第3話 古い石橋
乗合馬車が大きく揺れ、ゆっくりと止まった。
「着いたぞ! 降りる奴は荷物を忘れるな」
御者の声が飛ぶ。
レイグが立ち上がると、先に降りた探索者たちの向こうから、鉄を打つ甲高い音が聞こえてきた。
馬車を降りた途端、鼻に入ってくる匂いまでネルトアとは違う。
焼いた肉。馬の汗。薬草と消毒用の酒。油。革。そして鍛冶場から流れてくる熱い鉄の匂い。
前線拠点は、朝から人で埋まっていた。
道沿いの鍛冶屋では、鎧を脱いだ男が歪んだ胸当てを職人へ突き出している。ポーション屋の前では探索者たちが小瓶を一本ずつ光に透かし、店主と値段を巡って言い合っていた。
少し先の食堂からは湯気が上がり、椀を持ったまま立って食べている者までいる。
通りの奥には、王家の旗を掲げた石造りの《王家臨時館》もあった。入口には護衛が立ち、伝令らしい男が書類を抱えて駆け込んでいく。
その周囲でも、傷ついた武器を運ぶ者、荷物を積み直す者、今日の行き先を相談する者が絶えない。
目につくのは武器を持った人間ばかりだった。
「やっぱ多いな」
フィエラが馬車から降りながら言った。
「王家の布告が出たからか?」
レイグが答えると、後ろからダルクが荷袋を肩に担ぎ上げた。
「元から多いだろ。金の匂い嗅いで増えた奴もいるだろうけどな」
「ダルクもその一人じゃない?」
「俺は元から来る予定だった」
「でも大金は欲しい」
「欲しくねえ奴がいるのかよ」
「正直でよろしい」
フィエラが満足そうに頷いた。
ダルクは何か言い返しかけたが、その前にレイグが食堂の店先へ向かった。
「ちょっと待ってろ」
「何だ?」
レイグは籠へ積まれた焼きたての丸いパンを一つ買い、戻ってダルクへ差し出した。
「ほら」
ダルクが目を落とす。
「……何だ」
「朝飯」
「俺の朝飯を食ったのはお前じゃねえだろ」
「あとで買ってやるって言ったからな」
ダルクはしばらくパンとレイグを交互に見たあと、ようやく受け取った。
「お前、こういう変なところだけ律儀だよな」
「いらないなら返せ」
「誰がいらねえって言った」
その横から白い手が伸び、ダルクは反射的にパンを胸元へ引いた。
「殺すぞ」
フィエラの手が空中で止まった。
「まだ触ってもないのに」
「触る顔してただろ」
「どんな顔?」
「今の顔だよ」
「人を食いしん坊みたいに」
「人のパン二口食った奴が何言ってんだ」
フィエラが笑い、レイグもつられて笑ったが、通りを少し進むと、自然に三人の足取りも変わっていった。
ここはネルトアではなく、笑いながら歩いている者の腰にも剣がある。
道端で肩を押さえている男の包帯には、乾ききっていない血が滲んでいた。
壊れた槍を二本抱えた探索者が、無言で鍛冶屋へ入っていく。
前線拠点は賑やかだったが、その賑わいのすぐ向こう側に、カレグノスがある。
「あれ、いいな」
突然、ダルクが立ち止まった。
「何が?」
フィエラが周囲を見回す。
「あれだよ」
ダルクが顎で示した先には、背中に巨大な盾を背負った一人の大男がいた。
縦長の盾は新品ではなく、縁にはいくつもの欠けがあり、表面にも刃傷が走っている。それでも要所には新しい金属板が重ねられ、持ち手の革もきちんと巻き直されていた。
「盾?」
フィエラが言った。
「見りゃ分かるだろ」
「いや、分かるけど。あんな真剣な顔するから、誰かと思った」
「いい盾だぞ、あれ」
ダルクは男本人より盾を見ている。
「傷の入り方見ろ。飾りじゃねえ。何回も受けて、そのたび直して使ってる」
「女の人を見るより真剣だね」
「盾は俺を裏切らねえ」
レイグが横から言った。
「金は取るけどな」
「それは武器屋だ」
フィエラが吹き出すと、その声に気づいたのか、大盾の男がこちらを見た。厚い鎧をまとった、堂々とした体格の男だった。
一瞬だけ、その視線がダルクの盾へ落ち、それに気づいたダルクと男の目が合う。だが、互いに何も言わないまま、男は仲間らしい数人とともに鍛冶屋から離れていった。
「知り合い?」
フィエラが聞く。
「いや」
「じゃあ何で見つめ合ってたの?」
「見つめ合ってねえ」
「熱い視線だったよ」
「盾を見てただけだ」
「相手も?」
「知らん」
フィエラは楽しそうだった。三人が再び歩き出すと、遺物買い取り所の前には長い列ができていた。
欠けた石像の頭を抱えた男。錆びた銀杯を布で磨く女。何に使うのか分からない黒い箱を二人がかりで運ぶ一団。
その壁には、王家の紋章が入った紙が貼られており、朝、ネルトアで見たものと同じ布告だった。
カレグノスより王家の求める遺物を持ち帰った者には、多額の報酬を与える。
レイグの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「見るだけにしとけ」
ダルクが前を向いたまま言った。
「何も言ってないだろ」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てるねえ」
フィエラまで振り返った。
「お前まで言うな」
「だって出てるし」
レイグは布告から視線を外した。
「行くぞ」
「はいはい」
フィエラが笑いながらついてくる。
それ以上、ダルクも何も言わなかった。
前線拠点の奥へ進むほど、探索者たちは一様にカレグノスへ続く古い石橋へ向かうようになる。橋の手前では何組もの探索者が重なり、人の流れが詰まっていた。
「押すな」
「そっちが止まってんだろ」
二つの一団がぶつかって怒鳴り声が上がり、槍を背負った男が前へ割り込もうとして、隣の探索者の肩へぶつかった。
「何すんだ」
「先に行った方が得だろうが」
「橋の上で押し合う気か!」
空気が一気に険悪になる。
そこで、低い声が割って入った。
「押すな。橋の上で揉める方が危ない」
一人の男が、前へ出ようとした仲間の肩を掴んでいた。背はレイグより少し高く、派手な装備ではないが、剣も革鎧もよく手入れされている。
「カルゼン、先に行かせるのかよ」
仲間の男が不満そうに言う。
「橋を渡れば動きやすくなる。抜くならその後だ」
「兵舎を取られたら?」
「こんなところで怪我するよりマシだ」
言い方は冷たいが筋は通っており、仲間も渋々引き下がった。
カルゼンと呼ばれた男がふとこちらを見て、レイグと目が合うと、挨拶とも牽制とも取れるように軽く顎を引いた。レイグも同じように顎を引くと、カルゼンたちは先に橋へ向かった。
「まともそうだな」
ダルクが小声で言った。
フィエラが眉を上げる。
「カレグノスでそれ、褒め言葉なの?」
「少なくとも橋の上で喧嘩始める奴よりは信用できる」
「でも、兵舎に行くみたいだぞ」
レイグが言う。
ダルクの顔から少しだけ笑いが消えた。
「なら競争だな」
「仲良く半分こは?」
「するわけねえだろ」
「即答だ」
フィエラが笑った、その時だった。
「……速っ」
フィエラが急に声を漏らした。
「何が?」
レイグが振り向くと、フィエラは拠点の建物の屋根を見ていた。
「あそこ」
指差された方向を見ると、人影が一つ、屋根の端から隣の建物へ飛び移った。軽装だったことだけは分かったが、着地したと思った次の瞬間には、もう屋根の向こうへ消えている。
「女の人。たぶん」
「屋根走ってる奴なんか放っとけ」
ダルクが言った。
「気になるじゃん」
「落ちても助けねえからな」
「またそういうこと言う」
「お前は人の面倒増やすから先に言っとくんだよ」
「はいはい」
フィエラはまだ屋根を気にしていたが、やがて諦めて歩き出した。その先で建物が途切れ、三人の前に古い石橋が姿を現すと、さっきまでの騒がしさが少し遠くなった。
橋は長い年月にわたって風雨にさらされ、石材のあちこちが欠け、欄干にも崩れた場所があり、古さを隠しようがない。
その向こうには、カレグノスの巨大な城壁が、馬車の中から見た時よりはるかに大きくそびえていた。
一部が崩れ落ちた城壁は左右へ長く続き、その中央で、壊れた城門が黒い口を開けている。
門のさらに向こうには傾いた塔と崩れた屋根、その遥か奥には王城が見える。フィエラは背負っていたコンポジットボウを手へ移し、弦を指で確かめて矢筒の位置を直した。
ダルクも背中の盾を外して左腕へ通す。右手を伸ばせば、腰のバトルアックスをすぐ抜ける位置だ。
さっきまでパン一つで騒いでいたダルクの顔には、もう笑いがない。レイグもバックラーの革帯を締め直し、右手をロングソードの柄に置いて、少しだけ抜いてから戻した。
「もう一回だけ言うぞ」
ダルクが言った。
「霧が来る前に帰る」
レイグが先に答えた。
「分かってんならいい」
「私は?」
フィエラが聞く。
「何がだ」
「私にも言ってよ」
「お前は別に奥へ行きたがってねえだろ」
「仲間外れみたいで嫌じゃん」
「何の仲間だよ」
レイグは笑いかけたが、橋へ足を踏み出したところで、その笑みは自然に消えた。
石の上には靴音が響き、前にも後ろにも探索者がいる。
それでも橋を進むほど、目の前の城門が大きくなり、背後の声は少しずつ遠ざかっていく。
橋の中ほどまで来た時、レイグの足がわずかに鈍った。崩れた欄干の切れ目を目で追うより先に、その先の石がどう欠けているか分かった気がした。右足を置いた石の傾きまで、身体の方が先に知っている。
見慣れている。
カレグノスには何度も来ているのだから、それ自体は不思議ではない。
なのに、今と同じ歩幅で、同じ石を踏んで、この橋を渡ったことがある気がした。
「レイグ?」
フィエラの声で我に返った。
「どうしたの?」
「……いや」
「いや?」
「何でもない」
レイグが歩き出すと、フィエラは少しだけこちらを見ていたが、何も言わなかった。
三人が橋を渡り切る頃には、城壁は、首を上げなければ上まで見えないほど大きく迫っていた。崩れた城門の下をくぐった瞬間、背後の音が薄れた。
鉄を打つ音も、商人の声も、食堂のざわめきも、厚い城壁に遮られる。
先に入った探索者たちは、広い通りへ出るなり、それぞれ別の地区へ散っていった。
すぐ近くに人の姿はあるのに、巨大な城塞都市の中では声も姿も急に遠く感じられる。
少し先を歩いていたカルゼンたちも、やがて別の通りへ消えた。
「最初は兵舎だな」
ダルクが言う。
「ああ」
レイグも頷いた。
「武器庫がまだ残ってれば当たりだ」
「残ってたらね」
フィエラが周囲を警戒しながら答え、三人は兵舎へ向かう通りを選んだ。
通りには崩れた家々や半分埋もれた荷車、首のない石像が並び、中央には雑草が伸び、砕けた瓦が風に転がっていた。
レイグが先頭を歩き、ダルクはその半歩ほど左後ろ、盾を構えればすぐレイグの前へ出られる位置につく。フィエラは二人から少し距離を空け、後方と建物の窓を確かめながら進んでいた。
数十歩ほど進んだところで――。
からん。
小さな音がした。
レイグは足を止めた。
「待て」
ダルクも即座に止まる。
フィエラの手が矢筒へ伸びた。
「どこ?」
「右前」
崩れた壁。
その下に積み上がった瓦礫。
何も動かない。
レイグはバックラーを少し上げた。
一歩。
さらに一歩。
瓦礫の脇を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
鋭い槍先が飛び出した。
「っ」
考えるより先に左腕が動く。
バックラーを身体の前へ跳ね上げた。
ガンッ
金属同士が激突し、腕の骨まで響くほどの衝撃が走った。
レイグの身体が横へ押される。
「レイグ」
フィエラが後ろへ跳びながら矢を抜く。
「右だ!」
ダルクが一気に前へ踏み込み、盾を突き出した。空いた右手がバトルアックスの柄を掴む。
瓦礫の向こうから、何かがゆっくりと立ち上がった。
錆びた兜。
破れた鎧。
その隙間から覗く白い骨。
目のくぼみの奥に青白い火が灯っている。
スケルトン兵。
槍を引いた白骨の兵士が、再び構えた。
その後ろ。
がらり。
別の瓦礫が崩れる。
骨と骨が擦れ合う乾いた音が、一つではなく、いくつも聞こえた。
「一体じゃねえぞ!」
ダルクが叫ぶ。
フィエラはすでに矢をつがえている。
レイグは痺れる左腕を一度強く振り、右手でロングソードを抜いた。
鋼の刃が朝の光を弾く。
瓦礫の陰から、二体目の白骨が姿を現した。
そのさらに奥でも、何かが動いている。
「来るぞ!」
レイグは剣を構えた。




