第32話 何周目で気づいた?
少し前――カルゼンがまだ王城へ続く大通りを走っていた頃、王城地下の古い礼拝堂では、あの声が途切れたあとも、その問いだけが空気に残っているようだった。
『戻る者なら、見捨ててもよいのですか』
レイグは暗いままの祭壇を睨んだ。
銀色の光はない。前の一日では古い紋様の間を走った淡い輝きも、最後に羽根の欠片のような形を取った光も、今は跡形すら残っていなかった。
「……くそ」
「まだやんのか」
背後から落ちてきたダルクの声は低かった。
振り返ると、大盾を左腕につけたダルクが礼拝堂の入口に立っている。腰には兵舎で手に入れたウォーハンマー。顔からは、さっきの怒りが消えていない。
「何が」
「祭壇だよ。睨んでりゃ、そのうち機嫌直して光るのか?」
「そんなこと思ってない」
「だったら出るぞ」
ダルクは入口の向こうへ顎を向けた。
「もう夜だ。霧も中央まで来てる」
遠くから低い音が響いた。
石壁が崩れたのか、魔物が何かを壊したのかまでは分からない。だが、礼拝堂へ降りる前より確実に音は近くなっていた。
「霧が来る前に、ここを出る」
レイグが答えると、ダルクの眉間に皺が寄った。
「なら祭壇から手を離せ」
「あと少しだけ見たい」
「それをやめろって言ってんだよ」
「二人とも」
フィエラはコンポジットボウを握ったまま二人の間へ入り、身体の半分を礼拝堂の出口へ向けていた。
「続きをやるなら帰ってからにして。ここで喧嘩してたら、本当に三人とも霧に追いつかれるよ」
レイグは口を閉じた。
フィエラも、さっきのことを忘れたわけではない。
『私たちが悪いの?』
そう言わせたのは自分だった。
何度信じてもらっても、次の朝には忘れられる。
三人で話したことも、笑ったことも、喧嘩したことも、自分の中にしか残らない。
それが苦しかった。
腹も立った。
だからといって、二人にぶつけていいわけではないことくらい分かっている。
分かってはいるが、今すぐ何事もなかったように謝れるほど気持ちは整理されていなかった。
「……行こう」
レイグは祭壇から離れた。
「さっきの話、終わってねえからな」
ダルクが言った。
「ああ」
「帰ったらちゃんと話すからね」
フィエラも続ける。
「……ああ」
三人はそれ以上何も言わず、古い礼拝堂を出た。
*
王城地下の回廊には、湿った石と古い埃の匂いがこもっていた。
礼拝堂へ降りる時から使っていた松明をダルクが掲げ、その橙色の火を頼りに三人は来た道を戻っていく。
松明の明かりが届くたび、壁の亀裂や崩れた石柱が闇から浮かび上がり、通り過ぎればまた黒へ沈んだ。
三人の足音だけが、石の回廊へ順番に返ってくる。
フィエラは弓を肩から下ろし、矢をつがえないまま左手に持っていた。曲がり角へ来るたび先へ出る二人をいったん止め、松明の届く先と、通り過ぎた分岐を交互に確かめる。返す言葉を探しているのではなく、今は帰路の警戒を引き受けると決めたようだった。
レイグは前を歩くダルクの背中を見ながら、何度か口を開きかけた。
謝るなら今かもしれないが、何をどう謝ればいいのか分からない。
忘れることは二人のせいではないが、自分だけが全部覚えている苦しさまで嘘にはできなかった。
「待って」
不意にフィエラが足を止めた。
ダルクは即座に大盾を前へ出す。
レイグもスチールロングソードの柄に手を置いた。
「何だ」
「……誰かいる」
フィエラが見ている先へ目を向けると、回廊の向こうでは天井の一部が崩れ、太い石柱が斜めに倒れていた。
その陰には一人の男が立っていたが、距離があり、顔まではよく見えない。
腰には剣らしい長い武器があり、外套の隙間から金属製の防具も覗いている。
魔物ではない。
探索者だ。
探索者がいること自体は珍しくないが、妙なのは、その男が動かないことだった。
王城の奥から黒い霧が迫っている夜に、こちらへ来るでも逃げるでもなく、ただ三人を見ている。
「おい」
ダルクが声を張った。
「そっちから霧は来てねえのか」
男は答えなかった。
代わりに視線だけを動かす。
三人の背後。
今出てきた古い礼拝堂の方向へ。
それから、レイグを見た。
「……あいつ」
「何?」
フィエラが聞く。
「今、礼拝堂を見た」
ダルクがすぐ横から言った。
「だからって追うなよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「お前は顔に出るんだよ」
男はそれ以上こちらを見ず、静かに歩き始めた。走らない。急ぐ様子もない。
だが、進んだ先は三人が地上へ戻るために使う回廊と同じ方向だった。
レイグが一歩踏み出す。
「待て」
ダルクの声。
「同じ道だ」
「だからって近づく必要ねえだろ」
「祭壇を知ってるかもしれない」
「またそれか」
怒気が戻った。
「分からねえこと見つけるたびに首突っ込む気かよ」
「追いかけて奥へ行くって言ってない。戻る道が同じなんだ」
フィエラも男の背中を見ていた。
「私たちが出てくるのを待ってたようには見えた」
「お前まで煽るな」
「煽ってない。変だって言ってるだけ」
ダルクは男の背中と、レイグを交互に見た。
「……退路から外れたら追わねえぞ」
「ああ」
「絶対だぞ」
「退路が切れる前に戻る」
「なら、忘れるなよ」
レイグは黙って頷いた。
三人は男との距離を保ったまま、回廊を進んだ。
*
男は走っていないのに、距離はなかなか縮まらない。
単純に足が速いわけではなく、分岐へ来ても足を止めず、迷うことなく曲がる。足場の悪い場所でも進路を探す様子はなく、最初から安全な場所を知っているように歩いていた。
「何なんだ、あいつ」
ダルクが小声で言う。
「王城の探索に慣れてんじゃねえのか」
「慣れてるって感じじゃない」
フィエラが答えた。
「迷わなさすぎる」
レイグにも同じことが引っかかったのは、自分も何度もカレグノスへ入り、そのたびに少しずつ地形を覚えてきたからだ。
今では城門から兵舎までならほとんど迷わず、王城地下にも以前より早く到達できるが、それでも王城内部には知らない場所が山ほどある。
前方の男が、急に回廊の右側へ寄った。
足元を確かめないまま左側を大きく避け、そのまま通り過ぎる。
「何だ?」
ダルクが呟いた。
三人も同じ場所へ近づく。
レイグが何気なく左足を踏み出しかけた。
「待って!」
フィエラの声と、石の割れる音が重なった。
「っ」
レイグは慌てて足を引く。
直前まで踏もうとしていた床石が傾き、その下にあった古い支えごと崩れ落ちた。
黒い穴が開く。
数秒後、はるか下から石の砕ける音が返ってきた。
レイグは息を詰めた。
落ちていれば、大怪我では済まない。
「……今の」
ダルクは穴ではなく、前方の男を見ていた。
「あいつ、最初から避けたよな」
レイグは答えなかった。
偶然、床の亀裂に気づいただけかもしれない。
だが男は下を見なかった。
速度すら落としていない。
「レイグ」
「何だ」
「ここ、知ってた?」
フィエラの問いに、レイグは首を横へ振った。
「いや」
「じゃあ、あの人は何で知ってるんだろうね」
「……分からない」
今度の「分からない」は、口にしても腹が立たなかった。
三人は穴を回り込み、先へ進む。
男が角を曲がった。
少し遅れてレイグたちも続く。
だが、その先に男の姿はなかった。
「どこ行った?」
ダルクが松明を高く上げると、正面は崩れた石壁に塞がれ、左右にも人が歩けるほどの道は見えなかった。
「サーチする」
フィエラが集中しようとした時、レイグの目に何かが引っかかった。
正面の壁の右端だけ、床との間に細い黒い線がある。
「待て」
近づいてみると、壁に見えていたものは、崩れ落ちて斜めに立った巨大な石板だった。
裏には、人一人が身体を横にすれば通れる程度の隙間がある。
「道がある」
ダルクが顔をしかめた。
「こんなの分かるかよ」
レイグが松明の明かりも届かない奥を覗くと、細い通路が続き、向こうからかすかな足音が聞こえた。
「この先は?」
フィエラが聞く。
「知らない」
「また?」
「ああ」
レイグは男が消えた隙間を見つめた。
自分は覚えている。
死んだ場所も、危険な道も、武器の位置も、失敗したことも、そのたび頭に残してきた。
だから前より速く進める。
では、あの男は。
いったい、どれほどここを歩けば、何の迷いもなくこんな道を使えるようになるのか。
「……行くぞ」
レイグが隙間へ身体を入れようとすると、ダルクが外套を掴んだ。
「待てって」
「この先は上へ続く主回廊に戻る方向だ」
「本当か?」
「位置から見ればな。違ったらすぐ戻る」
ダルクは数秒レイグを睨んだ。
「勝手に先行すんな」
「分かった」
「先、俺」
ダルクがレイグを押し退けた。
「何でだよ」
「盾持ってんの俺だからだ」
大盾を身体の横へ立てて窮屈そうに隙間へ入っていくダルクの背中を見て、フィエラが小さく息を吐いた。
「まだ怒ってるね」
「俺も怒ってる」
「知ってる」
「……悪かったよ」
フィエラがレイグを見る。
「何が?」
「さっきのこと」
「今それ言う?」
「言うなら今かと思って」
「もっとちゃんとした時に聞く」
「分かった」
「逃げないでね」
「ああ」
短いやり取りで仲直りしたわけではない。それでも、さっきから無意識に噛みしめていた奥歯が離れ、狭い隙間へ入る前にようやく息を吐けた。
「お前ら、後ろで何やってんだ! 来るなら早く来い!」
隙間の先からダルクの声が飛んできた。
「ほら。怒られた」
「お前もだろ」
二人も隠し通路へ入った。
*
細い通路は長くなく、先頭のダルクが石板の隙間を抜けると、レイグが続き、最後にフィエラが出た。
そこは、上階へ続く階段のある広い回廊だった。
男は階段の手前に立ち、先ほどまで背中しか見せなかったのに、今度はこちらを向いていた。
レイグには、やはり待っていたように見えた。
階段の上から冷たい空気が流れ込んできた。
松明の炎が小さく揺れる。
そのさらに上。
床を這うような黒いものが見えた。
「霧……」
フィエラは弓を上げるより先に、階段と三人が来た通路の距離を見比べた。
まだ薄いが、間違いなく黒い霧が地下へ入り始めている。
ダルクが大盾を前へ出した。
「追って悪かった」
男に声をかける。
「でも、こっちも時間がねえ。やり合う気がないなら道を空けろ」
男は動かなかった。
「聞こえてんのか」
レイグも一歩前へ出て、右手をスチールロングソードの柄に添えた。
「何者だ」
男の視線が、レイグの右手から足へ移った。剣を抜く前の姿勢を、確かめるように見ている。
そして初めて口を開いた。
「レイグ・オルディア」
全身がこわばった。
フィエラが素早くレイグを見る。
ダルクも盾を構えたまま横目を向ける。
「知り合いか?」
「知らない」
即答した。
本当に知らない。
これまで自分が覚えている一日のどこにも、この男と話した記憶はない。
「何で俺の名前を知ってる」
男はその問いには答えなかった。
視線をレイグの足元へ戻す。
「相手が大振りすると、右の懐へ潜る」
「……何?」
「まだその癖を直してないのか」
見知らぬ男に弱点を突かれ、右脇へ刃を差し込まれたような気がした。レイグは反射的に右足を引いた。言い当てられた癖とは逆に、身体が動いていた。
大きな攻撃を外へ避けず、右側から敵の懐へ入る。
スケルトンジェネラルと戦った時にも使った。
兵舎でも。
地下水路でも。
長く戦ってきたダルクとフィエラなら知っている。
だが、この男に教えた覚えはない。
「レイグ」
フィエラが低い声で呼ぶ。
ダルクも男から視線を外さない。
「こいつ、お前の戦い方まで知ってんのか」
「……知らない」
「何がだよ」
「俺だって分からない!」
男は三人のやり取りを黙って見ていた。
階段の上では黒い霧が少しずつ広がっているのに、男は焦る様子もない。
床が崩れる場所を知り、レイグの知らない抜け道も迷わず使った。
そして今は、自分の名前だけでなく、戦う時に無意識に選ぶ動きまで知っている。
一つずつなら偶然で済ませられたかもしれないが、ここまで重なれば違う。
レイグ自身がそうだったように、同じ日を繰り返し、失敗して、覚えて、少しずつカレグノスを知っていったのではないか。
目の前の男も、もし同じなら。
レイグの喉が鳴った。
「……お前も」
ダルクとフィエラがこちらを見る。
レイグは男から目を離せなかった。
「覚えてるのか」
男の表情が、ほんのわずかに変わった。
嘲るような笑いではない。
驚いた顔でもなかった。
確認したかったことが、ようやく確かめられた。そんな小さな変化だけが口元に浮かぶ。
そして男は、静かに問い返した。
「何周目で気づいた?」




