第31話 最後の一人
同じ夜、王城へ続く大通りで、誰かが「右だ」と叫んだ直後、その声が悲鳴に変わった。
カルゼンは振り向かなかった。
「前を見ろ! 止まるな!」
王城へ続く大通りは、もう道と呼べる状態ではなかった。
崩れた荷車や捨てられた荷袋、折れた槍がそこら中に転がり、その合間には人間と魔物の死体が重なっている。生きている探索者たちは、それらを踏まないようにする余裕さえなく、少しでも中央へ近づこうと押し合いながら走っていた。
逃げているのは人間だけではない。
左の路地からグールが飛び出し、その後ろではゴブリンの一団が互いを押し退けながら大通りへなだれ込んでくる。さらに遠くからヘルハウンドの咆哮が響き、屋根の上ではガーゴイルの黒い影がいくつも旋回していた。
普段なら出会った瞬間に殺し合う連中が、今は同じ方向へ追い立てられている。
理由は一つしかない。
黒い霧だ。
外周から始まった侵食は、すでに旧市街も市場跡も呑み込み、複数の通りを通って中央部へ迫っていた。石橋へ戻れる時間など、とっくに過ぎている。
「カルゼン」
背後から仲間の声が飛んだ。
カルゼンが振り返ると、三人いる仲間のうち一人が脇腹を押さえていた。革鎧の隙間から血が流れ、腰の辺りまで赤く染まっている。
「どうした」
「グールにやられた」
「噛まれたのか」
「爪だ! たぶん!」
「たぶんじゃ分からねえ」
言いながらカルゼンは男の腕を自分の肩に回した。
足は動いている。しかし、自力で走れる状態ではない。
「外へ戻った方が――」
「無理だ」
後ろを守っていた仲間が言った。
カルゼンにも、遠くの建物の間から見える黒い霧で分かっていた。少し前まで人間が走っていた通りの下半分は、すでに黒い霧に沈んでいた。
「王城側へ寄る」
「王城に逃げ場があるのか?」
「知らん」
カルゼンは怒鳴った。
「だが、ここにいれば確実に呑まれる! 前へ行け!」
カルゼンが負傷した男を支え、残る二人が左右と後方を警戒しながら進んだが、十歩も行かないうちに、前方から別の探索者たちが雪崩れ込んできた。
「戻れ」
一人が叫んでいる。
「前にスケルトンがいる!」
「何体だ」
「知らねえよ! 十……いや、もっといる!」
「なら横へ――」
カルゼンが言い終える前に、通り沿いの建物の窓が割れた。
グールが飛び出してくる。
「下がれ!」
カルゼンは負傷した仲間を壁際へ押し、剣を抜いた。
グールの爪が顔へ伸びる。上体を引いてかわし、横薙ぎに首を斬った。
刃が途中で骨に食い込み、敵の身体がよろめく。
「くそっ」
剣を引き抜こうとしたところへ、横から槍が伸びた。
別の探索者だった。
穂先がグールの胸を貫く。
「首だ」
カルゼンが叫ぶ。
「次は喉だな」
男は槍を引き、今度は喉元へ突き込んだ。
グールが崩れる。
二人の視線が噛み合った。名も知らない相手だが、次にどちらが前へ出るかだけは、その一呼吸で通じた。
「助かった」
「礼はいい! 右から来るぞ!」
路地の奥から、小盾を持ったゴブリンが三体。その後ろでは、錆びた剣を構えたスケルトンまで走ってきている。
カルゼンたちとぶつかった探索者たちも、逃げるのをやめて武器を構えた。
「ここを抜けないと全員霧に食われるぞ」
「右は埋める。お前は槍を離すな」
「だったら右を空けるな!」
「命令すんな」
「じゃあ勝手に穴を作るな! そこから入られたら全員死ぬぞ!」
「うるせえ奴だな」
怒鳴り返しながらも、男は右側へ寄った。
カルゼンも剣を構える。
誰も仲間ではない。
数刻前なら、同じ宝を見つけただけで刃を向け合っていたかもしれない。それでも今だけは、互いの背中を利用しなければ生き残れない。
ゴブリンが飛び込んでくる。
小盾の陰から突き出された短剣を、カルゼンは剣の鍔元で受け流した。身体が開いたところへ横から槍が入り、ゴブリンの太ももを貫く。
「今だ!」
片膝をついたゴブリンの頭へ剣を振り下ろす。
ほぼ同時に、後方で金属同士が激しくぶつかった。
「左!」
仲間の声に身体を捻ると、スケルトンの剣が目前まで迫っていた。
避ければ壁際の負傷者へ刃が流れる。カルゼンは正面から受けた。
腕の芯まで衝撃が走った。
朝から何度剣を振ったか、もう覚えていない。右腕は鉛を詰め込まれたように重く、汗と血のせいで柄も滑り始めている。
それでも力を抜けば、そこで終わる。
カルゼンはスケルトンの膝を蹴って姿勢を崩し、首へ剣を叩き込んだ。
骨が砕ける。
「カルゼン」
また呼ばれた。
壁際を見る。
負傷した仲間が座り込み、脇腹を押さえた手の隙間から血を流していた。
「まずいぞ」
カルゼンは駆け寄った。
「服を上げろ」
「ここでやるのか?」
「二人とも敵を止めろ!」
残った仲間へ怒鳴り、カルゼンは革鎧の留め具を外した。
傷は深く、内臓まで届いているかどうかは分からないが、このまま歩かせれば血を失い続ける。
カルゼンは自分の荷袋を探り、残っていたヒールポーションを取り出した。
「飲め」
「最後の一本だろ」
「今使わずにいつ使う」
蓋を開け、男に押しつける。
一息に飲ませたところで傷が消えるわけではない。荒かった呼吸が少し落ち着いたのを確かめてから、カルゼンは布を厚く当て、その上からきつく巻いた。
「立てるか」
「……走るのは無理だ」
「歩けるか聞いてる」
男は歯を食いしばって壁に手をつき、どうにか立ち上がった。
「それなら十分だ」
カルゼンが肩を貸した。
その時、背後から叫び声が上がった。
「霧だ!」
全員が振り返ると、大通りの奥では、さっきまで見えていた建物の一階が黒へ沈んでいた。
霧は止まっていない。
「行くぞ」
カルゼンたちは再び中央へ向かった。
走れる者は走り、負傷者は肩を借りて必死についていく。そこへ別方向からも探索者の群れが流れ込み、人の波が急激に膨らんだ。
「待て」
「押すな」
「道を空けろ!」
誰かが転び、それを避けようとした男が別の人間へぶつかる。
負傷した仲間を支えていたカルゼンも押され、身体を壁へぶつけた。
「離れるな!」
叫んだ時には遅かった。
後方を守っていた仲間の一人が、横から入り込んだ人波に押し流されていた。
「カルゼン」
「こっちへ来い」
伸ばされた手が、一度だけ見えた。
その直後、間へ数人の探索者とゴブリンが入り込み、姿が消える。
「くそっ」
追おうとする。
だが肩には負傷者がいる。
さらに頭上で石が擦れた。
「上だ!」
ガーゴイルが急降下してくる。
カルゼンは負傷者を引き寄せ、自分も地面へ倒れ込んだ。
石の爪が頭上を抜け、その先にいた探索者の肩を裂く。
「ぎゃあっ」
悲鳴が上がった。
ガーゴイルは翼を広げて再び浮き上がり、誰かが放った矢がその後を追う。一射目は外れたが、二本目が翼へ刺さり、高度を落としたところへ別の探索者の斧が叩き込まれた。
「立て!」
カルゼンは仲間を引き起こしたが、押し流された一人はもうどこにも見えなかった。
残る一人を探す。
「おい! どこだ!」
怒鳴り声や魔物の咆哮、剣戟の音が重なり、返事を聞き分けることさえ難しい。
「カルゼン」
右前方から声がした。
最後の一人が手を振っている。
「こっちだ!」
カルゼンが叫び返した、その直後だった。
古い外壁が大きく軋む。
「離れろ!」
石壁が崩れ落ち、両者の間へ瓦礫が雪崩れ込んだ。
カルゼンは負傷者へ覆いかぶさるようにして伏せた。
轟音とともに埃が舞う。
ようやく顔を上げた時には、大量の石材が通りを完全に塞いでいた。
「おい」
瓦礫の向こうから声がしたような気がする。
「回り込め!」
カルゼンも叫んだ。
しかし次の瞬間、横の路地から黒い霧が流れ込んできた。
瓦礫の向こう側を、ゆっくりと黒が覆っていく。
カルゼンの足が止まった。
「戻るな」
肩を借りている男が腕を掴んだ。
「でも、まだ生きてる」
「だからって俺たちまで入るのか」
「回り道が――」
「ない」
男も怒鳴った。
黒い霧が瓦礫の下からこちら側へ滲み始めている。
向こうからの声も、もう聞こえなかった。
カルゼンは剣の柄を強く握った。
「……くそ」
それだけ吐き捨てて、負傷者を支え直した。
「行くぞ」
二人だけになった。
*
どれほど戦ったのかも分からないまま、王城の外壁が近くなる頃には、隣の男もまともに歩けなくなっていた。
「……水」
カルゼンが水筒を渡す。
男が軽く振ると、底でほんのわずかな水が鳴った。
「これだけか」
「飲め」
「お前は?」
「喋ってる暇があるなら飲め」
男は一口だけ口に含み、残りをカルゼンに差し出した。
「残り」
「いらん」
「強がるな」
「お前に言われたくない」
男が疲れ切った顔で笑ったが、カルゼンには笑い返す余裕もなかった。
二人は王城外壁に沿って進んだ。
周囲には倒れた人間と魔物が増え、石畳の上には捨てられた盾や折れた杖、空になったポーション瓶、踏み潰された食料袋が散乱している。
どれも朝には誰かが必要だと思って持ち込んだ物だ。
「他の奴ら……」
男が呟いた。
カルゼンは横を見る。
「死んだかな」
「知らん」
「冷てえな」
「見てもいねえことを勝手に決めるな」
「生きてると思う?」
「だから、知らん」
「結局それかよ」
「分からないものは分からない」
カルゼンは前を向いた。
「明日になったら探せばいい」
口にした「明日」が、乾いた舌の上でひどく場違いに響いた。カルゼンは奥歯を噛み、それでも言い直さずに前を向いた。
明日。
今夜を越えられる保証すらない。
それでも、その言葉まで捨てたくはなかった。
頭上で石が擦れた。
「上」
ガーゴイルが急降下してくる。
一体――と思った直後、その後ろでもう一つの影が翼を畳んだ。
「走れ!」
「無茶言うな」
一体目が迫り、カルゼンは剣を上げた。石の爪と刃がぶつかった衝撃に右腕を痺れさせながらも、剣を引き、ガーゴイルの腹へ斬り込む。
硬い。
刃は浅く食い込んだだけだった。
「後ろ!」
仲間の声に振り向くより早く、カルゼンは横から突き飛ばされ、石畳へ転がった。
「ぐっ」
二体目の爪が、代わりに仲間の背中へ食い込んだ。
「おい」
男が倒れる。カルゼンはすぐさま立ち上がり、ガーゴイルの翼の付け根へ剣を叩き込んだ。一撃では砕けず、欠け始めた刃でもう一度削り、敵が振り向こうとした瞬間には三撃目を同じ場所へ打ち込む。
翼の根元が砕け、巨体が傾いた。カルゼンは首の隙間へ剣を押し込み、身体ごと石畳へ倒す。
だが、もう一体が低く飛び込んでくる。剣を抜き直す暇はなく、足元に落ちていた槍を拾って両手で突き出した。
ガーゴイルの勢いごと穂先が胸へ食い込み、その衝撃でカルゼンも後ろへ倒れた。槍の柄は折れたが、それでも敵は動いている。
カルゼンは身体を起こし、先に倒したガーゴイルの首から剣を引き抜くと、もう一体の首へ何度も叩き込んだ。
ようやく動かなくなる。
「……はっ……はっ……」
息が戻らない。
それでも仲間のもとへ駆け寄った。
「おい」
背中の傷は深く、服が赤黒く染まり、呼吸も浅かった。
「立て」
腕を掴む。
「立て」
「……無理だ」
「無理じゃない」
「カルゼン」
「肩を貸す。立て」
「聞け!」
今まで聞いたことのない怒声だった。
カルゼンの手が止まる。
「お前まで死ぬだろ」
「黙れ」
「薬ももうない」
「黙れ」
「俺を引きずって、どこまで行くんだよ」
王城へ辿り着けば助かる保証も、夜を越えれば霧が消えるという確証もないため、カルゼンは答えられなかった。
それでも、だから置いていけるという話にはならなかった。
「立て」
もう一度腕を引いた。
その時、通りの奥から骨の擦れる音が聞こえた。
スケルトンが何体も近づいてくる。
「……来たぞ」
男が言った。
「見えてる」
「行け」
「黙れ」
「カルゼン、行け!」
「うるさい」
カルゼンは剣を構え、男の前へ立った。
先頭のスケルトンが走ってくる。
剣を受ける。
疲れ切った腕が軋んだ。
押し返し、首を斬る。
すぐに二体目が来た。
三体目も続く。
負傷した仲間を背後に置いているため、簡単には下がれない。
横からも敵が回り込む。
「カルゼン」
「そいつは近づけさせない」
言い切った直後、スケルトンの盾が身体へぶつかり、カルゼンがよろめいた。守ると言ったそばから、負傷者の方へ半歩退かされる。
その隙に、別の一体が男の方へ踏み込む。
「やめろ!」
追おうとしたが、正面から振られた剣を受けなければ自分が斬られる。
カルゼンは舌打ちし、まず目の前の敵を倒した。
「行け!」
また男の声がした。
振り返った時には、すでに二体のスケルトンが間へ入り込んでいた。
「どけ」
一体を斬る。
仲間のもとへ進もうとすると、今度は横から新たな敵が襲ってくる。
「くそっ」
戦いながら後退するしかなかった。
一歩、また一歩と引き離され、気づいた時には仲間の姿が見えなくなっていた。
「おい」
返事がない。
もう一度呼びながら戻ろうとしたところへ、別の通りから黒い霧が流れ込んできた。
道が切られた。
「……ふざけるな」
霧の向こうに、さっきまで仲間がいた。
カルゼンは一歩踏み出しかけた。
黒は止まらない。
建物の壁際まで広がり、そこにあった物を次々と見えなくしていく。
カルゼンはもう一度進もうとして、足を止めた。
戻れば、自分も呑まれる。
「……くそっ」
吐き捨てるように叫び、踵を返した。
*
最後のスケルトンが崩れ落ちた。
カルゼンは剣を構えたまま、その場で待った。
次の敵が来ると思っていた。
だが、何も現れない。
荒い呼吸を整えながら周囲を見回すと、右側の大通りにも、左の崩れた建物の間にも動く影はなかった。屋根の上にもガーゴイルの姿はない。
そこでようやく、さっきまで響いていた剣戟も怒鳴り声も近くから消え、異様なほど静かになっていることに気づいた。
遠くでまだ戦っている者がいるかもしれず、王城内部にも地下にも誰かいるだろう。
カルゼンには分からないが、少なくとも自分から見える範囲では、人間も魔物も立っていなかった。
剣を下ろした途端、右腕が震えた。
「……終わったのか?」
答える者はいない。
少し離れた石畳で何かが月明かりを返しており、カルゼンは警戒しながら近づいた。
倒れた探索者の脇に、布に包まれた品が落ちている。
拾い上げると、腕にずしりと重みがかかった。
「重いな……」
布をずらす。
中に入っていたのは、古い装飾が施された金属製の遺物だった。大きな破損もなく、買い取り所へ持ち込めれば相当な値がつくだろう。
仲間がいれば、取り分でもめたかもしれない。
誰が運ぶかで文句も出ただろう。
だが今は、何も言う者がいない。
カルゼンは遺物を抱えたまま石壁に背を預け、ゆっくり腰を下ろした。
肺が痛み、口の中も乾ききっている。
水筒を傾けると一口だけ水が残っており、喉へ流し込んだ。
「……生き残った」
声にしても喜びは湧かなかったが、それでも終わったのだと思った。
朝まで生きればいい。
王城の中に身を隠せる場所を探し、夜を越す。日が昇れば、この霧も消えるかもしれない。
そうしたら仲間を探す。
まだ生きているかもしれない。
「……立て」
自分に言い聞かせるように呟き、壁に手をついた。
遺物を抱え直して身体を起こした、その時だった。
遠くに見えていた建物が、足元からゆっくり黒へ沈んだ。
カルゼンの動きが止まる。
「……待て」
黒い霧だった。
外周から侵入した霧は複数の地区を通って中央部を取り囲み、今では王城へ続くいくつもの通りから流れ込んでいる。
右の大通りは、すでに半ばまで黒に沈んでいた。
左の路地にも霧が入り込み、背後の道まで少しずつ幅を失っている。
「おい……」
カルゼンは遺物を抱えたまま走り出した。
まだ黒に呑まれていない通りへ飛び込む。
だが角を一つ曲がると、その先からも霧が迫っていた。
「ふざけるな……」
引き返し、別の道を選ぶ。
そちらも同じだった。
進める道が一本ずつ失われていく。
誰も追ってこない。
魔物もいない。
戦う相手はもういないのに、逃げる場所だけがなくなっていく。
カルゼンはとうとう王城の外壁近くまで押し戻された。
正面から迫る霧を避けて一歩下がると、背中が石壁へぶつかった。
そこで初めて、自分がもうどこにも下がれないことを知った。
「……何なんだよ」
遺物を足元に置いた。
剣を両手で構える。
敵の姿はない。
斬るものさえない。
黒い霧だけが、石畳を這うように近づいてくる。
「来るな」
意味がないと分かっていても、声が出た。
霧が靴を覆う。
カルゼンは剣を振った。
刃は何の抵抗もなく黒の中を通り抜けた。
「……終わったんじゃないのかよ」
返事はない。
霧が膝へ達すると、足の感覚が少しずつ曖昧になった。冷たいわけでも、痛いわけでもない。ただ、自分の身体がどこまで続いているのかが分からなくなっていく。
カルゼンは歯を食いしばった。
朝から戦い続け、逃げながら仲間を守った。それでも一人ずつ引き離され、最後には自分だけがここまで辿り着いた。
敵も倒した。
宝まで拾った。
それなのに、帰る道はどこにもない。
王城の石壁が黒へ沈んでいく。
足元に置いた遺物も見えなくなった。
カルゼンは最後まで剣を握っていた。
耳に残っていたのは、自分の荒い呼吸だけだった。
その音さえ、やがて遠ざかっていった。
そして、何も聞こえなくなった。




