第30話 助けなかった道
レイグは祭壇に押しつけていた手を離し、右手で荷袋の肩紐を握り直した。
二人の反対を押し切って、ここまで急いだ。何も分からないまま引き返す気にはなれない。せっかく残した時間を、黙って立っているだけで使い切りたくなかった。
「……着いた時間か?」
階段口にいたダルクが、ようやく振り向いた。
今回は前の一日より早い。あの時はカルゼンたちを助け、その後にはネヴァルも救った。傷ついた者を運び、戦闘で時間を失い、薬も使った末にここへ辿り着いている。
今日は違う。ほぼ最短の道で来た。
「早すぎるのか?」
「そんなことある?」
入口を見張っていたフィエラが、祭壇の反対側へ歩いてきた。
「分からない。前はもっと遅かった」
「じゃあ少し待つ?」
「どれくらい」
「それは私に聞かれても知らないよ」
レイグは礼拝堂の入口へ目を向けた。
地上では、すでに黒い霧が外周から侵食を始めている。ここへ降りる前にも、探索者たちが橋へ戻るなら急げと叫んでいた。
その時、遠くで石か建物が崩れたような低い音が響き、三人が同時に顔を上げた。地上なのか、この地下のどこかなのかまでは分からない。
ダルクが入口を見る。
「長居はしたくねえぞ」
「長居はしない」
レイグはそう答えて、祭壇の脇へ膝をついた。光の走った紋様を端からなぞり、石の側面や足元を調べ直す。手を止めて待ち、何も変わらなければ、もう確かめた場所へ戻った。
「そろそろ切り上げるぞ」
ダルクに言われても、レイグは立たなかった。早く着いたせいなら、今離れれば何も確かめられない。そう返すうちに、調べている時間より、祭壇が光るのを待つ時間の方が長くなっていった。
二人は何度も戻ろうと言った。そのたびにレイグは、あと少しだけでも一人で残ると言い張った。ダルクは舌打ちしながら入口へ戻り、フィエラと交代で通路を確かめた。二人が離れるのは互いの声が届くところまでだった。
上から届いていた明かりは次第に弱まり、やがて祭壇の紋様は松明の火でしか見えなくなった。午後の残りをここで使っても、銀色の光は現れなかった。
「まだ、早すぎるって言う気か」
ダルクの声で、レイグはようやく顔を上げた。
「……分からない。時刻だけじゃないのかもしれない」
「だったら他に何が違う」
レイグは自分たちの装備へ目を向けた。
腰にはスチールロングソードがあり、左腕のバックラーにも大きな損傷はない。ダルクの大盾にはゴブリンのクロスボウを受けた跡がある程度で、ウォーハンマーも問題なく使える。
ヒールポーションは二本とも残っていた。フィエラの矢にもまだ余裕があり、三人とも大きな傷を負っていない。レイグ自身の魔力も、前の一日にここへ来た時よりずっと残っている。
「装備は……いや、剣とハンマーは前も同じだった」
「矢の数は違うよ」
フィエラが言った。
「使った魔法の回数だって違う」
「それか?」
「知らないって」
フィエラの声に苛立ちが混じった。
レイグが彼女を見ると、フィエラは祭壇ではなくレイグを見ていた。
「何だよ」
「別に」
「言いたいことあるなら言えよ」
フィエラはすぐには答えず、コンポジットボウを持ち直して一度だけ入口の方を見た。
「……あの人たちは?」
レイグの手が止まった。
「何が」
「助けてって言ってた人」
礼拝堂の空気が、急に冷たくなったように感じた。
「それが何の関係あるんだよ」
「分かんないよ」
「だったら――」
「分かんないから言ってるの」
フィエラの声が少し強くなった。
「私、レイグが言ってる前の一日のことなんて覚えてない。カルゼンを助けたことも、ネヴァルを助けたことも、ここが光ったところも見た覚えはないよ」
「説明しただろ」
「説明されたのと覚えてるのは違うでしょ」
レイグは口を閉じた。
「でも、あそこで助けてって言われた時、レイグなら見に行くって言うと思った」
「何でだよ」
「私が知ってるレイグなら、あのまま行かなかったから」
レイグは言い返そうとしたが、フィエラの顔を見ると声が出なかった。
「前の一日の俺なんか覚えてないんだろ」
「覚えてないよ」
「だったら分からないだろ」
「今まで一緒にやってきたレイグは知ってる」
「今までって……」
「今日だけの付き合いじゃないでしょ、私たち」
フィエラは弓を胸元へ引き寄せたまま、レイグから目を逸らさなかった。レイグの方が顔を背け、祭壇へ目を戻した。
「関係ない」
「何が?」
「助けなかったことと、これが光らないことだよ」
「だから、関係あるなんて言ってない」
「だったら何で今それを出すんだ」
「違ったことを探してたんでしょ」
フィエラの声が礼拝堂へ響いた。
「道とか時間とか魔法とか矢とか、前と違ったものを全部考えるなら、あの人たちのことだけ外す理由ないじゃん!」
言い返せなかった。
答えが出ないのも、黙り込んだ自分をフィエラが見ているのも、腹が立った。
レイグは祭壇から離れた。
「中に何がいたか分からなかっただろ」
「それはそうだけど」
「グールが何体いるかも分からない。怪我人が二人いた。戻れば薬を使ったかもしれないし、俺たちまで怪我したかもしれない。それに、霧だってもう動いてる」
「それも計算した」
「だったら、あそこで進んだことの何が悪いんだよ!」
今度はフィエラが黙り、代わりに壁際にいたダルクが口を開いた。
「危なかったのは分かる」
レイグはすぐ振り向いた。
「だったら――」
「でもお前、助けられるかどうか見てもいねえだろ」
レイグの眉が寄った。
「何?」
「敵が何体いるか分からねえ。助けられるかも分からねえ。そこまではその通りだ」
ダルクはレイグから目を逸らさなかった。
「なのにお前、確かめる前から、あいつらを時間の無駄みてえに切っただろ。それが気に入らねえ」
「じゃあどうしろっていうんだよ!」
腹の底に溜まっていたものが噴き出した。
「助けてって声が聞こえるたびに、全部見に行くのか? 敵が何体いるかも分からない場所へ入って、薬を使って、傷を増やして、そのたび祭壇へ来られなくなってもいいのか!」
「全部助けろなんて言ってねえ」
「同じだろ」
「違う」
「何が違うんだよ」
ダルクが大股で近づいてくる。
「見捨てるしかねえ時と、最初から見ねえことにするのは違うだろうが!」
危険だったからだ、と言い返しかけた。だが、助けられるかどうか、見もしなかった。
息が喉で止まった。答えられない間を怒鳴り声で潰すように、レイグは声を上げた。
「だったら毎回どうしろっていうんだよ」
「知らねえよ」
「俺だって知らねえんだよ」
怒声が重なり、石壁から何度も跳ね返った。
三人とも黙る。
レイグは肩で息をしていた。
同じ一日を繰り返す中で、自分は失敗し、死に、そのたび二人に事情を話してきた。ようやく信じてもらい、三人で何かを決めても、次の朝にはまた最初からになる。
「……もういい」
レイグは吐き捨てるように言った。
「何がだよ」
「あいつらだよ」
レイグは自分でも止められないまま続けた。
「死んだって、次の朝には戻る」
礼拝堂が静まり返った。
自分で言った言葉なのに、耳に入った瞬間、ひどく冷たく聞こえた。
フィエラの顔がこわばり、ダルクも動かなかった。それでもレイグは止まれなかった。
「俺だって戻った。ネヴァルもそうだ。どれだけ怪我しても、死んでも、次の朝には全部元へ戻る」
「だから何だ」
ダルクの声は低かった。
「……何が」
「戻ったら何だって聞いてんだよ」
「傷は消える」
「痛えのは?」
レイグは言葉に詰まった。
「死ぬまで痛かったんだろ」
その一言で、大剣に脇腹を貫かれた感触が蘇った。息が吸えず、血が指の間から流れ、冷たい石畳へ倒れた時の恐怖まで、一気に戻ってくる。
「次の朝に傷が消えたから何だ」
ダルクの声が震えた。
「刺された時に痛えのは消えねえだろ」
「ダルク」
「怖えのも消えねえだろ!」
今度は怒鳴った。
「お前、自分が死んだ時のこと忘れたのかよ」
「忘れてねえよ」
レイグも叫んだ。
「忘れられるわけないだろ」
ダルクが息を呑んだ。
「お前らは朝になれば忘れる。でも俺には、痛かったことも、怖かったことも、全部残るんだよ!」
もう止められなかった。
「俺が死んだことも、お前らを先に行かせたことも、次の朝に二人が何も覚えてなかったことも、全部だ」
喉が痛かったが、それでも、これまで一人で抱えてきたものが次々に口からこぼれた。
「何回説明したと思ってる! 何回信じてもらったと思ってる! 三人で決めたことも、笑ったことも、喧嘩したことも、次の朝にはお前らの中から全部なくなる!」
ダルクが何か言おうとしたが、レイグは止まらなかった。
「今だってそうだ! そのハンマー、お前が何回見つけたと思ってる!」
ダルクの視線が腰のウォーハンマーへ落ちた。
「見つけるたびに喜んで、フィエラにからかわれて、それでも次の朝には初めて見た顔するんだ! フィエラだって何度俺を信じたと思ってる。でも二人とも、何も覚えてない!」
「……私たちが悪いの?」
フィエラの声だった。
レイグが振り向く。
「そんなこと言ってない」
「じゃあ、何で私たちに怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
フィエラも声を張った。
「今日、会った時からずっと」
レイグの言葉が詰まる。
「兵舎へ行く時も、王城へ来る時も、ここへ降りてくる時も、ずっと急いでた。何か言えば時間がないって言って」
「実際、時間がないだろ」
「そういうことじゃない」
一歩近づいたフィエラは、レイグの荷袋を指した。中の薬瓶は、あの場で使わなかったため朝に数えた本数のまま残っている。荷袋から、ようやくレイグの顔へ視線を上げた。
「今日のレイグ、ちょっと怖いよ」
「何がだよ」
「あの人たちを見た時も、レイグが見てたのはあの人たちじゃなかった」
レイグの眉が寄る。
「何言ってるんだ」
「祭壇まで何分かかるとか、薬を何本使うとか、そんなことばっかり気にしてた」
「必要なことだろ」
「必要だよ。でも、それしか見てなかった」
レイグは二人の顔を見ていられず、足元へ視線を落とした。
「いつものレイグなら、まずあの人の顔を見た」
「……何だよ、それ」
「私が知ってるレイグは、そうだった」
言い返したかったが、言葉が出ない。
その時、また遠くで重いものが崩れる音がした。今度は前より大きく、地下の床にもかすかな振動が伝わってくる。
ダルクが入口を振り向いた。
「もう出るぞ」
「待て」
「待って何すんだ」
「もう少しだけ――」
「何を待つ」
レイグは祭壇を見る。
「光るかもしれない」
「いつ」
「分からない」
「前はどれだけ待った」
「……ほとんど待ってない」
「なら、ここで粘る理由も分からねえだろ」
返せないレイグを残し、ダルクは怒ったまま入口へ向かう。
「霧が進んでんだ。ここで三人揃って逃げ遅れたら、それこそ何しに来たか分からねえ」
フィエラもすぐには動かなかったが、レイグの隣には戻らず、少し離れた場所から通路の奥を警戒した。
三人とも同じ礼拝堂にいる。それなのに、いつもより互いの距離が遠く感じられた。
レイグだけが祭壇の前に残り、もう一度石に手を置いた。
冷たい。
前の一日と同じ祭壇だった。
自分たちは今、前よりいい状態でここにいる。薬も残り、フィエラの矢にも余裕があり、レイグの魔力も十分とは言えないまでもまだ使える。三人とも大きな怪我さえしていない。
うまくやったはずだった。
道を知り、使える装備だけを集め、余計な戦闘や寄り道を減らしたからこそ、これだけの余力を残したまま早くここへ来られた。
それなのに祭壇は光らない。
『死んだって、次の朝には戻る』
さっき自分で言った言葉が、妙に耳に残っている。
言っていること自体は、今まで見てきたことと食い違ってはいない。それでも、もう一度同じ言葉を口にしたいとは思わなかった。
「レイグ」
入口からダルクが呼ぶ。
「行くぞ」
レイグは答えず、暗いままの祭壇を見ていた。
その時だった。
「戻る者なら、見捨ててもよいのですか」
静かな声が礼拝堂へ落ちた。
レイグは弾かれたように振り返ったが、そこにはダルクとフィエラしかいなかった。
薄暗い柱の間にも崩れた壁の向こうにも人影はなく、白い翼も見えなかったが、それでも聞き間違えるはずがない。
最初に死んだ時、薄れていく意識の中で自分へ問いを投げた、あの声だった。
「……おい」
レイグは柱の間へ目を凝らす。
返事はない。
「どこにいる!」
声だけが石壁へぶつかって礼拝堂の奥へ消え、静寂が戻った。
それでも先ほどの問いは、消えずにレイグの中に残っていた。
『戻る者なら、見捨ててもよいのですか』
レイグは暗い祭壇の前で、その問いに答えることができなかった。




