第28話 忘れた二人
目を開けた瞬間、レイグは右手を伸ばした。
指先は何もない空間を掴んだ。
あるはずがないことは分かっている。それでも、王城地下の古い礼拝堂で見た銀色が、まだ目の前に残っているような気がした。
祭壇の古い紋様を走った淡い光は、やがて表面から浮かび上がり、一瞬だけ小さな羽根の欠片のような形を取った。レイグが思わず手を伸ばすと、触れる寸前で細かな霧のようにほどけて消えた。
『あなたが得たのは、それですか』
白い翼の者が残した言葉まで、耳の奥にはっきり残っている。
「……何なんだよ」
レイグが寝台の上で身体を起こすと、窓板の隙間から強い朝日が差し込み、床へ細長い光を落としていた。
前の一日は曇っていた。空を厚い雲が覆い、昼になってもカレグノスは薄暗かったが、今日はまるで違う。
窓板を押し開けると青い空が広がっており、吹き込んでくる風も乾いていて雨の気配はなかった。
レイグは寝台から降り、自分の身体を確かめた。
前の一日に溜まった疲れは消えている。兵舎で手に入れたスチールロングソードもなく、壁際にあるのは使い慣れたロングソードと、傷一つないバックラーだった。荷袋の中にも、水筒や包帯、薬といった出発前の物が戻っている。
もう何度も見た光景だった。
物も傷も朝へ戻る。
そこに驚くことはなくなった。
それでも、レイグの頭の中にあるものだけは元に戻らない。
前の一日には、カルゼンたちと地下水路で共闘した。その後、仲間を逃がすために残ったネヴァルを助け、時間も薬も使った末に、あの祭壇へ辿り着いた。
「もう一回行けば……」
同じ光が現れるのか。
もし出ないなら、前の一日と何が違ったのか。
今はそれを確かめたかった。
*
「兄さん、聞いてる?」
ネリナの声で、レイグは顔を上げた。
「何だ?」
「ほら。やっぱり聞いてなかった」
向かいに座るネリナが頬を膨らませた。
朝食の卓には、豆と野菜のスープ、薄いパン、少量の干し肉が並んでいる。何度迎えても見慣れた朝だった。
「何の話だ?」
「だから、それをさっきから話してたんだけど」
「悪い」
「もういい」
ネリナはパンをちぎり、少し乱暴にスープへ浸した。
「朝からずっと上の空じゃん」
ミレサも鍋を置きながらレイグを見る。
「今日はずいぶん急いでるのね」
「そう見える?」
「見えるわよ。食べるのも早いし、さっきから何度も荷物を見てるでしょう」
言われてレイグが壁際へ目を向けると、水筒も包帯も薬も食料も、今日のために用意した状態で揃っていた。
「確かめたいことがあるんだ」
「カレグノスで?」
「ああ」
ミレサの表情が曇った。
「危ないことじゃないでしょうね」
「危ない場所へ行くんだから、絶対に危なくないとは言えない」
「そういう答えを聞きたいんじゃないの」
少し強い声だった。
レイグは匙を止めた。
「分かってる」
「あなたの『分かってる』は、時々信用できないのよ」
思わず顔を上げた。
一瞬、ダルクに言われたのかと思った。似たような言葉を何度も聞いているが、もちろんミレサがそれを知るはずはない。
「何?」
「……いや」
レイグは残っていたスープを飲んだ。
「今日はなるべく早く帰るよ」
「なるべく、ね」
ミレサは納得しておらず、ネリナも口を尖らせたままだった。
以前なら、もう少し話したかもしれない。冗談を返し、二人の顔から心配が消えるまで言葉を重ねただろう。
だが今は、祭壇に現れた銀色が頭から離れなかった。
「ごちそうさま」
椀を置いて立ち上がる。
「もう行くの?」
ネリナが聞いた。
「ああ」
「……何か今日、変」
レイグは荷袋を背負った。
「帰ったら聞くよ」
「その時には私が話したくなくなってるかも」
「じゃあ謝る」
「今謝ってよ」
「まだ何もしてないだろ」
「話聞いてなかった」
「それは悪かった」
「遅い」
ネリナは顔を背けた。
レイグは苦笑しかけたが、うまく笑えなかった。
「行ってくる」
「気をつけてね」
ミレサが答える。
ネリナはしばらく黙っていたが、レイグが扉に手をかけたところで小さく言った。
「……ちゃんと帰ってきてよ」
「ああ」
返事をして外へ出ると、乾いた朝の空気が頬に触れた。
*
「遅え」
聞き慣れた声の主は、いつもの石壁にもたれて腕を組むダルクだった。
隣にはフィエラが立っており、今日は果実ではなく小さなパンをかじっていた。
「まだ時間前だろ」
「俺が先に来た」
「それ、何回言うんだよ」
口にしてから、レイグは止まった。
ダルクの眉が寄る。
「何回って何だ」
「……いや」
「朝から気持ち悪いな、お前」
「それも何度も聞いた」
「だから何の話だよ」
フィエラがパンを持ったまま笑った。
「今日はレイグの方が変だね」
いつもの二人だった。
当たり前のようにそこへ立ち、何も知らない顔でレイグを見ている。
生きている二人を見て胸が緩んだのは、ほんの一瞬だった。
前の一日には、三人で死ぬのは怖いと話した。勝手に一人で決めないと約束し、カルゼンやネヴァルを助け、最後には一緒に祭壇の銀色を見た。
その時間を覚えているのは、もうレイグだけだった。
「一人で決めない」
ダルクが顔をしかめた。
「……は?」
「覚えてないか」
「何をだよ」
フィエラも首を傾げる。
「何、それ?」
そう答えられると分かっていたはずなのに、聞き慣れたフィエラの「何、それ?」へ、すぐには答えられなかった。
「俺たちで決めた言葉だ」
「私たちで?」
「ああ」
フィエラがダルクを見ると、彼も首を横へ振った。
「知らねえ」
「そうか」
レイグは再びフィエラを見た。
言葉そのものを覚えていなくても、何か残っていないのか。
「本当に何も感じないか?」
「感じるって?」
「今の言葉を聞いて」
「うーん……」
フィエラは眉間に皺を寄せた。
「一人で決めない、でしょ?」
「ああ」
「何か……ちょっと嫌な感じはする」
レイグが一歩近づいた。
「覚えてるのか?」
「近いって」
フィエラが上体を引く。
「覚えてるわけじゃないよ。ただ、何か引っかかるだけ。レイグが怖い顔で言うからかもしれないし」
「他には?」
「他って?」
「誰かを置いていったとか、約束したとか」
「知らないよ」
フィエラは、レイグが詰めた一歩ぶんだけ距離を取り直した。背中へ回していた両手も下ろし、今度は正面からレイグを見る。
「ねえ。本当にどうしたの?」
やはり駄目だった。
理由の分からない感情の残り滓はあっても、前の一日そのものを思い出してはいない。
レイグは息を吐いた。
「歩きながら話す」
「何をだよ」
「長い話だ」
ダルクが嫌そうな顔をする。
「朝からそれ言われると、ろくな予感しねえな」
「俺もだよ」
三人は馬車乗り場へ向かって歩き始めた。
*
「俺にとっては、今日が同じ月曜日の四回目だ」
「待て」
話し始めて間もなく、ダルクが止めた。
「もう分からん」
「まだ最初だぞ」
「最初からおかしいんだよ」
「最後まで聞け」
通りを歩く男がこちらを見ると、フィエラが小声で注意した。
「二人とも、声」
レイグは苛立ちを押し込み、続けた。
一度、自分はカレグノスで死んだ。次に目を覚ました時には同じ日の朝へ戻っており、身体の傷も装備も出発前の状態になっていた。
そこで今度は死なずに深夜まで過ごしてみたが、それでも同じ朝へ戻った。持ち帰った金も、書き残した文字も、身体に負った傷も残らず、ダルクとフィエラも前の一日を覚えていない。
そこまで説明しただけで、レイグはもう疲れ始めていた。
以前にも同じように話し、疑われている。証拠を求められて兵舎の武器庫へ連れていき、薬の位置まで言い当てた。それでも簡単には信じてもらえず、最後には怒鳴り合いながら、ようやく二人と同じところまで辿り着いた。
その二人が今、初めて話を聞く顔で隣を歩いている。
「昨日――俺にとっての昨日だ。俺たちは王城地下まで行った」
「王城地下?」
フィエラの目が少し大きくなる。
「ああ。古い礼拝堂がある。その一番奥に祭壇があった」
「何でそんなところまで行ったんだよ」
ダルクが聞く。
「カルゼンに抜け道を教えてもらった」
「カルゼン?」
「橋で見かける男だ」
「知り合いみたいに言うな」
「前の一日で一緒に戦ったんだよ!」
声がまた強くなり、ダルクの眉間にも皺が寄った。
「俺は知らねえって」
レイグは唇を噛み、それ以上そこで食い下がるのをやめた。
「その後、ネヴァルも助けた」
「誰?」
「最初の一日にも助けた男だ。前の一日では別の状況で、また助けることになった」
フィエラが困ったように片手を上げる。
「待って。人が増えると分かんなくなる」
「だから祭壇の話だけ聞いてくれ」
「そこで何があったの?」
「祭壇の紋様が光った。それまで同じ場所へ行った時には何もなかったのに、銀色の光が出たんだ」
ダルクが額に手をやる。
「待て。光らなかったのは、いつの話だ?」
「ずっと前だ。昨日は光った」
「話が前後しすぎだ」
「仕方ないだろ! こっちは何日分も覚えてるんだ!」
「俺には今日しかねえんだよ!」
その言葉でレイグが黙ると、ダルクは苛立ったまま続けた。
「で、その光が王家の探してる遺物なのか?」
「分からない」
「何に使う」
「それも分からない」
「じゃあ、何で出た?」
「……それを確かめたいんだ」
ダルクが大きく息を吐いた。
「結局そこも分かってねえのかよ」
「分からないから、もう一度行くんだよ!」
ダルクが足を止めた。
「分からねえ物を見るために、俺とフィエラを王城地下まで連れてく気か?」
「昨日は一緒に――」
レイグが言いかけて止まったのは、その言葉を出せば、また同じところへ戻ると分かっていたからだ。
「祭壇が光った理由が分からないんだ」
今度は声を抑えた。
「着いた時刻なのかもしれないし、通った道や倒した魔物が違ったせいかもしれない。途中でカルゼンやネヴァルに関わったことまで影響してる可能性だってある」
「私たちも?」
フィエラが自分を指した。
「それも分からない。だから、できるだけ前回に近い条件で行きたい。俺一人で祭壇へ行って何も起きなかったら、何が変わったせいなのか判断できない」
フィエラは考えるように黙ったが、ダルクはまだ納得していない。
「その前に、俺らにその話を信じろって?」
またそこから始めなければならないと思うと、レイグの胸が重くなった。
「じゃあ何を見せれば信じる」
「俺が聞いてんだよ」
「武器庫へ行けば分かる」
「何がある」
「スチールロングソードが一本と、お前が気に入るウォーハンマーだ。棚には使えるヒールポーションが二本あって、もう一本は中身が濁ってるから使えない」
「何で知ってる」
「だから前に――」
そこで言葉が切れたのは、武器の位置も、扉の歪みも、薬の状態も、これまで何度も説明してきたからだった。
それを一つずつ確かめてもらい、ようやく自分の話を信じてもらった。そのあとも二人と一緒に行動し、前の一日ではついに王城地下の祭壇まで辿り着いた。
そこまで積み重ねても、朝になれば二人からは消えてしまう。
「……もういい」
レイグは歩き出した。
「おい」
「もういいって言ってる」
「何がだよ」
「説明するのがだよ」
振り返った時には、声を抑えられなかった。
「何回同じ説明すればいいんだよ!」
ダルクの顔が険しくなる。
「俺は初めて聞いてんだ」
「知ってるよ」
「だったら俺に怒鳴るな」
「前の一日には、お前もそこにいたんだよ」
周囲の視線が集まる。
それでもレイグは止まれなかった。
「一緒に戦って、俺を止めて、勝手に一人で決めるなって怒った! そのうえで約束までしたんだ!」
「知らねえよ」
「それが腹立つんだよ!」
口から飛び出した。
ダルクの目つきが変わった。
「……何だと」
「違う。そうじゃ――」
「覚えてねえ昨日の責任まで俺に押しつけんな」
低い声だった。
レイグは言葉に詰まった。
「お前が覚えてんのは分かった。俺が何か言ったってのも、お前にとっては本当なんだろ」
ダルクは自分の胸を指した。
「でも俺は知らねえんだよ。覚えてねえんじゃない。俺にとっては、今初めて聞いた話なんだ」
一歩近づく。
「どうしろってんだ」
何も言えなかった。
正しい。
ダルクにはどうしようもないし、フィエラにもどうすることもできない。
分かっているのに、腹の奥で煮えているものだけは消えてくれなかった。
「レイグ」
フィエラが呼んだ。
「何だよ」
「私たちが忘れたことに怒ってる?」
「違う」
即答した。
フィエラは何も言わず、こちらを見ている。
「違うって言ってるだろ」
「うん」
「お前らが悪くないことくらい分かってるし、仕方ないのも分かってる」
「じゃあ?」
言葉が喉に引っかかった。
「……それでも腹が立つんだよ」
ようやく出た。
「俺だけが覚えてるから」
フィエラはしばらく黙っていた。
「そっか」
それだけで終わらず、少し間を置いて続ける。
「でも、それを私たちにぶつけられても困るよ」
レイグが顔を上げると、フィエラは自分の胸元を指で一度叩いた。
「前の私が何を約束したのか、今の私は知らない。ダルクもそう。今日の私たちに、知らない一日の続きをやれって言われても無理だよ」
「……分かってる」
「うん。分かってても腹が立つんでしょ」
「ああ」
「じゃあ私も、知らないことで怒られたら腹が立つ」
レイグは返せなかった。
ダルクが鼻を鳴らす。
「それは俺もさっきから言ってる」
「ダルクは怒鳴りすぎ」
「何で俺まで怒られんだよ」
「うるさいから」
「今そこ関係あるか?」
ダルクは返事を待たず半歩先へ出た。フィエラも二人の間へ入り直さず、レイグは一歩遅れたまま歩いた。
互いに歩幅を合わせきれないまま馬車乗り場へ向かっていると、しばらくしてダルクが口を開いた。
「で、どうすんだ」
「何が」
「祭壇を見に行きてえんだろ」
「……ああ」
「だったら俺らを納得させろ」
レイグは目を閉じかけた。
また説明して、証拠を一つずつ見せ、二人が納得するところまで付き合わなければならない。
そう考えたところで、ふと足が鈍った。
本当に、そこまで全部話す必要があるのか。
自分がどう死んだのかも、何度朝へ戻ったのかも、以前のダルクが何を言い、フィエラとどんな約束をしたのかも、今日一緒にカレグノスへ入ってもらうだけなら必要ではない。
「……武器庫へ行く」
ダルクが眉を寄せた。
「話聞いてたか?」
「聞いてた。だからだ」
レイグは二人を見る。
「中に何があるか、入る前に言う。扉の開け方も薬の場所も知ってる。そのあと、カルゼンに教わった王城への抜け道も見せる」
フィエラが首を傾げた。
「それで信じさせるの?」
「ああ」
「反復のこと全部?」
レイグは一瞬黙った。
「……そこまで分かってもらわなくてもいい」
フィエラは馬車乗り場へ流れる人波から外れ、その場で足を止めた。
「どういう意味?」
「今日、一緒に来てくれればいい」
言ってから自分の声が思ったより冷たく聞こえたが、レイグは言い直さなかった。
そこへ乗合馬車が入ってきた。
「前線拠点行きだ! 乗る奴は急げ!」
探索者たちが動き始める中、ダルクはまだ不機嫌そうなまま荷袋を背負い直した。
「行くぞ」
「ああ」
前の一日には、互いに怒り、傷つけ、謝りながら二人と一緒に考えた。
今回は、武器庫で自分しか知り得ない場所と中身を示せばいい。すべてを理解してもらえなくても、今日一緒に動いてくれるところまで届けば、それで先へ進める。
レイグはダルクとフィエラに続き、乗合馬車へ乗り込んだ。




