと自分より前から同じ一日を知る男がいて、こちらの変化を見ていた。
その事実に気づいた途端、嬉しかったはずの存在が少しだけ薄気味悪くなった。
「どれくらいだ」
「何が」
「あんたは何回戻った」
ザイルは考え込む様子さえ見せなかった。
「数えるのはやめた」
フィエラが息を詰め、レイグもすぐには次の言葉が出なかった。
自分はまだ数えようと思えば数えられるが、目の前の男は、それさえやめるほど同じ一日を繰り返している。
「最後まで生き残ったことは?」
「ある」
「それでも戻った?」
「何度もな」
昨日まで、どこかに抜け道があるのではないかと思っていた。
最後まで生きれば、王城のさらに奥まで行けば、何かが変わるのではないかと考えたこともある。
ザイルは、その先をとっくに試している。
「……仲間はいなかったのか」
その問いにだけ、ザイルはすぐ答えなかった。
「いた」
「そいつらは?」
「毎朝、俺を忘れた」
ダルクとフィエラも同じだと思うと、レイグの胸が締めつけられた。
何度信じてもらっても、朝には知らない顔へ戻る。
「それでも、また一緒にやったんだろ」
「最初はな」
ザイルはそこで話を終えるつもりらしかったが、レイグは引けなかった。
「その後は?」
しばらく沈黙したあと、ザイルが口を開く。
「死ねば助けに行った。間に合わなければ、次は早く向かった。それでも間に合わなければ、その次はもっと早くした」
淡々とした声だった。
「救えた日は感謝された。命を預けられたこともある」
ザイルは一度、前線拠点を歩く探索者たちへ目を向けた。
「朝になれば、俺を知らない」
怒っているようには聞こえず、そのことがかえってレイグには怖かった。
「ある時は、俺が相手のことを知りすぎているのを気味悪がった。敵だと思ったらしい。昨日まで一緒に戦っていた奴が、次の朝には俺へ剣を向けた」
レイグは何も言えなかった。今までダルクとフィエラには疑われても最後には信じてもらえたが、それが毎回続く保証などない。
ザイルは再びレイグを見た。
「そこで、やめた」
レイグは慎重に聞いた。
「……助けるのを?」
「信じるのをだ」
「信じる」という言葉だけが、重く残った。ザイルの視線が今度はダルクとフィエラへ向かった。
「そいつらも同じだ。今日のお前を信じても、朝には忘れる」
「一緒にすんな」
ダルクが低く言った。
ザイルは気にした様子もなく続ける。
「昨日のお前たちが何を誓おうが、今そこにいる二人には何も残っていない」
レイグの頭に、これまで交わしてきた言葉が蘇る。
『明日の私が忘れても、今日の私は信じる』
『勝手に一人で決めない』
同じ一日の中で笑い、怒鳴り合い、何度も約束した。
それでも次の朝には、すべてレイグの中にしか残らなかった。
「記憶のない絆に、何の意味がある」
レイグは反論しようとしたが、その前に自分が祭壇で吐いた言葉を思い出した。
『死んだって、次の朝には戻る』
あの時、ダルクは本気で怒った。
刺された痛みも、死ぬ恐怖も、朝になったからといってなかったことにはならないと。
レイグは、すぐにザイルを否定することができなかった。
「……そのわりに、よく覚えてるね」
フィエラが言った。
ザイルが彼女を見る。
「何をだ」
「昔の仲間のこと」
フィエラがそこで言葉を止めると、ザイルもしばらく何も答えなかった。
「好きに考えろ」
結局、それだけだった。
ダルクが鼻を鳴らす。
「……気に入らねえな、お前」
「そうか」
「何でも終わったみたいな顔して、人のことまで勝手に決めやがって」
ザイルの口元がごくわずかに動いたものの、楽しそうな笑いではなかった。
ダルクを見ながら、ずっと昔に失った何かを思い出したような、ひどく疲れた笑みだった。
「まだ怖いのか」
ザイルが聞いた。
「何がだ」
「死ぬことが」
ダルクの顔がこわばる。
「……当たり前だろ」
ザイルは、その答えの方が不思議だと言いたげに、ほんの少し首を傾げた。
「死人が、死を怖がるのか」
レイグの思考が止まった。
前線拠点では鍛冶の音も、人の話し声も、荷車の軋みも絶えず続いている。
それなのに、その一語だけが周囲の音から切り離されたようにはっきり聞こえた。
死人。
ダルクがザイルを睨み、低い声で問い返す。
「……何だと」
ザイルは答えなかった。




